昨日24日の夜にNHKスペシャルで「ワーキングプア ~働いても働いても豊かになれない~ 」という番組が放映されていました。低所得で長時間労働を強いられている人たちの現状を取材した番組です。個人的にはショッキングなドキュメンタリーで、激しく感情を揺さぶられる映像でした。
その中で印象に残ったことの一つに、ある大学教授が低所得できつい労働を強いられている人の映像をスタッフに見せられて、次のように述べていたことです。
「こういう映像を見て、じゃあ可哀想だから福祉にお金をつぎこみましょうという風に考えては駄目なんです。国家の予算には限界があるんですから。だから規制緩和をして稼げる人にいっぱい稼いでもらって、その人に税金を払ってもらえるのがいいんです。そういう風に全体を見なくては駄目で、可哀想だからという理由で困っている人にお金を支出してはいけないんです。」
「子供の教育には税金を投資すべきです。機会の平等を保証して、子供がやりたいことを目指して挑戦できる社会になる必要があります。ただ、挑戦して失敗した人たちを国家の財政で助けてはいけません。」
他の識者が深刻な表情で低所得の人たちの問題を指摘し、ドキュメンタリーもその状況の深刻さを強調する映像を流す中で、この大学教授の方だけが明るくハキハキと上記のような趣旨の発言をしていたのは印象的でした。
彼の言う「規制緩和」というのが非正規雇用による労働環境の悪化を放置するものだとしたら、それは結局は富める者とそうでない者との差を固定化するだけになります。
規制緩和によって結果的に国家予算が増えるとしても、それが子供への教育には使われても、現状の労働環境の改善につながらないのであれば、必然的に“敗者”を作り出すシステムを志向することになります。
大雑把な議論ですが、“チャンス”というものは子供にも大人にも与えられるべきです。そのためには、予算は子供の教育だけでなく、中高年の人たちがチャレンジする機会の提供のためにも使われたほうがいいでしょう。「失敗した人たちに対して国家が面倒見てはいけません」という彼の意見は、だから社会のためにはならないのではないかと思います。
低所得の人たちへの支出は福祉依存を生むのではないかという怖れを上記の財政学の教授はもっているのかもしれません。しかし、福祉依存が問題であるとして、依存させないために放置するというのも、その考え方自体が問題です。
一つの方向性は、中高年の人たちでも、若い人と同じようにチャレンジできる機会を提供することです。それは依存ではなく、自立のためのチャンスを誰にでも、一度失敗した人にでも与える考えです。
ただ、これがいわゆる“第三の道”と呼ばれる(呼ばれた?)「新しい福祉社会」の基本的な構想なのですが、こう書いていてもどこか私には違和感が残ります。
国家財政でできることという視点で議論を考えるために、一方では「弱者を救うのは二の次」という意見が出て、もう一方では「いや弱者にも援助とチャンスを」という意見が出ます。両者は対立するように見えますが、「弱者」の問題を国家財政・官僚制度との関連で考える点では同じです。
しかし、必要なことの一つは、学者・識者としてではなく、一人の人間として自分は「弱者」のことをどう考えているのかを、誰もが内省することのように思います。そうしなければ、「弱者側」に付くと妙に深刻な表情で現状を嘆いたり、「財政健全化側」に付くと妙に元気になって“強者”を擁護する意見を述べるようになります(テレビに出てきた人たちがそうだったという意味ではなく)。
「弱い」立場にある人たちを目の当たりにして、自分はどういうように感情を揺さぶられているのかを見つめない限りは、どれだけ奇麗事を言っても、聴く人の気持ちに訴えることのない上滑りした言葉しか出てこないように思います。
その中で印象に残ったことの一つに、ある大学教授が低所得できつい労働を強いられている人の映像をスタッフに見せられて、次のように述べていたことです。
「こういう映像を見て、じゃあ可哀想だから福祉にお金をつぎこみましょうという風に考えては駄目なんです。国家の予算には限界があるんですから。だから規制緩和をして稼げる人にいっぱい稼いでもらって、その人に税金を払ってもらえるのがいいんです。そういう風に全体を見なくては駄目で、可哀想だからという理由で困っている人にお金を支出してはいけないんです。」
「子供の教育には税金を投資すべきです。機会の平等を保証して、子供がやりたいことを目指して挑戦できる社会になる必要があります。ただ、挑戦して失敗した人たちを国家の財政で助けてはいけません。」
他の識者が深刻な表情で低所得の人たちの問題を指摘し、ドキュメンタリーもその状況の深刻さを強調する映像を流す中で、この大学教授の方だけが明るくハキハキと上記のような趣旨の発言をしていたのは印象的でした。
彼の言う「規制緩和」というのが非正規雇用による労働環境の悪化を放置するものだとしたら、それは結局は富める者とそうでない者との差を固定化するだけになります。
規制緩和によって結果的に国家予算が増えるとしても、それが子供への教育には使われても、現状の労働環境の改善につながらないのであれば、必然的に“敗者”を作り出すシステムを志向することになります。
大雑把な議論ですが、“チャンス”というものは子供にも大人にも与えられるべきです。そのためには、予算は子供の教育だけでなく、中高年の人たちがチャレンジする機会の提供のためにも使われたほうがいいでしょう。「失敗した人たちに対して国家が面倒見てはいけません」という彼の意見は、だから社会のためにはならないのではないかと思います。
低所得の人たちへの支出は福祉依存を生むのではないかという怖れを上記の財政学の教授はもっているのかもしれません。しかし、福祉依存が問題であるとして、依存させないために放置するというのも、その考え方自体が問題です。
一つの方向性は、中高年の人たちでも、若い人と同じようにチャレンジできる機会を提供することです。それは依存ではなく、自立のためのチャンスを誰にでも、一度失敗した人にでも与える考えです。
ただ、これがいわゆる“第三の道”と呼ばれる(呼ばれた?)「新しい福祉社会」の基本的な構想なのですが、こう書いていてもどこか私には違和感が残ります。
国家財政でできることという視点で議論を考えるために、一方では「弱者を救うのは二の次」という意見が出て、もう一方では「いや弱者にも援助とチャンスを」という意見が出ます。両者は対立するように見えますが、「弱者」の問題を国家財政・官僚制度との関連で考える点では同じです。
しかし、必要なことの一つは、学者・識者としてではなく、一人の人間として自分は「弱者」のことをどう考えているのかを、誰もが内省することのように思います。そうしなければ、「弱者側」に付くと妙に深刻な表情で現状を嘆いたり、「財政健全化側」に付くと妙に元気になって“強者”を擁護する意見を述べるようになります(テレビに出てきた人たちがそうだったという意味ではなく)。
「弱い」立場にある人たちを目の当たりにして、自分はどういうように感情を揺さぶられているのかを見つめない限りは、どれだけ奇麗事を言っても、聴く人の気持ちに訴えることのない上滑りした言葉しか出てこないように思います。
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