今日の天声人語が“ジョン・レノンの名曲「イマジン」”と書いていたので、ぼくもこの“名曲”について書く。
つまり、“imagine”とか“dreamer”という言葉が、いかに歴史のなかで風化したのか、腐食にさらされたのかについて考える。
そもそもジョン・レノンおよびこの“反戦歌”について、ジョンという人間はそんなに立派なひとではなかったとか、ジョンの“反戦平和思想”にはたいした根拠はなかった、というひとがいるなら、ぼくは賛成である。
ジョン・レノンというひとは、そんな単純なひとではなかったと思う。
それは、なによりも彼の音楽を、いま聴くことによってあきらかである。
もちろん、それは、彼が神でも英雄でもなかったということである。
ひとりの現実に生きた男を、なにかの象徴とすることは、できない。
彼に才能があっても、おどろくほど“通俗”であってもである。
むしろいま問題なのは、“イマジンするひと”として“dreamer”であるということ自体である。
ぼくたちは、“実証”や“サイエンス”によって、それを拒否することもできるからである。
“dreamer”というのは、マンガのセリフがはいるべき“風船”が空白のようなひとでもあるからである。
もしあなたがいつも“あらぬこと”ばかり口走っていれば、だれもあなたの言うことを聞かないであろう(このブログのように)
しかし、この世には“幻想産業(幻想資本主義)”とでも呼ぶべきものも存在している。
その“最新の成果”が爆発的ベストセラーになっているではないか。
マンガの風船に、“空白”しかないものが、何百ページも費やして、自分の痴呆の夢を語る。
“語る”のは勝手だが、それを商品として生産し宣伝するものがいて、それを喜々として買ってしまうものがいて、それを読んで“感動する”ものまでがいるらしいのである。
これが、“幻想産業(幻想資本主義)”である。
いまジョン・レノンの“dream”が、その幻想に拮抗し、それらの夢を打ち砕けるかどうかは、ぼくにはわからない。
たとえば“Imagine”を、“名曲”などと言って恥じない感性には、その可能性はない。
むしろそうであるなら、ぼくらは、この曲を、きっぱりと棄てるべきである。
あらゆる“イヴェント”で、この曲が合唱されるところへなど、ぼくは行きたくない。
この曲は真夜中にひとりで聴く。
いや今日のように爽やかな空の下で、ひとりで聴く。
なによりも、この曲の“意味”を聴くのではなく、ジョン・レノンの“声”を聴く。
これこそは、テクノロジーの恩恵である。
死んだ人の声を、いま、聴くことができる。
前のブログでこの曲の訳詞を試みたことがある。
“反歌”もつけた。
再掲載する;
<イマジン非公式邦訳(by warmgun)>
天国なんかあるわけないと想像してくれ
その気になれば簡単なことさ
ぼくたちの足の下に地獄なんかあるわけない
ぼくたちの頭の上には空だけがある
想像してくれみんな
ただ今日のために生きること
国家なんてないと想像してくれ
たいしてむずかしい想像じゃない
国家のために殺したり死んだりする理由はない
宗教のためにもさ
想像してくれ
平和に生きるということを
ああ、きみはぼくを空想家と呼ぶだろう
でもぼくがひとりそう思ってんじゃない
いつの日かきみたちがぼくの空想に結びつくことを望む
そしてこの世界はぼくたちのひとつの生となるんだ
私有財産のない世界を想像してくれ
きみに想像できるかな
貪欲や飢えのない世界
人々が兄弟となりうる世界
想像してくれ
すべてを共有する世界を
ああ、きみはぼくを空想家と呼ぶだろう
でもぼくがひとりそう思ってんじゃない
いつの日かきみたちがぼくの空想に結びつくことを望む
そしてこの世界はぼくたちのひとつの生となるんだ
<反歌>
やっぱ天国があったりして
たまにそんな気になる
地獄もあるかも
ぼくたちの頭の上には天使の影が射す
想像してくれみんな
ただ地獄に落ちないように生きること
国家はやっぱ不滅よ
想像力はいらない
永久に国家のために殺したり死んだりするのさ
宗教のためにも
想像できないよ
平和に生きるなんて
ああ、きみはぼくをリアリストと呼ぶだろう
でもぼくは誰かが言ったことをいってるんだ
いつまでもリアリストでいるっきゃない
そしてこの世界はいつまでもおんなじなんだ
私有財産のない世界なんてあるわきゃない
想像しなくてもわかる
貪欲なひとびとがうごめきおちこぼれが飢えてくこの世界
結局殺し合いジャン
想像できない
すべてを共有する世界なんて
ああ、きみはぼくをリアリストと呼ぶだろう
でもぼくは誰かが言ったことをいってるんだ
いつまでもリアリストでいるっきゃない
そしてこの世界はいつまでもおんなじなんだ
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