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水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

11月9日

2011年11月09日 | 日々のあれこれ

 最近朝が快調で、7時からの1時間弱で、けっこうハードな添削が三人分片付く。
 ただ、朝っぱらから「文学は戦争の対義語」とか「感動するのはよいことか」とかについて論ぜよ、という課題を読んでいると、授業開始前に脳の容量が枯渇してしまう。
 ふと通りかかった家庭科の先生が、調理のレポートの添削(?)をしているのが目に入り。カツ丼か玉子丼かの写真がついてて、おおこれなら俺も語れるぞと思ったけど、仕事としてやったらつらいのだろう。
 気力をふりしぼって授業4コマ、放課後はバンドレッスンの先生に1時間ほどバンドをみてもらい、そのあとアンコンに出るチームのレッスン。そのままアンコンチームは泊まり。
 時間が不規則になる少人数合宿なので、食事はコンビニ買い出し方式をとる。
 セブンイレブンまで連れてって、自分の分のノリ弁当(430円)も買った。
 ノリ弁だからごはんの上におかかがかけられたノリが覆っている。その中央に明太子がのっている。
 これだけで、全てのご飯を食べられてしまうのは言うまでもない。
 にもかかわらず、魚フライ、メンチカツ半分、ちくわ天ぷら、唐揚げ、ひじき煮、玉子焼き、漬け物がついてて、いったいこのおかず軍団をどう処理せよというのだろう。
 缶ビール1、ワンカップ1をそえて初めて生きる弁当だと思ったが、せんなきことである。
 合宿は貴重な休肝日になる。


 3学年だより№19(自己紹介)

 昨日の放課後、面接指導を担当して感じたことを書きたい。
 一番驚いたのは「面接準備シート」の自己紹介欄に名前しか書いてない人が複数いたことだ。
 きっとほかにもいると思う。しっかり読んでください。
 面接で答える内容は、粗くいって二つ。「自己紹介」と「志望理由」だ。
 指定校推薦の内定者には一度話したつもりだが、ほとんど伝わってないなと感じた。
 「自己紹介」とは「自分は今まで何をしてきたか」であり、「志望理由」とは「これから何をやりたいか」だ。
 これは大学入試の面接ではという話ではなく、いつかみんなも受けるであろう就職試験の面接もまったく同じ原理だ。みんなも2、3年後に必ず読むであろう『面接の達人』という本にこう書いてある。


 ~ 君は、たった2つのことを覚えるだけでいい。
 しかも君が覚えたたった2つのうち1つが本番で言えれば、君はトップで通るだろう。
 なんだそんな簡単なことなのか。簡単なことなのだ。真理は常にシンプルなものなのだ。
  … 生き残るための面接で言わなければいけない2つのこととは何か。
 「自己紹介」と「志望動機」である。(中谷彰宏『面接の達人2013バイブル版』ダイヤモンド社) ~


 面接で聞かれるであろう質問のすべては、このどちらかに含まれる。
 「あなたの性格は?」「自分の長所と短所は?」「趣味・特技は?」「高校時代一番楽しかったことは?」「得意な教科は?」「不得意科目にはどう対処しましたか?」「高校三年間で得たものは?」「好きなことばは何ですか?」「今まで最も感銘を受けた本は?」「あなた自身の記念日はいつ?」 … 。
 もう気づいてると思うが、これらはすべて「今まで何をしてきたのか」つまり「自己紹介」が問われている質問だ。
 「大学では何を学びたいですか?」「なぜこの大学を選んだのですか?」「将来の夢は?」「どんな職業につきたいのですか?」「大学ではどんな学生生活を送りたいですか?」「それは何のためですか?」「最近の新聞記事で一番興味をもっているのは何ですか?」「自由に使えるお金が100万円あったら、何に使いますか。」「人生で大切なことは何だと思いますか」 … 。
 これらは「これから何をやりたいのか」つまり「志望理由」だ。
 昨日の面接指導の最中に、いくつかの問に「わかりません」「覚えてません」と答えた人がいた。
 想定されるすべての質問にあらかじめ答えを作っておいて、それを暗記するのは面接対策にはならない。
 それでは、想定外の質問を受けたときに答えられなくなってしまう。
「自己紹介」と「志望理由」を徹底的に紙に書いておくことだ。
 とくに指定校推薦の人は、その作業に毎日数時間費やしてもおかしくない。
 それくらいの準備をしたなら自然と緊張もしなくなる。
 人間、緊張のほとんどは、準備不足から生まれるものだ。

