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「中宮寺」(ちゅうぐうじ)

2010年09月07日 07時51分20秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 中宮寺は推古天皇29年(621)聖徳太子が母・穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとこうごう)の発願により太子の宮居斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に創建されたと伝わる。
 現在は法隆寺東院に隣接しているが、創建当初は500㍍ほど東にあり、現在地に移転したのは16世紀末頃とされている。平安時代以降衰退し、宝物の主なものは法隆寺に移され、僅かに草堂一宇を残していたという。

 鎌倉時代に入って信如比丘尼の尽力により、天寿国曼荼羅繍帳を法隆寺宝蔵内に発見して中宮寺に取り戻すなど、いくらか復興を見たものの、往時の盛大には比すべくもありませんでした。その後度々火災に会い衰微し、無住となった後ほとんど寺観を留めず、大部分の佛像をはじめ鐘楼などが法隆寺に移管されたそうだ。室町時代の天文年間に、後伏見天皇八世伏見宮貞敦親王皇女、江戸時代初期慶長7年(1602)に慈覚院宮尊智女王を門跡に迎え再興、以来尼門跡寺院として今日に至っている。

 宗派は鎌倉時代頃は法相宗であったようだが、その後真言宗泉涌寺派に属し、戦後は法隆寺を総本山とする聖徳宗に合流したが、依然大和三門跡尼寺の随一としてその伝統を伝えている。全国に尼寺は多くあるが、創建の飛鳥時代以来1300年にも亘り尼寺の法燈を続けておるのは中宮寺だけと言われる。

 現在の中宮寺には、昭和43年(1969)に建てられた本堂が美しくそびえている。高松宮妃殿下の発願によって吉田五十八氏が設計した建物である。本堂に本尊の国宝「如意輪観世音菩薩半跏思惟像」(にょいかんぜおんぼさつはんかしゆいぞう)が安置されている。
 飛鳥時代の作といわれ、広隆寺の弥勒菩薩半跏像とよく比較される。国際美術史学者間では、菩薩像の顔の優しさを評して数少い「古典的微笑」の典型として評価され、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作モナリザと並んで「世界の三つの微笑像」とも呼ばれている。

 国宝「天寿国曼荼羅繍帳残闕」(てんじゅこくまんだらしゅうちょうざんけつ)は、飛鳥時代の染織の遺品としてきわめて貴重なもので、国宝に指定されている。現在、奈良国立博物館に寄託しているが、昭和57年(1982)に製作されたレプリカが現在本堂に安置されている。聖徳太子の母、穴穂部間人皇女と聖徳太子の死去を悼んで王妃橘大女郎が多くの采女らとともに造った刺繍、曼荼羅で、もとは、繍帳二帳よりなり、そこに400字の銘文が刺繍されていたというが、歳月が経つにつれて破損、鎌倉時代当寺の中興信如比丘尼が修復したある。現存しています繍帳は、最初のもと、その鎌倉時代に作られたものが、まざり合って残欠一帳に纒めて修復されたのが現在の曼荼羅である。

 所在地:奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北1-1-2。
 交通:JR関西本線法隆寺駅より奈良交通バスで中宮寺停留所で下車、徒歩約7分。
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