「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

花の詩「蝋梅」

2013年12月29日 21時37分29秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 花言葉:「先導」「先見」「慈愛」「優しい心」

 四季折々の花を求めて写真におさめるのが私の何よりの楽しみ、というか趣味である。
 秋の紅葉が終わると、寒さも加わりインドア派となってしまうのだが、それでも山茶花は狙いたい被写体となる。その花も撮り終えると、南天や千両、万両といった赤い実がなるものを撮ることがあるが、やはり花が恋しい。
 白梅が咲き始める少し前、黄色く樹木を覆い尽くす「蝋梅」が咲くと炬燵で背を丸くしていた私の身体が、猫から犬へと変身し庭駆け回るがごとく、黄色い可憐な花を求めて繰り出していく。
 
 蝋梅(ロウバイ)は江戸時代に中国から渡来したといわれ、木の高さは約3mほど。極寒の葉のない枝の中途で花をつけ、梅に似た香りのよい黄色い花をうつむき加減にしおらしげに咲き、晩秋に卵形でこげ茶色の実が成る。
 花は径2㎝、色は外側の花弁が黄色で中心部は暗紫色ですが、ソシンロウバイ「素心臘梅(蝋梅)」は、中心部まで黄色です。山茶花、椿、水仙などと共に冬を彩る花のひとつで、花が蝋細工のような光沢と質感をもち、梅の花に似ていることからこの名前が付いたといわれ、また花が臘月(陰暦の12月/現在の1月頃)に咲くことからとの説もあります。

 俳句では冬の季語となっている。
 芥川龍之介は「わが裏庭のほとりに一株の臘梅あり。ことしも亦筑波おろしの寒きに琥珀に似たる数朶の花をつづりぬ。こは本所なるわが家にありしを田端に移し植ゑつるなり」と記しており、俳句に「臘梅や 雪うち透す 枝のたけ」と吟じている。

 「臘梅を 透けし日射しの 行方なし」(後藤比奈央)
 「蝋梅や薄雪庭を刷きのこす」(水原秋桜子)
 「蝋梅の香の一歩づつありそめし」(稲畑汀子)

 また、窪田空穂がこの花を好んていて、「全歌集」に散見される。
「しらじらと 障子を透す 冬の日や 部屋に人なく 臘梅の花」
「臘梅の 老いさびし香の ほのぼのと わが枕べを 清くあらしむ」
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花の詩「杏」(あんず)

2013年12月15日 23時42分32秒 | 古都逍遥「奈良篇」
花言葉:「はにかみ」「乙女のはにかみ」「疑い」(実)「気おくれ」

 杏はアーモンドや梅、李(スモモ)の近縁種だが、梅の果実は完熟しても果肉に甘みがないのにくらべ、杏は熟すと甘みがある。耐寒性があり比較的涼しい地域で栽培されている。春(3月下旬から4月頃)に、桜よりもやや早く淡紅の花を咲かせ、初夏に梅によく似た実を付ける。日本には古代に中国から伝えられ、万葉集には「杏人」の原文表記があり、またカラモモともカラヒトともモモサネとも読まれていて定かでない。


「ゆふ立に ふりまじりたる 杏哉」(正岡子規)    
「杏あまさうな人は 睡(ね)むさうな」(室生犀星)

 室生犀星は杏を好んでいたようで、次のような詩を残している。

【小景異情】 
その一
 白魚はさびしや そのくろき瞳はなんといふ なんといふしをらしさぞよ
そとにひる餉(げ)をしたたむる わがよそよそしさと かなしさと 
ききともなやな雀しば啼けり

その二
 ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しうたふもの よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに ふるさとおもひ涙ぐむ そのこころもて
遠きみやこにかへらばや 遠きみやこにかへらばや

その三
 銀の時計うしなへる こころかなしや ちょろちょろ川の橋の上
橋にもたれて泣いてをり

その四
 わが霊のなかより 緑もえいで なにごとしなけれど 懺悔の涙せきあぐる
しづかに土を掘りいでて ざんげの涙せきあぐる

その五
 なににこがれて書くうたぞ 一時にひらくうめすもも すももの蒼さ身にあびて
田舎暮らしのやすらかさ けふも母ぢやに叱られて すもものしたに身をよせぬ

その六
 あんずよ 花著け 地ぞ早やに花著け あんずよ燃えよ ああ あんずよ花著け

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「花の詩」 コスモス

2013年10月28日 10時34分17秒 | 古都逍遥「奈良篇」
「花言葉」調和、善行

【夕 風】(高田敏子作)
「夕風に コスモスの花がゆれ
垣根のそとを 口笛が流れてゆく
すばやく過ぎていった夏よ 
私の胸のどこかに 
熱いまなざしをやきつけまま
素足に 風の冷たい秋」

