Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

野田首相は恥を知れ

2012-06-16 08:40:01 | 日記

以下全文引用;


ドイツ緑の党が野田に対して抗議文を送りました。
添付した資料をご覧ください。

杉山廣行(「緑」の京都・準備会)


Letter of Protest
抗議声明文

To: Mr. Yoshihiko Noda, Prime Minister of Japan
日本国首相、野田佳彦殿、

Shame on you, Mr. Noda – listen to your people and act responsibly – Don’t restart Ohi reactors – Come up with a responsible energy policy based on conservation and renewable energy”
‘野田首相は恥を知れ ―国民の声に耳を傾け、責任ある行動を取れ― 大飯原発を再稼働するな ―資源保護と再生エネルギーを基本とした政策を責任をもって構築せよ―

Dear Prime Minister,
野田首相、

We protest your decision to restart two nuclear power reactors in the town of Ohi in Fukui Prefecture. We ask you to reconsider and instead impose a moratorium on nuclear power in Japan. We ask you to come up with a responsible energy policy for a Japan without nuclear power and based on energy conservation and renewable energies.
我々は、貴職の福井県大飯町原発二基再稼働決定に抗議する。再起動について再考を求め、代わりに日本国内原子力発電の一時停止発動を要求する。資源保護と再生エネルギーを基本とした、原発のないエネルギー政策構築を要請する。

Here are our reasons:
事由は以下の通りである。

① Your decision is undemocratic. The Japanese public is not supporting you. Many members and parliamentarians of your own party are not standing with you.
貴決定は民主主義から逸脱している。日本国民は貴殿を支持していない。貴民主党内部でも多くの国会議員が反対の立場を表明している。

② The full truth about the meltdown of the three reactors in Fukushima has not been established, yet.
福島原発三基のメルトダウンについて、未だ事故原因の真相が明らかにされていない。

③ The prevailing, temporary safety standards that have been applied by the stress tests and that you referred to when you declared the Ohi reactors to be safe, are insufficient. At present, essential safety measures that are required by the stress tests have not yet been implemented in Ohi. It is not verified whether the reactors can be shut down safely if a serious earthquake were to occur.
大飯原発のストレス・テストに適用され、かつ同原発安全宣言の際に言及された現行の暫定安全基準は極めて不十分である。現在に至るまで、ストレス・テストに本質的に不可欠の安全対策が実施されていない。もし深刻な地震が起きた場合、原発を安全に停止できるか否かが検証されていない。

④ Any new regime of safety standards must be formulated and overseen by a truly independent Nuclear Safety Agency. This agency has not yet been established, and parliamentary procedures have just been started.
新たな安全基準制度は、独立した第三者原子力安全機構によって制定され、かつ遵守されなければならない。

⑤ The sharp increase in seismic activities in Japan since the earthquake and tsunami catastrophe of March 11 is alarming. The fact that there are active fault lines in the vicinity of the Ohi reactors, and perhaps even under the site is a major reason of concern.
三月十一日の東日本大震災以降の日本列島の地震活動の激増は、警告を発している。もしかすると原発敷地の直下に存在するかもしれない活断層が大飯原発周辺に複数存在するという事実が、再稼働に対する大きな危惧となっている。

You may reject this letter as an outside interference into the internal affairs of Japan. However, we know since Chernobyl and Fukushima that the fallout of nuclear accidents does not know national borders, but severely impacts the global environment and bears unknown risks to the health of all mankind. We believe it is our moral obligations to voice our concerns to you.
貴職は本状を内政干渉として拒否されるかもしれないが、チェルノブイリ及び福島原発事故以来、原発事故がもたらす死の灰に国境はないこと、地球環境に深刻な悪影響を与えること、さらに人間に不測の健康被害を及ぼす危険等々を我々は承知している。

We also know that our concerns are shared by many people in your country and that a majority of your people does not agree with you. We have high respect for the people of Japan, for their sense of community and service in times of great harm. We believe in their creativity and strong will to overcome these difficult times, and to rebuild a Japan without nuclear power.
我々はまた多くの貴国民が同様の危惧を抱き、国民の過半数が貴職に反対表明していることを承知している。我々は、大災害時の地域社会において共同体連携意識を発揮する日本国民に対して高く敬意を払うものである。我々は、日本国民がこの困難な状況を克服し、原発のない国家を再建されるための創造力と強い意志を発揮されることを信じる。

