★ 七年前の手術前夜、私は病室にひとり横になっているのが耐えられなくて、病院正門前の喫茶店に逃げ出した。その喫茶店のガラス戸越しにJR中央線信濃町駅の改札口が目の前に見えた。電車が着く度に人たちが改札口から出て来て、思い思いの方角に散ってゆく。どこの駅でもいつもの通りのその何でもない光景が、この世のものならぬ明るさに輝いているようだった。生きている、とはああいうことなんだ、と。
★ 七年前、駅の改札口の照明を発見しただけではなかった。手術前後、自然にいまそこに居合わせるような現実感で甦った過去の幾つかの場景――「あのときは本当に生きていたな」と萎えかける心を支えてくれた光景には、常に光が射していたことを知った。必ずしも秋の日射しばかりではなかったけれども、時を越えて魂の芯にじかに差し込むようだったあの光は何だったのか。退院後もそのことをずっと考えてきた。
★ いわゆる明るく楽しく希望にみちた光景ばかり浮かんだわけではない。自分でもよくわからない憂愁に駆られたとき、身を切られるように痛切な経験、どうしようもない絶望感に沈みこんだとき・・・・・・そのような一見暗い光景にもふしぎに透明な光がどこからか、場面全体に静かに射し込み、その事態がそうでしかなかったことを、私自身の意志を超えてありありと浮かび上がらせた。黒水晶の内部の小世界を照らし出すように。
★ そのふしぎな光が射していないほとんどの事態、無理しなければ思い出せない記憶、実感をもっては想起できない多くの略歴的事実は、私がこの危うい世界を生きてゆく上で実はどうでもよかったことだったのだ、とゆっくりと気付いたのだった。
★ そう、この宇宙、この世界、この歴史的現実には、どうしようもなく自分の期待と意志を超えるものがある。いつか必ず自分が死なねばならないという事実をはじめ、目的も意味も筋書きも不明なままに、避け難く逃れられないことが。
★ だが私自身の意識を超えて働くその無記の力は、私を死なせるだけでなく生きさせる力でもあった。まるで救いのように、時には奇跡のように、光り輝く場面が、思いがけない打開の地平も不意に出現させるのだった。それは私がこころ正しかったからでも、努力を尽くしたからでもなかった。
<日野啓三“冥府と永遠の花”―『梯の立つ都市 冥府と永遠の花』(集英社2001)>