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11月8日

2011年11月08日 | 日々のあれこれ

 3学年だより№18(何のため5)

 なぜa側に立つべきなのか。
 それは、なんと言っても、大学は学問をするところだからだ。
 学問とは何か。大学で学ぶとはどういうことか。研究するとは何をすることか。
 研究者とオタクの違いを、みんなは説明できるだろうか。
 「オタク」の定義自体に諸説あるが、研究者である大学の先生をオタクとよぶのは憚られる。
 でも、オタクも、大学の研究者も、やっていることの性質は極めて似ている。
 この二つは、外に開かれているかどうか、未来に開かれているかどうか、という点において性質を異にすると言える。
 簡単に言うと、自分が徹底してこだわって収拾して分析して愛玩した対象物について、その研究の成果を自分で楽しむことに価値をおくのがオタクだ。
 それが他人からどう思われようと関係なく、価値づけるのはあくまで自分である。
 結果的に多くの人々に影響を与えることもあるが、それが目的ではない。
 一方、研究の成果を、外部にさらすことによって、その価値を決めようとするのが研究者だ。
 もちろん、自己満足のみの研究に没頭されている理系の研究者の方や、10年間論文を1本も書いていないという文系の先生がいらっしゃるのも現実だ。
 しかし、根本的に研究というのは、その成果が世に問われ、何らかの形で世のため人のためになろうと志向する。
 くりかえすが、大学の先生は研究者である。
 人の役に立つこと、人々を幸せにするものを生み出すために、研究はある。学問はある。
 だからこそ、大学には(私立大学にも)莫大な公金が支出されている。
 学問は、少しでもいい考え方はできないか、もっと良い方法はないか、を考えるところからスタートする。現状の肯定は学問につながらない。
 たえず自己否定、現状否定し続けるところからしか、新しい知見は生まれない。
 そういうのが学問だとしたら、そういう場に行こうとしている人間だったなら、「格差社会ってどう思う?」って聞かれたとき、どう答えるべきだろう。
 自分のとぼしい知識によるイメージだけで、「収入の少ない人は努力不足だ」と結論づける姿勢は、ふさわしくないことはわかってもらえるだろうか。
 学問研究の道へ歩み出そうとしている人間なら、「格差社会」の現実を実感した時、それをなんとかできないかと発想すべきなのだ。
 現状をそのまま受け入れよう、諦めようとする姿勢は、学問とは逆の方向性ということになる。
 現状のままでいいのなら、経済学や政治学など学ぶ必要がないではないか。
 理学や工学の研究など必要なくなってしまうではないか。
 学問をこのように理解したなら、純粋に自分のために大学に行こうとするのは、実は「了見が狭い」ということにも気づいてほしいと思う。
 やっと「何のため(1)」の話にもどる。ものすごくベタな結論だけど、みんなは大学に行って自分の才能を駆使して、世のため人のためになる人間になってほしい。
 いや、そうするのが、大学進学という僥倖を手に入れられた人の義務なのだ。

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11月7日

2011年11月07日 | 日々のあれこれ

 なんか意外にあたたかくないですか?
 車の窓ガラスにお湯をかけるというのを今年まだやってないけど、11月ってこんなだったろうか。
 週があけて、放課後は講習の日なので、部活をわたなべ先生におまかせし、講習参加者が書いているのにべったりつきあう。
 書けた人から提出して帰る方式なのだが、そのときに、机の上の消しゴムかすを集めてゴミ箱に捨てて、それからイスを入れて、「ありがとうございました」とおれごときに礼を言って教室を出て行く子になんと多いことか。
 ぜったい結果がでるんじゃないかな、こういう子は。
 こっちがいい人になったみたいな気分になってしまった。


 学年だより№17(何のため4)

