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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

書籍 『天路歴程 正篇』 ジョン・バニヤン

2007年07月16日 | Book
キリスト教作家ジョン・バニヤンによって1678年にイギリスで執筆された書籍『天路歴程 正篇』を読みました。著者がプロテスタントとしての立場を表したものとして、非常に有名な著作です。

たしかに信者にとってはこの本は魅力的な本かもしれません。人間の様々なダークな側面を表す登場人物と、主人公である基督者とを対比させ、真の信仰とはどのようなものかを読者に分かりやすく説きます。

信者ではない僕から見ても、この本は今の時代において何かとくに新しい神学的視点をもっているわけではないと思います。ただ著者は愚直に、人間の狡さ・卑怯さ・不誠実さを様々な登場人物を通じて描きながら、それとの対比で、ただひたすら誠実に神のみを信じ、現世的価値に執着しないことの尊さを描きます。


『天路歴程』においては、肉親への愛情以上に神への忠誠が重んじられることは、おそらく有名なことなのでしょう。その二つを天秤にかけるとき、神への忠誠が重視され、それに比べれば肉親との関係は一切顧みられるべきではないことは、当時のキリスト教徒にとっては、この著者が述べるほど当たり前のことだったのでしょうか?たしかにそういう態度は、新約聖書の記述でもあるように、イエス自身が示したものでもあったけれど。

このあたりは、キリスト教道徳の支配が根深いと言われている現代のアメリカにおいて「家族の価値」が強調されることを考えると、興味深くはあります。一体いつから、キリスト教道徳と家族の価値とが結びつくようになったのでしょうか?

『天路歴程』は、神の啓示を受けたある男が、村を飛び出して、救いを求めて「天の都」へと向かって放浪する旅を描いた寓話です。その過程で男は、様々な困難に出会い、またキリスト教の視点から見て不誠実な男たちに出会う中で、真の信仰とは何かを理解していきます。

読んでいて感じさせられるのは、その辛辣さ。同じ人間に対する不寛容の姿勢です。

著者は、キリスト教の神への信仰は、現世的な享楽や怠惰を通しては得られず、現世的な価値―家族の愛情や富、肉欲―を捨てて、ひたすら「神」が存在することへの祈りが必要であることを説きます。彼にとっての信仰とは、自らの卑小さ・罪深さの自覚と彼岸に住む神への畏敬の念という心的態度のことを指します。

しかしそれは心的態度であると言っても、心持ちを変えればすぐに達成されるというものではなく、自分の中にある傲慢さや怠惰を克服した上で、“真実に”神の僕(しもべ)という状態を達成することによって初めて獲得されるものです。

福音を呼ぶ罪の自覚

この寓話の中で、敬虔とは程遠い人間類型を著者が示すために登場させる多くの人物の一人に「饒舌者」という男がいます。キリスト教への篤い信仰を語るこの男のことを、主人公である基督者は一緒に旅をする「信仰者」との会話の中で厳しく批判します。またその中で、信仰する上で留意すべき点をも述べます。

「「彼らは言うだけで、実行しない」ということわざを思い出してください。しかし、「神の国は言葉ではなく、力である」ですね。祈りとか、悔改めとか、信仰とか、新生とか語りますが、彼(饒舌者のこと―引用者)はただそれらを話すことしか知らないのです。…彼の家ときたら、宗教は空っぽで、卵の白味に味がないようなものですね。そこには祈りもなければ、罪に対する悔改めもありません。この饒舌者は、できれば、彼ら(=饒舌者と取引のある人たち―引用者)をしのぎ、騙り、騙し、出し抜くのです」(p.151-2)

「魂のない肉体が屍に過ぎないように、言葉もそれだけならば、やはり屍です。宗教の魂は実行の面にあります。「父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない」ですからね。このことに饒舌者は気がつきません。聞いたり話したりするだけでりっぱなクリスチャンになれると思って、自分の魂を欺いているのです。聞くのはただ種をまくようなものです。話すだけでは、実がはたして心と命のなかにあるかを証するのに足りません。「最後の裁きの日には人々その実によって裁かれるであろう」とあるのを確信しようではありませんか。そのときにお前たちは信じたかとは聞かれないで、実行したか、それともただ語るだけだったかと聞かれて、それによって裁かれるでしょう」(p.154)。

