「みそさざい、せきれい、うずら、つぐみ、しぎ、ひよどり」などといった鳥の名前はほとんどの人が知っていますが、漢字でどう書くかといわれたら一つも書けなかったりします。
それどころか、漢字で示されても全部は読めないでしょう。
漢字で書かれたものを読めないというだけでなく、実物を並べられても、どれがどれと選り分けられなかったりします。
名前は知っていても、実物についての知識となるとあやふやだったりするのです。
鳥に詳しい人なら、形や色や大きさといったことだけでなく、何を食べ、どこにどのような巣をつくり、どんな鳴き声で、どんな行動をするかなどといったことまで知っていたりしますが、漢字でどう書くかなどということは知らないかもしれません。。
植物についてでも、春の七草の名前はよく知られているのですが、漢字でどう書くかあるいは漢字で書かれたものが読めるかとなると全部は無理でしょう。
実物を選り分けられる人もいますが、ほかの植物を加えて並べられると、これと名指すことができない人もかなりいるでしょう。
なかには実物はどれがどれと分らないけれども、漢字の読みはできるという人もいたりして、こういう場合は漢字を覚えることにエネルギーが使われて肝心の実物を知ることが忘れられています。
本来なら実物についてその名前を覚えるはずなのですが、言葉を先に覚えてしまって、言葉に慣れてしまうと、実物について知らない状態に慣れ、そのうち実物について知っているように錯覚したりするのです。
耳で言葉を覚えるだけでなく、漢字でかかれたものを覚えると、何か実物について覚えたような感じになるのでしょう。
また言葉の意味が判らずに国語辞典を引けば、簡単な説明がついているので、実物に当たらなくても実物について分ったような気がしたりします。
辞書で得られる知識は言葉による説明で、実際の知識ではないのですが、実際の知識も言葉で説明される場合が多いので、見境はつかなくなります。
こうしてみると、同じ言葉を聞いたり読んだりしても、受けとめる側の人の知識は、人によって多かったり少なかったり、実物についてだったり、言葉だけだったりするので、受けとめ方は千差万別です。
言葉が同じだから誰でも同じ受けとめ方をしていると考えるわけにはいかないのです。
誰でも同じ受けとめ方をしているような感じがするのは、言葉だけしか知らない人も、言葉を知っていることで安心して、実物について知っているかのようにふるまうからです。
というと、実物について知らないで言葉だけしか知らないのは良くないと言っているようですが必ずしもそうではありません。
知らないことについて、なんでもかんでも気にしていたのでは身が持ちません。
ある程度いい加減な知識のままで流すことができるので、心の平衡が保たれているからです。