肺の再検査はしないと決めたその日、突然知り合いが訪ねて来て、検診で引っ掛かり再検査を受けたら初期の胃癌だと判明し、すぐこれから入院することになったと伝えに来た。もちろん、沈痛な面持ちだった。辛そうだった。
返す言葉もない。でも「大丈夫、大丈夫、まだ初期だから手術すれば完治するよ。でもよかった、早期発見が幸いしたね」と励まして別れた。直ぐにお見舞いに駆け付けるからとも声を掛けた。
その知り合いは振り向きざま、「お前も気をつけろよ、何でも検査は早めに受けたほうがいいぞ」、そう言って少しだけ笑った。
ドキッとした。
人にはそんな事を言っておきながら自分は敵前逃亡かよ。病状を聞くのが怖いからって逃げ続けんのかよ。そんな別の自分が嘲り笑う。
やっぱり、ちゃんと再検査受けることにしようかな・・・。
まったくもって、なんというか、どうしようもない。受けると言ってみたり受けないと言ってみたり・・・。
結局、掛かり付けの総合病院に電話してこれまでの事情を話し、専門医がいるという土曜日に予約を入れた。受けよう、「再検査」。
こうしてまた、「死」を想う。「死」が降りて来る。「メメント・モリ」である。
「死」という問題がまじかに迫ることで、人間は新たに「生きる、生きたい」ということを激しく意識する。
先日読んだ「限りある時間の使い方」のなかでも書いていた。
永遠の命を授かり、いつかは命が尽きるということがないとしたなら、人間という生き物は、生きるという行為に執着しなくなって、時間を貴重で大切なものとは思えなくなり、「生きがい」なんていう言葉も「大切な今生きているこの時間」という概念も一切無くなってしまうだろうと。それは果たして幸せなことなんだろうかと。
このままでいいわけがないことは十分わかっている。今この生きている瞬間を無駄にして、明日は必ずやってくるという幻想を能天気に抱きながら生きている、そんなこともまた十分に分かっている。
グダグダとどうでもいいようなことに悩み、やることなすことが億劫で、ちょっとした煩わしさや困難な出来事に心底めげる自分自身も心底知っている。
どうでもいいじゃないか。癌でも癌でなくても。重い病気でも軽い病気でも。ほんと、どうでもいい。
時間がないんだ、人生は。
ついに再検査の土曜日となった。
〇でも✖でもどっちでもいい。どっちも素直に受け入れよう。でも、長い長い闘病生活を強いられることになったら、その時は少し別の重大な決断が必要だ。たぶん、それだけは耐えられない。その覚悟だけはある。
そこまでして生きていたくなんかない。
居直った。覚悟を決めた。
再検査は担当医から「CT」撮りましょうと言われ、内心ビビった。
待合室でその結果を待つ。長かった。
どきどき、どきどき。どきどき。
〇でも✖でもいいけど、出来たら何の病気もないほうがいいに決まってる。もしも、再検査で何も悪いところがなかったのなら、今度こそ、今度こそ、今度こそ、一日一日を大切にして生きていくぞ。本当にそうするぞ。それだけを何度も念仏のように唱えながら検査結果を待っていた・・・。
結局、診察の結果は〇だった。
凄まじいまでの脱力感。そして「何ともありません」の一言で、目の前がバーッと明るくなった。
心の中で万歳三唱をした。
まだ生きていられる。嬉しかった。ちゃんとしようと思った。
でも「死」は常に、身近にそっと息を潜めて待ち構えている。