Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

Living Zero

2012-06-30 14:05:42 | 日記

昨夜の抗議行動について“賛否両論”があいかわらず姦しい。

“姦しい”という漢字は、女三人から形成される。

《愚者の行進》(池田信夫)
《単調なかけ声「さ・い・か・ど・う・は・ん・た・い」への苦痛》(石井孝明)
というようなブログもある。

ぼく自身は、家で“ニコ生”現場中継を見ていた。


さてこの事態に、ぼくが注目する(笑)“有名人”はどのように反応したか;

☆ 内田樹 ‏@levinassien
昨日平川くんと「ネット隠居」というアイディアを話しました。その日をさかいにして、ネット切断しちゃうの。もうメールも読まないし、ツイートもしないし、携帯にも出ないの。そしてひっそりと隠居するのであります。よし、決めた。でも、いつからにしようかな。
(引用)

さっさと隠居すればよい、とぼくは思う。


☆ 茂木健一郎・連続ツイート「私が、野田首相だったとしたら」

わの(3)すでにツイートしているように、私は、日本のエネルギー安全保障(純粋に物理的に、エネルギーが足りるかどうか)という視点から見て、原子力を使い続けることは仕方がない選択肢である、という立場をとっている。今でも、その考えは変わらない。それでも、デモを支持する。kenichiromogi 2012/06/30 07:25:11

わの(4)デモが表現しているものは何か。それは、何よりも、感情である。福島第一原発の事故が人々の心に及ぼした影響は、甚大である。放射線の健康被害についての科学的議論をいくら積み重ねたとしても、事故によって生まれた不安や恐怖を消すことはできない。kenichiromogi 2012/06/30 07:26:58

わの(5)同じことは、東京電力やメディアに対する不信感についても言える。重要な情報を隠しているのではないか、偏向した報道をしているのではないかという疑心暗鬼は、事実においてどうかという点を離れて、人々の心の中に「感情」としてすっかりと根付いてしまっている。kenichiromogi 2012/06/30 07:28:03

わの(6)昨日の官邸前デモは、何よりも、そのような人々の感情のうねりを表現したもの。自由で民主的な社会において、自分たちの感情を表すことは当然の権利であり、特に原子力政策という、国論を二分するような問題については、昨日のデモのようなかたちで気持ちを表すことは大切なプロセス。kenichiromogi 2012/06/30 07:30:03

わの(7)事実と予測に基づいた精緻な議論とともに、人々の感情もまた為政者にとっては考慮すべき大切な要素である。国民が、現に原子力政策について不安を抱き、疑念を持っているのに、それを無視して政策を進めるというのは、民主主義国家のあり方としては明らかに不当である。kenichiromogi 2012/06/30 07:31:46

わの(8)デモ参加者は、国民の代表。あれだけ多くの人たちが、官邸前に何らかの感情を伝えに来ている。私が野田首相だったらどうするか。憲政史上異例なことであるが、デモ参加者の代表10名くらいを、首相官邸に招き入れ、原発政策について対話する、くらいの対応をしても良かったのではないか。kenichiromogi 2012/06/30 07:33:59

わの(9)一度招き入れて対話したら、多人数でデモをすれば首相官邸に入れるという「前例」をつくるという懸念もある。しかし、原発の問題は、明らかに異例な対応が必要な事案。対話を通してのみ、気持ちは変化することができる。再稼働を伝える先日の一方的な記者会見は、明らかに届かなかった。
kenichiromogi 2012/06/30 07:36:26

(引用)


