その土地だけから醗酵している独特の風土が、その土地から生まれ出る独特の音楽を造り出す。
もちろん、風土とは、その土地の気候や地勢などの在り様の総体であり、別の言い方をすれば、人間の文化の形成などに影響を及ぼす精神的な環境のことである。
青森には青森独自の文化があり、青森独自の生活様式が存在する。
そしてそれらもまた、この街特有の気候や地勢上の成り立ちによって培われた風土から生まれ出たものだといっていい。
短く忙しない夏。秋はすぐさま厳寒の冬へと移り、その耐えがたく長い冬の季節は、そこに住まう人間の精神にも大きな影響を及ぼしてゆく。
いやいや、そんなことで精神に及ぼす影響なんてものはないと断言する、そういう人間だっているかもしれない。そんな風土から文化は生まれるのではなく、あくまでも個人的な資質や才能や人生や家庭環境によって培われたものが、やがて芽吹くことで、それが大きな潮流へと変化してゆくのだということも確かにある。
でも「ねぶた祭」や「津軽民謡」や「津軽三味線」は、この厳寒の風土以外からは決して生まれなかっただろうし、「沖縄民謡」や「レゲエ」や「ハワイアン」というジャンルの音楽もまた、緩やかで温暖な気候だからこそ生まれたリズムでありメロディだ。
改めて、大西功一監督の音楽ドキュメンタリー映画、「スケッチ・オブ・ミャーク」と「津軽のカマリ 」の2本の労作を観ると、そのことが再確認できる。観たのは、「音楽社会学」で使おうと思ったからだ。
「スケッチ・オブ・ミャーク」は、沖縄県宮古島に存在する「沖縄民謡」とはまた別な、何世紀にもわたって口伝されてきた「古謡(アーグ)」と「神歌(かみうた)」という歌を、ミュージシャンの久保田麻琴が宮古諸島を訪ね歩いて探ってゆくドキュメンタリー映画であり、一方の「津軽のカマリ」は、幼い時に視力を失い、生活のために三味線を弾いて生きることを選んだ高橋竹山の人生を追ってゆく映画である。
日本の北と、日本の南。気候も生活様式も歴史もまったく異なる2つの地域で、長い間培われて来たそこだけにしかない伝統的な「音楽」。
ゲーテは「色彩論」の中で、「南の国々を旅すると、そこにある風景は極彩色に塗り込められている」というような趣旨の文章を残しているけれど、例えば北欧には北欧にしかない色彩が存在し、音楽もまた存在する。
この街でしか生まれない風景がある。
個人的に、その風景すべてを肯定することは出来ないけれど、でも生まれ育った街への愛着だってないわけじゃない。
そんな街に「春」がやって来る。
それは、言葉に出来ないほどの喜びだ。
今いるこの風土が人を創る。