夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

白い綿帽子の紅薔薇さん・・・平安な心に至る道しるべ (其の1)

2018年02月12日 21時34分04秒 | 真理の言葉
午前6時半頃、玄関前に出て積雪の有無を確認した時には

ほんの薄っすらとしか積もっていませんでしたが、僅か1時間程で真っ白に雪が積もりました。


自然界の現象は時事刻々変化して往き、

幻の如く過ぎ去って往きます。

心もその自然界のように変化して、留まることがありません。

では常に心を静かに平安に保つには如何にすればよいか、

言い換えると『心を自由自在に支配する』には如何に処すべきかが問題なのです。

もし心を自在に支配することが出来るならば

喜びと、健康と、富と、平和とを常にもたらしてくれる事となります。



お釈迦様は、人間はすべて『仏の子』であると説きましたが、

法華経の『仏説観普賢菩薩行法経』に

人間本来の仏性を顕現する方法を説きました



佛、阿難に告げたまわく、・・・・・

普賢の行を学し、普賢を行ぜんと欲する者の為に、

我今當(まさ)に其の憶念の法を説くべし。

若しは普賢を見、及び見ざる者の罪數(ざいしゅ)を除去(じょきゃく)せんこと、

今汝等が為に廣(ひろ)く分別すべし。・・・・・


世尊、而も偈を説きて言(のたま)はく

・・・・一切の業障海(ごっしょうかい)は、皆妄想より生ず

若し懺悔せんと欲せば、端座して実相を念(おも)え

衆罪は霜露(そうろ)の如し、慧日能く消除す



哲学(metaphysics)という言葉はphysics(物理学)と云う言葉に

Meta(超越する)と云う言葉が結合されている。

それ故に哲学は物理学的なるもの以上のものを意味しているのです。


『心』で念ずる想念(ことば)は

一切のものの原因であり、

一切のものはその結果である。

仏教では『三界唯心』と言われ三界(欲界・色界・無色界)の

あらゆる現象はただ『ひとつの心』から現れ出でたものであり、

心を離れては一切のものは存在しないということ云われています。



『注』

普賢・・・仏の慈悲のきわみ。普賢菩薩は慈悲をつかさどり給う菩薩ゆえに
     大悲の行を修するをみな普賢という。

憶念・・・心に念じ、常に思い出すこと。思いつづけること。

罪數(ざいしゅ)・・・ 殺生・妄語・迷妄等の悪行によって生じた苦しみ。

分別・・・人々に理解させるように外見の事物にとらわれないように、

     妄想、実相(本当の姿)とを分けて説く。

業障海・・・悪行によって生じた障害、成仏をさまたげる悪行の世界。

      仏法に入る機縁が熟さない業。

妄想(もうぞう)・・・真実でないものを真実であると誤って考えること。

           ないものをあるとする想い。

慧日・・・太陽のごとき知慧。仏の知慧の無限大なことを、日光に喩えていう。
     
     知慧の日光(法華経)。







   

