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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

「どん底の会社よ よみがえれ 弁護士・村松謙一」『プロフェッショナル 仕事の流儀』

2007年01月12日 | テレビ

             “Trees in the park and crosswalk”


昨日のNHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』は、会社再生に携わる弁護士の村松謙一さんが取り上げられていました(「どん底の会社よ よみがえれ 弁護士・村松謙一」)。

その中で印象的だった言葉は、政府の委員会に呼ばれた村松さんが、潰れる会社をすべて助けなければいけないのか?と聞かれて、「100%助けなければいけません。企業の救済は生命に関わることですから」とおっしゃっていたことです。

例えば、経済構造や消費者の趣向が転換する中で、国の主力となるべき産業は変化していきます。このときわたしは、時代から取り残される産業への保護は断ち切り、新しい産業が成長しやすい基盤を整えればいいのでは、と考えます。

これ自体はおそらく間違った考えではありません。しかし同時に私の中で、「それでは仕事を失う人やその家族はどうなるんだ?」という疑問が出てきます。

おそらく社会科学的に考える場合、より多くの人を助けて国の経済全体のパフォーマンスがよくなることを願っているのですが、どうしてもその言葉は「時代遅れ」の仕事に携わっている人たちにとって冷徹なものに聞こえます。

このとき社会科学的に考える私がもっているエクスキューズは、「不都合な真実を伝えるのが社会科学の役目だ」という言葉です。

しかし私自身がいつもこういう言葉には違和感を感じます。社会科学が全体の繁栄を願い、今困っている人の状況の改善を願っていることは確かですが、どこか血の通っていない言葉に感じます。

どうしてわたしがそう感じてしまうのかについて、昨日のテレビで村松さんの言葉や姿を見て少し分かったように思う。

ようするに、村松さんがやっていることは、『ER 緊急救命室』のドクターたちと同じで、来た人は全員助けなければならないし、目の前で死にそうになっている人をたくさん見ているからこそ、「100%会社は救済しなければならない」=そのつもりで仕事をしなければならないという覚悟をもっているのでしょう。

それに対して、「時代遅れの産業から新しい産業へのシフト云々…」を語るときの私の頭の中には、机上の上での「国民全体のパフォーマンス」という概念があるのですが、まさに生死をさまよう場面にいる人の状況を想像する力が欠けているように思えるのです。

つまり、私自身が「国の経済のあり方」ということを考えるときは、村松さんとは違って、まさに生死をさまよって迷う人たちのことを想像する態度が私には欠けているのです。

おそらく「国の経済のあり方」ということを考えるときに求められることは、「時代遅れの産業から新しい産業へのシフト云々…」という次元で思考をストップをさせないことです。その考え自体はいい考えかもしれません。しかしそれは「一人死ぬけど99人助かるからいい」という考えです。そうではなく、社会科学に求められることは「100人助けるにはどうすればいいか」を真剣に考えることではないかと思います。99人まで助けても、残りの一人をどうやって助けるかを考えることです。

おそらくその解答は、簡単には見つからないでしょう。「時代遅れの産業に携わる人」には、補助金を削りながら、最低限の生活を営むだけの援助をするのか?あるいは、新しい産業に対応できるよう教育のチャンスを(どの年齢の人にも)与えるのか?

そういう難しい問題を考えたときにはじめて、科学の論理は生活の実感に応えるものになるように思います。つまり、現実の推移を論理的に分析するだけではなく(それだけでも大変で難しい仕事だけど)、新しい時代で落ちこぼれそうになる人を一人残らず助けるという問題に試行錯誤しながら取り組むことによってはじめて、社会科学は高みにたった机上の空論ではなくなるように思います。


涼風

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