 バブルが終わった後の就職難の時代に、とりあえずフリーターになって生計を立てようとした人たちが多くいた。
 その後も続く就職不況の時代、フリーター、派遣社員という道を選ばざるをえなかった人も多い。
 自分のやりたい仕事じゃないから、もしくは夢を追うためといった理由で、正規雇用の就職を避けてきた人ももちろんいる。
 でも今の日本の経済状況を考えるなら、フリーター・派遣社員の多くは、望まざる結果としてそうなっているはずだ。
 そういう人たちが、そのうち正規雇用の社員になる可能性があるならいい。
 派遣先の会社でがんばっていたら、求められて正社員になった、という道が普通にひらけているならいい。
 しかし、いったんフリーター生活に入ると、なかなかそこからは抜け出せないのが現実だ。
 企業からすれば、フリーターの存在は大変貴重であることは言うまでもない。
 一番お金がかかるのが人件費だから。
 その時々の業務状況に状況に応じて、必要な分、必要な人を雇うことができる。
 そういう存在なしには、今の日本の企業はやっていけない。
 ちなみに、正社員一人雇うのに、会社は給与の3倍の経費が必要だと言われている。
 その社員のための机がいる、保険に入らないといけない、有給休暇を認めないといけない、交通費も住宅手当もいる、社員食堂や社員寮も必要だ … 。
 つまり、ある正社員に月20万円を支払うならば、会社はそのために20万円使っているのではなく、60万円かかっているのだ。
 だから20万円の給料をもらう人は、60万円分売り上げを上昇させてはじめてチャラになる。
 せっかく正社員になったのに、仕事もろくに覚えないうちに転職してしまうのがいかに犯罪的かということでもある(ブラック会社は別ね)。
 日本の産業構造は、派遣、フリーターを必要としている。
 そういう立場の人が、そのまま経済的、精神的になんの問題もなく一生を終えられるなら、なにも問題もない。
 しかし、現実はそうではないし、そういう状態になる可能性はまずないと言っていい。
 「階層化」「格差」という言葉の実質の意味は、階層の「固定化」なのだ。
 それは個人の努力だけではいかんともしがたい部分が大きい。
 そういうことを想像もしないで、「努力の足りない人が下層階級に属することになるのは当然だ」と小論文に書いてしまったのでは、世の中が見えてなさすぎと思われるだろう。
 では、「格差」「階層化」の現実を、それなりに努力して理解したとする。
 その上でなら、格差肯定論に立ってもいいだろうか。
 きちっと論証できるなら、それもありだろう。
 実際に「格差肯定論」の立場でものを言う多くの研究者、評論家、そして政治家がいる。
 どれも、一定の論拠を持ちうるものであることは認めるが、やはりこれから大学へ進学しようという人は、a側に立ってほしい。

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定型

2011年11月06日 | 日々のあれこれ

 「定型は内容の濾過装置」という言葉が気に入っている。
 気に入っているというか、見方が変わったというか。
 現代文の教科書に「定型があってこそおもしろい」という評論が載ってて、それで読んだ。


 ~ ある内容を三十一文字の器に盛ること、それが短歌の表現である。ところが、言いたい内容の量は時によって大小があり、いつも同じとは限らない。それを一定の器にぴたりと収めるのだから、無理がある。しかし見方を変えれば、短歌の作者は、一定の器に収めるために内容の余剰分(必要度の低いもの)を削ったり不足分を補ったりする行為を通して、繰り返し内容を吟味していることになる。つまり、定型は内容の濾過装置としてのはたらきをするのである。 ~


 蓮実重彦氏が、映画監督ゴダールにインタビューするときに、限られた時間で何を聞こう、ありきたりな質問だと答えてくれるかどうかさえ分からない、どうしようと悩んだ末、発した質問はこうだった。
 「監督の作品はどれも90分に収まってますが、切るのが大変でしょう」
 記憶だけで書いてるので、ぜんぜん違う人だったのかもしれないけど。
 すると「そうなんだよ、そこを誰も尋ねてくれないんだ」と言って話がはずんだという話だ。