茂木健一郎はなにを言っているか。
デモは“感情的”であり、“科学的(理性的)”ではないが、ボクはそれ(感情!)を理解するので、デモを支持する―と言っている。

これはまったく間違った(反理性、反知性、反論理)見解である。

なぜなら“反原発”は感情ではない。

“感情的”なのは、中途半端な“科学者”、インチキな“脳科学者”の非理性である。

まさにこのような“科学者”こそ、自分の<感情>を対象化したことがない。

茂木健一郎は、アインシュタインとか原子力を愛しているだけである。

ぼくは茂木健一郎より“感情”を重視するものであるが、だからこそ“科学的”に考える必要性を無視しない。



さてぼくにとって、問題は<隠居>である。

内田樹のような脳天気老人の“隠居”イメージは、笑ってすませられるものではない。

ぼくは現在、たいした仕事をしていないので、自分の仕事については、このブログにほとんど書いてこなかった。

まずめんどうくさいのである。
しかし今週、仕事で聴いた訪問医療を行っている医師の発言をここに記録する。

くわしく書けばいくらでも書けるが、めんどうなので要点だけを書く。
現在、病院で死ぬひとの数は減ってきている。
病院で死なないひとは、“在宅”で死ぬ。

死ぬというのは、多くの人が望んでいるように、ある日、トンコロリンと死ぬのではない。

死ぬまでに、人によってまちまちの“期間”が存在する。
その期間において、“介護される”という事態が発生し、“介護する人”が必要となる。

すなわち“老人”とは、自分が死ぬまで、介護される人となるわけだ。
ぼくが話を聴いた先生(若い医師)の言葉では、《人は死は受け容れられるが、介護を受け容れるのは難しい、なぜなら死には美学があるが、介護にはないから(笑)》ということである。

もちろん、介護される人も苦しいが、介護する人も苦しい。

この医師が訪問するケースは、ほとんどが独居老人か老老介護の家庭であるという。

このふたつのケースにも大きな違いがあることは、想像するだけでわかる。
しかもいずれのケースであっても、それぞれ個別の事情があるだろう。
また今後20年以上にわたってこのケースは激増するだろう。



さてこのブログのタイトルは、<Living Zero>である、ぼくは日野啓三という作家にこのところ惹かれている。
日野啓三は1990年還暦の年に腎臓ガン発見、摘出手術。
1997年膀胱ガン手術、1998、99鼻腔ガン手術、2000年クモ膜下出血で手術。
2002年大腸ガンのため死去。

しかし、不謹慎であるが、この病歴がめざましいのではない、この間、日野啓三は短編小説、長編小説、エッセイを書き続けていたのだ。

最後期の彼の小説には、たしかに病気や闘病についての“私的”記述がある。
しかし、そこからこそ幻想は紡ぎ出された、そこから、“この世界”を現出させる力が現われ出た。


池澤夏樹が日野啓三の短編集文庫化のさい書いた‘解説’から引用したい;

★ 彼らはみな「向こう側」へ行こうとしている。

★ 小説であるから登場人物は日常の中にいる。彼らは普通の人々であり、特別な能力や資格を持っているわけではない。サイゴンに赴任した特派員として、離婚を考える男として、久しぶりに故郷を訪れた者として、彼らは事象の雑踏の中にいる。この雑踏をぼくたちは日常と呼ぶ。

★ しかし彼らは日常に満足していない。暮らしに不満があるというのではなく、はじめから暮らしの中では得られないものを求めているのだ。彼らの視線は日常の外へ、あるいはいわゆる世間の外を向いている。通常の小説が世間の中で完結しているとすれば、日野啓三の小説はなんとか契機を得て世間を離脱しようと努力している。重力に逆らい、大気圏の外へ出ようとしている。

★ 世間の外への回路を探している者がいつの時代にも少しだけいる。日野啓三はそのような人たちを描く。彼岸、別世界、異次元、現世の向こうにある真理。呼びかたはいろいろあるが、そちら側を希求する思いが小説を書かせてきた。

<池澤夏樹‘解説“―日野啓三『あの夕陽 牧師館』(講談社文芸文庫2002)>




蛇足をひとこと。

つい先日ぼくは、村上春樹『1Q84  BOOK3』を読んだ。

ぼくは『1Q84』のBOOK1とBOOK2を刊行時に読み、がっかりし、BOOK3は購入しなかった。
このたびBOOK3が文庫化されたので買って読んだ。

このたくさんのひとが読んだらしい小説は、SF的なとか、荒唐無稽なとか呼ばれる世界を描いている。

しかしこの世界は、日野啓三の世界より、“世間的”である。

この村上ワールドは、決定的に、“世間ばなし”の内部にあり、《世間の外への回路》は閉ざされている。







首相官邸前抗議

2012-06-30 10:44:02 | 日記

6/29 首相官邸前抗議 上空 ヘリコプターからの 石井麻木撮影





*今日(6/30)のニュース;

