Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

シャティーラの四時間

2012-06-20 12:50:51 | 日記


★ 誰も、何も、いかなる物語のテクニックも、フェダイーンが過ごしたヨルダンのジェラッシュとアジルーン山中での6ヶ月が、わけても最初の数ヶ月がどのようなものだったか語ることはないだろう。数々の出来事を報告書にまとめること、年表を作成しPLOの成功と誤りを数え上げること、そういうことならした人々がある。季節の空気、空の、土の、樹々の色、それも語れぬわけではないだろう。だが、あの軽やかな酩酊、埃の上をゆく足取り、眼の輝き、フェダイーンどうしの間ばかりでなく、彼らと上官との間にさえ存在した関係の透明さを、感じさせることなど決してできはしないだろう。すべてが、皆が、樹々の下でうち震え、笑いさざめき、皆にとってこんなにも新しい生に驚嘆し、そしてこの震えのなかに、奇妙にもじっと動かぬ何ものかが、様子を窺いつつ、とどめおかれ、かくまわれていた、何も言わずに祈り続ける人のように。すべてが全員のものだった。誰もが自分のなかでは一人だった。いや、違ったかも知れない。要するに、にこやかで凶暴だった。

★ 政治的選択によって彼らが撤退していたヨルダンのこの地方はシリア国境からサルトへと縦長に伸び広がり、ヨルダン川と、ジャラシュからイルビトへ向かう街道とが境界をなしていた。この長い縦軸が約60キロ、奥行きは20キロほどの大変山がちな地方で、緑の小楢(こなら)が生い茂り、ヨルダンの小村が点在し、耕地はかなり貧弱だった。茂みの下、迷彩色のテントの下に、フェダイーンはあらかじめ戦闘員の小単位と軽火器、重火器を配備していた。いざ配置に着き、ヨルダン側の動きを読んで砲口の向きを定めると、若い兵士は武器の手入れに入った。分解して掃除をし油を塗り、また全速力で組み立て直していた。夜でも同じことができるように、目隠しをしたまま分解し組み立て直す離れ業をやってのける者もあった。一人一人の兵士と彼の武器の間には、恋のような、魔法のような関係が成立していた。少年期を過ぎて間もないフェダイーンには、武器としての銃が勝ち誇った男らしさのしるしであり、存在しているという確信をもたらしていた。攻撃性は消えていた。微笑が歯をのぞかせていた。

★ ほかの時間にはフェダイーンは、お茶を飲んだり、上官を、またパレスチナやよその金持ちを批判したり、イスラエルをののしったりしていたが、とりわけ革命のことを、自分たちが遂行している革命、これから取りかかろうとしている革命のことを語り合っていた。

★ 私にとって、新聞記事の見出しであれ本文中であれビラのなかであれ、「パレスチナ人」という語を目にするたびにたちまち心に浮かぶのはフェダイーンの姿だ。それもある特定の場所――ヨルダン――、容易に年月が確定できる時期――70年10月、11月、12月、1971年1月、2月、3月、4月――のフェダイーンだ。この時期この場所で私はパレスチナ革命を知った。起こっている事柄の並外れた明証性、あの存在の幸福が持つ力はまた美とも呼ばれる。

★ 10年が過ぎ、フェダイーンがレバノンにいることを除けば、私は彼らの現状を何も知らずにいた。ヨーロッパの新聞はパレスチナ人民のことをあれこれ言ってはいた。だがぞんざいに。軽侮さえ含んで。そして突然、西ベイルート。



★ 写真は二次元だ、テレビの画面もそうだ。どちらも隅々まで歩み通すわけにはいかない。通りの壁の両側の間に、弓型にねじ曲がったもの、踏んばったもの、壁の一方を足で押しつけもう一方には頭をもたれた黒くふくれた死体たち。私が跨いでゆかねばならなかった死体はすべてパレスチナ人とレバノン人だった。私にとって、また生き残った住民たちにとって、シャティーラとサブラの通行は馬跳びのようになってしまった。死んだ子供が一人で、時にはいくつもの通りを封鎖できた。道は非常に狭く、ほとんどか細いといってもよく、そして死体はあまりに多かった。その臭いは年寄りには親しみやすいものらしい。それは私を不快にしなかった。だが、何という蝿の群。