We, therefore, ask you to kindly reconsider the restart of the Ohi reactors and to declare a moratorium on nuclear power. We ask you to come up with a responsible energy policy for a Japan without nuclear power based on energy conservation and renewable energies.
我々はここに、大飯原発再稼働を再考願い、原子力発電の一時停止宣言を要求する。
我々は、貴殿に対して、資源保護及び再生エネルギーを基本とした責任あるエネルギー政策を確立されんことを要請する次第である。

Yours sincerely,

Date:

Signature:






最低限の生活

2012-06-14 11:33:57 | 日記

<家族に金があろうと生活保護はとればいい> 立岩 真也 2012/06/15
  『fonte』2012-6-15(全国不登校新聞社) http://www.futoko.org/


■本人は本人だ

 ひとつは「扶養」の問題、そして家族の問題だ。このたびの会見やら報道やら、「研究者」がそんなことではいけないとは思いつつ、私はげんなりというか、いたたまれないという感じで、ほとんど何が起こったのか知らない。知らないようにしていた。ただ(今回は)(まずは)金のある人の家族が生活保護とっていた(けしからん)ということのようだ。

 法律にはたしかに「扶養義務」というものがある――私はそれ自体に異論があるのだが、そういうことを言い出すと「現実」からどんどん離れていくので、本を後で紹介するだけにとどめる。ただ生活保護法の場合「世帯単位の原則」でやるということになっている。「世帯」というのは「家族」とは違って、「実際に同一の住居で起居し、生計を同じくする者の集団」のことを言う。だからこの条件を満たさなければ、つまり「世帯分離」しているなら、親(他)に金があっても生活保護は得られる。私はこれはまずはきちんと使った方がよいと思うし、実際、そうして親がかりの暮らしから離れた生活を始められた人たちを私は幾人も知っている。家族に――もっと言えば家族であろうとなかろうと――経済的に依存「せざるをえない」ようになっているなら、それはその人に支配され従属せざるをえないことにもなりうるのだから、それはよくない。すくなくとも、互いに大人になったら、別々にやっていけるように、「制度」としては、なっていることが望ましい。

 こういうことを言うと、それは「家族の美徳」を汚すとか減らすとか言う人がいる。美徳は言葉の定義上よいものであるから、私はそれを否定しない。そして、互いが経済的に独立する(できる)ことが、美徳を減らすと思わない。経済的な支配・従属、あるいは相互依存がないと保たれないような関係はよい (美しい)関係ではないだろうし、互いに独立しても、時には独立していられるからこそ、よい関係も作れたり維持できたりするだろう。


■より基本的には

 だとしても、生活保護と家族からと二重に受け取れるのはよくないという主張はあるだろう。世帯分離の原則はそれを禁じているのだが、見つからないように二重取りをする人は(あるいは実質的には別れて暮らさない人は)いるだろうというのだ。それがよくないとして、では人の出入りや金の出入りを監視して、そんなことがないようにするか。しかし、実際にはそういう名目で嫌がらせに近いというか、嫌がらせそのものというか、いくらでもあってきた。わかりやすすぎるのは、DV夫に稼ぎがあるんだから(まだ別れられない)妻はそれで暮らすべしと追い返されるといった場合だ。そしてそれはもちろん、たんに窓口の職員の問題ではなく、「上」の方針としてそうなっているのであり、それをメディアと「世論」が後押ししているのだ。生活保護を使える人たちの中で実際にこの制度を使えている人の割合は二〇%を下回っていると言われる。このことを嘆くべきなのである。

 金持ちでない人が多いこの世の中で、その人たち自身が、金がないという人を、実はそうでもないとか、困ってないとか、金出しすぎだとか、あげつらってどうするの、と思う。それより、金をよけいにもっている人たちからきちんと税金をとる方を先にすべきだ。そうすれば家族内で金が移ることも減る。ひとつ覚えのように言われる「予算の制約」も弱くなり金をきちんと回せる。今の税金の制度もおかしいのだが、そのおかしいことを前提にしても、もっと人を使い金をかければその何倍も脱税分を回収できる。そのことはあまり言われない。

