60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

音の意味とイメージ

2007-06-03 23:09:27 | 言葉と意味

 文字の起源はものの形をかたどった象形文字ですが、そこからの連想で音声言語はものの音をなぞったものだとする考え方があります。
 漢字の犬がケンと読むのは泣き声が「ケン」と聞こえたのであろうし、猫は「ミョウ」と聞こえたので「ミョウ」と読むといわれればナルホドと感じます。
 そういっても、魚のように鳴かないものはどのように名づけたのかとすぐに疑問が出てきます。
 魚は元は「パシャン」とかなんとか言ったはずだ、などと強弁する人もいますが、いくつかの当てはまる例だけですべてを説明しようとするのは無理なのです。
 
 しかし、ものの名前と音にはなんらかの関係があるはずだという感覚は多くの人に共通なもので、自然なもので一概に非科学的とすべきではありません。
 心理学の実験で曲線図形と鋭角の直線図形に対してどちらが「マルマ」と「ギギ」かという問いに9割以上が曲線図形を「マルマ」としたといいます。
 人は言葉の音に何らかの共通イメージをもつということが分かるのですが、だからといって共通の意味を感じるといえば、それは勘違いです。

 日本には音義説というのがあって、例えば「は」の音には物を切り分け離す意味があって、「刃、歯、葉、羽、端」などにそのような意味が内蔵されているといいます。
 「離す、放つ、払う、掃く、披く、撥ねる」といった言葉も「は」という音を共有することで共通の意味部分を持つといいます。
 「はまる」とか「はさむ」とかいう例を思いつけば、この説明がすべてに当てはまらないことに気づきますが、かといってこうした説明を全面的に否定する必要はないと思います。

 「は」が物を切り分け離すという意味を持つと感じて、放つとか払うとかいった言葉を見直すと、これまでとちがって意味がより鮮明なイメージを持つように感じるのではないでしょうか。
 音義説そのものは大体において科学的でないとされるのですが、語感に関する意見としてみれば、ナルホドと共感する部分はあるのです。

 漢字にも音義説に類した説で漢字家族というのがあります。
 漢字の多くはいわゆる形成文字で、偏が意味を表し、旁は音をあらわしているというのですが、漢字音義説では音が同じなら意味も共通の意味があるといいます。
 「青」は「すみきったエキス」という意味を持っているので「清」は「すみきった水」、「精」は「すみきった米」、「晴」は「すみきった空」、「情」は「まことの心」「すみきった心」といった具合で共通の意味を持っているといいます。
 「同」も「筒状になって切り口が同じ」意味で、「筒、洞、胴、桐」は同じ形状のイメージだとしています。
 漢字家族というのもすべての漢字について同じ説明ができるわけではないのですが、このような見方をすると漢字の意味がより鮮明なイメージを持つ場合があるのは確かです。