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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

書籍 『脳からみた心』 山鳥重(著)

2007年06月08日 | Book



精神神経科医の山鳥重さんが1985年に出された『脳からみた心』を読みました。

読み始めて、その文章の読みやすさにつられてすぐに全部読むことができました。もうちょっと難儀な本を同時に読んでいるので、私にとっては頭をすっきりさせてくれる本でした。

この本は、人間が言葉・意味・事柄・文脈・物・空間といったことを「認識する」とはどういうことなのかを、神経学という観点から分かりやすく説明しています。著者の提示している結論だけは前から分かっているつもりだったとしても、あらためて説明してもらうことですっきりした理解がえられた気がします。


意味

例えば、この本を読むと、言葉が意味を生むのは、何か意味に対応した「現実」があるからではなく、意味そのものが現実であるということがより実感できます。

本の中では個々の物の呼称はスムーズに行えても、諸物を関連づける文を相手に伝えるとまったく理解できない患者さんの例が挙げられています。具体的な感触を得られる「物」を認識することは容易でも、それら諸物を関連づけた文(例えば「鉛筆で櫛に触る」)になると途端に理解できない。このことは、人間の意味理解が個々の文脈でその都度なされており、一部の患者さんは状況依存度が強い文章ほど理解が困難になることを示しています。

おそらくこのような意味理解は、意味は文脈に左右されるから、普遍的な真理の認識は不可能だという、80年代に流行した思想の考えとは異なります。真理があるかどうかは問題にはならないのです。そうではなく、例えば「真理がある」という言葉の意味すらも、その都度の文脈によって産み出されているのであり、生み出されている以上はその「真理」という言葉の意味は存在しているのです。ただ、その「真理」という言葉の意味はその都度の状況によって変わってきます。しかし、にもかかわらず、あるいはそれゆえに、その状況に応じて、つねに「真理」は生み出されているのです。「永遠普遍の認識はない」「意味など存在しない」という言葉の意味も、その都度文脈によって意味を発生させています。わたしたちは、「意味」「真理」「ほんとう」といったことを信じざるをえないのです。


言葉

面白いのは、このような言葉による意味の発生に対して、著者は、発話者が能動的に意味を産出しようとしている場面と、発話者の意図が介在せずに言葉だけが一人歩きして意味が生まれてしまい、発話者がその意味に振り回されるという、2パターンがあると考えていることです。

これは、どこまでが意図的でどこからが非意図的かという明確な区別がどこにあるのかは分からないけれど、少なくとも周りの人間に対する観察や自己の発話を内省すると、そのような二つのレベルが存在するということだと思います。

言葉というものは、上で述べたように状況によって意味を生み出します。つまり、状況が意味を生み出します。このことは、人がある状況に置かれた場合、その状況にうまく適合するような言葉を知らず知らずのうちに選んでしまう誘惑に陥ることにつながります。

分かりやすいのが警察・検察による取調べで、取調官が説明していく状況を頭に何度も叩き込まれていくことで、被疑者はその状況説明に合う言葉を選ぶように誘導されやすくなります。

状況が意味を生む以上、人は発話する場合、その状況に合わせて発話することでエネルギーを節約することができます。言い換えれば、その状況を打ち破る言葉を発するには、自分ひとりで新しい状況を作り出す(or みんなに思い出させる)言葉を探さなければなりません。取調べという精神的・肉体的な疲労状況に追い込まれる場所では、そのような新しい言葉を発話する気力が奪われていきます。

取調べというほどの極端な場面ではなくても、例えば飲み会での話が、言葉だけは次々に出されながら、話されている言葉の意味はその場の状況に合う平板なものだけが選ばれていることはよくあります。その状況に合う言葉を出すようにみんなが示し合わしているのです。

精神分析であれば、そのように自動的に出てくる言葉に対しても、発話者の無意識の意図を探ろうとします。しかし著者の山鳥さんから見れば、そのように知らず知らずのうちに出てくる言葉は、その場の雰囲気に合う言葉を選ぶことが発話者にとってエネルギーを節約できるからです。つまり、無意識が言葉を発しているのではなく、自己主張という面倒くさいことを避けて自分の存在を強く前に打ち出したくないときには、その場の状況に合わせた言葉しか我々は発することができないということです(もっとも、そのように自己主張を避けるという態度に、無意識の自己保存への執着を見出すことは可能かもしれません)。