 こんなことを考えていくと、生活保護制度を守りましょうという話を――私もするけれども――超えていく。働けず、どうしようもなく貧乏な人に対する特別の制度として「生活保護」があると考えるから、誰がそういう人なのかという話になる。「(健康で文化的な)最低限度の生活」(憲法第二五条)と「最低限」というから、どれだけが「最低限」なんだと、話が貧乏くさくなる。もっと単純に、みなだいたい同じ生活ができるというところから始めて、働く人には+αを出すというふうに考えていく。というのが、すべての人の賛同を得られるとは思っていないが、私が思うことだ。そういう主張だっていちおう筋は通ったものとしてあることを知りたい人は、私+幾人かが書いたものとして、『家族性分業論前哨』(二〇一一年、生活書院)、『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』(二〇一〇年、青土社)、『税を直す』(二〇〇九年、青土社)がある。中学生から読めますというシリーズの一冊で、実際――人はなかなかそう言ってくれないが――私はそういう本だと思っている『人間の条件――そんなものない』(二〇一〇年、イースト・プレス)というのもある。よろしかったらどうぞ。あとこの文章と補足情報、HPに掲載しているのでご覧ください。



 *以下は(字数の制約で)掲載紙には掲載されません。

※ 扶養義務については以下を参照。
◇立岩 真也・村上 潔 2011/12/05  『家族性分業論前哨』 ,生活書院,360p. ISBN-10: 4903690865 ISBN-13: 978-4903690865 2200+110 [amazon]/[kinokuniya] ※
 第5章 近代家族の境界――合意は私達の知っている家族を導かない [1992/10]
  2 合意・私的所有権と家族
   2―3 成員・義務・権利の設定不可能性

※ 分配を巡っては例えば以下。
◇立岩 真也・齊藤・拓 2010/04/10  『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』 ,青土社,329+19p. ISBN-10: 4791765257 ISBN-13: 978-4791765256 2310 [amazon]/[kinokuniya] ※ bi.
 第1部 BIは行けているか? 立岩 真也
  第1章 此の世の分け方
   2 此の世の分け方についての案

※ 税制を巡っては以下。cf.税
◇立岩 真也・村上 慎司・橋口 昌治 2009/09/10 『税を直す』,青土社,350p. ISBN-10: 4791764935 ISBN-13: 978-4791764938 2310 [amazon]/[kinokuniya] ※ t07

 上記の本で、徴税を真面目に行なうことによる税収増については以下(第1章・註11)。
「◇11 一九八三年まで国税庁長官だった福田は「わが国でも税務職員一人につきコスト約五〇〇万円の約一〇倍、五〇〇〇万円の税収増が見込まれるという計算がある」(福田[1984b:25])と記す。やはり後で引用する共著・鼎談の本では八田の文章(八田[1989:50-51])、発言に同様の指摘がある。 「非常に荒っぽい計算ですけれども、私が思うには、一〇〇〇万円投下すれば五〇〇〇万円税収が上がる[…]最近の朝日新聞によれば、資料調査課の職員一人での追徴額は一億七〇〇〇万円で、東京では一人当たり三億円から四億円。」(中谷・本間・八田[1988b:100]、八田の発言、他に中谷・本間・八田[1988b:111-113]等)」(立岩[2009:65])

※  「最低限」については上掲の本の他、以下。
◇立岩 真也 2010/03/25 「思ったこと+あとがき」,Pogge[2008=2010:387-408] [English]
◇立岩 真也 2010/06/01 「最低限?――唯の生の辺りに・2」,『月刊福祉』93-8(2010-6):60-61
◇立岩 真也 2010/07/01 「最低限どころでないこと――唯の生の辺りに・3」,『月刊福祉』93-9(2010-7):60-61

※ 以上とりあえずの追加ですので、これからも補っていくつもりです。


(以上引用)






生きられる社会

2012-06-11 13:38:28 | 日記

<生きられる世に変えよう 生存学を研究する立岩真也さん 「死に急ぐことを勧める風潮」に疑問>
 『読売新聞』大阪本社版2012-5-24 夕刊 心面

 まずは生きること――。立命館大先端総合学術研究科教授の社会学者、立岩真也さん(51)は、5年前から「生存学」の研究を率いてきた。観念的に生の意味を探るのではない。むしろ世の中のありようが人の生を左右している現実がある。であれば、生きやすくするために社会の制度を変えるのも、技術を活用するのも、大事なこと。死に方を考える前に、生きる技法とそれを支える手だてを考えようではないか、と言うのだ。(編集委員 原昌平)

