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Weekend Strummer

ウィークエンド・ストラマー。
世間知らずのオジサンが脈絡無く語る、ギター・アフリカ・自閉症。

江戸っ子職人のきまぐれ鮨

2024-10-31 09:06:41 | その他

映画「ジュラシック・パーク」の原作者として有名な作家マイクル・クライトンは日本びいきとしても有名でありました。生前、お忍びの訪問も含めて来日経験は豊富だったそうです。そんな彼の作品に「ライジング・サン」という小説があります。1990年代のカリフォルニア州を舞台に、日本企業の内部で発生した殺人事件を捜査するアメリカ人警察官の物語です。これも映画化されておりますが、今回は小説のお話。

小説中、刑事二人が鮨(すし)屋で待ち合わせるシーンがあって、日本通であるという設定の先輩刑事が「こういう店では客が注文することは失礼なんだ。職人がカウンター越しに客を観察してそのヒトの気分などを察し、更にその日の天候なども考慮して、オススメの鮨を握ってくれる。客は黙って待っていれば良いのだ」なんてことを言うんです。
いわゆる「おまかせ」というやつで、たいていはその店の、例えば「上鮨一人前」というようなセットを順番に出してくれる。高級鮨店ではお客様の気分を察するような心遣いからセットの内容を決定するのでしょうけど、私は行ったことがないのでわかりません。

鮨職人が客が食べるべき食品を決める、となると、これは食事というよりある種のエンターテイメントになるような気がします。一部のフレンチ・レストランでもそういった趣向を凝らす食事を提供すると思いますが、お客は一応メニューを見て注文するでしょう? ライジング・サンの鮨屋は単に客を観察して提供するネタを決めるのだそうですが、もしも客の観察を誤って、そのヒトが食べたくない嫌いなネタの鮨を提供してしまったらどうするんだろう? 苦手なネタを目の前に出されて食べることを強要されたら、客によってはヒトモンチャクありそうです。やっぱり自分が食べるものは自分で決定したいですもんね。
そういう風に考えると、その日のおすすめネタを順次流していって、客はそのうち好きなものだけをチョイスして食べるという回転ずしのシステムは両者の妥協点とでもいうべき、ちょうど良いものであるような気がします。
値段も手ごろであまり構えずに入店できますし、また最近は、昔では考えられなかったようなネタのすしも回ってくることがあり、そういう目新しいメニューは面白がって食べてみます。

もともと海から遠かった京都の人たちが魚を楽しむために考案した発酵食品「なれずし」を基に、せっかちな江戸っ子が酢飯に生魚を載せて握ったのが江戸前鮨です。東京湾の新鮮な魚をネタにできる江戸では、シャリが酢飯である必要はなかったにもかかわらず、上方の真似をして酸っぱいゴハンと生魚を併せちゃった。というわけで、もとはと言えば物まねと勘違いから始まった食い物であります。「鮨とはアレンジすることが前提の食い物」と考えれば、そこに伝統を求めるのは野暮と言うものです。回転すし屋の一風変わったメニューこそが江戸前鮨のスピリットを受け継ぐものと言えるのではないでしょうか? 

ところで前述したようにマイケル・クライトンは日本びいきで有名でした。日本人としては単純に嬉しいことなのですが、小説中には疑問に感じる点もあります。前述のテレパス鮨職人もそうですが、私が気になったのは、日本通の先輩刑事が後輩刑事に対して「コーハイ」と呼びかける点です。これは変です。目下の者が「センパイ」と呼びかけて年長者を立てることがあっても、上の立場にある者がその優位のポジションをことさら強調するかのように目下の者を直接「コーハイ」なんて呼ぶことはしないのです、我々日本人は。

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憧れるのはやめましょう。

2024-05-24 16:02:28 | その他

温暖化が叫ばれる最近は状況が変化しているかもしれませんが、本来、北海道にはゴキブリがいないそうです。気温が低すぎて越冬できないんですって。だから北海道人の多くはゴキブリを見たことがなく、気持ち悪い、などの悪印象もないんだそうです。
ただいるだけで悪者扱いされ、攻撃され続けたゴキブリにしてみれば「ようやく正当な理解者が現れた!」という心境でありましょう。ですが、そんな北海道人も本州に移るとゴキブリが嫌いであるという周囲の意見に影響を受けて、徐々にゴキブリ嫌いに染まっていくのだそうです。
嫌悪感はもともと個人の生理的な感情であるはずなのに、自分では直接は感じてはいなかったにも関わらず、周囲に影響されて同じ反応を示すようになる、と言うのは何とも不思議な感じがします。