 秋香を漂わせる爽やかな風が、夏の疲れた身体をいたわるように沁み込んでくる。
 コスモス、私はこの花が好きだ。初めて子供が授かった秋田市(新屋寿町)に住んでいた頃、雄物川の河口に近く、その先に日本海、秋田飛行場もそのころはそこにあった。家の前は砂浜へと続き、周りにコスモスが群生して咲き乱れていた。そして月見草も。

 福岡県田川郡方城町に住んでいた幼い頃、我が家に同じようにコスモスが咲き乱れていたそうだ。赤ん坊の時の写真に小さな手にコスモスを握ったものが見られる。多分、母が写真写りをよくするために握らせたのだろう。
 だから、コスモスを見ると「兎おいし かのやま こ鮒つりし かの川…」
 つい気がつくと口ずさんでいる。どこか郷愁を感じさせる花、優しい風のメロディー
を運んでくれる、そんな花。
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「興福寺」(こうふくじ)

2012年11月13日 23時37分50秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 南都六宗の一つで、法相宗の大本山の興福寺は、藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。創建は、鎌足(614-669年)夫人の鏡王女(かがみのおおきみ)が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669)山背国(山城国)山階(京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が起源とされている。

 壬申の乱のあった天武天皇元年(672)、山階寺は藤原京に移り、地名(高市郡厩坂)をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称したが、和銅3年(710)の平城遷都に際し、鎌足の子息である藤原不比等(659-720年)が平城京左京の現在地に移転し、「興福寺」と名付けたもので、この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始され、その後も、天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた。不比等が没した養老4年(720)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。

 当寺は、創建以来たびたび火災に見まわれ、その都度再建が繰り返されたが、中でも治承4年(1180)、源平の争いの最中、平重衡の兵火(南都焼討)による被害は甚大で、東大寺とともに大半の伽藍および仏像・宝物類が焼失しており、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に当寺を拠点とした運慶や運慶派仏師の手になる仏像が多い。江戸時代の享保2年(1717)の火災の時は、時代背景の変化もあって大規模な復興はなされず、この時焼けた西金堂、講堂、南大門などはついに再建されなかった。
 では建造物などを紹介しよう。

■五重塔(ごじゅうのとう)本瓦葺(室町時代)
 天平2年(730)興福寺の創建者藤原不比等の娘光明皇后が建立。その後5回の焼失・再建をへて、応永33年(1426)頃再建された日本で2番目に高い塔。三手先斗を用いており、創建当初の高さは約45mで、当時日本で最も高い塔であったという。各層には水晶の小塔と垢浄光陀羅尼(くじょうこうだらに)経が、また初層には4天柱の東に薬師浄土変、南に釈迦浄土変、西に阿弥陀浄土変、北に弥勒浄土変が安置されていた。
現在でもその伝統を受け継ぐ薬師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、弥勒三尊像が安置されている。

■三重塔(さんじゅうのとう)本瓦葺(鎌倉時代)
 康治2年(1143)崇徳(すとく)天皇の中宮皇嘉門院(こうかもんいん)聖子が建て、治承4年(1180)に焼失したが、ほどなく再建、北円堂とともに当寺で最古の建物(高さ19m)である。木割が細く軽やかで優美な線をかもし出し、平安時代の建築様式を伝える。初層(しょそう)内部の四天柱(してんばしら)をX状に結ぶ板には東方に薬師如来像、南に釈迦如来像、西に阿弥陀如来像、北に弥勒如来像を各1000体描き、さらに4天柱や長押(なげし)、外陣(げじん)の柱や扉、板壁には宝相華文や楼閣(ろうかく)、仏や菩薩など浄土の景色、あるいは人物などを描く。