●「障老病異」と社会

 終末期医療や仏教など、死にかかわるテーマに社会的な関心が高まっている。
 「いや、ブームはずっと前からで、死生学とか、いかに死ぬかといった本は1980年代からわんさと出ている。日本人は死の話を避けてきたと言われるけれど、実際は盛んに語ってきた」
 そこに違和感があった。
 「なんだか死に急ぐことを勧めるような風潮。生きることが先ではないのか」

 2007年度に政府のまとまった研究費(グローバルCOE)を得て「生存学」創成拠点が設立された(現在は学内の生存学研究センターが活動を引き継ぐ)。
 柱にしたのは「障老病異」。いろいろな障害、老い、病気、あるいは少数派の体や心を持つ人たちが、どのように生きてきたのか、当事者の側に立って歴史や現状を調べることに重点を置いた。重度の身体障害、視覚障害、血友病、性同一性障害などの大学院生も研究に加わった。
 親による障害児殺しが相次ぐ中で「殺すな」と訴えた脳性まひ者グループ。隔離収容と差別を変えようとする精神医療の改革運動。人工透析の保険適用・公費負担を実現させてきた患者団体。24時間介護を求める重度障害者……。

 「社会は90%の多数派用につくられている。それはひとまず仕方ないとしても、残り10%の人たちに生じる不利は社会がカバーすべきだ。社会保障はもちろん、移動の自由も、点字や字幕などのコミュニケーション手段も、社会で生きるのに欠かせないし、差別や排除があれば生きにくい」
 生存のための闘いは、今も続いている。


●危うい「自己決定」

 延命治療はいらない、それを拒む自己決定を尊重せよという主張がある。生命維持の中止や不開始に、法的な免責をほしがる医師も多い。
 「医療全体で言えば、患者の自己決定は時代の流れ。しかし死ぬという選択は別ではないか。本人の意向は大事だが、元気な時に単純に○×で決められるものではない」

 そして医療の内容には、診療報酬制度など社会的な要因が大きく関係する。
 「過剰医療は、医療行為ごとに点数を加算する『出来高払い』に伴って起きた。近年は検査や点滴、投薬をしても定額の『包括払い』が増えており、やらないほうが病院は得になる。過剰医療ばかりとみるのは認識が古い」

 日本では、家族や社会に負担をかけたくないと考える人が多い。そういう理由で延命を拒むとすれば、本人の希望といえるのか。
 「緩和ケアや看護・介護が十分になされているか、本人の側に身を置く人がいるかによって、その時の気持ちは違ってくる。一方、『死に方はこうあるべきだ』と著名人が語ったり、法律ができたりすると、世間的な圧力になる
 自己決定といっても、周囲の状況や社会の影響を必ず受けるということだ。


●その状態なりの生

 神経難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)は、全身の筋肉がしだいに動かなくなり、進行すると自力では呼吸もできなくなる。人工呼吸器を着けて生きることを選択する人は3割ほどだ。立岩さんは、そうした患者たちが伝えた体験の記録を多数、集めた。

 「全く意思伝達できない状態が2年ほど続いた後、脳波を読み取る装置で対話できるようになった人の文章も読んだ。死ぬほどつらかったという記述はなく、景色が見えたり声が聞こえたりする喜びはあったという。放置されたらたまらないが、親身なケアがあれば違うかもしれない」

 認知症になったら長く生きたくないという人も多い。
 「恐怖心はわかるが、そうなったら、なったなりの人生があるのではないか。否定するのは、認知症の人たち全体を蔑視するのと紙一重。自分はいつまでも同じではない。その時なりの状態を生きる。それでいいという考え方もできるのではないか」


◆たていわ・しんや
 1960年、新潟県佐渡島生まれ。東京大社会学研究科博士課程単位取得退学。千葉大、信州大を経て2004年から立命館大大学院教授。07年4月から今年3月まで同大学生存学研究センター長。著書に「私的所有論」「弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術」「ALS 不動の身体と息する機械」「良い死」など。

(引用)







