映画「ジュラシック・パーク」の原作者として有名な作家マイクル・クライトンは日本びいきとしても有名でありました。生前、お忍びの訪問も含めて来日経験は豊富だったそうです。そんな彼の作品に「ライジング・サン」という小説があります。1990年代のカリフォルニア州を舞台に、日本企業の内部で発生した殺人事件を捜査するアメリカ人警察官の物語です。これも映画化されておりますが、今回は小説のお話。
小説中、刑事二人が鮨(すし)屋で待ち合わせるシーンがあって、日本通であるという設定の先輩刑事が「こういう店では客が注文することは失礼なんだ。職人がカウンター越しに客を観察してそのヒトの気分などを察し、更にその日の天候なども考慮して、オススメの鮨を握ってくれる。客は黙って待っていれば良いのだ」なんてことを言うんです。
いわゆる「おまかせ」というやつで、たいていはその店の、例えば「上鮨一人前」というようなセットを順番に出してくれる。高級鮨店ではお客様の気分を察するような心遣いからセットの内容を決定するのでしょうけど、私は行ったことがないのでわかりません。
鮨職人が客が食べるべき食品を決める、となると、これは食事というよりある種のエンターテイメントになるような気がします。一部のフレンチ・レストランでもそういった趣向を凝らす食事を提供すると思いますが、お客は一応メニューを見て注文するでしょう? ライジング・サンの鮨屋は単に客を観察して提供するネタを決めるのだそうですが、もしも客の観察を誤って、そのヒトが食べたくない嫌いなネタの鮨を提供してしまったらどうするんだろう? 苦手なネタを目の前に出されて食べることを強要されたら、客によってはヒトモンチャクありそうです。やっぱり自分が食べるものは自分で決定したいですもんね。
そういう風に考えると、その日のおすすめネタを順次流していって、客はそのうち好きなものだけをチョイスして食べるという回転ずしのシステムは両者の妥協点とでもいうべき、ちょうど良いものであるような気がします。
値段も手ごろであまり構えずに入店できますし、また最近は、昔では考えられなかったようなネタのすしも回ってくることがあり、そういう目新しいメニューは面白がって食べてみます。
もともと海から遠かった京都の人たちが魚を楽しむために考案した発酵食品「なれずし」を基に、せっかちな江戸っ子が酢飯に生魚を載せて握ったのが江戸前鮨です。東京湾の新鮮な魚をネタにできる江戸では、シャリが酢飯である必要はなかったにもかかわらず、上方の真似をして酸っぱいゴハンと生魚を併せちゃった。というわけで、もとはと言えば物まねと勘違いから始まった食い物であります。「鮨とはアレンジすることが前提の食い物」と考えれば、そこに伝統を求めるのは野暮と言うものです。回転すし屋の一風変わったメニューこそが江戸前鮨のスピリットを受け継ぐものと言えるのではないでしょうか?
ところで前述したようにマイケル・クライトンは日本びいきで有名でした。日本人としては単純に嬉しいことなのですが、小説中には疑問に感じる点もあります。前述のテレパス鮨職人もそうですが、私が気になったのは、日本通の先輩刑事が後輩刑事に対して「コーハイ」と呼びかける点です。これは変です。目下の者が「センパイ」と呼びかけて年長者を立てることがあっても、上の立場にある者がその優位のポジションをことさら強調するかのように目下の者を直接「コーハイ」なんて呼ぶことはしないのです、我々日本人は。