夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

愛と慈しみと赦し・・・仮面と影の分裂は癒され愛の花が咲く。

2018年02月02日 22時16分36秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
相手の苦しみは我が苦しみである。

相手の悲しみは我が悲しみである。

相手の憎しみは我が憎しみである。

相手の怒りは我が怒りである。

相手の喜びは我が喜びである。

相手の幸福は我が幸福である。



相手を『思いやれる心』、相手と『共感できる心』によって

私たちは、苦しみ、喜び、悲しみ、情熱であれ

自ら進んで他の人々とこれ等の経験を共にすることが出来る。


その『思いやれる心』が生長していく過程で、人間は個々が別々の存在ではなく、

本来一つに結ばれた存在であることを理解します。

これが『慈しみの心』であります。


仏教の教えの中心にあるものは、キリスト教の精神と同じであるように、

『慈悲』の実践です。

霊的な生活とはイエスはまず神を愛しなさい、つぎに自分が生きている基盤を理解し、

隣人を自分と同じように愛しなさい。

これは他者への慈しみの心である。

他の人と苦しみを分かち合う時、

私たちは苦しみ、悲しみが『愛』と変る神秘を体験します。


『慈悲』は私たちに人生を生き続けるための[ 喜び] を与えてくれます。



両足の無いハンセン病で苦しんでいる患者が泥の中を這って司祭のところに来ました。

司祭はハンセン病で苦しんでいる彼の手をとり、

どこが痛いですかと尋ねました。

その患者は答えました。『いえわっしじゃねえんです。となり居る奴の具合が悪いんで!』と。

両足が無い男は苦しんでいながら、司祭には何一つも自分の苦しみを訴えないで、隣人のことだけ心配していた。

『惨めさの世界と一緒になっている限り、悲惨地獄を逃れる道は無い』と。

                          インドの諺



赦しは『慈しみの心』を実践して行く過程で成就する。


慈しみの心』と『赦し』は自分の過ちから生み出した苦しみ、

あるいは他の人から傷つけられた為に受けた苦しみを、

心理的、精神的そして霊的な生長の糧へと変えます。

『赦しの心』を身につけた時、それまで自分の自我がたえず必要としていた自分、

他への批判の必要性を解き放ってしまうので、幸福と平安を得ることになります。

『赦し』は自分の主張を誇示するための行為でも、

相手の行動を大目にみてやる行為でもありません。

たとえ自分を傷つける行為を受けても、

そうするに至った相手の深い苦しみを理解してあげられるのなら、

私たちは他の人々の苦しみをともに分かち合えます。

その時自分は『慈悲ある者』となっています。

自分自身の赦しは自分が為している行為の向こうにある、

『自分の影』を受けいれることです。

自分自身の全体像を知る努力が必要です。

過去の傷はぬぐい去ることも、やり直しもききません。

しかし其の傷が私たちに与える苦しみ、悲しみ、憎しみの感情こそが

癒しをもたらしてくれる『超越の種』なのです。

私たちの苦しみ、悲しみ、憎しみ、嘆き等の感情は幸福と平安への道への『種』となります。

平安の道の『種』である、苦しみ、悲しみ、憎しみ等の『因縁のもと』を赦し、

その因縁のもとに『慈しみの心』を抱き、そして積極的に『感謝の心』を起すことです。

すると執着の心が解き放たれ自由自在の世界へと誘われます。

此のことがイエスの愛であり、仏陀の慈悲であります。