鹿児島県知事の「女子にサイン・コサインを教えて何になるのか」という発言が大きな話題になっているようです。
これは主に女性差別につながる発言として注目されており、「三角関数を軽んじていて怪しからん」という反論はあまりないようです。
ということは「三角関数は数学教育中、あまり重要な項目ではない」というのは一般的な前提として受け入れられているのでしょうか? 件の知事の発言も「サイン・コサイン・タンジェントを社会で使ったことがある女性は10%に過ぎない」と続くらしく、どうも「教育とは主に実生活で使用する具体的な知識・技術を教授すること」であるらしい。
果たしてそうでしょうか?
その気になってシラバスを見直せば、サイン・コサインだけでなく、実生活であまり役に立ちそうにない項目はたくさん見つかるような気がします。
だからと言って、そういう教科・項目が重要ではないとは思わない。
学校で学ぶ目的は、実生活で役立つ具体的な知識・技術を身に着けることではなく、もっと根本的な能力を鍛えることだと、私は信じています。
我々の社会は様々なルールで成り立っています。極端な話、二人以上のヒトが一緒に行動する時、何らかのルールが必要になってきます。ルールなしではどんな社会活動も営めません。
就職した新入社員がまず覚えなくてはならないのは、配属された部署が効率よく稼働するために採用している独自のルールだと思います。そのルールに早く順応し、部署内の一員として機能することが求められる。
会社だけでなく、例えば隣りあった家屋に住む家庭を比較してみても、多くの異なるルールが存在するのは不思議ではありません。結婚して新たな家族を得た場合、不慣れなルールに順応したり、もしくは家庭内の既存のルールを見直して現状に合わせるために改善したりもします。
学生はいずれ卒業し、社会に出て就職したり結婚したりする。進路は千差万別です。行く先々のルールすべての具体例を提示することは不可能ですが、そのかわりに未知のルールへの対処の仕方を学ぶ機会を、学校が設けてくれているのです。
足し算ができるようになったら、次は引き算。その次は掛け算。割り算。さらに分数の加減乗除などに発展してゆく。基本ルールがどんどん複雑化され、その変化するルールを我々の脳味噌は次々にマスターし、過去の経験を応用することで、課題を解いてゆく。
そういった学習課程は、例えば社会で仕事を覚えていく過程とは似ておらず、なのでなかなか自覚することはありませんが、学校での経験は常に実生活中に活かされているはずです。
私は、いわゆる開発途上国と言われる国々で仕事をすることが多い者です。
赴任先によって異なる環境を経験しなくてはなりません。行く先々で土地の言葉を覚え、地域社会特有のルールも学習し、さらにそこでしか通用しない細かな技術をも習得して、速やかに馴染んでいくことが能力として求められます。
私が日本で経験した学校教育課程は(個人的な成績は中の中でありましたが)、確実に役に立っているようです。
学校教育に無駄なものなど一つもありはしないのです。
私個人の話ですが、三角関数に関しては。
中学の時に習ったはずですが、覚えた記憶がありません。
と言うわけで覚えていませんので、男のオイラ今年60になるのですが、まったく役に立つことはありませんでした。
ちゃんと覚えておけばよかったぁ等と思ったこともありませんでしたね。
生きているだけで色んな事を覚えていきますので、無駄はそういう意味で何もないんでしょうね。
学校で示される種々のルールは記憶する必要はなく、その時問題が解ければそれで良いのだと思います。単なる練習なので。
新米の収穫、お済みですか?