日本女性の美しい伝統

2018年02月11日 21時04分53秒 | コラム・人文
30年ぶりに図書館に行きました。

美しい文体をしている尾崎紅葉の作品集を妻が読みたいと言いますので岩波書店の本を借りました。

私が図書販売をしていた頃は、古典文学、明治、大正時代の作品集は揃っていました。

岩波書店の尾崎紅葉全集(当時の定価80600円)も25年も前に出版されました。

このような本は現在殆ど出版されません。

殆どの全集ものはその頃出版されたものです。

Amazonでも当時の本は見当たらないようになりました。

私も当時は本を買える経済状況ではなかったので

諫早図書館、県立図書館、森山図書館等の館内で複写し、又は借りて読んでいました。

当時の高価な本が現在オークションで手軽に手に入るようになりました。

図書販売を経験したことが本に対しての知識が蓄えられ、今それが役にたっています。

現在はSNSに適した、法律的な文体、又は白黒と色分けした直情的な表現が発達していて、

日本語特有の細やかな、また言い換えると曖昧な微妙な表現が失われているようであります。


自然な紙に表現された書籍と液晶画面で見る文体とは、違いがあります。


これは致しかないことでもあります。

川端康成氏は新聞雑誌のものをお書きになるときには新仮名遣いでお書きになるのだが、

随筆集の序文は時に歴史的仮名遣いで書かれている。




『その人一人のものとは限らぬ日本の女性なるもの』
                         川端康成  
    


私たち西洋人は西洋のものを真似た日本の映画には興味はない。

『羅生門』のような日本映画がグランプリを得たのは、

それに日本的なもの、日本でなければ見出されないものが表現されているからだ。

                 哲学者ブリエル・マルセル









 

天を相手にせよ・・・天が味方している。 『手を合わせて無垢になり、無心にいのる』・・・神谷光徳

2018年02月10日 20時13分08秒 | 日記・エッセイ
長崎で『栄えるため』の講演会でした。

高菜の生命

雪の重みにも耐え

寒風にも耐えしのぎ

葉っぱを伸び伸びとひろげ

初々しい春の薫りがただよう

逞しい生命の碧さよ



『手を合わせて無垢になり、無心にいのる』・・・神谷光徳




祈りはいつでも、何処ででも出来る。

なぜなら神は常にいかなる時にも

どのような場所でもあなたを祝福しておられる。




賢い人間は国を繁栄に導くことができるが、

また賢い人間は国を滅ぼすこともできる。

それは私心があるかないかで決まる。


松下幸之助


富とは決して貨幣だけの存在ではないのである。

人間にとってなくてはならぬ一切のものは、

それが無形のものであろうと、

精神的な愛情の如きものであろうと、

良き協力者であろうと、

良き同士であろうと、

それらを有(も)つことは、すべて富を持つことなのである。

私は神の子であるから、毎日毎日、

必要なる一切のものを富として与えられているのである。

私は今すでに無限の富者である。







純愛と裏切りもの・・・意識の底の叫び

2018年02月09日 23時34分13秒 | 誌編

純愛と裏切りもの


壁の向こうにいる私と和解するならば、

私は心、穏やかにいることが出来よう。

壁の向こうにいる私は理解し難き存在である。

壁の向こうにいる私は裏切りものであり、

赦すことが出来ない私であるからである。

壁の向こうの裏切り者の叫びが木霊する。

この裏切り者は誰なのか!

裏切りものは知っている。

私のそばにいる貴方だ。

貴方の姿も見たくない、

貴方の声も聞きたくない。

貴方の装いも消し去りたい。

私の身を貫き通す、

貴方の烈しい炎の塊に身をよせたいの!

私の憧れは、私のすべてを焼き払い、

あの聖なるエンゼルに魂を奉げたいの!

それがどうして出来ないの

それは貴方の裏切りからなのよ!



神様は決して

吾々に苦しい試練なんか決して与えられないのであります。

自分自身の潜在意識が、

自分で自分を苦しめているのが、

人間すべての不幸の原因なのです。












もう一人の私・・・二重人格・多重人格・憑依現象

2018年02月08日 22時04分11秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
もうひとりの自分はどんな人間だろうかと思う時があります。

