60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

くずし字から覚える場合

2008-04-13 23:10:02 | 文字を読む

 江戸時代は公文書も寺子屋の手習い本もお家流という、くずし字が基本で今のように漢字が楷書で書かれている文章は大体、漢籍というものでそれこそ内容的に難しく一般庶民には縁遠いものだったそうです。
 いまならくずし字で書かれているものはたいていの人にとっては読み書きできないものですが、江戸時代では最初からくずし字で覚えるので、くずし字という意識もあまりなかったものと思われます。
 くずし字というのは、手で速く書くように字画の省略が行われていますが、お手本があってもさらに崩されたりして変化するものです。

 たとえば図の例ではくずし字が4通り示されていますが、一番左の文字はいわゆる行書体に近く、楷書体と比べてみたとき、この字を崩したのだなと感覚的に理解できるものです。
 二番目の文字になると、最初の文字と比べればさらにくずしたものだということは理解できますが、楷書体と直接比べると崩し方が飛躍しているので、同じ文字という感覚が薄くなります。
 同じように三番目の文字は二番目の文字をくずしたものと感じることができますし、四番目の文字は三番目の文字をくずしたものと感じることができます。
 
 ちょうど画像にモザイクをかけていったようなもので、モザイクのかけ具合が強くて元の画像と全く違うものでも、モザイクを段階的にかけたものを見れば連続性が感じられるようなものです。
 三番目や四番目の文字などは、ここから楷書体を連想するのはここから元の楷書体を想像することは困難です。
 こうした文字でも読めたのは、二番目の文字くらいのくずし字を最初から読み書きを教わっていたからで、視覚的な理解だけでなく書いたときの運動感覚が似ているからです。
  寺子屋での読み書き教育といっても、書くことが主体で、くずし字を書いて覚えた手の運動感覚がなければ、他人のくずし字など読めません。
 大勢の人が読み書きを覚えれば、当然悪筆の人が多いので視覚だけで判読するのは困難です。

 こうした崩し字から漢字を覚えていった場合は、漢字に対する感覚が現代の普通の感覚とは当然違うはずです。
 たとえば漢字は象形文字が基本だから、文字を見ると意味が分かるというような説明はできません。
 山とか川と草、木のような字でも、くずし字は象形性というものが全く反映されていませんから、学者の間で意味を持っても、一般庶民に意識されることはなかったでしょう。
 漢字を構成要素で理解しようとしても、くずし字では点画が大幅に省略されているので、説明しようがありません。
 漢字は読み方と意味と形を覚えるだけで、文字の構成要素に注目するという習慣はあまりなかったはずです。


 


アナログ的に見る

2008-04-12 23:25:16 | アナログとデジタル

 A図と同じものを先に見せておいた後、先に見た図はA,Bのどちらに似ているかと聞かれると、人間の場合はBのほうだと答える場合が多いそうですが、これはBのほうが外側の点をつなげたとききちんとした三角形となっているためだと考えられます。
 ところが注意して見るとAのほうは、外側の点をつなげたとき線が曲がって、ゆがんだ三角形となっています。
 なんとなくA図を見たとき六個の点は二等辺三角形のように見えるので、二等辺三角形を見たと思ってしまいます。
 六個の点の配置をそのままに記憶するのでなく、二等辺三角形を見たと記憶していると、AとBを見せられたとき、先に見た図に近いのはBのほうだと思ってしまうのです。

 これに対し、ハトのほうはどちらかというとA図のほうを選ぶそうですから、ハトは人間よりも見たものをありのままに記憶しているといえます。
 人間は二等辺三角形という概念を知識として持っているので、それに近いものを見れば、二等辺三角形を見たと思い、そのように記憶をするのです。
 似たようなものを同じと見てしまうわけですが、同じとみなす根底に、二等辺三角形という原型がイメージとしてあって、少し変形したものとみなすのです。

 ハトは二等辺三角形というような概念知識は持っていないので、見たままを記憶することになります。
 ということになると、先入観でものを見る人間は左脳型、ありのままに見るハトは右脳型ということになるのでしょうか。
 右脳が左脳より数十万倍も情報処理能力があるという、右脳優越論に従えば、ハトは人間よりズット情報処理能力があるということになります。

 人間は二等辺三角形という概念を持つことで、それに近いものを同じようなものとしてアナログ的に見ることができます。
 ただしこの場合は、点が示されているだけで、二等辺三角形は目に見えるわけではなく、人間が点の配置からイメージしているものです。

