相変わらず、痛ましい事件が繰り返されている。70代のええ年した大人が、50代の十分分別付いているはずの大人が、40代のそれこそ働き盛りが、30代のこれから人生充実しようかという時に、そして20代の自分の未来にワクワクする年代でさえ、さらにはなんと10代の子供でも、自分の感情をコントロールできずに、殺人をおかしたり、子供を虐待したり、簡単に人を刺したり・・・こんな世の中を豊かと表現してもいいのだろうか?
もう、何をここに書いても、きっと伝わらないだろうが、何よりも生きることに対する一所懸命さが無くなってしまっていることが気になって仕方がない。それは贅沢な日々を過ごしてきたからか、衣食住に困らなくなったからなのか、楽してお金儲けしてるヤツを見て、自分がそうでないことを嘆いているからなのか、、、生まれや学歴に左右されて、一般論としての成功、不成功に左右されるあまりに、成功できる人のパターンにはまらない自分に嘆いているのか、、、事実として起っていることがあまりに幼稚で、単純、しかも感情だけで動いているのが気になってしかたない。
人と自分を比較して自分の存在価値を他人の価値観ではかってみたりする、そしてそうでない自分や自分の親や子供、あるいは恋人を手にかけてしまう。
あるいは、力さえあれば、なんでも自分の言うとおりになるものだと思って、すべてを力で押し付ける、言うこと聞かなければ、虐待する。あるいは自分で死ぬ勇気がないのに、人を殺すことは何とも思わない想像力の欠如。
いったいどんな教育や躾をうけてきたらこんな価値判断ができるようになるのだろう。
罪を犯した当事者は当然罪を償わなければならない、自分のやったことの重大さを身にしみて(税金をつかって)教えてもらって、自分の心の弱さに向き合って、その弱いこころと付合う方法をわかって少しずつ大人になる。
一方で、そういう人が育った環境、つまり親などが一番影響力があるのだが、その親も同じように罪を償わなければならない。何を教えたか、何を教えなかったか、何が大事か、また人の心は弱くもろい物であること、簡単に壊れるということ、また子供にとって親は子供の世界観のすべてであるということ、つまり親の存在は子供にとって絶対であることをわからなければならない。
こどもという肉体的にも精神的にも弱い存在を守るのが親。そしてその体と心の育成に責任を持つのが親。けっして良い学校に入れることが親の責務ではない。そういうことを知らなければならない。
この日記でも書いた神戸の少年Aとその両親と家族もその長くつらい償いをしているはずである。誰にどれだけ謝罪しても消えない事実がある。それと同じく、どれだけ周りがゆるしても、自分の心の中に残り続ける罪を犯したという事実。一生逃れられないのだけども、受け入れるしかないのだ。それは子供を失った親が一生、失った子供に会えないのと同じつらさだ。
子供を育てる前に、育てる側の大人が自分自身の価値観を持っているのか、善し悪しの判断や、幸不幸の価値を何に見いだしているのか、人間の心の弱さもろさにどうつきあうことを教えるのか、自分自身にもう一度問いただしてみるべきではないか?
以前、一億総白痴化という言葉があったが、いままさにそうならんとしている様に思える。
一億総幼稚化、気にいらなければ刺す、殺す。価値観は他人に決めてもらってそれで判断する。その価値観から見たときの自分が及第点なら人をいじめてもいい。落第点なら、人生やけっぱちになって、どんどん罪を犯す。
これが白痴化、幼稚化でなくて、なんなんだろう。
もう、何をここに書いても、きっと伝わらないだろうが、何よりも生きることに対する一所懸命さが無くなってしまっていることが気になって仕方がない。それは贅沢な日々を過ごしてきたからか、衣食住に困らなくなったからなのか、楽してお金儲けしてるヤツを見て、自分がそうでないことを嘆いているからなのか、、、生まれや学歴に左右されて、一般論としての成功、不成功に左右されるあまりに、成功できる人のパターンにはまらない自分に嘆いているのか、、、事実として起っていることがあまりに幼稚で、単純、しかも感情だけで動いているのが気になってしかたない。
人と自分を比較して自分の存在価値を他人の価値観ではかってみたりする、そしてそうでない自分や自分の親や子供、あるいは恋人を手にかけてしまう。
あるいは、力さえあれば、なんでも自分の言うとおりになるものだと思って、すべてを力で押し付ける、言うこと聞かなければ、虐待する。あるいは自分で死ぬ勇気がないのに、人を殺すことは何とも思わない想像力の欠如。
いったいどんな教育や躾をうけてきたらこんな価値判断ができるようになるのだろう。
罪を犯した当事者は当然罪を償わなければならない、自分のやったことの重大さを身にしみて(税金をつかって)教えてもらって、自分の心の弱さに向き合って、その弱いこころと付合う方法をわかって少しずつ大人になる。
一方で、そういう人が育った環境、つまり親などが一番影響力があるのだが、その親も同じように罪を償わなければならない。何を教えたか、何を教えなかったか、何が大事か、また人の心は弱くもろい物であること、簡単に壊れるということ、また子供にとって親は子供の世界観のすべてであるということ、つまり親の存在は子供にとって絶対であることをわからなければならない。
こどもという肉体的にも精神的にも弱い存在を守るのが親。そしてその体と心の育成に責任を持つのが親。けっして良い学校に入れることが親の責務ではない。そういうことを知らなければならない。
この日記でも書いた神戸の少年Aとその両親と家族もその長くつらい償いをしているはずである。誰にどれだけ謝罪しても消えない事実がある。それと同じく、どれだけ周りがゆるしても、自分の心の中に残り続ける罪を犯したという事実。一生逃れられないのだけども、受け入れるしかないのだ。それは子供を失った親が一生、失った子供に会えないのと同じつらさだ。
子供を育てる前に、育てる側の大人が自分自身の価値観を持っているのか、善し悪しの判断や、幸不幸の価値を何に見いだしているのか、人間の心の弱さもろさにどうつきあうことを教えるのか、自分自身にもう一度問いただしてみるべきではないか?
以前、一億総白痴化という言葉があったが、いままさにそうならんとしている様に思える。
一億総幼稚化、気にいらなければ刺す、殺す。価値観は他人に決めてもらってそれで判断する。その価値観から見たときの自分が及第点なら人をいじめてもいい。落第点なら、人生やけっぱちになって、どんどん罪を犯す。
これが白痴化、幼稚化でなくて、なんなんだろう。