<福島4号機プールの冷却が停止 水温急上昇なし>
共同 2012年6月30日 11時23分

 東京電力は30日、福島第1原発4号機の使用済み燃料プールの冷却装置で、午前6時25分ごろに異常を知らせる警報が鳴って自動停止したと発表した。
 冷却が停止した時のプール温度は31度で、放射性物質を含む水の漏えいは確認されていないという。東電は、水温が急上昇するとはみていないが、原因を調査するとともに、別系統の冷却装置を稼働させるか検討している。
 4号機の燃料プールでは、6月4日にも冷却が停止していた。
 4号機プールは原子炉建屋5階にあり、未使用の燃料204体を含む計1535体が保管されている。今夏に未使用の燃料を試験的に取り出す予定。




*これは昨日のニュース

<核燃処理方法、国が判断…国民聴取せず>
毎日新聞 6月29日(金)22時26分配信

 政府は29日、エネルギー・環境会議を開き、新たな中長期のエネルギーと地球温暖化対策に関する三つの選択肢を決めた。2030年の総発電量に占める原発の比率は(1)0%(脱原発)(2)15%(依存度低減)(3)20~25%(一定程度維持)--で国民の意見を踏まえて政府が8月にも決める。一方、使用済み核燃料の処理方法は(1)では再処理せずに地中に埋設する「直接処分」としたが、(2)と(3)では国民が選択できる処理方法を示さず、政府が判断するとした。

 使用済み核燃料の処理方法について、(2)と(3)の場合、「再処理・直接処分がありうる」と表記。現行政策の「全量再処理」以外に、全量直接処分、両者の併用も可能性として残した。

 核燃料サイクルをめぐっては、政府の「脱原発依存」方針のもとで、エネルギー・環境会議の要請を受け、内閣府原子力委員会が見直しに着手。原子力委は(2)の場合、「併用が適切」と報告した。しかし、同会議はこの見解を採用しなかった上、全量再処理を否定せず、あらゆる処理方法を網羅した。古川元久・国家戦略担当相は記者会見で「原発比率を決めたときに、政府として核燃料サイクル政策を示す」と語った。

 一方、電源構成では(1)の場合でも、それまでの短期間は原発を稼働して電力不足を補う。水力を含めた再生可能エネルギーは10年実績の10%から30年に35%に拡大し、原発、再生エネ以外は火力でまかなう。(2)では新設なく運転40年で廃炉にするシナリオで、(3)では新設・更新が必要としている。

 30年の温室効果ガス排出量は、(1)と(2)で90年比23%減、(3)で同25%減。20年時点は同0~11%減で、「20年に25%減」の国際公約の撤回は不可避となった。

 省エネのため30年までに約80兆~約100兆円の投資が必要とし、30年時点の家庭の電気料金は月額2000~1万1000円増えると試算した。【久田宏、阿部周一】


◇解説…民主的手続きと言えぬ

 エネルギー・環境会議が「国民的議論をしてもらう」として29日示した選択肢から、核燃サイクルの将来像が外された。原発を動かす限り増える「核のゴミ」について、今のまま再処理計画を進めるのか、直接処分地探しを始めるのか。福島第1原発事故後、国民の関心は強いが、直接選ぶすべを失った

 内閣府原子力委員会は今月21日、2030年の原発比率を15%にする場合、青森県の六ケ所再処理工場で使用済み核燃料を再処理しつつ、一部は直接処分も始める「併用」を適切と結論づけた。だが、この日提示された選択肢は全量再処理も否定せず、具体的な選択肢を示さなかった。トラブルが続く高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県)にいたっては記載が全くない。内閣府幹部は「立地自治体との関係など丁寧に考える論点がある」とし、人気投票的な国民選択になじまないと説明するが、民主的な手続きとは言い難い

 核燃サイクルを巡っては、原子力委の公開審議とは別に、推進派だけを集めた秘密会合を重ねた問題が発覚したばかり。核燃サイクルが事故前と同様、不透明な場で決められかねない。【阿部周一】