 やたら長尺の映画がある。
 自分の言いたいことを表現したら必然的にそうせざるを得なかったという場合ももちろんあるだろう。
 でも、商業作品として映画館でお客さんに観てもらうことを前提にしたなら、たとえば3時間はぜったい長い。
 映画にかぎらず、休憩なしジャンルなら2時間そこそこが目安だろう。
 だってお手洗いいきたくなってしまうもの。
 お客の都合を考えず、表現したいことを表現したいだけつくるのは、傲慢な行いだ。
 演奏会にも同じことが言えるから、気をつけないといけないと思うけど。
 今年観た映画で言えば、「アンストッパブル」「ミッション8ミニッツ」は、90分ぐらいの作品で、一瞬のダレ場もなく集中させ続けて、さくっと表現しきる素晴らしいものだった。
 ぎゃくのイメージのもいくつかある。
 時間は自分で切らないといけないのだ。
 表現には枠がある。
 枠の中でどれだけ勝負できるか。
 
 コンクールも同じだ。
 演奏の時間制限だけでなく、今目の前にいる生徒さんが、いついつの期間までにどれくらい上手になれるか。
 時間は決められている。
 そういう意味では定型だ。
 内容と定型を照らし合わせて、その枠のなかで、内容にあったことをせいいっぱいやりきること。
 無限になんでもできるわけはないし、やれることをやらないのももったいない。
 何をやるべきかは、むしろ枠が決める。

 もっと大きく考えると、自分に残された人生を考えた場合、あれもこれもやろうとするのではなく、内容を濾過することも必要かなとふいに思った。
 「人には無限の可能性がある」というウソを教育関係者はときおり口にする。
 ひょっとしたら、ウソじゃないかもしれない。
 無限の可能性はあるのかもしれない。
 でもそれを試してみるための人生自体があまりにも有限すぎる。

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11月5日

2011年11月05日 | 日々のあれこれ

 新人戦で演奏する「エアーズ」を配布し、せっかくだからとちょっとやってみたら、途中で完全に見失う子が減っていた。えらいえらい。
 新人戦。エントリーされた学校さんの一覧を見ると、「そうそうたる」という形容がぴったりの陣容ではないか。
 コンクールでは同じ土俵にのせてもらえなかった学校さんにまじって、なりふりかまわずやっていきたい。
 部活のあと、いろんなことが残っているがなかなか進まない、その原因は空腹にもあると思い、コンビニに行く。
 「夜中にどうしてもいなり寿司が食べたくなるケース」はそんなにないのだが、11月の声を聞くと急に肉まんが食べたくなるので買いに行ったのさ。
 本のコーナーに「danchu」の最新号がおいてあって、ポテトサラダの特集だった。
 長いdanchuの歴史で、初めてではないだろうか。
 普通の料理関係の雑誌でも、ポテトサラダがメインの特集になるのはなかなかない。
 購入し、夜のお酒のおともにすることにする。
 帰りにポテサラ自体も買って帰ろう。
 高橋ソースの中濃をかけたポテサラが、日本酒のあてとして自分のベストなのです。

 
 
 学年だより№16(何のため3)

「次の文章を読み、社会の階層化について、801字以上1000字以内で自分の考えを述べなさい。」

 大学の先生は、この問題を出すことによって、受験生の何を調べたかったのか。
 ふつうの国語や社会では測れない、どういう力を見ようとしているのか。
 まずは、どの程度社会に対する関心があるのか、常識があるのかを見るだろう。
 そして、与えられた素材について自分なりに考えられるか、考えた内容を論理的に表現できるかどうか。
 それは、大学で一緒に学問をする仲間としてふさわしいかどうかを見ると言うことでもある。
 「格差社会について論ぜよ」という問題が出た場合、二つの方向性の答えがあるように見える。
 a「格差社会をなんとかすべきだ」とb「格差社会はしかたない」という二つだ。
 実際に書いてもらったものにも二種類の答案があった。
 しかし大学入試で「格差」「階層化」が問われたときには、答えの基本はaだ。
 もちろんbの方向性で書いた人もいた。
 格差社会の積極的肯定論さえ出てくる。でも考えてみてほしい。
 大学の先生があえて高校生に「格差社会について述べよ」と問題提起をしているのだ。
 「現状を考えるとしかたない」「人それぞれの努力の結果なのだから、格差は必然である」という意見が適当だろうか。
 もちろん意見としてはありうる。
 純粋な意見としてはあり得るが、二つの面から問題を指摘できる。
 一つは、みんなの頭の中の「格差」「階層化」のイメージが、現実とはかけ離れているという面だ。
 「格差」は、たんに収入の差が「ほどよく」ある状態を指す言葉ではない。
 10の努力をした人が1000万円の年収を得、5の努力をした人が500万円であるという状態を指すのではないということだ。
 ほとんどの人は、今まで経済的な不自由をあまり感じたことがないだろうから、このあたりのイメージがわかないかもしれない。
 たとえば、大学を卒業するときに、希望にあった就職ができずに正社員になれなかったとする。
 毎日働けばバイトでも月に20万円くらいは稼げるだろう。
 正社員になれた友達も初任給は同じくらいだから、最初のうちはそれほど不満を感じないかもしれない。
 しかし、5年、10年とそのままの状態だったらどうか。
 月20万円稼げるだけの仕事が常にあるとはかぎらないし、正規雇用の社員とちがって病気で休めばその分だけ収入は減る。
 若いうちは無理もきくが、年をとってくると、不安にかられるであろうことは想像に難くない。
 好きな人ができても結婚をためらう気持ちが生まれるだろう。
 家族を作ることはできても、将来自分の子供を私立の学校に通わせるというのは現実としてかなり厳しい状態になる。