もう一人の潜在意識の自分は観ることが出来ない。

しかし幽かに観じることが出来る。

潜在意識を貫いた奥深いところにまします『神の御愛』。



二重人格・多重人格・憑依現象


心理学的に分析する場合と神霊学的な憑依現象とにとらえる場合があります。



心理学的に於いては

烈しく亢進している私と、落ち込んでいる私、

笑っている私と、怒っている私のように人には二面性があります。

しかし三面、四面性と多数の面性がある人が存在します。

誰でも笑っている時の私は、怒っている私を、はっきりとは認識してはいません。

またこの反対の時も同様であります。

しかし心が平静な心の時には、笑っている心も怒っている心もどちらの心も認識出来て、

その意味合いも理解できます。

大概の人はこの相反する両面の心を動揺することなく認識出来ます。

この相反する心を認識出来ない時に、

不安状態が現われ烈しく亢進したり、落ち込んだりします。

これは相反する二つ心の間に『心の壁』が出来て、通じ合う連絡口がないのです。

だから互いの自分を理解出来ないで、また知るよしもないのです。

一面の心の状態(性格等)が、他の一面の心状態(性格等)を認識・理解が出来ませんので、

自分自身の全体像を把握したり、観ることが困難となります。

自分自身で意識の関門、

または意識の検閲官を創りだして抑圧しているからです。

他の人が観察するとこの人物は二人の人格の人が存在していると見られます。

このような状態を二重人格的な性格といわれています。



神霊学的な憑依現象の場合。

ある人に他の人格がのり憑依(うつ)て色々の行動をして、言葉を発するのです。

その人格が去って元の人格に復帰した場合は、

元の人格は、他の人格が憑依(うつ)てその肉体の脳髄を使って色々の行動をして、

話したことについては全然記憶がないのである。

憑依した霊が行動し、話したことが脳髄に記憶が存続しなければならないのに

元の人格は、その記憶が全然存続していないことをみれば

脳髄はただ肉体の機関であり、

記憶が出入りする門にすぎないのです。

記憶そのものをもっているのは脳髄の背後にある、

物質を超えた世界にある『霊智者』そのものなのです。

感情の昂奮、恐怖心などによって精神が混乱状態によって起こる障害を

取り去ることによって、殆どすべての記憶が潜在意識の世界から、

現在意識の世界へ浮かび上がらせることができるのです。

それ故に蓄えられた記憶は喪失することなく来世にもちろん、

何代も存続するのです。

だから数代前の記憶が現われて来るのです。





瑞々しい鎮守の森のクスノ木・・・『恵みの水』の有り難さ。

2018年02月07日 22時35分30秒 | 自然の育み・環境
年休をとり午後から神社参拝に来ました。

青空が澄み切り風もなく、

豆まきも終わり静かな境内でした。

明治以前は神社と大きな真言宗のお寺が

同居している典型的な神仏混合の神社です。

神社の境内に寺の蓮池があり其の当時の名残が残っています。


人類が文字を使い始めた起源前に『水』は自然や社会の基礎として、

また深い哲学的、宗教的にも認識されていました。

仏教では『地・水・火・風』四大種、中国の陰陽五行説の『木・火・土・金・水』、

エンペドクレスは四元『太陽・天空・大海・大地』と

これらの元素の循環により『ものごと』が成り立つとの宇宙観が認識されていました。

古代の人々は、水は万物、大自然を支え社会全体を結ぶものとして、