■中金堂(ちゅうこんどう)
 旧中金堂は寄棟造、桁行7間・梁行4間、屋根は2重で下の屋根は裳階(もこし)がつき、規模は当時の奈良朝寺院の中でも第1級だった。丈六釈迦如来像を中心に、薬王(やくおう)・薬上菩薩(やくじょうぼさつ)像と2体の11面観音菩薩像の4体を脇侍(わきじ)に従え、四天王像、さらに養老5年(721)に橘三千代が夫不比等の1周忌に造立した弥勒浄土像も安置されていた。6回の焼失・再建の後享保2年(1717)に焼失。約100年後の文政2年(1819)に仮堂として再建されたが、近年老朽化が進んだため、北の講堂跡に仮金堂(旧薬師寺金堂 室町時代後期 寄棟造 桁行9間梁行6間本瓦葺)が移建された。中金堂が復興されるまで、興福寺の金堂としての役目を持つ。現在、解体が終了し、昨年立柱式も行われ天平様式の復元が進められている。

■東金堂(とうこんどう)寄棟造・本瓦葺(室町時代)
 中金堂の東にある金堂で、神亀3年(726)聖武天皇が叔母の元正太上天皇の病気全快を願って造立。
 薬師如来像を本尊とし日光・月光菩薩像、四天王像などが安置され、また創建当初は床に緑色の(タイル)が敷かれ、薬師如来の浄瑠璃光世界があらわされていた。以来6度もの被災、再建を繰り返し、今の建物は室町時代応永22年(1415)に再建されたもの。

■南円堂(なんえんどう)八角円堂・向拝付・本瓦葺(江戸時代)
 弘仁4年(813)藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父内麻呂(うちまろ)追善のために建立したとされ、不空羂索観音菩薩像を本尊とし法相六祖像、四天王像を安置。現在のは創建以来4度目の建物で、寛保元年(1741)に柱が立てられた。

■北円堂(ほくえんどう)八角円堂・本瓦葺(鎌倉時代)
 現存する八角円堂のうち、最も美しいと賞賛されるこの堂は、興福寺創建者藤原不比等の1周忌にあたる養老5年(721)8月に元明・元正天皇が、長屋王に命じて建立。華麗で力強く、鎌倉時代の建物であるにもかかわらず、奈良時代創建当初の姿をよく残し、三手先斗(みてさきときょう)、軒は3軒、地垂木(ぢたるき)は6角の断面にする。内陣は天蓋が輝き、組物間の小壁には笈形(おいがた)が彩色される。普段は未公開で春と秋に特別公開される。

■阿修羅像(あしゅらぞう)乾漆造・彩色(奈良時代)
像は三面六臂(さんめんろっぴ)、上半身裸で、上帛(じょうはく)と天衣(てんね)をかけ、胸飾りと臂釧や腕釧をつけ、裳をまとい、板金剛を履く。 像高153.4cm。

■板彫十二神将立像(いたぼりじゅうにしんしょうりゅうぞう)桧材・一材製・板彫り・彩色(平安時代) 正面を向く像1体、右を向く像5体、左を向く像6体で、12面がほぼ完形で伝わる。施された彩色は剥落が激しく素地をみせる。迷企羅(めきら)大将が短い衣をつけ裸足で立つ以外は、いずれも武装している。
 頭部は髪(えんぱつ)、巻髪(けんぱつ)のほか、兜や天冠(てんかん)をつけたり様々である。また、武器をとり身構えたり、全身で躍動するものなどさまざまである。類例の少ない日本の板彫り彫刻の中で、きわめて珍しい像と評されている。像高100.3~88.9cm。
 所在地:奈良市登大路町48。
 交通:JR奈良駅、奈良交通市内循環系統に乗り5分、バス停県庁前下車すぐ。近鉄奈良駅から徒歩すぐ。

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 本編をもちまして完結となります。
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「葛城一言主神社」(かつらぎひとことぬしじんじゃ)

2012年11月05日 07時40分18秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 大和葛城山の東南麓に鎮座する祭神の一言主神は、「悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言い離(はな)つ神」であるという託宣の神ということから、願い事を一言のみ叶えてくれると信仰を集めて「いちごん(じ)さん」と呼ばれ親しまれている。

 大泊瀬幼武尊((おおはつせわかたけるのみこと)雄略天皇)を合祀しており、名神大社に列せられているという。
 この事は古事記に次のように記されている。
 『雄略天皇が、当時の政治の中心地であった河内国と大和国の境にある葛城山中で狩を行った時、自分たちとそっくりの一行に出くわす。この時、驚いた天皇がその一行の素性を問うと、その人物は「吾(われ)は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と述べた。その一言を聞いた天皇は恐れ入って、自らの着ていた召物や持ち物をすべてその神に献上して、これを拝礼した。』

