Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

もういいかげんにしてくれないか

2012-06-20 00:32:31 | 日記

今日のツイート

☆内田樹 ‏@levinassien

Sight連載の高橋源一郎さんとの対談本『沈む日本を愛せますか?』の続編が出ました。『どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?』です(タイトル考えたのは僕)。第三弾のタイトルが『さらに沈む日本をあなたはまだ愛しているんですか?(いい加減にやめたら)』になりませんように。
高橋源一郎さんがリツイート

(引用)



まずぼくは、こういう文章を書く内田樹というひとの“神経”をうたがう。

次にいったいこの本=『どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?』をどんな人が買うのかうたがう。

震災・原発事故“以後”においても、あいかわらず漫談でカネを稼ぐ人々を疑う。

まさにそれは、原発支持か脱原発か、とは関係ない。

まさにそれは、“「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について”(高橋源一郎)とも関係ない、ことはない(ぼくはこの本を読んでないが、想像できる)

以下に書くことは、このぼくのブログをよく読んでくださっている方以外にはピンと来ないことだろうが、書く。

数週前、東浩紀がキャスターの“ニュースの深層”にゲスト出演した高橋源一郎は、東が『「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について』に話題をふったとき、唐突にジャン・ジュネの『シャティーラの四時間』を絶賛したのだ。

『シャティーラの四時間』については、ぼくは数回このブログに“引用”した。
この翻訳は、ここ数年ぼくが読んだ文章でまちがいなく、ベストのものと思ったのだ。

ぼくは、なんらジュネの専門家でも愛読者でもなく、パレスチナ問題についても特段の知識を持ち合わせていない。

しかし、『シャティーラの四時間』を読むことによって、ジュネというひとを発見し、パレスチナについても、これまでより少し認識を更新できた。

だからぼくの“読み”をなんら正当化できないが、この文章でジュネは、“正しいことなど存在しない”とか“正しいことは存在する”とか言ってはいないが、自分にとってなにが愛せるものであるかは、言っている。

ここで重要なのは、ジュネが誰をも啓蒙していないことだ。

高橋源一郎がジュネを“評価”し、高橋源一郎が自分の文を売って稼ぐプロなら、なぜ高橋は自分の文により、ジュネに迫る表現者であることを目指さないのか。

いったい高橋源一郎とか内田樹とやらとか、その他の“お仲間たち”は、相互漫談ツイートとか、相互漫談本で、いかなる自己表現を目指しているのか。

いや、彼らが行っているのは、いつもいつも、<啓蒙>なのだ。

誰を?

彼らが自分より愚かだと“想定している”読者を、である。

君たちのやるべきことは、他人(お人好しの読者)の啓蒙ではなく、自分にしかなしえない自己表現である(笑)

もちろんぼく自身は、なんらプロではないので、この条件をまぬがれている。






<追記>

上記のブログは6月19日から20日へと日付が変わる時に書かれた。

ぼくの住んでいる地域は台風の暴風雨圏にあり、《消費増税関連法案をめぐる自民、公明両党との修正合意について、前原誠司政調会長が一任取り付けを宣言し、党内手続きを打ち切った》という報道がなされた時。

それから寝て起きて、今、追記を書く。
まず上のブログに書いた“ニュースの深層”での高橋源一郎の『シャティーラの四時間』絶賛に対する東浩紀の反応について。

どうやら東浩紀は『シャティーラの四時間』を読んでいない。
なぜなら東は“あの小説”と言ったから。

『シャティーラの四時間』は小説ではない(笑)
『シャティーラの四時間』を書いた当時、ジュネは彼が生涯に書いた“小説と戯曲”をすでに書き終わっており、それ以後“小説と戯曲”を書くことはなかったと思う。

ジュネの後期の人生において彼が“書いた”のは、『恋する虜』として死後出版された文章のみである(“発言”を集めた『公然たる敵』と)

今、東浩紀ツイートで、彼の雑誌“日本2.0 思想地図β vol.3 表紙&帯”を見た。

なぜ《日本2.0》なのだろうか?
いったい《2.0》とはいかなる意味なのだろうか?
いったいなぜ《日本》なのだろうか?

上記ブログで話題にした内田樹と高橋源一郎の漫談本(『どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?』)にも《日本》はあった。

彼らは、そんなにも《日本》に執着し、《日本》を良い国にしたいのであろうか!

たしかにぼく自身も、日本に生まれ育ち、日本語以外の言葉を日本語のようには使用できない。

けれども、それは、《日本》に執着することをまったく意味しない。

しかし、“日本に執着する日本人”を否定することも、できない。

しかしこの場合、《2.0》が問題である。

《一般意志》とかなんたらこうたらという過去の概念に、《2.0》をつければかっこいいキャッチになるというのは、あまりにも安易である。

もちろん東浩紀はこの雑誌の内容によって、この《2.0》を実証するつもりである(らしい)
しかしすでに“一般意志2・0”の無内容に失望したぼくは、その成果を読む気がしない。

だいいち、東浩紀が“一般意志2.0”で参照した人(思想)は、《日本人》ではない。
そして東浩紀が持ち出す《日本人》は、梅原猛や小松左京というぼくにとってはさっぱりイケてない人物である(ぼくは東が弟子たちと梅原猛に会いに行くというテレビ番組を見て、その内容の貧困に唖然とした)

いやいや、上記のぼくの東浩紀“批判”だって、単なる趣味の違いに過ぎないのかもしれない。

これこそぼくが、今、“言いたいこと”である。

近日、ぼくは何年も維持してきた自分の“読書計画”を放棄した。
まずこれはまったく“個人的な体験”である。

ぼくの人生の大きな節目、2003年の退職時、ぼくはそれまで溜まった本を大量に処分した。
それから10年近くが経過し、その間、またまた大量の本がぼくの机の周りを包囲している。

ああ、うんざりである。

これは、ぼくの個人的な失敗であるにすぎないが、これをなんらかの“教訓”としていただけるなら、幸いである。

ひとは、本など読まなくても生きていける(笑)

つまらないおしゃべりよりも、黙っているひとのほうがカッコいい。

本が読めなくなったぼくは、ジョン・ル・カレの“スマイリー3部作”を読み返す。

現在のぼくにとっては、ドストエフスキーよりも、夏目漱石よりも(マルクス、フロイト、ハイデガー……よりも!)“ジョージ・スマイリーと仲間たち”の方が、リアルである。






最新の画像もっと見る

コメントを投稿