社会的役割を果たし、乾燥地帯の人などは洪水さえも害としてとらえるのではなく、

地力を高める偉大な恵みとして認識していました。



日本のすべての土地には祖先の労働の歴史が刻みこまれている。

現代の『水力社会』、『水田農業』は灌漑水による養分の供給、

土壌の還元化による地力の維持、肥料効果の調整、雑草の抑制さらに水稲の連作の実現など、

世界的にもきわめて優れた性質ももっている。

米の栄養価は他のいかなる穀物よりも高い。

これ等の優れた条件により、『水田農業』は国民生活の中心的な役割を果たしてきました。


『農業用水』は工業用水や都市用水とは異なり、

上流の水田から下流の水田へと繰り返し『循環利用』される。

モンゴルなどの牧畜民族は自然生態系と一体となって生活をすることにくらべ

農耕民族は気象、天文、土木など水の利用の為の知識が求められ、

科学技術に基づく文化が創造されました。

また反面社会生活も水に制約されることになりました。



私共の地域にも直ぐ側に灌漑用の『小倉ダム』と云う小さなダムがあります。

此処の水は5K先の長崎県で一番広い平野である『諫早平野』の灌漑水として利用されています。

この平野の先に有明海があり、今問題になっている『諫早湾干拓堤防』があります。

また故山下弘文さんが干拓地の干潟の保全を訴えておられました。

この堤防が出来る前は市の中心部の近い処まで、雨期や大雨のなどの時には毎年『床下浸水』がありました。



水のダイナミックな流れは地球のすべてに恵みを与え、

すべての塵を流し去り、大いなる大海へと還流します。

そして『森』は水を必要としていて、また『水の循環』の要として存在しています。

この水はある時は穏やかなセセラギ、オアシスとして、ある時は雷雨ともなり、

すべてをおし流す濁流ともなり、七変万化して私たちに恵みを与えてくれます。

『水』のキーマンとなる『森の保全』は地球規模においても

必要かつ成し遂げなければならない課題であります。

わが国は代々の天皇陛下みずから植樹祭で植林をなされています。

『自然を愛する心』、『植林の思想』が古代より定着しているわが国はありがたいことです。

先人の知恵と努力で現在の『森』が存在します。




山々のたたずまい、雲の行きかい、風のひびき、水の流れ ― 

ことごとく観世音菩薩の慈悲の説法である。

神の愛は静かに振りそそぐ夜露が、すべての植物をうるおして生気を与えるように、

静かに音もなく、目立つこともなく万物を生かす、万物を生かしながら、

自分が生かしてやったという顔すらしないで、朝がくれば消えて行くのである。





 

『清明心』・・・きよくあかきこころ。『人間は明神(かみ)のタマシイをうけている』

2018年02月06日 22時35分28秒 | 日記・エッセイ
気温が低い日が続き、雪が時折ちらついています。

リハビリに通っている友人宅で『お勤め』をして来ました。

友人は顔色もよく、元気で明るく笑って普段の気持ちが戻っていました。

お話をさせて頂きました。

肉体はいずれ滅び去る運命であり、

来世には持ち来たすことは出来ません。

肉体よりもなおいっそう大切なのが『心の清明』さです。

肉体は永遠のものではありませんが、

心の清明さは来世にも持ち来たすことが出来、

永遠に生きつづけて行きます。



神道に『清明心』を歌った言葉があります。

日本人が古来より大切にしてきた心根です。

神火清明(しんか せいめい)

神水清明(しんすい せいめい)

神風清明(しんぷう せいめい)