 境内には、『神武天皇紀』に記述がある土蜘蛛に関係するという蜘蛛塚や、推定樹齢1200年の大銀杏の御神木、本殿西側には奥宮の磐座があり古代からの信仰の地であったことがうかがえる。この御神木の宿り木から、「健康な子供を授かり、乳がよく出る」といい伝えられ、子供を思う親の願いが込められ、信仰を集めているそうだ。

 また、延暦23年(804)に最澄が遣唐使で唐に渡る際に道中の安全を祈願するために参拝したと伝えられており、元禄元年(1688)には松尾芭蕉もこの地を訪れ、「猶(なお)みたし花にあけゆく神の顔」の句を『笈の小文』(おいのこぶみ)に残している。

 所在地:御所市森脇字角田432。
 交通:近鉄御所線「御所」駅より 名柄行きバスで「上名柄」下車 徒歩15分。
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「長岳寺」(ちょうがくじ)

2012年10月21日 07時44分19秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 日本最古の歴史街道といわれる山の辺の道のほぼ中間点に位置している高野山真言宗の寺院で、山号は釜の口山(かまのくちさん)という。天長元年(824)享和天皇の勅願により弘法大師(空海)が大和神社の神宮寺として創建した古刹で、最も盛んなころは塔中48ヶ坊、宗徒300余名をかぞえたという。

 大門をくぐり両側に平戸つつじの生垣が続く玉砂利の参道を行くと、12,000坪の広くて静かな境内には四季おりおりの花の香りが漂い、安らぎに包まれる花と文化財の寺である。
 特に狩野山楽筆の大地獄絵図は圧巻で、毎年10月23日から11月30日まで本堂にて開帳され、住職の現代風絵解き「閻魔の嘆き」も行われる。

 9幅の軸から構成されているが、全体が1枚の絵となっている。図の上部全体に十王裁判図(合わせて13仏)、図の中程から下部にかけて、冥界の入り口である墓地、罪問間樹、死天山、三途の川、奪衣婆賽の河原、八大地獄、餓鬼道、畜生道、修羅道など、すざましい情景が描かれている。第9軸は一変して、極楽より阿弥陀如来が聖衆を引き連れて極楽往生する人を迎えにくる、いわゆる聖衆来迎図となっている。元々、この絵を使って絵解きがされたものと思われ、祭礼、法要のあとに参詣人を対象に勧善懲悪の教えを説いたと考えられる。この絵に示される、すざましい三悪道(地獄、餓鬼、畜生)や修羅道の世界は形を変えてすべて現代社会に存在するものだろう。 

 本堂は天明3年(1783)に再建された建物で、阿弥陀三尊像と多聞天・増長天立像を安置している。本三尊像は、玉眼(像の眼の部分に水晶を嵌め込む技法)を用いた像で制作年代の判明する最古例としても知られる。
大門は寛永17年(1640)再建当寺の総門で、肘切り門の異名があり僧兵と刀鍛冶の伝説がある。

 鐘楼門(重文)は日本最古のものといわれ、寺伝では弘法大師による創建当初から現存する建物とある。
五智堂(重文)は、鎌倉時代には西方約1kmの飛び地境内にあり、その形から傘堂あるいは眞面堂ともよばれている。
貞ん中に太い心柱があり建物を支えている。心柱上剖に四佛の梵字額があり全体で五智如来をあらわしている。
旧地蔵院(重文)は寛永7年(1630)に建造されたもので、室町時代の書院造りの様式を残し、美しい庭園も配している。四十八ヶ坊あった塔中の内、唯一残ったもので、今は庫裏として使われている。また、当院本堂(重文)はその翌年の寛永8年(1631)に建てられたもので延命殿ともいわれ、普賢延命菩薩を本尊とする庫裏の持仏堂で小さいながら桃山風で美しい。正保2年(1645)に建立された大師堂には弘法大師像が安置されている。

 所在地:奈良県天理市柳本町508。
 交通:近鉄天理駅から桜井方面行き、または近鉄桜井駅から天理方面行きバスに乗り長岳寺で下車、徒歩5分。

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「甘樫の丘」(あまがしのおか)

2012年10月13日 07時33分43秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 明日香村豊浦にある標高148mの丘陵で、東西に数100m、南北に1kmほど広がっている。丘全体が国営飛鳥歴史公園甘樫丘地区となっており、眼下に飛鳥古京(明日香村内)の集落、北側に大和三山(畝傍山、耳成山、香具山)とその中央に位置する藤原京(橿原市内)さらに遠くの生駒山、二上山、葛城山、金剛山系の山並みを望める展望広場や、万葉集などに歌われた植物を散策しながら楽しめる万葉植物園路なとが設けられている。

