Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

暗闇と“メタボ小説”と稲妻

2009-06-10 12:41:47 | 日記
今朝は起きてすぐ、長文の(長すぎる)ブログを書いた(不破利晴に感謝する)

そして、作夕、新宿伊勢丹地下で買った“デジュネ”とフレンチトーストを半分に切って妻と分けあって食べた、紅茶と共に(なんと仲がいい!)

そしてぼくが聴いたのは“ロック”ではなく、グールドのバッハだった。
“バッハ;ピアノ協奏曲”。
バッハに“ピアノ協奏曲”は存在しない、バッハの時代にピアノはなかったからである。
この鍵盤楽器による協奏曲の多くは、“ヴァイオリン協奏曲”でもあった。

さらに、この古いCDにカップリングされている“イタリア協奏曲”の第2楽章を聴いた。
バッハには申し訳ないが、このバッハ作品でもいちばん有名な曲の、第2楽章しかぼくは聴かない。

バッハで有名な曲といえば、最近テレビでまた見た「セブン」で、印象的に“バッハ”が流れるシーンがあった(モーガン・フリーマンが警察図書館にブラッド・ピット刑事に渡す本のコピーをとりに行く場面;“G線上のアリア”)
モーガン・フリーマンは宿直警官たちにほぼ以下のようなことを言ったはずである;“君たちは、この知識の宝庫で、なぜトランプ・ギャンブルをしていられるのか?”

また、“映画の”「イングリッシュ・ペイシェント」では、ジュリエット・ビノッシュの“看護婦”が、イタリアの廃墟の屋敷にのこされたピアノで“ゴールトベルク”の一節を弾いた。
そのピアノには爆弾が、引きあげドイツ軍によって仕掛けられていた。

グールドの“バッハ:ピアノ協奏曲”は何年かに渡って録音されているが、その日付は古い。
“イタリア協奏曲”も1959年の録音である。
しかし、バッハもグールドも、まったく“古びて”いない。

ぼくは村上春樹の新刊『1Q84を読了したときに、その“深い疲労”のなかで、この小説については書かないと宣言した。
しかし、その後のブログの端々で何度もこの小説に“イヤミ”を言っている。
こういう態度は、あまり高潔ではないと思う(笑)

それでこの小説を一言であらわす“キャッチ・フレーズ”を考案した;“メタボ小説”。

しかしわれながら、このフレーズはイケてない。
もうちょっと時間を置いてから、ぼくは、この小説を中心に、村上春樹と決着をつけたい。
もう“構想”はある。
この『1Q84』における“教祖(”リーダー“とよばれる)の言説に絞って、その虚偽”哲学“を粉砕したい。
春樹という作家は、けっして“華麗なレトリック(比喩)”や“現代的な感性”のみで、“読ませる”だけの作家ではなかった。
よせばいいのに、“哲学”を語ってしまうひとだった(笑)
だから、このひとの“ユートピアおよび逆ユートピア”(という哲学)や河合-ユングばりの“贋・精神分析学”を粉砕する必要があるのである。

“もはや春樹の言説は、そういう批判対象にも値しない”とぼくの内面の声は告げるのだけれど(“内面の声”は“苦労性”であるので)、ぼくは、もうひと頑張りしなければ、と思う。

以上、バッハ-グールド-映画-春樹-朝食のはなしは、ぼくのなかで、緊密にからまりあっている。

つまり、しつこく掲げている最近のモチーフ=“darkness & lightning暗闇と稲妻”、にである。



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