 下の絵は一番左が原画で、右の三つは段階的にモザイクをかけたものです。
 細部にこだわれば右の画はどれも原画とは違うのですが、アナログ的に見ると二番目の画は原画と同じだと判定できます。
 4番目は原画と同じとは見なしにくいですが、二番目と三番目、三番目と四番目というふうに比較していくと、4番目も同じように見えてきます。

 ハトはそれではモザイクをかけたりすると全く違う画と見てしまうのかというと、そうではなくモザイクのかけかたが小さければ同じと見ることができ、モザイクのかけかたが大きくなるにつれ、同じと見難くなるそうです。
 人間でなくてもアナログ的な見方をするのですが、三角形のように目に見えない場合ではなく、色とか形とか目に見える場合だけのようです。


便利な既成概念

2008-04-08 23:30:32 | 眼と脳の働き

 渡辺茂「ピカソを見わけるハト」によると、人間は不正確なくずれた情報からその元になったものを探り当ててしまう能力を持っているといいます。
 図の1から5はそれぞれ六個の点が三角形を作っているように見えます。
 よく見るとどの場合も、点を結んでいって三角形を形作ってみると、きちんとした三角形でなく、ゆがんでいることがわかります。
 ところが指摘されなければ極端なものを除いては、疑問を持たず三角形と思ってしまいます。

 この図は原型となる三角形と、これをくずしたのが1から5までで、そのほかにデタラメニ配置したランダムドットが示されています。
 被験者にはランダムドットと原型を少しくずした図形(たとえば2)を最初に見せておいて、つぎに原型を含む6個の図を見せ、最初に見せた三角形にどの程度にているか評点をつけさせています。
 この場合は最初に見せた図形が2なのですから、2が最も高い評点がつくはずなのですが、原型の三角形に最も高い評点をつけてしまうそうです。
 

 この結果に対して著者は、人間は変形されたものを見せられたときに、その元になったものを見たと思っているのだとしています。
 つまり人間はものを詳しく見ないで、既成概念に当てはめて見てしまう傾向があるということです。
 詳しく正確に見ていこうとすると、時間とエネルギーがたくさん要りますが、既成概念に当てはめるのならエネルギーも時間も少なくてすむので便利です。
 その反面たとえば原稿の校正をするとき、誤字があっても気がつかない場合のように不都合な面もあります。

 またここでは、被験者が最初に見た図形をきちんと記憶しているかどうかを問題にしていません。
 人間の視覚的な記憶というものはあいまいで、また持続しないのが普通です。
 たいていの人は図形を見て、あとからその図がその図がどんな図形だったか正確に思い出すことはできません。
 視覚的な記憶力の不足を既成概念で補うので、元の形を選ぶのです。

これに対して似たような実験をハトについて行うと、ハトのほうは原型のほうよりも最初に見せられた図形のほうを選ぶそうです。
 ハトは指示に対して忠実で、思い込みで判断をしないで見たとおりを選ぶのです。
 ハトは三角形といった概念を持っていないのかもしれませんが、視覚的な記憶力が人間よりも優れているので、既成概念で判断するような便法を使わないですむのかもしれません。 


形の見方

2008-04-07 23:10:45 | 眼と脳の働き

 山口真美「視覚世界の謎に迫る」によると乳児は左上の図Zの中に完全な円と四角形を認識できるといいます。
 この中に円も四角形も完全な形では示されていないけれども、輪郭を補って見ているというのです。
 乳児はしゃべることができないのにどうしてそういえるのかというと、まずZを乳児に学習させた後、完全な円と欠けた円を見せると完全な円のほうを選択するので、Zの中に完全な円を見ているというわけです。
 同じように完全な四角形と欠けた四角形を見せると、完全な四角形を選ぶので、Zの中に完全な四角形を見ているというのです。

 少し考えれば、Zを学習しなくても、円と欠けた円を見せれば円を選びそうな気がするので、なんだか結論が先にあったような実験法のように感じられます。
 普通に考えればZを見せた後、完全な円と並べて選ばせる欠けた円は、E図のような円でなく、D図のような円でもよいはずです。
 わざと選びにくいE図の円を選択肢にしたのでは、結果を見るまでもないのです。

 つぎにA図を見た場合大人であれば円の一部分が四角形に遮蔽されて見えないと感じますが、生後9ヶ月までの乳児は、遮蔽された円を見ることができず、Eのように見てしまうそうです。
 ハトもAのような図を見ると円の隠れた部分を見ることができないで、Eのように欠けた円しか認識できないそうですから、ハトの認識能力は9ヶ月の乳児以下ということになります。
 ただし、A図で四角形が円を遮蔽しているというのは、画像の見方の問題で実際に遮蔽しているわけではないので、ハトや乳児はありのままに見ているだけで、四角能力が劣っているということではありません。
 乳児の場合はA図を見てZと同じと見ることができれば、Zを見て完全な円を認識できるというのですから、A図からでも円を認識できてもよさそうなものです。
 円を認識できないということは、A図では四角形のほうが目立っているの
で四角形のほうに注意を奪われてしまうということでしょう。
 部分に注意を奪われ、全体的な見方ができないのです。

