「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「蛸薬師堂」(たこやくしどう)

2007年06月21日 20時01分32秒 | 古都逍遥「京都篇」
三条通りの一筋南が華道・池坊で知られる六角堂がある六角通り、もう1つ南に下がった通りが魚の名のが付いた蛸薬師通りがある。この通りは、平安京の四条坊門小路にあたり、東は河原町通りから西は佐井西通西入ルに至る全長約3.5㌔にもおよぶ。

 この通りの寺町に接した所に「浄瑠璃山林秀院永福寺」があり、通称「蛸薬師堂」である。元は二条室町にあった。養和元年(1181)安徳天皇の御世、室町に1人の富者がおり、髪を落とし林秀と号していた。比叡山の根本中堂の薬師如来様を深く信仰しており、比叡山までの月参りを長年にわたって行っていた。老年になったある日、薬師如来様の仏前で、「私も、年老いて年来の月参りも出来なくなります。どうか薬師如来様のお姿を一体お与え下さい」と祈願して山をおりた。

 その夜、夢枕に薬師如来が現れ、「昔、伝教大師(最澄)が、私の姿を石に彫り、比叡山に埋めている。これを持ち帰るがよい」とお告げがあった。林秀は大喜びし、翌日、薬師如来様の示された所を掘ると、瑞光赫々とした立派な石の御尊像を得る事が出来た。これを持ち帰り、六間四面のお堂を建立し永福寺と名付けましたのが、蛸薬師堂の始まりと伝わる。以来、利生盛んで、多くの老若男女が参詣し門前も栄えたという。

 では何故、薬師如来が蛸薬師如来と称されるようになったのか、その由来を尋ねてみると、このような伝説を話してくれた。

 「後深草天皇の御世、建長(1249~1256)の初めの頃善光と言う僧がこの寺に住しておりました。
 「ある時、母が病気になり寺に迎えて看病していましたが、一向に病はよくなりませんでした。
 母は、『子供の頃から好物だった蛸を食すれば病が治るかもしれない』と善光に告げました。しかし、善光は僧侶の身で、蛸を買いに行くことを躊躇しておりましたが、病弱な母のことを思うといてもたってもいられず箱をかかえて市場に出かけ、蛸を買って帰りました。

 これを見た町の人々は僧侶が生魚を買った事に不審を抱き、善光のあとをつけて寺の門前で、箱の中を見せるようにと彼を責めました。善光は断ることも出来ず、一心に薬師如来様に祈り『この蛸は、私の母の病気がよくなるようにと買ったものです。どうぞ、この難を助け下さい』。

 箱を開けると蛸はたちまち八足を変じて八軸の経巻となり霊光を四方に照らしました。
 この光景を見た人々は皆合掌し、南無薬師如来と称えると不思議なことに、この経巻が再び蛸になり、門前にあった池(今の御池通の由来となった御池)に入り、瑠璃光を放って善光の母を照らすと、病気はたちまち回復しました。
 
 それ以来、蛸薬師堂の蛸薬師如来様と称されるようになりました」と。
 それ以降、この地で病気平癒を祈ればたちまち回復し、子を祈れば子宝を授かり、諸難が消除し、これが天に聴こえて後花園天皇の嘉吉元年(1441)には勅願寺となった。

 門前通りは、平安時代は四条坊門小路と呼ばれていたが、天正19年(1591)に、豊臣秀吉の都市改造に際して、永福寺(蛸薬師堂)が妙心寺に合併され、現在地に移転されたためという。

 所在地:京都市中京区新京極蛸薬師東側町503。
 交通:阪急「四条河原町」徒歩5分、新京極通を北へ300m。 
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