★ 誰も、何も、いかなる物語のテクニックも、フェダイーンが過ごしたヨルダンのジェラッシュとアジルーン山中での6ヶ月が、わけても最初の数ヶ月がどのようなものだったか語ることはないだろう。数々の出来事を報告書にまとめること、年表を作成しPLOの成功と誤りを数え上げること、そういうことならした人々がある。季節の空気、空の、土の、樹々の色、それも語れぬわけではないだろう。だが、あの軽やかな酩酊、埃の上をゆく足取り、眼の輝き、フェダイーンどうしの間ばかりでなく、彼らと上官との間にさえ存在した関係の透明さを、感じさせることなど決してできはしないだろう。すべてが、皆が、樹々の下でうち震え、笑いさざめき、皆にとってこんなにも新しい生に驚嘆し、そしてこの震えのなかに、奇妙にもじっと動かぬ何ものかが、様子を窺いつつ、とどめおかれ、かくまわれていた、何も言わずに祈り続ける人のように。すべてが全員のものだった。誰もが自分のなかでは一人だった。いや、違ったかも知れない。要するに、にこやかで凶暴だった。
★ 政治的選択によって彼らが撤退していたヨルダンのこの地方はシリア国境からサルトへと縦長に伸び広がり、ヨルダン川と、ジャラシュからイルビトへ向かう街道とが境界をなしていた。この長い縦軸が約60キロ、奥行きは20キロほどの大変山がちな地方で、緑の小楢(こなら)が生い茂り、ヨルダンの小村が点在し、耕地はかなり貧弱だった。茂みの下、迷彩色のテントの下に、フェダイーンはあらかじめ戦闘員の小単位と軽火器、重火器を配備していた。いざ配置に着き、ヨルダン側の動きを読んで砲口の向きを定めると、若い兵士は武器の手入れに入った。分解して掃除をし油を塗り、また全速力で組み立て直していた。夜でも同じことができるように、目隠しをしたまま分解し組み立て直す離れ業をやってのける者もあった。一人一人の兵士と彼の武器の間には、恋のような、魔法のような関係が成立していた。少年期を過ぎて間もないフェダイーンには、武器としての銃が勝ち誇った男らしさのしるしであり、存在しているという確信をもたらしていた。攻撃性は消えていた。微笑が歯をのぞかせていた。
★ ほかの時間にはフェダイーンは、お茶を飲んだり、上官を、またパレスチナやよその金持ちを批判したり、イスラエルをののしったりしていたが、とりわけ革命のことを、自分たちが遂行している革命、これから取りかかろうとしている革命のことを語り合っていた。
★ 私にとって、新聞記事の見出しであれ本文中であれビラのなかであれ、「パレスチナ人」という語を目にするたびにたちまち心に浮かぶのはフェダイーンの姿だ。それもある特定の場所――ヨルダン――、容易に年月が確定できる時期――70年10月、11月、12月、1971年1月、2月、3月、4月――のフェダイーンだ。この時期この場所で私はパレスチナ革命を知った。起こっている事柄の並外れた明証性、あの存在の幸福が持つ力はまた美とも呼ばれる。
★ 10年が過ぎ、フェダイーンがレバノンにいることを除けば、私は彼らの現状を何も知らずにいた。ヨーロッパの新聞はパレスチナ人民のことをあれこれ言ってはいた。だがぞんざいに。軽侮さえ含んで。そして突然、西ベイルート。
★ 写真は二次元だ、テレビの画面もそうだ。どちらも隅々まで歩み通すわけにはいかない。通りの壁の両側の間に、弓型にねじ曲がったもの、踏んばったもの、壁の一方を足で押しつけもう一方には頭をもたれた黒くふくれた死体たち。私が跨いでゆかねばならなかった死体はすべてパレスチナ人とレバノン人だった。私にとって、また生き残った住民たちにとって、シャティーラとサブラの通行は馬跳びのようになってしまった。死んだ子供が一人で、時にはいくつもの通りを封鎖できた。道は非常に狭く、ほとんどか細いといってもよく、そして死体はあまりに多かった。その臭いは年寄りには親しみやすいものらしい。それは私を不快にしなかった。だが、何という蝿の群。
★ 蝿も、白く濃厚な死の臭気も、写真には捉えられない。
★ 愛と死。この二つの言葉はそのどちらかが書きつけられるとたちまちつながってしまう。シャティーラへ行って、私ははじめて、愛の猥褻と死の猥褻を思い知った。愛する体も死んだ体ももはや何も隠そうとしない。さまざまな体位、身のよじれ、仕草、合図、沈黙までがいずれの世界のものでもある。
★ ……キャンプにはまた別の、もう少し押し殺したような美しさが、女と子供の支配によって定着していた。戦闘基地からやってくる光のようなものをキャンプは受け取っていた。そして女たちはと言えば、その燦めき(きらめき)は、長く複雑な討論を経なければ説明がつかない類のものだった。
★ アジルーンの森で、フェダイーンはきっと娘のことを考えていたのだろう。というよりも、ぴったりと身を寄せる娘の姿を、一人一人が自分の上に描き出し、あるいは自分の仕草で象って(かたどって)いたようだ。だからこそ武装したフェダイーンはあんなにも優美であんなにも力強く、そしてあんなにも嬉々としてはしゃいでいたのだ。
★「もう希望することを止めた陽気さ」、最も深い絶望のゆえに、それは最高の喜びにあふれていた。この女たちの目は今も見ているのだ、十六の時にはもう存在していなかったパレスチナを。
★おそらく認めねばならないのは、革命あるいは解放というものの――漠たる――目的は、美の発見、もしくは再発見にあるということだ。美、即ち、この語によるほかは触れることも名づけることもできないもの。いや、それよりも、盛んに笑う傲慢不遜という意味を、美という語に与えよう。
<ジャン・ジュネ『シャティーラの四時間』(インスクリプト2010)>