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11月4日

2011年11月04日 | 日々のあれこれ

 今日って部活オフだ、すると映画でも観にいけんじゃね? 金曜はユナイテッドシネマの会員デーではないか! と思って学校に来て予定表見たら、がっつり時間のかかる会議名が書いてあった。
 そうだよね。これもオフにした理由の一つだった。そうは問屋がおろさないさ。
 しかし、今日日、仕事があることほどありがたいことはないではないか。


学年だより№15(何のため2)

 早稲田大学スポーツ科学科の2008年の入試問題。小論文の課題文に、『ドラゴン桜』というマンガのセリフと、それについて述べられた文章が取り上げられた。
 マンガの主人公である、桜木という高校教師の、こんなセリフが示される。


 ~ 「社会のルールってやつはすべて頭のいいやつが作っている。そのルールは頭のいいやつに都合のいいように作られているんだ。逆に都合の悪いところはわからないように隠してある。つまりお前らみたいに頭使わず面倒くさがっていると…、一生だまされて高い金払わされるんだ。だまされたくなったら、損して負けたくなかったら、お前ら、勉強しろ。」
「お前らガキは社会について何も知らないからだ。知らないというよりは、大人は教えないんだ。そのかわり、未知の無限の可能性なんて、何の根拠もない無責任な妄想を植えつけてんだ。そんなものに踊らされて、個性生かして、人と違う人生送れると思ったら大間違いだ!(東大に入れば)何の夢も描けねえ真っ暗闇から抜け出せるんだ。」
「ナンバーワンにならなくていい。オンリーワンになれだぁ? オンリーワンていうのはその分野のナンバーワンのことだろうが。」 ~


 このマンガは数年前にテレビドラマにもなり、一時かなり話題となった。
 課題文の筆者は続いてこう述べる。


 ~ 上流の子供は、あらかじめ下流の人間とは異なるように育てられる。生活態度、言葉づかい、勉強のしかた、すべてが相互に関連して、上流らしさが作られる。
 しかし、中流や下流の若者は、学校や家庭を通じて、誰もが平等だといって育てられる。ところが中学、高校、大学、就職と進むにつれて、社会に上も下もあることに気づかされ、ショックを受ける。そして社会から離脱していくのである。 ~


 以上の課題文に基づいた、早稲田大学スポーツ科学部の出題が次のものだ。
「社会の階層化について、801字以上1000字以内で自分の考えを述べなさい。」


 この問題は、先日、小論文の放課後講習で解いてもらった。
 みんなはどう書くだろう。まず「階層化」の意味がわかるだろうか。
 最近よく耳にする「格差社会」という言葉も、ほぼ同義と思えばいい。
 ここ数年、この「階層化」「格差」といった問題が、大学入試の小論文で多くとりあげられている。「フリーター・ニートについて論じなさい」といった課題も、同じ主旨のものだ。
 小論文なんか関係ないという人も、大学の先生が何を考えて入試をするのか、という観点から考えてみてほしい。
 なぜ、小論文でこんな課題が出るのか。

