~ かつてヒーロー映画『バードマン』で一世を風靡した俳優リーガン・トムソン(マイケル・キートン)は、落ちぶれた今、自分が脚色を手掛けた舞台「愛について語るときに我々の語ること」に再起を懸けていた。しかし、降板した俳優の代役としてやって来たマイク・シャイナー(エドワード・ノートン)の才能がリーガンを追い込む。さらに娘サム(エマ・ストーン)との不仲に苦しみ、リーガンは舞台の役柄に自分自身を投影し始め……。(Yahoo映画) ~
という作品の主役を演じるマイケル・キートンさんは、現実の初代バットマン役だ。
バードマンのコスチュームはほとんどバットマンだったが、この虚実皮膜ぶりがすごい。
日本で言えば … 。うーん、たとえば藤岡弘さんが、何を演じても元ヒーローとしてしか見てもらえないことを悩み、自分で脚本・主演をこなす舞台を企画した … 映画「ライダーマン」、ていう感じだろうか。
実際日本でも、お笑いで一時代を気づいた芸人さんや、子役として一世を風靡した役者さんが、シリアスな舞台作品にのぞみ、演技派俳優へと転機をはかろうとする例はあるのではないだろうか。
舞台初日を間近にひかえ、重要な共演者が怪我で降板する。
代わりに登場したのは、超一流の舞台俳優で、その名前でチケットが売れ、演技にも定評がある役者さんだ。
中堅の役者さんの代役に、たまたま空いてた藤原竜也がキャスティングできてしまった、みたいな感じかな。
そのスター俳優のマイクは、リーガンには御しがたい。
リーガンを、演技力などない、舞台のことを何もしらない、しょせんヒーロー者あがりとして扱う。舞台上でもやりたい放題だ。
しかし、リーガンも、キップの売れるその役者に逆らうわけにはいかない。
この役者さんがまた上手なので、実際にこういうことはあるだろうなあと思えてくる。
ニューヨークタイムスに文化欄を担当する批評家がいる。その人のペン一本で、客が入ることもあれば、プレビューで打ち切りになることさえあるという。ブロードウェイではこういうこともありそうだ。
規模はちがうが、好意的な公演評が朝日新聞の夕刊に取り上げられた途端、キップが一気に売れる例は多々あるようだから。
その批評家もリーガンを役者として認めないし、ヒーロー映画よりも舞台の芝居を格上の芸術とみていて、バーで知り合ったリーガンに口をきこうともしない。
私生活では、別れた妻との関係を修復したいと願い、薬物に依存する娘を立ち直らせたいと思っている。
なんとか成功させたい自分の舞台はトラブルが続き、世間の目は相変わらず元バードマンとしてしかリーガンをみない。
本当に自分とは何だ! おれはいったい何者だ! と叫ぶとき、バードマンが登場し、「今のお前が真の姿だ、無駄な抵抗はやめろ」と話しかけてくる。
うるさい、だまってろ、とあばれるリーガン。
ちょうど、まんしゅうきつこさんが描いた、現代人の肥大化した自己がバードマンになったかのようだ。
このバードマンは、リーガンの心象なのか、別の誰かなのか。
リーガンがいつのまにかコスチュームを身につけたのか、いやリーガンは本当に不思議な力をもつバードマンだったのか。
どこまでが現実でどこから空想に入ったかの境目がわからない。
気が付くと、映画のシーンすべてが、鳥の視点で撮られているように見えてくる。
映画でしかできない表現方法を用い、映画や演劇の世界に生きる人々を虚実おりまぜて描きながら、自我の肥大化した現代人の真実にせまっていく。
近松門左衛門先生が生きてらしたら、あっぱれと監督さんを褒めちぎるにちがいない。
見事としかいいようがない。日本版も見たい。