 C図はA図の四角形を半透明にしたもので、遮蔽された円が透けて見えるという形です。
 こうすると6ヶ月ぐらいの乳児でも円を認識できるそうで、乳児の認識能力は①線を補って見る②半透明なものの後ろに形を見る③隠された形を補って見るという順に隠されたものを見る能力が完成されるといいます。
 半透明なものの後ろに形を見るというのが発達段階というのは、あまりに文明的で、自然の中には半透明のものの後ろに形を見るチャンスはめったにないので納得できません。
 
 C図は透明の四角形といってもこれは、画像上の表現で、実際は濃度の違う三つの図形が隣接しているだけです。」
 ここで円が認識できるのは輪郭が見えるからで、四角形が半透明に感じられるからではありません。
 四角形と円が重なっている部分がたとえば黄色になっていても、輪郭が見えるので円は認識できます。
 ここで円が認識できるというのは、二つの図形にまたがって一つの輪郭を見ることができているということです。
 したがって形の認識は①形の特徴でとらえる②輪郭線でとらえる③見えない部分を補うという順で発達すると考えられます。


部分から全体を判断

2008-04-06 22:53:10 | 眼と脳の働き

 図は渡辺茂「ピカソを見わけるハト」にある実験のものです。
 ハトの頭が遮蔽物の上に見えている画像と、遮蔽物だけの画像を区別できるようにハトを訓練した後、図のようにハトの全身像、ハトの頭だけの像、ハトの頭を上下二つつけたものをハトに見せて、反応を調べています。
 人間であれば上の図はハトが遮蔽物で隠され、頭だけが見えていると考えて、ハトの全身像に最も強く反応するところです。
 当然ハトもハトの全身像に最も反応すると予測されるところですが、実際は三つの画像のどれにも同じ程度に反応したといいます。
 つまりハトはハトの頭(見えている部分)が含まれていればどれにでも反応したということで、ハトが遮蔽物で隠されていると見たわけではないということです。

 これは画像を見せての反応を調べたもので、自然の中でもおなじようにハトが反応するとは限りません。
 遮蔽物で隠されているというのは、画像の上のことで、人間はそのように解釈しますが、ハトを含めて動物が同じように解釈するとは限りません。
 画像に見えているハトの頭の部分は、ハトには単なる模様に見え、四角い遮蔽物もそれに隣接する模様としか見えていないかもしれません。
 そうすればハトは画像の中で印象的な部分として、頭の部分をおぼえ、下の三つの画像はどれも頭の部分を含んでいるので、同じ程度に反応したと考えられます。
 つまり部分を見ることで全体を推理するのではなく、特徴的な部分に注目したに過ぎないと考えられます。

 しかし全体を詳しく見てから判断するというのでは、とても手間がかかって能率が悪いので、部分によって全体を判断するのが便法となります。
 この例のように部分的特徴に対して反応するというのは、レベルの低い反応のようですが、人間でも同じような反応をするので、このことからハトの認知能力が劣るとすることはできません。
 画像のように自然にはない、過度に人工的なものについて動物の反応を見ようとするとどうしても、人間の考えるような反応はえられません。
 画面上では四角形は人間の解釈ではハトを遮蔽しているといっても、実際はハトの頭の部分と四角形は並べて描かれています。
 三次元世界の中で遮蔽されているのであれば、四角形のほうが手前にあって、ハトの頭は奥にあるので見るときそれぞれ焦点が変わります。
 ハトは描画法などは知らないのですから、平面に描かれた画像で、片方がもう一方の図を遮蔽していると感じないのでしょう。
 

 

 


見えない部分を見る能力

2008-04-05 22:45:10 | 眼と脳の働き

 図Aを見せたときハトは棒がつながっているとは見ないで、二本の棒だと見るそうです。
 隠れている部分は見えないためで、人間の乳児やチンパンジーもやはり、見えない部分を補ってみようとせず、一本の棒と見てしまうそうです。
 ところが後ろの棒をBのように動かすと、人間の乳児もチンパンジーも一本の棒だとみなすようになるといいます。
 つまり左右の見えている部分が同時に動くことによって、つながっていると感じるのです。
 
