日本語は同音異義語が多いので漢字で書き分けないと意味が通じにくいということがよく言われます。
たとえば「コウエンにいく」というとき「公園にいく」「講演にいく」「後援にいく」「口演にいく」のどれなのか、音声で聞いただけでは分かりにくいと言うのです。
こういう例は文章で示されると一見もっともなのですが、普通の会話ではそのときの状況で意味が分かるので迷うことはありません。
言葉をしゃべるときいちいち漢字を思い浮かべながらしゃべるという場合は少なく、聞いているほうも漢字を思い浮かべるということはあまりないでしょう。
良く例に出される「私立」か「市立」かを分かるように「わたくしりつ」「いちりつ」と漢字にした場合の別読みで表現するというのも、「私立」をわざわざ「しりつ」と断る必要はないので、ふつうは「しりつ」わざわざ言うときは「市立」です。
同音異語で紛らわしいとき、漢字でどう書くという説明が便利なことは確かですが、漢字を知らない相手にはほかの方法で説明するしかありません。
同音異義語が紛らわしいというのは、文章の中で使われたときのことで、文章の場合は会話と違って状況に対する共通理解がないので、文字面だけから理解しなければならないからです。
書かれた文章を理解させるにはカナだけより漢字表現のあったほうが情報量が多くなるので有利だということなのです。
それでは漢字で書けば必ず有利なのかといえばそうともいえません。
図のように同じ漢字表現でも読み方が変わると、意味が変わると言う例が漢字熟語でもたくさんあります。
「一行」と書いてあって「いっこう」と読めば「行い」の意味か「銀行」か「集団」かなど文脈から判断できます。
ところが文章について「一行を読む」とあれば「いちぎょう」か「ひとくだり」かわかりにくいのでむしろカナで書いてあるほうが分かりやすいのです。
「一味」は「いちみ」は盗賊一味のように使われると思うと、「ひとあじ」とまぎれることはないと思うかもしれませんが、「一味をくわえる」という場合「いちみとうがらし」なのか「ひとあじ」なのか分かりません。
「一分」は「男の一分」というときは「いちぶん」ですが「一分自慢」というときは「いちぶ」で、「一割」の意味のときは「いちぶ」でも「いちぶん」でもよいのですからまぎらわしいものです。
「好事」は「好事家」というときは「こうずか」ですが、「好事魔多し」というときは、ほんらい「こうじ」なのに「こうず」と慣用読みされてしまっています。
「小人」の場合は「しょうじん」と読めば「小人物」だけでなく「子供」「こびと」「小者」などの意味を持つ多義語ですが、一般的には「小人物」の意味です。
「しょうにん」は辞書では「こども」の意味ですが日常生活では「小人(しょうにん)」を「こども」と読んでいます。
「こども」や「こびと」を漢字で表現すると紛らわしいのです。
漢字表示では意味が紛らわしく。音声(読み)を参照して意味がはっきりするという場合もかなりあります。
だからといって実際に音読しなければならないというわけではなく、ルビを振ることによっても解決することが出来るかもしれません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます