言葉はハサミのようなものだという言い方があります
たとえば首と肩という言葉があります。
本来どこからが首でどこからが肩だという境目はないのに、言葉では首とか肩とかいうふうに切られてしまいます。
このように、もともと切れ目がないものを切ってしまうので、ハサミのようだというわけです。
このようにいわれれば、ついナルホドと妙に納得してしまいます。
そういえば「クビ」と「肩たたき」の境目もハッキリしないなあなどと思ったりします。
ところがこのようなアナロジーは、ことの一面をとらえているだけのものです。
たとえば「犬」という言葉は、シェパードやスピッツやブルドッグのように、ずいぶん違うものを同じ「犬」と呼ぶのですから、接着剤のようなものだともいえるのです。
首と肩の場合でも、皮膚で見れば境目がなくても、骨で見れば首の骨と肩の骨は分かれています。
アナログ的説明は、一つの例を挙げて一般論に拡大しようとするものですが、その後で、一般論として成り立つか、テストすることが必要です。
例が面白いとつい引き込まれて納得してしまいますが、めくらましにあったようなものです。
後のテストが示されていないときは要注意なのです。
首と肩というような名前は、人間の都合でつけたものであるということには違いがありませんが、だから根拠がないということではありません。
日常生活で、肩とか首という言葉がなければ不便で、首と肩の境目はハッキリしなくても別に不便ではないのです。
もし首と肩の境目が重要であれば別に名前をつけるでしょうが、名前がないのは名前をつけても意味がないからです。
たとえば「白」と「黒」は境目がハッキリしませんが、それでは境目がない状態のままでよいかといえばそうはいきません。
そこで間に灰色という言葉が作られているのです。
なんでも白か黒かハッキリさせたいひとは、グレイゾーンがいやかもしれませんが、白とか黒とか極めつけるわけにいかないことというものはあるのです。
それだけでなくグレイゾーンがあれば白と黒はハッキリと分けることができるというメリットもあるのです。