鈴木孝夫「日本語と外国語」によれば、日本語はテレビ型言語、ヨーロッパ語などはラジオ型言語だといいます。日本語では同音で意味の違う言葉が多いので、耳で聞くだけでは意味のよく通らない場合があります。たとえば、「けいやくのこうかい」と聞いても更改なのか公開なのか分かりにくい。「ふねはこうかいにでた」の「こうかい」は公海か、黄海か、紅海か、それとも航海か耳で聞いただけでははっきりしないでしょう。アクセントとか、文脈で分かるかといえば、それでも分からないでしょう。 文字で書かれた場合はなおさらで、カナで書かれ、音声だけが表示されていれば意味を理解するのに苦労するようになっています。それが、漢字が使われれば意味の理解がズット楽になります。漢字が使われると、文字が音声を表現するだけでなく、意味を表すので、眼による意味の理解と音声による理解が同時に出来るからです。 日本語は、話を聞いているときに、単語がどんな漢字で表記されているかという知識がないと、意味が分からなかったり、取り違えたりします。漢字の知識によって、眼と耳による理解が成り立つのでたとえていえば、テレビ型言語だとしています。これに対し、ヨーロッパの言語は表音文字で書かれているので、もっぱら音声による理解なので、ラジオ型言語であるといいます。 現在の日本語は、文字表記を考えに入れないと成り立たない、テレビ型の言語になってしまっているけれども、眼は耳よりもはるかに弁別能力の優れた器官なので、音声のみで理解する言語より先進的ですらあるとしています。 日本語がテレビ型言語だというのは面白い説で、漢字を使わないと文章はとても分かりにくくなるので、ナルホドなと感じます。しかし、実際話を聞いているとき、いちいち漢字が頭の中のイメージとして浮かんだりしているのでしょうか、意味が分からないとき、「こうかいって?」と聞かれ、「おおやけにすることだ」とか「おおやけのうみだ」と答えられて納得することも出来ます。「こうかいのこうは、こうきょうのこうだ」とか「ハとムとかくこうだ」という漢字を示されなければわからないとは限りません。 大抵の場合は文字のイメージでなく、意味のイメージが浮かぶのではないでしょうか。たとえば、「くも」という言葉を聴いたとき、意味は「雲」か「蜘蛛」かそのときの状況で違いますが、思い浮かぶイメージは漢字ではなく、空の雲とか虫の蜘蛛といった言葉の意味なのではないかと思います。言葉を聴いて漢字がイメージとして浮かぶというのは、学者とか特定の人ではないかと思われます。いったん漢字が頭の中に浮かんで、それからその意味がイメージとして浮かぶというのであれば、何か遠回りをしていて、非効率な感じです。意味のイメージが先で、漢字のイメージはあとのような気がするのですが、どうなのでしょうか。