おかんのネタ帳

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野洲川物語

2015-05-26 23:30:01 | 湖国日記
暑いですね~ まだ5月やのに。

昨日は、朝から口腔外科へ
先週の月曜日に切開して縫ったところの抜糸。
顔の右半分が腫れて、2日ほど麺類と雑炊でした。
アルコールはもちろん厳禁・・
週末には腫れもひいてたけど、マスクして取材に行ってましたよ。

押さえたら痛かったのも治まって、抜糸でビールも解禁!
でも、まだまだ治療は続くようで・・・なかなかです・・・

それでも、〆切りはあるわけで、原稿書き三昧。
昨日の午後は資料を読み込み・・・今頃読むって? 
という感じですが、そういうこともあります(汗)

読んでたのは・・・・



「野洲川物語」。
公的な資料ももちろん読んでるんやけど、
これは、野洲川改修工事の時に、実際にあった人々の「葛藤」を、
田村喜子さんが、当事者に取材をして書き下ろされた本だそうです。

野洲川改修工事について調べていて、この本のことを知って、
図書館に借りに行ったんですね。
「物語」として書かれているので、読みやすく、わかりやすく、
当時の人々の状況が理解できます。

鈴鹿山脈が水源の野洲川は「近江太郎」と呼ばれるほどの暴れ川。
10年に1度ぐらい、大水害が発生して、人々を苦しめていました。

守山市の川田町のあたりで南流と北流に分かれ、
しかも、南流、北流の川幅は狭くて曲がりくねっていました。
水害が起こるたびに、堤防をやり直していたそうですが、
昭和28(1953)年9月の台風13号の水害がきっかけで、周辺の住民が、
もう我慢できないから改修工事をして欲しいと、県や国に陳情するんですね。

その時は、南流、北流、それぞれを改修して欲しい、そう願ってたんです。
でも、国が出した改修案は、真ん中に新たな川(放水路)をつくり、
南流、北流は廃川にする、というプランやったんです。

北流は、そこを境に南が守山市で北が中主町(現野洲市)に別れます。
南流との間の広い三角州となるのが、守山市の中洲学区。
真ん中に新川を造るということは、学区を分断するだけではなく、
穀倉地帯である田んぼを190ha、供出することになるんですね。
しかも、新川にあたる新庄町川辺地区の37戸と寺社、
小浜地区のの2戸を移転させることになります。

反対運動が起こるのも無理はないです・・・
案が出てから10年の歳月をかけて、新川を造ることが決まります。

反対していた人々は、これからの子孫に、
水害の心配のない故郷をのこすことが大切だと、
新川をつくる案に合意したんです。

途中で、土器やら遺跡が出て中断したりして、(服部遺跡)
8年かけて今の野洲川ができ、通水するんですね。

でも、それで終わったわけではなかったんです。
廃川の跡地をどう利用するか、田んぼを提供した人たちに、
代替え地をどういうカタチで返すのか・・・

すべてが完了したのは平成16年度、だそうです。
「野洲川物語」は、そのときを記念して発刊されたのですね。



幸津川と小浜をつなぐ幸浜橋から見た下流。
分断された中洲学区を孤立させないために、
川田から湖岸道路まで、7本の橋がかかっています。

通水したのは昭和54年。工事完成は56年。
長女が生まれた年です。

200億円という国家事業。
いろんな人々の思い、歴史があったんですね。




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