さて、今年は空前のカメムシ大発生の年だそうです。主に農作物への被害が心配されておりますが、やはりカメムシといえばその悪臭が有名です。
幼い頃から「カメムシは臭いにおいを出す」というのは知識として持っておりましたが、実際に経験したのは実は成人後でした。
地方にあった某合宿施設に数か月間滞在した時、季節は秋でありましたが、そこここで変わった匂いを経験するようになったんです。
んー? ナンダこの匂いは?
特徴的な匂いではありますがさほど刺激的ではなく、別に邪魔になる匂いではない。過去に嗅いだことがあるような気もしたのですが、なんだかわからない。
そのうちに他の合宿メンバーがカーテンなどに殺虫剤を吹き付けるようになり、わけを訊くと「臭いカメムシを殺しているのだ」と。
なーるほど! これはカメムシの匂いなのか! 
別に嫌いじゃないと思っていたのですが、周囲のヒトに臭い臭いと言われ続けているうちに本当に臭く感じるようになってしまいました。それでも、別に駆除しなくちゃいけないと思うほどの嫌な匂いじゃなかったな。
タイのある地方ではある種のカメムシを捕まえて乾煎りして料理の香りづけとして使用するほどです。情報先行で「臭い」というレッテルが貼られてしまうのは気の毒にも感じます。

そんな私が楽しみに感じているのがスカンクの匂い。スカンクの悪臭はカメムシ以上に有名でありますが、私はこの臭いを経験したことがありません。一説によるとスカンクの臭気を浴びた肉食獣はその強烈な臭いによって獲物となる草食獣に警戒され、近づくことさえできなくなり、獲物が取れなくて餓死してしまうんだとか。
子供の頃、犬のうんこを踏んづけただけで「エンガチョ」と呼ばれて三日ほど仲間外れにされて泣いた経験を持つ私は興味津々。
いったいどんな臭さなのか? いつか嗅いでみたい。

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スタインベックに勘違い

2024-02-11 18:37:18 | その他

海外の小説は、翻訳するヒトによっては違った作品に感じられてしまうことがよくあります。なので、お気に入りの作家の作品はできれば同じ翻訳家を通じて読みたいものです。個人的な好みを言えば、ハインラインは矢野徹氏の訳で読みたいし、スティーブン・キングだったら深町眞理子氏の訳がしっくりきます。

ところで、最近の書店で見るヘミングウェイやスタインベックの小説は、私のお気に入りの「大久保康雄訳」ではなく、誰か別の訳者のものに変わっているようです。大久保氏によって訳されたものはどれも50年以上前の刊行物になりますし、やはり新しい訳の方が現代の読者には読みやすくなっているのかもしれません。
ですが、やはり私には大久保氏の訳のほうが馴染み深い。
氏によって翻訳されたヘミングウェイの作品はすべて読んでいるはずですが、実はスタインベック作品は教科書に載っていた「朝めし」以外は読んでいないのです。今後は新しい訳者による刊行物が主流になってゆくでありましょうし、これは手に入るうちに読んどいたほうがいいかもしれない。というわけで、スタインベックの代表作である「怒りの葡萄」の大久保康雄氏訳版を取り寄せて読みました。
久しぶりに触れる大久保氏の翻訳本。面白かったです。初めて読む本なのに、不思議な懐かしさを感じました。

下巻の102頁まで読み進んでビックリしました。
「朝めし」と同じシチュエーションが出てくるんです。
主人公を朝食に招くのは「朝めし」では綿摘みの仕事をする親子一家でしたが、「怒りの葡萄」では主人公に親切にしてくれるウォルキー親子となっています。服を新調したばかり、という設定も同じです。
さらに驚いたのは、このウォルキー一家が白人だったこと。ウォルキー一家が白人だということは「朝めし」の綿摘み一家も白人なのでしょう。
ヘミングウェイの短編集に出てくる、パンチドランカーと一緒に旅を続ける黒人の印象が強かったせいか、もしくはシドニー・ポワチエ主演の「夜の大走査線」で見かけた黒人の綿摘み労働者のイメージによる影響か、わからないのですが、私はずっとこの人たちを黒人だと思いこんでいたんです。

アフリカで見ず知らずの人たちに助けられた経験を多く持つ私にとって、「朝めし」の情景は我が身の体験と大きくオーバーラップするが故に大好きな作品だったのですが、なんか印象が大きく変わってきてしまいました。

でも二通りの楽しみ方ができたようで、得した気分でもありますが。

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クランプス!