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ここを出ろ、そして生きろ

2011年11月03日 | おすすめの本・CD

 昨夜はアンコンチームの合宿。
 せっかくの泊まりなので、添削もさくさく進めようか、その前にちょっとだけと思って読み出したらやめられなくなった。
 『ここを出ろ、そして生きろ』(新潮社)は、NEWS23の膳場さんのとなりにいる石橋タカさんみたいなキャスターの人が書いた小説だ。
 主人公は、紛争のおこった土地で人道支援を行う民間組織、いわゆるNGO活動を職業とする日本人女性。
 その活動を通じて知り合ったジャンと恋に落ち、考え方の違いからすれちがい、なんとかそれを乗り越えて愛を育もうとし、別れが訪れるという、筋立てはごく普通の恋愛小説だ。
 しかし、彼女たちのおかれた環境は、普通の人にはなかなか経験できない世界だ。
 コソボ、コンゴ、エルサレムといった紛争や戦争のまっただ中の土地が舞台になっている。
 映画「セカンドバージン」のように何となくタイにしてみました的なノリではない。
 現地での人道支援の実態、原住民との軋轢や、国連本部から来ている背広組との齟齬、一筋縄ではいかない状況のなかで、一人でも多くの命を救いたいという根本の願いを果たそうとする主人公の苦悩が描かれる。
 だからこそ、そこで知り合った頼りになる男性ジャンとはうまくいってほしいと感情移入してしまう。
 でもジャン自身の抱える闇が少しずつ明らかにされていくうちに、悲しい結末も予想できて、つい最後まで読んでしまった。
 それにしても、毎日シャワーを浴びれて、おいしいものを食べているわたしたちからすると、よくそんな所で働けるねと言いたくなる。生活環境だけならまだしも、生命の危険と常に隣り合わせの世界なのだ。

 ジャンは、たくましくて、仕事ができて、弱いものにはやさしくて、それでいて陰がある。
 そういう男はやっぱカッコいいよね。
 自分の中では、さゆり=菅野美穂、ジャン=阿部寛のイメージで読んでいた。
 映画化してくれないかなあ。こんなジャンのセリフ。


 ~「ほら見て」
  さゆりも空を見上げる。
  満月だった。数え切れないほどの星の中で、ひときわ輝いていた。
  「月はいい。いつも穏やかで、決して群れない」
  「太陽も群れないわ」
  「太陽は否応なく支配しようとする。でも月は支配もしなければ、支配されることもない」
  そう言って、ジャンは噛み締めるように繰り返した。
  「月は群れない。それでいて暗闇を照らしてくれる」 ~


 くぅーっ。しぶい。
 ご婦人と夜ごはん食べたりする機会があったら、帰り道で使ってみたい。
 地下鉄の駅への階段を下りようとする寸前とかいいかな。
 
 ジャンは月を見ながら、こんなことも語っていた。

~  「飢餓や貧困、戦争といった問題はあまりに大きすぎて、考えれば考えるほど途方にくれてしまう。でもぼくらの仕事は、大聖堂を建てるようなものじゃないかな。たとえばバルセロナのサグラダ・ファミリアや、ニューヨークのセント・ジョン・ザ・ディヴァイン、大聖堂をつくる建築家や職人たちは、自分たちが死ぬまでに建物を完成することがないと知っている。絶対に、だ。それでも彼らはやめない。毎日、仕事場に出かけては、レンガをひとつまたひとつと、積み重ねていく。ぼくらの仕事も同じだ。さゆりもぼくも、レンガを積み重ねる職人なんだ。」  ~ 
 
 これって、結局はどんな仕事にも言えるのではないだろうか。

 午前中、にじの家のリハーサル、移動して本番。
 今年も楽しんでいただけたのではないだろうか。
 睡眠不足気味だったせいか、「勇気100%」を歌ったとき、サビがちょっときつかったのが悔やまれる。
 応援にきてくださったお母様方、ありがとうございました。

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11月2日

2011年11月02日 | 日々のあれこれ

3学年だより№14(何のため)