「パウロはある人々を、いや、あのお喋りな連中のことも「やかましい鐘や騒がしい繞鉢」と呼んでいます。つまり、…「命なくして声を出すもの」と呼んでいます。命なきものとは、つまり、福音の真の信仰と恵みがないもの、したがって、たとえその話すときの音が天使の言葉や声のようであっても、天国において命の子供たちと一緒には決しておかれないようなものです」(p.155)。

では、そのような「命」、「福音の真の信仰と恵み」はどのようにすれば得られるのか。それは、上でも触れたように、また多くのクリスチャンが言うように、自らの卑小さ・罪深さを自覚し、謙虚になることによってです。この本の中では、分かりやすい不敬虔な人も出てきますが、むしろ著者が強調しているように見えるのは、上の「饒舌者」のような、キリスト教を語りながら、その存在はキリスト教の精神を体得していないと著者がみなす人たちと、“真の”キリスト者との違いです。

主人公の「基督者」は、信仰における罪の自覚の大切さを次のように述べます。

「魂における恵みの働きは、それを持っている者か、または側にいる人に現れます。…それは彼(恵みの働きを持っている者 引用者)に罪、とくに、自分の性質の汚れていることと不信仰の罪とを自覚させます。…物事をこのように見て感じることが罪に対する悲しみと恥ずかしさの念を心の中に起こさせます。その上、彼は世の救い主が自分の中に啓示されていることや、また命のために彼に従うことが絶対に必要なことが分かって、彼を飢え乾くように慕うことを感じます。その飢え渇きに対しては約束が与えられています。さて、彼の救い主に対する信仰の強いか弱いかによって、喜びと不安、清さを愛する念、主をもっとよく知りたいという願い、またこの世で主に仕えたいという願いに強弱があります」(p.160)。

このような自身の罪の自覚により、自分の卑小さと、神とイエス・キリストの偉大さへの認識が生まれます。自らが罪深いからこそ、人々の罪を許すために人類の罪すべてを引き受けて十字架に掛けられたイエスの行為の偉大さが分かるようになります。基督者に天の都への旅の同行を許された数少ない人物の一人「有望者」は、そのような体験を語ります。かなり長くなりますが、引用します。

「ある日のこと、私はひじょうに物悲しくなりました。今までの何時よりも悲しかったと思います。そしてこの悲しさは、自分の罪が大きく汚れていることが今さらのように分かったからです。そして私はそのとき地獄とわが魂のとこしえの滅びのほか何も期待しませんでした。突然…、イエス・キリストが天から私を見下ろして、「主イエスを信じなさい。そうしたらあなたは救われます」と言われるのを見ました。
 しかし私は、主よ、私は大いなる、実に大いなる罪びとですと答えました。するとそれに対して、「わたしの恵みはあなたに対して十分である」と言われました。そこで私は言いました、ですが主よ、信じるとはどういうことですか。すると「わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じるものは決して乾くことがない」というみ言から、信じると来るとはまったく一つの事であって、来る者、すなわち心と愛情とでキリストの救いを求めて駆けつけた者は実にキリストを信じるものであるということが分かりました。そのとき私は目に涙を浮かべてなおも尋ねました。しかし主よ、私のような大きな罪びとでも本当にあなたに受け入れられて救われるでしょうか。すると彼が言われるのを聞きました、「私は来る者を決して拒みはしない」。そこで私は申しました、しかし主よ、私があなたのところに参ります時、あなたに対する私の信仰が正しくあるようにするには、どういうふうにあなたを考えるべきでしょうか。すると彼は言われました、「キリスト・イエスは、罪びとを救うためにこの世に来てくださった。彼はすべて信じる者に義を得させるために、律法の終わりとなられた。主は、私たちの罪過のために死に渡され、私たちが義とされるために、よみがえらされたのである。主は私たちを愛し、その血によって私たちを罪から解放された」(p.252)。