2023-10-25 23:28:33 | その他

以前お知らせしましたが、私の陰嚢には睾丸状のものが三つ存在しており、電車で言えば満員率150%と大混雑状態です。しかも常時。万年ラッシュアワー。三つ目の玉は実は睾丸ではなく精液瘤(せいえきりゅう)と呼ばれるもので、何かの理由で射精しなかった精子が精輸管の中に溜まって玉状になったものだそうです。

更に私の下半身は前立腺肥大症の初期にあるらしく、以前に比べて排尿に少々時間がかかるようになっております。若かった頃のように勢いよくほとばしるようなオシッコは記憶の遥か彼方。精子だけでなく尿さえも出にくくなっているとは、ヤレヤレであります。
排尿に時間がかかるので(とはいってもそんなに長時間ではありませんが。まだ初期なので)無意識ながら軽く力むようになりました。自覚はないのですが排尿時に下腹に力を込めて腹直筋はもちろん、腹横筋などのインナーマッスルも収縮させて膀胱に圧力を加えているようです。今まであまり意識したことのなかったマイナーな筋肉なので動かし方を体得しておらず、つまり脳からの命令系統が確立されておらず、したがって力んだからといって本当に収縮しているのかどうかは定かではなく、そのため尿のスムースな排泄にはほとんど効果が無いような気がします。と、頭ではわかっているものの、気が付くと便器を前に力んでいる自分がいます。

筋肉の使い方が効率的でなく、力の入れ方も不器用であるためでしょう、筋肉が不自然に疲労して、その結果ときどき攣(つ)るようになってしまいました。攣るのは、幸いなことに排尿時ではなく、また小さい筋肉であるようで痛みはそれほどでもないのですが、やはり不快であり、できるだけ早く治したい痛みであります。筋肉が攣った場合は静かに伸ばしてやると回復する場合が多いです。しかし力の入れ方さえわからないマイナーで小さな筋肉なので、どことどこをつないでいてどういう方向に配置されているのか、全然わからないんです。痛みに身もだえしつつ、あてずっぽうで身体をひねって脇腹を伸ばしてみたけれど、あ、これ全然効いてないや。それではと、のけぞって腹直筋を伸ばし、あ、これもだめだ。どうすりゃいいんだー。立ち上がって部屋のドア枠に手をかけてぶら下がるように腹筋全体を伸ばしてみても、これも効いてねえ。クソー。
アッチでもないしコッチでもない、と試行錯誤を繰り返しているうちになんとなく落ち着いてきて痛みが消える、という、唐突なフェイドアウトで終わる昔のポップスみたい。納得できないまま、落ち着く。

そして、のど元過ぎれば次回のクランプスまで忘れるストレッチ研究。

 

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友達の範囲

2023-09-12 16:31:19 | その他

♪一度会ったら友達で、毎日会ったら兄弟だ♪ という歌が30年位前の「おかあさんといっしょ」で歌われていました。
本当に「一度会ったら友達」だとしたら友人数は膨大になるはずです。無邪気で希薄なしがらみしかなかった幼児の頃は、他者と友人としての関係を結び合うことはたやすいことで「ともだち100人できるかな」なんて期待も、さほど突飛なものではなかったように思えます。

世間では友人が多い少ないがそのヒトの人格(魅力ある人物かどうか)の尺度になっているらしく、友人が多いヒトほど良いヒトである、という評価が一般的です。他人から慕われるヒトというのは、なるほど、良いヒトの特徴の一つと言えるかもしれません。
ですが、最近、その解釈がなんとなく幼稚に思えてきました。友人の多さを誇るのは、他人からの支持を積極的に募る選挙の立候補者の姿につながるような気がして、なんとなくカッコ悪い。

「友人の多さ」を語るうえで注意すべきは、そのカテゴリーでしょう。友人をいかに定義づけているか。知り合いと区別しているかどうか。

学生時代のクラスメイトは単に同じクラスに振り分けられただけの関係で、中には親友レベルの親しさに発展するヒトもいましたが、多くは特に親しく口をきいたこともないまま関係が終わったヒトばかりで、友人とは言えなかった。
同様に会社の同僚も友人とは言えないでしょう。ほぼ毎日、顔を合わせ声を掛け合う仲ではありますが、生活に必要な収入を確保するために一緒に働く仲間であるだけで、任務遂行の際には最上級の信頼を置いてはいるものの、友人ではない。

その他、友達とは「困った時に助けてくれる存在である」なんて、機能を優先するヒトもいるようですが、非常時に助けを期待するが故に他人と仲良くなろうとするというのも、なんだか自分勝手で動機が不純に思えます。

私にとって友人とは「一緒に遊ぶヒト」です。楽しさを感じる分野が自分と重なっていて、楽しい思いをするために必要なヒト。好きで一緒にいるヒト。

とはいうものの、最近は自分の趣味活動が極めて限定的になりました。
相手が必要なスポーツやバンド活動などは久しくやっておりませんし、映画や文学について語り合うのもインターネットの関係サイトへの投稿で満足してしまっております。数年前から飲酒習慣もなくなって、日没後の外出はバタコとの散歩くらいです。
余暇を過ごすのは、どれも独りで楽しめる活動ばかり。

というわけで、私の友人数は過去数年間0人です。
でも、いいんだもーん。

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