たまにはテレビでも見ようか

2012-06-11 13:33:48 | 日記

NHKサイトで予告されている下記の番組を見てみようと思う;

<核燃料サイクル“迷走”の軌跡>
Eテレ 2012年6月17日(日) 夜10時、2012年6月24日(日) 午前0時50分 再放送

日本の原発から出た使用済み燃料は1万5千トン。行き場のないまま原発敷地内などに保管されている。ゴミである使用済み燃料の処理方法が無いまま稼働を続ける原発は、トイレの無いマンションと揶揄(やゆ)される。この問題を一挙に解決する方策として模索されてきたのが「核燃料サイクル」だった。その夢のサイクルが、福島原発事故をうけて原子力行政が問い直される中、根本的に見直されようとしている。将来に向け、私たちはいまどのような選択をすべきなのか。それを考える前提として核燃料サイクル60年の足取りを知っておくことは必要だ。

日本では、原発開発が始まった当初から「核燃料サイクル」が目標にされた。使用済み燃料を再処理してプルトニウムを取り出し、再び燃料として利用する「核燃料サイクル」は、資源小国のエネルギー問題と、放射性廃棄物というやっかいなゴミ問題を一石二鳥で解決してくれる夢のプロジェクトとしてスタートした。サイクルの要となる高速増殖炉は、プルトニウムをウランと混ぜて燃やし、使用前よりも多くのプルトニウムを作り出すことができるというもの。これを確立することができれば、理論上、千年はエネルギー問題から解放されると期待されてきた。

この「核燃料サイクル」の計画からその後の経緯までの内幕を、赤裸々に記録した録音テープがある。日本の原子力政策を中枢で担い続けてきた、政・官・財・学の中心人物が、非公式で開いていた「島村原子力政策研究会」の会合を録音したテープだ。国家プロジェクトとして始まった核燃サイクルがさまざまなう余曲折の中で迷走していった過程が語られている。

日本の核燃サイクルは「トリウム」という軍事利用できない燃料を使ったものが研究された。しかし、実現を急ぐ政界の意向から英米から既成技術を輸入することに方針転換された。英米で開発されていたのはトリウムではなく「プルトニウム」を使った核燃サイクルだった。プルトニウムは核兵器の材料になる。1960年代に中国やインドでの核開発に脅威を感じたアメリカは、70年代に日本の核燃サイクルに待ったをかけてきた。この圧力は日本に「焦り」と「意地」を生じさせ、冷静な開発を困難なものとしていった。

計画開始から半世紀以上が経過した今、まだ核燃サイクルは実用化されていない。そして使用済み燃料の問題は依然として解決していない。「一石二鳥」どころか「二兎(にと)を追う者、一兎(いっと)も得ず」の状態になっている今、核燃サイクルという夢を追ったプロジェクトの経緯を検証し、問題の所在を明らかにする。

(引用)






愛撫と噛み傷

2012-06-10 19:44:10 | 日記


ウィトゲンシュタインのノーマン・マルコムへの手紙(1944年11月);

★ 僕は、あのとき、こう思った。哲学を勉強することは何の役に立つのだろう。もし論理学の深遠な問題などについて、もっともらしい理屈がこねられるようになるだけしか哲学が君の役に立たないのなら、また、もし哲学が日常生活の重要問題について君の考える力を進歩させないのなら、そして、もし“国民性”というような危険きわまりない語句を自分勝手な意味にしか使えないジャーナリスト程度の良心ぐらいしか、哲学が君に与えるものがないとしたら、哲学を勉強するなんて無意味じゃないか。

★ 御存知のように、“確実性”とか“蓋然性”“認識”などについて、ちゃんと考えることは難しいことだと思う。けれども、君の生活について、また他人の生活について、真面目に考えること、考えようと努力することは、できないことではないとしても、哲学よりも、ずっとむずかしいことなんだ。その上、こまったことに、俗世間のことを考えるのは、学問的にはりあいのないことだし、どっちかというと、まったくつまらないことが多い。けれども、そのつまらない時が、実は、もっとも大切なことを考えているときなんだ。――もう、お説教は止します。

★ とにかく、生命があって再会する機会があったら、そのときは、やはり深入りすることを敬遠しないようにしよう。自分をきずつけることをいやがれば、まともな思考はできなくなる。僕は君よりもそれを避けたがる方だからそれがよくわかる。