上で紹介した「饒舌者」と共に批判される人物の一人に「無知者」という者が出てきますが、彼が批判される理由も、この罪の自覚のなさが挙げられます。その他の登場人物が信仰心を表明しないがゆえに批判される、分かりやすい不敬虔な者たちであるのに対し、「饒舌者」や「無知者」は、彼ら自身は信仰を表明し、また自らもそう信じているにもかかわらず、著者によって非キリスト者であると断罪されます。その理由はやはり、彼らの自身の中の罪深さを自覚しないことにあります。基督者は、自身の罪深さの自覚こそが、自らの考えと神のそれとを一致させる絶対の道であると「無知者」に教え聞かせます。

「神のみ言は生まれながらの状態にある人間について「義人はいない、ひとりもいない」と言っています。それはまた「すべてその心に思いはかることが、いつも悪いことばかりであるのを見られた」と言っています。さらにまた「人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである」とも。さて、私たちがこのように自分について考えて、それを意識するならば、その時こそ私たちの考えは神のみ言と一致する故に善い考えです」(p.257)。

「無知者」は、自分はいつも「よい考え」をもち、善い心をもち、その心は天国への希望をもち、自らの心と生活(行為)が一致していることを表明します。基督者はそのような「無知者」の表明を、独り善がりの思い込みと一蹴します。

基督者にとって無知者の問題点は、そのように自らに義があると考えるその一点に集約されます。イエス・キリストを信じるとは、イエスが民衆の罪深さを一身に引き受けて十字架に掛けられる罰を選んだことを認識し、それはすなわち僕である自分たちが罪深いことを自覚することを意味します。言い換えれば、自ら自分は善い心をもつと述べる者は、イエスが行った行為の意義を認めない者であることになります。

「基督者」は、自らの信仰の正しさを主張する無知者に対して、そのように自らの正しさを訴えること自体が、神の考えと食い違うことを何度も強調します。

しかし、「基督者」はそう語る自分自身の正しさは絶対に疑いません。「基督者」は、有望者とともに、「無知者」に対して、辛辣な、あたかも呪いのような言葉を投げかけます。

さても無知者よ、なおも愚かに、
軽んじるのか、十たびも与えられた
善き勧めを。なおもこれを拒むなら、
やがて悟ろう、その災いを。
よき折りに思い出し、謙遜に従って恐れるな。
善き勧めは、よく従えば救いとなる。
されば聞け。されどこれを軽んじれば
無知者よ、必ず身を滅ぼすであろう。

人間の罪深さの自覚を訴えることは、同時に「基督者」は自分自身の罪深さをも自覚していることを意味します。それはたしかに神に対して謙虚な態度を生むのですが、この本で描かれる「基督者」のように、自分の基準にそぐわない信者に対する限りない辛辣で批判的な態度を生みます。

著者はこの書の中で、神の恩恵をラクに得ようとする者たちを多く批判するのですが、では神の恩恵に至る困難であり細い道は何かといえば、何度も言うように自分の罪深さを自覚する一点にあります。それが謙虚な態度を生むはずなのですが、「基督者」自身は、自らの卑小さを自覚しない者たちに対して、これ以上ないくらい辛辣な態度を取り続けます。「基督者」自身の罪深さは、イエス・キリストの行為による赦しを得ているはずなのですが、彼がそれによってえられる幸福を通じて他者を許すことには向かわず、むしろキリスト者の基準を満たさない者を断罪する方向に向かいます。

もっとも、このような道徳的不寛容こそが、プロテスタントの最大の特徴と言えます。現世の権力の維持を至上目的とし、聖書の教えを実践することに重きを置かなくなったカソリック教会に対する批判から生まれたプロテスタント派は、聖書による神の教えを守ることに執着し、それに沿わない人間の態度を排除する方向に向かいました。

その戒律は、単なる聖書の言葉の実践である以上に、自らの“心”“魂”を神に隷属させることであるということが、バニヤンの著作からは伝わってきます。そのような心理的な隷属・罪人としてのあり方を体現することが、真のキリスト者であることの証明になります。