 人間の大人はA図を見て棒がつながっていると見るのは、見えない部分を補って見ているからだとと普通は説明されてそれで納得します。
 乳児やチンパンジーは、認知能力が未発達なので隠されている部分を補ってみることができず、棒が動いて初めてつながっていると感じるのだというわけです。
 人間は脳が発達しているので、見えない部分をも補ってみる能力があるということなのですが、この補ってみるということが結果的に正しいかどうかは保証されているわけではありません。

 隠れている部分は直接には見えないので、本当につながっているかどうかは、見ただけでわかるとは限りません。
 棒は見えている部分だけしかないのかもしれませんし、隠れているところで途中で切れているかも知れません。
 実際つながっているかどうかは、たしかめてみなければわからないのです。
 Bのように左右が一緒に動いた場合であっても、棒が真ん中あたりで切れていて、一緒に動かされているに過ぎないということもあるのです。
 
 実際、手品とか奇術では別の棒なのに一緒に動かして見せ、隠れている部分がつながっているように感じさせることで成り立ちます。
 人間がありのままに見て、あくまでも見えた部分は見えた部分として、見えない部分を補って見ようとしなければマジックは成立しません。
 いわゆる高度の認知機能を持つようになったためにだまされるのです。
 
 ところで、A図の場合に乳児やサルが棒がつながっていると思わなかったのは、見えない部分を補ってみる能力がないためかどうかハッキリはわかりません。
 C図のように棒を遮蔽する部分が小さいとどうかといえば、このように遮蔽部分が小さければ棒をつながっている見るのではないでしょうか。
 A図の場合は遮蔽部分の割合が大きいので、四角形と棒が接する左右の部分を同時に観察するのが難しくなっています。
 同時に離れた二箇所に視線を向けなければならないので。認知能力の劣るチンパンジーには同一の棒とみなすのが困難なのかもしれません。
 C図のように遮蔽部分がせまくなれば棒のほうが一体的に感じられるのですから、乳児やチンパンジーでも見えない部分を見ることができないというわけではないのです。


読みと音声化

2008-04-01 23:01:51 | 言葉と文字

 普通の人は文字単語を見ればまずそれを読んで、その結果意味を想い浮かべます。
 これはアタマの中に脳内辞書のようなものがあって、ひとつの単語について文字、音声(読み)、意味がセットになっていると考えられます。
 脳内辞書の中で文字と音声と意味とがそれぞれ強く結びついていれば、文字を見たとき、音声(読み)を想いうかべてから意味を引き出す必要はなく、直接意味を思い浮かべることができるはずです。
 文字を見てまずそれを読むのは文字と意味の結びつきよりも、文字と読み(音声)の結びつきのほうが強いためです。
 
 人間が言葉を覚えるのは最初は話し言葉(音声)で、書き言葉(文字)はあとから音声と結び付けて覚えます。
 その結果、文字は文字単語は意味よりもまずなんと読むかということが先行します。
  音声言葉のほうが文字よりも意味と強く結びついているのは、次の例で考えればすぐにわかります。
 晴れた日に「ああいい天気だ」というふうにつぶやくことはありますが、「いい天気」という文字が頭に浮かぶということはまずありません。
 
 漢字の象形文字のようなものでも、見ればすぐに直感的にわかるものは皆無で、読みが教えられそれに伴って意味が教えられます。
 子供のときに覚える文字は、初歩的な言葉ですから読み方がわかれば意味が分かるので、読み方中心の教え方のようになりがちです。
 これがそのまま進むと、意味が分からなくてもともかく読み方を覚えれば一応満足してしまうというようなことになってしまいます。
 昔あった総ルビのようにフリガナがすべての漢字についていると、ともかく読みがわかるので意味が分からないままでいながら、分かったような気がしたり、音から意味を誤解したままというような弊害もあります。

 文字を読みなれてくれば、どんな文字も音声化するということは必要でなく、「日本」「世界」「天気」「こんにちは」など馴染みの多い言葉は音声化しなくても意味が頭に入ります。
 文章を読んでいるとき、黙読でも心の中で音読しているのが普通ですが、見て音声に置き換える前に頭に入ってしまう部分があれば、そのまま前に進んでしまうことがあります。
 音声に置き換えなくてすむ部分が多くなれば、それだけ読むスピードが速くなる可能性があるのですが、そのほかに目が疲れにくくなるというメリットがあります。
 文字を一つ一つ追うとほとんど目を動かさないような状態になるので、固視と同じことで眼が疲れてしまいます。
 眼を疲れさせないためには、なんでもすべて音読するという癖を取ッ他方がよいのです。