この言葉は暗きもの、穢れ等を祓う真言です。

心が清いだけでは足りないのです。

もっと大切な『明き心』が必要なのです。

心の明るさのなかに清きものがあるのです。


心は即ち神明の舎(みあらか)、

形は天地と同根たり

人間は明神(かみ)のタマシイをうけて、

この世に出生したものである。

人間の最も尊いのは自分の魂(こころ)である。

このことを考えると、人間の魂(心)こそは、

神明(かみ)の魂の寄っているところである。

又人間の形にしても、天地の生気を受け、

その元素は天地の元素と同じであることを考えると、

天地と同じ根につながり、天地と同体だといえる。

人間の心も身体も天地と離れて存在し得ない以上、

神も天地も人間も同体だといえる。

                   吉田兼倶(よしだかねとも)・神道大意






あなた自身の神秘を讃えよ。・・・アメリカインデアンの聖なる言葉

2018年02月05日 22時02分03秒 | コラム・人文
小学生時代には佐世保に住んでいました、所謂基地の町でした。

朝鮮戦争後の間もない時でしたので、

子供目線で見るとアメリカの海兵隊の存在が圧倒していました。

子供にとっては恐れと緊張感がありました。

しかし大きな航空母艦、セーラー服など格好が良いなと思う一面もあり複雑な気持ちでした。

この頃父親のコネで沢山の洋画(アメリカの西部劇、チャップリン主演等)を見ていました。

しかしフランスなどのヨーロッパの洋画は白黒が多いのと、

画面が暗いイメージがあり、また理屈ぽいところが有り、あまり見ませんでした。

全てが日本語の字幕スーパーでした。

今、思うと西部劇等の英語は学校で教える英語とは違っていたようです。

歴史は繰り返すと言われますが、現在その時と同じような状況に佐世保が置かれているようです。

基地は人間の欲望が渦巻いている状況でありながら、

ある意味で人生を背水の陣をひいて生きている人間の覚悟と純粋さが見られ、真剣さがあります。



『アメリカインデアン』も大自然と共に生き、

その大自然から学びとった知恵は

イエスの愛と仏陀の慈悲とも同じであり素晴らしい言葉の力であります。



心配ごとは未来にあるのだから、

あなたがなすべきは

現在に立ち戻ること。

あなたが未来にいることに気がついたら

心配ごとのスイッチを切って

『今』に生きなさい。


自己のざわめきをしずめ、

人生の枕に頭を休めよ。

耳をすませば

創造者の鼓動が聴こえる。

あなたの魂の

洞穴や洞窟を探って

あなた自身の神秘を讃えよ。


                   アメリカインデアンの聖なる言葉






祇園会と『アユ(鮎)』・・・京の夢 江戸の粋 大阪の味

2018年02月04日 20時08分18秒 | 日本の食文化
この南国にも冷たい雪が降りだしました。

週明けも雪が降る予想です。



京都は年間に祇園祭り、葵祭り等伝統がある祭りがあり、

また其のほかにも色々な茶道の家元、寺院の茶事、旧家の茶事等の催し事があります。

其のたびに『茶懐石料理』が提供されます。

その為京都は『茶道』の隆盛と、ともに『茶懐石料理』も重用され、今日至っています。

日本の茶懐石料理はただ単に五官の感覚を満たすだけではなく、

その祭りの歴史的な意義、歴史、書、絵画、茶道、華道、俳句、短歌、

食材の一番の旬、出盛り、出終い等の微妙で、繊細な季節感、

日本の精神、文化等に熟達していなければなりません。

それを理解した上で献立を創作しなければなりません。

その茶懐石料理も殆どが裏千家をはじめ、寺院、

家々の茶事にあわせて出張してその現場で調理され提供されます。

京都には茶懐石料理専門の仕出し料理店が沢山あります。

京都弁の『はんなり』も淑やかで、優しく明るい心を表現した言葉です。

その『はんなりの』心根も茶懐石料理に反映されています。

此の『茶懐石料理』を基本にして

宴会の場では『会席料理』として一般の料理店で提供されます。




祇園会と『アユ(鮎)』


神功皇后が釣りをして戦勝祈願の占いをなされ、

その時アユが釣りあがった故事から『鮎』という漢字が生まれたそうであります。

琵琶湖の北岸に一尾のアユから十万以上の無数の卵がかえり、

その岸で稚魚は育ち、雪やみぞれの降る寒い季節に湖面からすくい上げられ、

『氷魚(ひうお)』と呼ばれ塩茹でにされて京の市場に並べられました。

アユの美味しさが本格的な旬は梅雨明けの七月からであり、

