夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

柔軟心の大切さ・・・柳のようにしなやかで柔らかい心で生きよう!

2018年02月20日 23時02分51秒 | コラム・人文
一日たりとも普段の心(現在意識)の思い通りに過ごしたことが無い。

しかし実は隠れている心(潜在意識)が計画した通りに過ごしているのです。

思い通りに為らない事実を謙虚に受け止めねばならない。

その事実を基とにして再び立ち上がらなければならない。

よそ見をしないで、つまずいた処から出発しなければならない。

そのつまずいた処に、立ち上がる為の大いなるヒントがある。

すべてのことは神が導き給う知恵である。




草の庵に ねてもさめても まをすこと 南無釈迦牟尼仏 あはれびたまえ 

道元禅師の悲願の歌であり、一心で貫き通し、すこしもよそみをしない歌である。



にほの海や 矢橋の沖の 渡し船 おしても人に あふみならば

道元法師(道元禅師) 恋の歌

十三歳で出家して以来、只管打座(座禅)の生活をした聖僧道元に恋の歌があるというこの不思議さ。

親鸞ならエロスの神とも大いに交渉があったのだから納得できるけれども

道元ではそのことは考えれられないのです。

人に逢うという言葉は、道元が口ぐせのように使った言葉なのです。

人に逢うとは、

道を伝える人、

道を継ぐ人、

道を求める人、

即ち真実の人に逢うということである。

人に逢うことは道元の生涯の悲願であったのです。

真に道を求める友にめぐり逢いたい、

真に仏法を得た師にめぐり逢いたい、

真に仏法を伝えるべき弟子にめぐり逢いたい。

これが発心、修行、正悟の時期を貫いての生涯の願いであった。

この願いは人を『恋ふる』ことである。

その恋の対象が必ずしも異性でなく、

男にせよ、

女にせよ、

百歳の老人にせよ、

十歳の童児にせよ、

万難を超えてその人に逢わずにはおかないという切なる思いなのです。

『正法眼蔵』の『礼拝得髄(らいはいとくずい)』にこのことを情熱ももって書き残しているのです。

恋の歌という言葉を前にして、昔の坊さんが当惑した様子が目に見えるようです。

禅師の徳を傷つけんことをおそれた気持ちも理解できます。

道元法師はそんな『固い心』の持ちぬしではなかったのです。

宇治興聖宝林寺の開堂に『柔軟心』とある。

『恋ふる』とは魂と魂が一層高い立場で一体となる精神の動きである。

本居宣長は『もののあはれ』を『まことごごろ』にあるとし、

その『まことごごろ』が一番よく現われるのが『こひ』であるとした。

僧たる者は『人情を捨つべし』とあれほど説いた、

大悟の道元禅師が悲しさや嬉しさを歌に詠んでいることは、

道を求める人にとっては例えがないほど重要なことである。

                                            田中忠雄

                          
濁りなき 心の水に すむ月は 波もくだけて 光りとぞなる 

                                                     道元禅師

私はこの歌を、心を浄まして、奥深いに処に既に存在している実相心(本当の姿)で観ると、

波で荒れ果てている世界も

その奥に只ただ光り輝く真実の世界である仏(ほとけ)の姿が現われてくる。

と理解したいと思います。



『注』

宇治興聖宝林寺・・・道元禅師創建の日本曹洞宗最初の寺院。
正悟(しょうこ)・・・正しい悟り。