近年、報道や報道番組でコメンテーターたちがよく使う言葉に「分断」というのがある。
いま話題になっている「国葬」について、国会前で反対集会が行われているが、それらを見てコメンテーターが社会が分断している。とかいう。 そうじゃないだろう、民主主義社会というのは、それぞれが自由に意見を述べ合い議論することが許されているから良さがあるもので、意見が異なるのは人間として当たり前、とうぜんあるべき姿なのだ。
意見が異なるといえど友同士、憎み合うこともないように思える。「私、自民支持よ」、そうなんだ「私は共産党」よ、と言ったところで親友同士が別れることもないだろう。将棋で「飛車」をさせば、受けて「桂馬」を、としてもそれはせめぎ合いであって「分断」ではなかろう。この比喩は正確性を欠くが対立、対抗は「分断」ではないということ。
「分断」と言えばコメンテーターらしい発言、報道人らしいということなのだろうか?。
だから私は「分断」という言葉をこういう事態で使うことが嫌いだ。「意見の相違」というのが民主主義では正しい表現なのではなかろうか。妻と夫、意見が違うこともあろう、「性格の不一致」を理由に離婚する人もいるかもしれないが、大概はそれぞれ認め合い、亭主のグチを友達に零してスッキリするのがよくあることだろう。
・・・そして夫は尻に敷かれてじっと耐え一杯飲んでる(そうじゃないわよ!って言われそう、涙)。
京都東寺