別名『香魚』と呼ばれているアユはこの旬の季節は香りがひと際高く

『タデ酢』でいただく塩焼きは

祇園会の夏の素晴らしい美々なる料理であります。

京都のアユは紆余曲折のある丹後保津川下りの流れが上々のアユで、

アユ桶に泳がせて京に運びました。

『茶懐石料理に変った珍しいごちそうをしようと思ってはなりまへん。

季節の旬の最高の材料を選んで、それを心をこめて調理するのが一番大切なことで、

目先で喜ばす料理は、味がおちますがな、

七月にはアユの塩焼き、

十一月の炉開きは、まながつおの『幽庵焼き』がおいしいにきまっています』と

茶事を開催される麩屋町の主人は変化のある献立ではなく

季節の旬の素材を生かして、簡素に調理することを命題にしていました。

この様にアユ料理ひとつとっても鮎の生まれた稚魚から五月の青年期、六月の解禁期、

そして梅雨明けの七月が香魚にふさわしい香りを放つ時期がアユの一番の出番であります。

このようにアユの一生を理解して献立を創作しなければなりません。

七月が京都の三大祭りである祇園会があります。

香魚に相応しい『アユの塩焼き』の時期が、祇園会が開かれる時期と重なります。

是が『出会の料理』と呼ばれています。

人間知恵で出会わせるのではなく

自然の知恵に遵って、出会うことが茶懐石の真骨頂であります。



私も二十代の頃、祇園街で料理に携わっていました。

京都の町家は天井が低く、門口が狭く奥深いのが特長です。

しかしその奥深い路地に入りますと、その細長い路地を利用して玄関までに

飛び石や植込、生垣で洗練された『露地』が続いています。

京都人の知恵であります。

そして打ち水の習慣があります。

京都では料理よりも九州出身でしたので言葉のアクセントを指摘され、言葉の発音で苦労しました。

特に高級店のカウンター席でのお店で、舞妓さんや京都の実業家の社長さん等が客筋でしたので

京都独特の言葉の言い回し、物腰を身に付けるまで大変でした。



京の夢 江戸の粋 大阪の味




魚を食する場合

魚は殺されるの嫌って逃げる。

逃げるもの追って捕まえて殺して食べることは愛にそむくことであります。

しかしながら自然の調節の問題がある。

魚一尾から何十万という産卵をする、そして稚魚の間は、殺されても痛覚神経が発達していない。

それは私たちの髪の毛や爪などがそうであります。

だからなるべく稚魚のようにあまり大きくならない時に食したらよいのであります。

        
『注』
                  幽庵焼き・・・醤油・酒・味醂(砂糖でもよい)を混合したタレに魚に振り塩をして、
                         二十分程して水洗いして、布巾等でふきあげて塩止めをする。
                         魚と柚子等の柑橘類を輪切りしてパット等の中に漬け込み焼いたもの。







『永遠を今に生きる』温泉の優しさと神秘。

2018年02月03日 21時59分59秒 | コラム・人文
地球の地下の深いマグマと作用して

600万年という気の遠くなる時間をかけて、地中を潜り抜け

『今』此処に噴出す有馬温泉の神秘の源泉。

まだ氷河期以前のことであり、

人類がまだ地上に登場していな600万年前のホットな時代を味わえる温泉。

世界に稀にみる温泉。

今眺めている星雲の輝きは、何億劫万年前に発した光を

『今』此処に見ていることと同じであります。

まさに久遠を『今』に生きている、温泉の優しさ、星雲の神秘です。

人間も此の温泉、星雲に決して劣ってはならないのであります。

人間も久遠の『今』を生き続けているのです。





時間・空間を超えた無量無辺の無限の世界の真理を説かれた。

法華経の最大最勝の如来寿量品。



然るに善男子よ、われは実に成仏してよりこのかた、

無量無辺百千万億那由他劫なり、

譬(たと)えば、五百千万億那由他劫阿僧祇の三千大世界を、

仮使(たとい)、人ありて抹(す)りて微塵となし、

東方五百千万億那由他劫阿僧祇の国を過ぎて、

乃ち一塵を下し、かくの如し。

                      
                           法華経 如来寿量品十六















愛と慈しみと赦し・・・仮面と影の分裂は癒され愛の花が咲く。

2018年02月02日 22時16分36秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
相手の苦しみは我が苦しみである。