ピューリタンにとって、例えば貧窮している人を助けるなどの善行は、罪人としての自分が刑に服すことと同じ意味を持ちます。現世的な価値をもつ富(p.190-192)・肉欲・家族などを投げ捨て、罪人としてその謙虚な態度と神への隷属を表現するものとして、善行は位置づけられます(そのような現世拒否の態度が経済的な富の蓄積へとつながったパラドックスを指摘したのがマックス・ヴェーバーでした。しかしそのことの論理的論証は、ヴェーバーによっては説得的にはなされていません)。


恵みと罪悪感

おそらく時代背景に絡む問題として著者が強調したのが、神による福音と律法の教えとの相違です。

バニヤンにとって人が義とされるのは人間の罪深さの自覚によってであり、現世の規則・律法に従うことではありません。プロテスタントにとって法律とは、自らの心の内部の改悛・悔改めを実践することから目を背けさせる点で、重要性を持たないものでした。

律法に従うことによって人の罪が軽減されることはなく、罪の赦しが得られるのは神の福音のみであり、その福音は自らの卑小さと神の偉大さを認識することによっています。

その福音は、この書を読めば、必ずしも頭でっかちに作り出し妄想ではなく、おそらく著者自身が体験したことでもあり、誠実に描かれたものでもあるのだと思います。以下は、「解説者」という人物の言葉を借りて、著者が福音と律法との違いを述べた箇所です。

「解説者」は、基督者が道中に立ち寄った人物で、基督者を天の都へと導く役割をする人物の一人です。「解説者」は、基督者をある広間に連れてきました。そこは一度も掃除をしたことがなく、ほこりが一杯です。解説者はある男に部屋を箒で掃かせましたが、ほこりはあたり一面に飛び散るだけで、部屋はきれいになりません。次に解説者は、乙女に水を持ってこさせ、部屋に撒かせました。すると部屋はきれいになりました。そこで解説者は次のように述べます。

「解説者は答えた。この広間は福音のさわやかな恵みによって一度も清められたことのない人の心です。ほこりはその原罪であり、内部の腐敗であって、それが彼の全人格を汚してしまったのです。最初に掃除しかけた男は「律法」ですが、水を持って来てまいった乙女は「福音」です。さて、君が見たとおり、初めの男が掃除を始めるとすぐほこりがあたり一面に立ったので彼は部屋を清めることができず、君はそのために息がつまりそうになりました。これは君のために次のことを示すためです。すなわち、「律法」は(その働きによって)心を罪から清めないで、罪をあらわにして禁じるとき、かえってそれを魂の中に甦らせ、力づけ、増大させる。つまり、律法は罪をおさえつける力を与えるものではない、ということです。
 さらにまた君が見たように、乙女が部屋に水をまくと、それは気持ちよく清められました。これは福音がその美しく貴い感化をもって心に来ると、ちょうど乙女が床に水をまいてほこりをしずめたのを見たように、罪は克服され、魂はその信仰によって清められて、その結果栄光の王がその中に住まわれるのにふさわしくされるのです」(p.74)。

例えば律法などで何かを“禁止”するとき、それはかえって罪の意識を高め、行った罪悪を反復させるという、20世紀の精神分析が強調する心の働きがここでは洞察されています(もちろん、精神分析が登場する以前から、人の心に真剣に関わっていた人はそのことを知っていたでしょうが)。また、そのような、“禁止”“懲罰”を行う律法ではなく、福音によって人の心は“浄化”されるという思想も、多くの人が首肯するものだと思います。

ただ、そのような認識に到達した人がなぜ、今度は自らの基督者としての基準にそぐわない人たちを辛らつな言葉で批判し、断罪するという行為に至るのか?という違和感は感じざるをえません。

この書は聖書以外で最も多くの国で出版された歴史的なベストセラーですが、私にはプロテスタントの心理的狭量さを示す一つの事例であり、この書自体によって何かを教えられるということはなかったように思います。

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