<ノーマン・マルコム『ウィトゲンシュタイン』(平凡社ライブラリー1998)>




2006年、来日したル・クレジオの一橋大学ワークショップでの発言;

★ こうして書かれたものを通して、私たちはある意味で吉増さんが先ほど喚起されたような、風や海の波やそうしたものに似た書物というものを考えてみることができますし、私としてはそれは、むしろことばの優しさであり、何か「愛」のような本源的な触れ合いをさせるものであり、そのような快い経験、それが私にとっては文学の第一の存在理由であるように思います。

★ それと同時に、また過度に理想化してもなりません。というのも、噛み傷の感覚、棘の感覚、そしてある種の辛酸の感覚、そうしたものもまた、人生にとってはとても重要な意味であると思うからです。

★ 私はしばしばこういう印象を持つんです。単に作家ばかりではなく、現代社会全体に欠けているのは、この両義性を持つ可能性、愛撫と噛み傷、暴力と優しさ、憎悪と愛とを、ともに両義的に持つ、その可能性なのではないかと思います。愛撫や快い感覚、享楽といったもののみを描き、私たちに暴力や残虐さをもたらすことを忘れてしまった作家は、本当にそのひとが伝えたいと思ったことを私たちに伝えることはできないでしょう。

★ 現代社会に欠けているものはまさにこの二重のアイデンティティであり、多くのひとびと、現在の多くの若いひとびとはある意味で暴力を必要としているわけです。その暴力はもちろん、戦争とか政治的暴力ではありません。しかしもっぱら、ある種の事柄を暴力的に言うということを必要としているのです。あたかも噛み付くような形でいくつかのことを言う必要がある。

★ エアコン対のパラダイスというようなものがヨーロッパ的、さらにアメリカ的な生活様式ということになっていて、そこでは過剰な優しさ、安楽というものが強調されていますが、そのただなかに実は暴力があって、それがいまや耐え難いものとして現われてきているのだと思います。

<『現代詩手帖特集版 ル・クレジオ 地上の夢』(思潮社2006)>







今日のツイートあるいは”プロメテウス”

2012-06-09 10:36:06 | 日記

平野啓一郎
それにしても、今日の夕方の首相の演説は絶望的で、聞いてて気分が悪くなった。震災後、一年ちょっとでこの調子なんだから、徐々に、ソフトランディングで脱原発なんて絶対に不可能だろう。ズルズル推進派が巻き返してきて、何事もなかったかのように原発に依存し続けることになる。今止めるしかない。


天木直人 ‏@amakinaoto
これだけは許しては行けない。野田首相の大飯原発再稼動宣言だ。被曝住民の心を踏みにじる神をもおそれぬ暴挙だ。いまこそ心ある政治は倒閣運動を起こすべきだ。政治ができなければ国民の手によって否定しよう。若者よ、母親よ、どんな方法でもいいから声をあげよう。立ちあがろう!


矢作俊彦 ‏@orverstrand
嘘つきはメディアを透すと一目瞭然、こっちにはよくわかる。存外対面すると『リアル』に騙されるが。この男財務官僚と同じ、本心から民衆を馬鹿にしている。こいつを見ていると、佐藤栄作や中曽根康弘ですら心情があったと思えてくる。いや、岸信介ですら。


丸山健二 ‏@maruyamakenji
 人生における真の喜びを見いだすための努力を投げ出し、料金を支払うことで簡単に手に入る偽りの安楽や快楽に次々と染まってゆく、安直な生き方。これは自分で自分を腐敗させているようなものだ。いや、自分自身であることを放棄してしまっている。本物の安らぎはおのれとの闘いから得られるのだ


東浩紀
本当に輝く言論人は40代。20代30代のひよっこに日本の将来は任せられない!みたいな感じで。


茂木健一郎 ‏@kenichiromogi
*にい(8)居心地の良いスペースで、ゆったりとくつろいでいる。つまり、それはおじさんのメンタリティである。日本は、大学入試も、記者クラブも、新卒一括採用も、すべておじさん化している。青年は荒野を目指すが、この国では、もはや青年の居場所はない。おじさんがまったりするための国なのだ。
*にい(9)自らも戒めなければ。日本の中で、「文化人」としてテレビに出たり、講演をしたり、本を書いていれば、それなりに居心地がいい。しかし、ぼくは居心地の悪い場所に行きたい。ロングビーチのTEDで大漁旗を振り回したとき、本当に必死だった。残りの人生を、できるだけ居心地悪くしたい。