 大化の改新以前に、蘇我蝦夷と蘇我入鹿の親子が権勢を示すために丘の麓に邸宅を構えていたという。
大化改新によって入鹿が中大兄皇子に倒された直後、蝦夷はその邸に火をかけて自害したといわれ、東麓にあたる場所(甘樫丘東麓遺跡)に遺構が発掘され、焼けた建築部材・土器などが出土した。この位置が大化の改新の際中大兄皇子が陣取ったとされる飛鳥寺と対峙することや、土器の年代観が、この時期に一致することなどから、調査地の上方に蘇我邸が存在していたという。

 古くから誓盟の神(甘樫坐神社)が鎮座した。允恭天皇のとき、盟神探湯(くかたち)が行われた。
 山腹には明日香村の保全に尽力した犬養孝氏揮毫の万葉歌碑がある。
 「采女の 袖ふきかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く」(志貴皇子)
 [采女の袖を吹き返した明日香風は、都が遠のいたので、今はただむなしく吹いている]
 志貴皇子は天智天皇の第七皇子。694年12月、持統天皇によって明日香から北の藤原に遷都された。皇子は旧都に佇み、吹く風のなかに美しい采女の幻想を懷いた。

 所在地:奈良県高市郡明日香村
 交通:近鉄橿原神宮前駅より奈良交通バスに乗車、甘樫丘下車徒歩約5分。
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「斑鳩神社」(いかるが じんじゃ)

2012年10月12日 07時29分45秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 法隆寺の北東の天満山に位置し、菅原道真を祀る斑鳩神社は、法隆寺鎮守4社の1つで寺の鬼門の守護神として天慶年中(938以降)に、法隆寺第9代管主湛照僧都(たんしょうそうず)により建立され、地元では「天満さん」の名で親しまれている。
 当初は天満山の西麓に位置していたが全焼再建を経た後、水害のため享保10年(1725)に現在と同じ山上に移ったと伝えられる。明治2年(1869)には、法隆寺境内にあった総社明神、五所明神、白山権現が遷祀された。

 境内には、唐破風付きの割拝殿、春日造りの本殿、一殿、二殿と惣社、五所社、白山社、大将軍社、厳島社、恵比須社の六社が祀られている。

 10月中旬には、家内安全と五穀豊穣を願って、5台のふとん太鼓が練り繰り広げられる。法隆寺5地区の鎮守社「斑鳩神社」の神霊を神輿とする、法隆寺境内の御旅所へ渡御される古来からの儀式である。室町時代頃から中断していたが、明和3年(1766/江戸中期)に復活され、その後、文化年間(1804~1818/江戸後期)に神輿迎えの太鼓台が登場したが、明治元年神仏分離令から一時期中断。明治10年復活して、御旅所を中門・ 妻室・綱封蔵東側広場へと変えつつ現在に至っている。

 所在地:奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北1-11。
 交通:JR大和路線「法隆寺駅」下車、法隆寺東大門から北へ徒歩5分。
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「法隆寺」(ほうりゅうじ)

2012年10月05日 21時29分37秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 法隆寺は聖徳太子が建立された寺院として、1400年に及ぶ輝かしい伝統を今に誇り、とくに平成5年(1993)12月には飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築として、ユネスコの世界文化遺産のリストに日本で初めて登録された。
 創建の由来は、「金堂」の東の間に安置されている「薬師如来像」の光背銘や『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』(747)の縁起文によって知ることができるが、当寺の説明によると、用明天皇が自らの病気の平癒を祈って寺と仏像の造立を誓願したが、その実現をみないままに崩御されたため推古天皇と聖徳太子がその遺願を継いで、推古15年(607)に寺とその本尊「薬師如来」を造建したのが始まりという。

 現在、法隆寺は塔・金堂を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分かれている。
広さ約18万7千平方メートルの境内には、飛鳥時代をはじめとする各時代の粋を集めた建築物が軒をつらね、多くの宝物類が伝来している。国宝・重要文化財に指定されたものだけでも約190件、点数にして2300余点に及んでおり、世界的な仏教文化の宝庫として人々の注目を集めている。
 東院伽藍方面から見てみると、秘仏「救世観音」(国宝)が祀られている「夢殿」(国宝)は、天平11年(739)聖徳太子を偲ぶため、かつての住居があった斑鳩宮の跡地に建設された。八角円堂で平安・鎌倉期に大修理が行われているという。