★ 蝿も、白く濃厚な死の臭気も、写真には捉えられない。

★ 愛と死。この二つの言葉はそのどちらかが書きつけられるとたちまちつながってしまう。シャティーラへ行って、私ははじめて、愛の猥褻と死の猥褻を思い知った。愛する体も死んだ体ももはや何も隠そうとしない。さまざまな体位、身のよじれ、仕草、合図、沈黙までがいずれの世界のものでもある。



★ ……キャンプにはまた別の、もう少し押し殺したような美しさが、女と子供の支配によって定着していた。戦闘基地からやってくる光のようなものをキャンプは受け取っていた。そして女たちはと言えば、その燦めき(きらめき)は、長く複雑な討論を経なければ説明がつかない類のものだった。

★ アジルーンの森で、フェダイーンはきっと娘のことを考えていたのだろう。というよりも、ぴったりと身を寄せる娘の姿を、一人一人が自分の上に描き出し、あるいは自分の仕草で象って(かたどって)いたようだ。だからこそ武装したフェダイーンはあんなにも優美であんなにも力強く、そしてあんなにも嬉々としてはしゃいでいたのだ。

★「もう希望することを止めた陽気さ」、最も深い絶望のゆえに、それは最高の喜びにあふれていた。この女たちの目は今も見ているのだ、十六の時にはもう存在していなかったパレスチナを。



★おそらく認めねばならないのは、革命あるいは解放というものの――漠たる――目的は、美の発見、もしくは再発見にあるということだ。美、即ち、この語によるほかは触れることも名づけることもできないもの。いや、それよりも、盛んに笑う傲慢不遜という意味を、美という語に与えよう。

<ジャン・ジュネ『シャティーラの四時間』(インスクリプト2010)>








もういいかげんにしてくれないか

2012-06-20 00:32:31 | 日記

今日のツイート

☆内田樹 ‏@levinassien

Sight連載の高橋源一郎さんとの対談本『沈む日本を愛せますか?』の続編が出ました。『どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?』です(タイトル考えたのは僕)。第三弾のタイトルが『さらに沈む日本をあなたはまだ愛しているんですか?(いい加減にやめたら)』になりませんように。
高橋源一郎さんがリツイート

(引用)



まずぼくは、こういう文章を書く内田樹というひとの“神経”をうたがう。

次にいったいこの本=『どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?』をどんな人が買うのかうたがう。

震災・原発事故“以後”においても、あいかわらず漫談でカネを稼ぐ人々を疑う。

まさにそれは、原発支持か脱原発か、とは関係ない。

まさにそれは、“「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について”(高橋源一郎)とも関係ない、ことはない(ぼくはこの本を読んでないが、想像できる)

以下に書くことは、このぼくのブログをよく読んでくださっている方以外にはピンと来ないことだろうが、書く。

数週前、東浩紀がキャスターの“ニュースの深層”にゲスト出演した高橋源一郎は、東が『「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について』に話題をふったとき、唐突にジャン・ジュネの『シャティーラの四時間』を絶賛したのだ。

『シャティーラの四時間』については、ぼくは数回このブログに“引用”した。
この翻訳は、ここ数年ぼくが読んだ文章でまちがいなく、ベストのものと思ったのだ。

ぼくは、なんらジュネの専門家でも愛読者でもなく、パレスチナ問題についても特段の知識を持ち合わせていない。

しかし、『シャティーラの四時間』を読むことによって、ジュネというひとを発見し、パレスチナについても、これまでより少し認識を更新できた。

だからぼくの“読み”をなんら正当化できないが、この文章でジュネは、“正しいことなど存在しない”とか“正しいことは存在する”とか言ってはいないが、自分にとってなにが愛せるものであるかは、言っている。

ここで重要なのは、ジュネが誰をも啓蒙していないことだ。

高橋源一郎がジュネを“評価”し、高橋源一郎が自分の文を売って稼ぐプロなら、なぜ高橋は自分の文により、ジュネに迫る表現者であることを目指さないのか。

いったい高橋源一郎とか内田樹とやらとか、その他の“お仲間たち”は、相互漫談ツイートとか、相互漫談本で、いかなる自己表現を目指しているのか。

いや、彼らが行っているのは、いつもいつも、<啓蒙>なのだ。

誰を?