岩井俊二 ‏@sindyeye
*最初のエイリアン冒頭に出てくるあの巨神兵の化石が気になって気になって。そこだけでも映画にして欲しいとずっと思っていました。「プロメテウス」はどうもそこらへんに関係ありそうで楽しみ。
*どんな作品でも称賛なんてしないですよ。僕は映画には厳しいですよ。褒めたい映画しか褒めないし「ダークナイト」なんか褒めたこと一度もない。@remliiin どんな作品でも称賛することを得意とする岩井さんが酷評するなんて…逆に観たくなる。








火星年代記

2012-06-07 15:07:16 | 日記

<SF作家のレイ・ブラッドベリさん死去 「火星年代記」> アサヒコム2012年6月7日1時4分

 「火星年代記」「たんぽぽのお酒」など文芸の香り高い作品で知られ、SFの叙情詩人と称された米国の作家レイ・ブラッドベリ氏が5日、ロサンゼルスで死去した。91歳だった。死因などは不明。
 高校を卒業後、新聞売りをしながら各種雑誌に作品を投稿。1947、48年とO・ヘンリー賞を受賞し、短編の名手の名声を獲得した。
 地球人の火星探検、植民記「火星年代記」(50年)では想像力と文章家としての力を見せた。短編集「10月はたそがれの国」(55年)、「たんぽぽのお酒」(57年)など、現代と未来、現実と空想の間を自在に行き来する詩的な幻想性に満ちた小説で読者を魅了した。「(SFとは)いまだ建たない都市について、その歴史を書くこと」を持論とし、長編「華氏451度」(53年)では、情報を徹底的に国家が管理し人々の自由な読書をも禁じた未来社会を描いた。トリュフォー監督によって映画化され、日本でも公開された。(ロサンゼルス)





★ 米SF作家ブラッドベリ氏死去。その古典的名作「火星年代記」を思う。地球人の入植で荒廃する火星。その果てにぽつんと取り残された男はロボットで家庭の談笑を作り、街のにぎわいの音をボタンで再生する。
 その孤独。

(近事片々:その孤独:毎日新聞 2012年06月07日 13時35分)









安楽死

2012-06-05 10:00:20 | 日記

引用二つ;


☆ 丸山健二:一刀両断【59】 2012-06-04 10:04:22 

 NHKの夜九時からのニュース番組の恐ろしいまでの軽薄さはいったいどこからくるものなのでしょう。安っぽさだけならまだしも、意図的に国民の心をあらぬ方角へと誘導していることが明々白々なのです。

 つまり、本当はどうでもいい、ちょっと明るいニュースを過大に取り上げ、それをもってして窮状にある日本の暗雲を振り払おうというあまりにも強引なこじつけは、隠蔽体質の大企業や国家のお先棒を担いでいるとしか思えません。少しでも物のわかった人間ならば、かれらの目に映ずるこの偽りの報道番組が好意を装った悪意で塗り固められていることがわかるでしょう。

 震災関連の絆にまつわる感動話やスポーツ選手の活躍といったほのかな光を国家の希望の光にすり替えることなどできるはずもないのに、それを延々と繰り返すのです。そして、日本を漆黒の闇に包んだ重大な事件や、その当事者の責任問題については、一応触れておくという程度にとどめ、そうやって世論を操作し、幕引きの手伝いをしつづけます。

 恐るべきは、その効果です。こうした見え見えの古臭い手口が未だに通用し、現に思惑通りの、「済んだことはもう忘れて、希望も新たに明るい未来へと踏み出しましょう」という雰囲気が日ごとに募っています。

 スポンサーによって成立している民放テレビ局がそれをもっと露骨な形でやっていたとしても、さもありなんという印象で済ませられるのですが、しかし、勝手に電波を出しておきながら半ば強制的に料金を巻き上げているNHKが、国民の味方のふりをしながら敵に回るとは……。尤も、当初からそういう姿勢でやってはいたのだが……。





☆ 津田大介 ‏@tsuda

メディアも政治もアカデミズムもゆるーく安楽死に向かっているということなのかな。