著者は、言葉以外の、形や空間の理解に関しても、その状況依存性を指摘しています。


意識と心との違い

簡単にではあるけれど山鳥さんが触れていることで一番興味深かったのは、「意識」と「こころ」を区別している点です。

山鳥さんは、左大脳半球と右大脳半球を区別し、左脳は言語能力を、右脳は視知覚能力と関係することを指摘します。

つまり、私たちは自分の意識は一つであり、その都度自分の注意を振り向けている対象だけを認識していると思い込んでいるのですが、左脳と右脳との区別を考えると、私たちの意識とはべつに、左脳と右脳でべつべつのことを認知しているということになります。

ただ山鳥さんは、おそらく、このような認知の区別を「左脳」と「右脳」という脳の解剖学的区別に直接結びつけることには抵抗をもっているようにも見えます。たしかに「右脳」と「左脳」に違いはあるのですが、それぞれの脳の能力の違いから、さらには色々な分野(絵画・音楽・数学など)に対応する認知の仕方の種類が人間の脳にはあり、それら様々な種類の認知を山鳥さんは「こころが複数存在する」ことの証とみなしているようです。

「音楽家における音楽の世界、画家における絵画の世界、棋士における将棋の世界、物理学者における物理学の世界、などというのはそれぞれの人にとって、日常的、生活的な「心」から、相対的に独立したもう一つの「心」とも考えられる。完全に二ヶ国語があやつれて、どちらの言語ででも考えられる人にとっては、二つのうちのどちらか一つの言葉の世界もまたもう一つの「心」と考えてよいであろう。つまり、ある心理要素(例えば言語の世界の語、音楽の世界の言語、絵画の世界の色や形、将棋の世界の駒、などなど)を一定数以上そなえ、それらの要素を変換する一定のルール(文法)をもったものは、それを構成する要素が増加し、変換の動きが増し、経験の記憶が蓄積されるにつれて、その構造の網目が複雑化し、肥大して、自動性を増し、一個の小宇宙、つまり要素的「心」とでも呼ぶべきものへ育ってゆくと考えられる」(p.217)。

このような「心」の複数性の認識を示す例として、山鳥さんは、例えば家庭では優しい心の持ち主でありながら、仕事になると仕事の文法に没頭するために市民的なモラルを忘れるというケースを挙げています。


このように個人の中に複数存在する「心」に対し、意識とは、それら複数ある「心」から一つを選び取って肉体と連絡する機能を持つと推測されます。つまり、人間には「心」が複数あり、それぞれの「心」はさまざまな世界を認知することができます。しかし意識は、その時と場所に応じて、「心」の中の文法から一つを選び、肉体を動かしたり言葉を発したりします。自己保存の意識が強い場合には、状況にあわせた言動を取るように意識は選択するのでしょう。山鳥さんは、犯罪者などが同時に芸術家の愛好家であったり、人間的な顔をもっていたりするのも、このような「心」の複数性に由来すると指摘します。

このことは、例えば芸術や学問などでどれほど素晴らしい能力を秘めた人であっても、意識が自己保存を意識しすぎて状況に依存する言動を取るようになってしまうと、権威を無批判に肯定したり、体制依存的になることを意味します。

例えば近代国家の教育では文字による処理能力が極端に重視されます。またその文字処理能力に秀でた人が、人間としても優れているとみなされます(あるいは、そのような知的エリートへのコンプレックスから、私たちは勉強をよくできる人間を軽蔑したりします)。

しかし、そのような「心」の中の一部の活動のみを尊重する傾向は、それが「競争」「自己保存」という意識(エゴ)と結びつく限り、たまたま文字処理能力に優れている人のエリート意識を増大させ、意識のあり方にも歪な影響を与えるのでしょう。


こう書いていても、正直に言うと「脳」や「こころ」ということについて何かが分かったという感触はまだ乏しいのですが、それでも面白く読むことができた本でした。

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