相手の悲しみは我が悲しみである。

相手の憎しみは我が憎しみである。

相手の怒りは我が怒りである。

相手の喜びは我が喜びである。

相手の幸福は我が幸福である。



相手を『思いやれる心』、相手と『共感できる心』によって

私たちは、苦しみ、喜び、悲しみ、情熱であれ

自ら進んで他の人々とこれ等の経験を共にすることが出来る。


その『思いやれる心』が生長していく過程で、人間は個々が別々の存在ではなく、

本来一つに結ばれた存在であることを理解します。

これが『慈しみの心』であります。


仏教の教えの中心にあるものは、キリスト教の精神と同じであるように、

『慈悲』の実践です。

霊的な生活とはイエスはまず神を愛しなさい、つぎに自分が生きている基盤を理解し、

隣人を自分と同じように愛しなさい。

これは他者への慈しみの心である。

他の人と苦しみを分かち合う時、

私たちは苦しみ、悲しみが『愛』と変る神秘を体験します。


『慈悲』は私たちに人生を生き続けるための[ 喜び] を与えてくれます。



両足の無いハンセン病で苦しんでいる患者が泥の中を這って司祭のところに来ました。

司祭はハンセン病で苦しんでいる彼の手をとり、

どこが痛いですかと尋ねました。

その患者は答えました。『いえわっしじゃねえんです。となり居る奴の具合が悪いんで!』と。

両足が無い男は苦しんでいながら、司祭には何一つも自分の苦しみを訴えないで、隣人のことだけ心配していた。

『惨めさの世界と一緒になっている限り、悲惨地獄を逃れる道は無い』と。

                          インドの諺



赦しは『慈しみの心』を実践して行く過程で成就する。


慈しみの心』と『赦し』は自分の過ちから生み出した苦しみ、

あるいは他の人から傷つけられた為に受けた苦しみを、

心理的、精神的そして霊的な生長の糧へと変えます。

『赦しの心』を身につけた時、それまで自分の自我がたえず必要としていた自分、

他への批判の必要性を解き放ってしまうので、幸福と平安を得ることになります。

『赦し』は自分の主張を誇示するための行為でも、

相手の行動を大目にみてやる行為でもありません。

たとえ自分を傷つける行為を受けても、

そうするに至った相手の深い苦しみを理解してあげられるのなら、

私たちは他の人々の苦しみをともに分かち合えます。

その時自分は『慈悲ある者』となっています。

自分自身の赦しは自分が為している行為の向こうにある、

『自分の影』を受けいれることです。

自分自身の全体像を知る努力が必要です。

過去の傷はぬぐい去ることも、やり直しもききません。

しかし其の傷が私たちに与える苦しみ、悲しみ、憎しみの感情こそが

癒しをもたらしてくれる『超越の種』なのです。

私たちの苦しみ、悲しみ、憎しみ、嘆き等の感情は幸福と平安への道への『種』となります。

平安の道の『種』である、苦しみ、悲しみ、憎しみ等の『因縁のもと』を赦し、

その因縁のもとに『慈しみの心』を抱き、そして積極的に『感謝の心』を起すことです。

すると執着の心が解き放たれ自由自在の世界へと誘われます。

此のことがイエスの愛であり、仏陀の慈悲であります。






月、常に生じて、固(もと)より、性出没すること無きなり。(涅槃経) ・・・それ故に吾々は肉体の死を、悲しむにはあたらないのである。

2018年02月01日 19時51分52秒 | コラム・人文
次女の誕生日であります。

生まれた当時は南国にしては稀にみる大雪であり、

早朝に産気づいて慌ててタイヤチエーンを取り付けましたが、

確りと装着出来ていなかった為に新車のタイヤの周辺が傷だらけになりました。

若い時であり焦りました!

明治五年12月までは太陰暦であり、

それまでは『月』は現在より身近な存在であり生活にも定着していました。

また『月』の存在は日本人特有の詫び寂びの繊細な心に通じていて、

ロマンチックでもあり万葉集などの歌にもよく取り上げられています。

科学が発達して月のイメージがメカニックな見方で捉えられようになりましても、

やはり宇宙の神秘である月の存在は人々には魅力的であり感銘を与えるようであります。


天の海に 雲の波立ち 月の舟 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ

                              万葉集7-1068 柿本人麻呂

久方の 月夜を清み 梅の花心開けて 我が思える君

                                万葉集8-1661紀小鹿女郎(きのをしかのいらつめ)
 
人間は理念であるが故に常に死滅することはない。

機縁に触れてより一層その『理念』の内容を完全に表現し、

機縁に触れて病み、かつ傷づけるが如く現われる。

釈迦は仏性に滅不滅なきこと、『其の月常に生じて、固(もと)より、性出没すること無きなり』と言っている。

                                        涅槃経 月喩品第15
それ故に吾々は肉体の死を悲しみにはあたらないのである。