 ちょっと想像してほしいのだが、これから頑張って、第一志望の大学に受かったとする。
 そのとき、誰からも「おめでとう」と言われなかったら、さみしくないですか?
 もちろん、自分が頑張ったことに対する満足感で、その時はそんなにさみしくないかもしれない。 でも少し落ち着いた後は、やはり「よくがんばったな」と誰かに言ってもらいたくなりそうな気がしないだろうか。
 もっと言えば、難関大学に入って、そのあと有名企業に就職し、給料もたんまりもらえるようになったとする。
 その一つの達成が、純粋に自分のためだけのものであったとき、つまりそのことによって自分以外の誰をも喜ばせていないと知ったとき、ちょっとさみしくなるような気がしないだろうか。
 おそらくほとんどのみんなは、この想像をできないだろう。
 つまり自分の成功を誰も喜んでくれない状況に自分がおかれることを想像できないだろう。
 それはそうだ。これだけ、周りの人たちから頑張れと励まされ続けているのだ。
 みなさんの親御さんは、合格という結果を必ずよろこんでくれる。
 ご家族や親戚、もちろん友人から祝福される。
 みんなを思う気持ちにおいて、親御さんの足下にもおよばない私たちも、みんなが目標をかなえてくれる姿を心から祝福する。

 大学で学ぶとはどういうことか?
「自分の将来の夢をかなえるためです。そのために、しっかり勉強します」
 すばらしい!
 まもなく面接の練習も始まる。目をきらきら輝かせて上のように答えるのが、まず大切だ。
 では聞くが、その夢をかなえるのは何のためか。
 なぜ、将来それをやりたいのか。
 それは純粋に自分だけのためなのですか?
 先日の才能の話を思い出してもらえるとありがたいのだが、みんなには勉強する才能がある。
 そして、望みさえすれば大学に行かせてもらえる経済的裏付けもあるはずだ。
 決して全ての人に与えられるものではないくつかの条件をクリアしている。


 ~ 能力や努力(できる能力)というのははっきり言って先天的なものです。「背が高い」とか「視力がよい」とか「鼻がきく」というのと同じ種類の天賦の資質です。それは天からの「贈り物」です。自分の私有物ではない。だから、独占してはならない。
  … 能力というのは「入会地」のようなもの、みんなが公共的に利用するものです。それがたまたまある個人に「天が授けた」。だから、背が高い人は高いところにあるものを手の届かない人のために取ってあげる。眼の良い人は嵐の接近や「陸地が見えた」ことをいちはやく知らせる。鼻のきく人が火事の発生に気づいて警鐘を鳴らす。そのようにして天賦の能力は「同胞のため」に用いるべきものなのです。(「WEB内田樹研究室」より) ~

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特選市

2011年11月01日 | 日々のあれこれ

 娘を駅まで送るとき、ちょうどナック5特選市の時間に重なる日がある。
 今朝は、キャメル毛の高級毛布。
 メーカー希望小売価格5万円がなんと1万円。これはお買い得。 
 大野勢太郎さんの声で紹介されると、ついほしくなってしまうのだ。
 でも、毛布は先月紹介されてたのを買ってしまったので、今日はだめだな。
 ウコンも買っちゃったし。
 でも今日の紹介を聞いてると、ほんとにいいことばかりで、心が揺れる。


 暖かくて、いつもサラッと爽やか、しっとり優しい感触で、それに加えて、汚れにくくて、強く、静電気が起きにくいという、まさに毛布の為にあるような素材です。
 繊維が極めて細く、しっとりとしたいわゆる「ヌメリ感」と柔らかさがプラスされ、カシミヤに匹敵する風合いを醸し出しています。
 また、嬉しいのは、家で洗濯ができること。
 いつまでも、清潔に気持ちよく高級毛布でお休みいただけます。


 われわれが書いている推薦書も、同じように書けば合格させてくれるかな。


 明るくて、いつも元気よく爽やか、誰にでもやさしく接し、それに加えて、正義感が強く、周囲を気遣いながら行動できる人柄です。
 繊細で、しっかりとした自分を持ち、そこに人当たりの柔らかさがプラスされ、まさに人格者の風合いを醸し出しています。
 また、素晴らしいのは、家でもしっかり勉強していること。
 いつまでも、貴学でしっかりと学生生活を送るはずの本生徒を推薦いたします。

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