彼らが自分より愚かだと“想定している”読者を、である。

君たちのやるべきことは、他人(お人好しの読者)の啓蒙ではなく、自分にしかなしえない自己表現である(笑)

もちろんぼく自身は、なんらプロではないので、この条件をまぬがれている。






<追記>

上記のブログは6月19日から20日へと日付が変わる時に書かれた。

ぼくの住んでいる地域は台風の暴風雨圏にあり、《消費増税関連法案をめぐる自民、公明両党との修正合意について、前原誠司政調会長が一任取り付けを宣言し、党内手続きを打ち切った》という報道がなされた時。

それから寝て起きて、今、追記を書く。
まず上のブログに書いた“ニュースの深層”での高橋源一郎の『シャティーラの四時間』絶賛に対する東浩紀の反応について。

どうやら東浩紀は『シャティーラの四時間』を読んでいない。
なぜなら東は“あの小説”と言ったから。

『シャティーラの四時間』は小説ではない(笑)
『シャティーラの四時間』を書いた当時、ジュネは彼が生涯に書いた“小説と戯曲”をすでに書き終わっており、それ以後“小説と戯曲”を書くことはなかったと思う。

ジュネの後期の人生において彼が“書いた”のは、『恋する虜』として死後出版された文章のみである(“発言”を集めた『公然たる敵』と)

今、東浩紀ツイートで、彼の雑誌“日本2.0 思想地図β vol.3 表紙&帯”を見た。

なぜ《日本2.0》なのだろうか?
いったい《2.0》とはいかなる意味なのだろうか?
いったいなぜ《日本》なのだろうか?

上記ブログで話題にした内田樹と高橋源一郎の漫談本(『どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?』)にも《日本》はあった。

彼らは、そんなにも《日本》に執着し、《日本》を良い国にしたいのであろうか!

たしかにぼく自身も、日本に生まれ育ち、日本語以外の言葉を日本語のようには使用できない。

けれども、それは、《日本》に執着することをまったく意味しない。

しかし、“日本に執着する日本人”を否定することも、できない。

しかしこの場合、《2.0》が問題である。

《一般意志》とかなんたらこうたらという過去の概念に、《2.0》をつければかっこいいキャッチになるというのは、あまりにも安易である。

もちろん東浩紀はこの雑誌の内容によって、この《2.0》を実証するつもりである(らしい)
しかしすでに“一般意志2・0”の無内容に失望したぼくは、その成果を読む気がしない。

だいいち、東浩紀が“一般意志2.0”で参照した人(思想)は、《日本人》ではない。
そして東浩紀が持ち出す《日本人》は、梅原猛や小松左京というぼくにとってはさっぱりイケてない人物である(ぼくは東が弟子たちと梅原猛に会いに行くというテレビ番組を見て、その内容の貧困に唖然とした)

いやいや、上記のぼくの東浩紀“批判”だって、単なる趣味の違いに過ぎないのかもしれない。

これこそぼくが、今、“言いたいこと”である。

近日、ぼくは何年も維持してきた自分の“読書計画”を放棄した。
まずこれはまったく“個人的な体験”である。

ぼくの人生の大きな節目、2003年の退職時、ぼくはそれまで溜まった本を大量に処分した。
それから10年近くが経過し、その間、またまた大量の本がぼくの机の周りを包囲している。

ああ、うんざりである。

これは、ぼくの個人的な失敗であるにすぎないが、これをなんらかの“教訓”としていただけるなら、幸いである。

ひとは、本など読まなくても生きていける(笑)

つまらないおしゃべりよりも、黙っているひとのほうがカッコいい。

本が読めなくなったぼくは、ジョン・ル・カレの“スマイリー3部作”を読み返す。

現在のぼくにとっては、ドストエフスキーよりも、夏目漱石よりも(マルクス、フロイト、ハイデガー……よりも!)“ジョージ・スマイリーと仲間たち”の方が、リアルである。