 本尊の特別公開は、春と秋に各1ヶ月ずつ。長い間、完全な秘仏として扱われてきただけあって、7世紀の木造仏だというのに金箔もきれいに残っていて神秘さを感じる。このほか夢殿には、「聖観音菩薩像」(平安時代)や「行信僧都像」(奈良時代)なども祀られている。また、鴟尾(しび)と鬼瓦。時代の重さと優雅さを感じさせてくれる。
 夢殿の南側にある「礼堂」(重文)は元は中門だったとか。北側にある「絵殿・舎利殿」(重文)の内部は見られなかったが、中央が馬道(めどう)のように空いた建物で、奥手には「伝法院」(国宝)がある。
その周囲を「廻廊」と礼堂、絵殿・舎利殿で取り囲んであり、連続した木製の格子窓(連子窓(れんじまど))美しい。

 一方、西院伽藍には法隆寺らしい「五重塔」(国宝)や「金堂(国宝)」などが立ち並ぶ、法隆寺の中心部で、仁王像を配した「中門」(国宝)は飛鳥時代の建立で、正面の柱間を「4間」と偶数で、門の真ん中に柱が来てしまう珍しいもの。中門に立つ「阿形像」(重文)は、和銅4年(711)作の日本最古の金剛力士像で、雨風が当たる位置にあるためこれまでに何度も修復されており、後の時代には南大門を守っている。また、「吽形像」(重文)は、江戸時代の大修理の際に、頭・右腕以外の部分は木造に改造されたそうだ。天平期らしい力強さのある塑像で珍しく何の囲いも無く間近に見られる。

 「五重塔」(国宝)は、高さ約37mあるが、一番上の層と一番下の層では、一辺が半分程度で上部に行くほど細くなっていて、より高く見えるように作っており、内部には釈迦の入滅を表した「涅槃像土」(国宝)が安置されている。
 永祚2年(990)に造られた入母屋造りの「大講堂」(国宝)の内部には、平安時代作の「薬師三尊像」(国宝)
と「四天王像」(重文)が祀られている。

 西院伽藍の東側部分にある聖徳太子を祀った「聖霊院」(国宝)は鎌倉時代に建てられた、いかにもお堂らしいとても厳かな印象の建物で、ぜひ内部に入って天井や格子扉なども見ることもお勧めしたい。なお、保安2年(1121)の改築の際に開眼供養が行われた本尊の「聖徳太子坐像」(国宝)は秘仏となっていて、年に数日しか拝観できない。その奥の「東室」(国宝)と、向かい側の「妻室」(重文)は、いずれも元は僧房だった建物。
 これに加え、「夢違観音」「百済観音」「九面観音」などなど、飛鳥時代前後の貴重な仏像が多く見られるのが唯一法隆寺以外にない。

 所在地:奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1の1。
 交通:JR「法隆寺駅」下車、徒歩20分。
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「薬師寺休ヶ岡八幡宮」(やくしじやすがおかはちまんぐう)

2012年09月21日 07時05分50秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 薬師寺の南大門を出たところに薬師寺休ヶ岡八幡宮がある。当社は寛平時代(889~897)に、栄紹大法師が薬師寺の鎮守として大分県宇佐から現在地に勧請したものと言われている。
 現在の社殿(重文)は、幾度となく天災や兵火により破壊・焼失したが、さの後、慶長8年(1603)に豊臣秀頼によって再建された。他に瑞垣門・楼門・中門等も新造されたが地震で崩壊した。

 本殿は三軒社流造で、ご神体である木造三神像(国宝)の僧形八幡神像、神功皇后像、中津姫命像が祀られ、特に僧形八幡神像は僧の姿をした八幡神としては日本最古のものとされている。

 本殿の両脇に脇殿が連なっており、十九明神の板絵(宝蔵殿に安置)が祀られている。また南北の細長い建物は座小屋と呼ばれ寺僧の加行場としても使用されたが、本来は古くから存在した宮座の座衆が座すところで、明治以後残っている例は少ないという。また両脇に脇殿が付属する社殿も少なく、さらに座小屋まで残っている点で歴史的に重要な建物とされている。なお、春には参道の桜並木が美しいという。

 所在地:奈良市西の京町(薬師寺南問の南に鎮座)
 交通:JR奈良駅六条山行バス18分、薬師寺下車すぐ。近鉄西の京駅下車すぐ。
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