日々、土器実測(仮)

発掘された遺物の図化作業メインのお仕事ブログのはずが、日々の徒然・スピ話ばっかりになっちゃってる日記。

上から

2010年12月14日 | Weblog
専門職と云うのは、その点においてはそうではない人より知識があるから、それを仕事に出来ると云う事でしょうが、何でもそうですが、知識や能力があると云う事は、その能力のない人よりも人間的にも上と云う事になるのでしょうか。
なりませんよね、全く。
むしろ人間性においては最低最悪、人としてどうよと云う人はゴロゴロいる、なまじ知識があるばっかりに何やら妙な勘違いをして、とっても嫌なやつになり下がっている、みたいな人。
知識があってもそれを能力に変換して使えるかはまた別問題、無能な人はとことん無能だし、実生活では殆ど使用不可な知識と云うのも、多々ある話だったりもするんですが……。

セラピストやヒーラーもこう云う専門職のような部類に入ると思いますが、確かに人を助け導く仕事だとは思いますが、上から目線と云いますか、してやってる的な人って随分いるよなと感じます。
確かにクライアントの知らない事を知っているし、特別な能力(とは思いませんけど)はあるのでしょうが、クライアントはちゃんと代価を持ってその恩恵に与っている訳で、無料や無理を云ってやって貰っている訳ではありません。
代価が発生する時点で対等と云ってもいいはずなのですが、な~んかする側は上でされる側は下みたいな感じは、常にありますよね。
する側の話し方でもそれは分かりますが、な~んでこうなのかねと思います。

お店においても、売る方は下手で買う方が上からと云うのはありがちですが、これだってホントはおかしな話で、需要と供給のバランスあって成り立つ事、上下なんてないと思うんだけど。
多少の違いはあっても、何においてもこう云う上下関係みたいなものってあると思います。
どう云う訳か、普段の生活においても、そう云う事を敏感に感じ取ってしまう嗅覚が発達しているのですよね、オレ。

出来てる人、と云うか真っ当な人は、どう云う人に対しても上から来る事自体殆どありませんが、なんででしょうね、どんなに綺麗な言葉遣いをしていても、鼻持ちならない感じを持ってしまう人とそうではない人がいるのは。
素直に受入れられないものを感じてしまうか否か、この辺が人間性の差と云う事になるのでしょうか。
必要以上に頭を低くする必要もありませんが、対等で然るべき状態の時でさえ、人を上から見てしまう人って、一体何なんでしょうねえ。
気の毒に思われてるって、早く気付く事が出来たらいいんですけどねえ、無理でしょうね(爆)。

好意ではない

2010年12月11日 | Weblog
やる方にとっては好意でも、やられる方には明らかにお節介の域に入っていると思われる事が多々ある訳ですが……。
自分が幸せで調子がいいと、そうでない人に同情やら何かしてやりたいと云う気持ちになるのは分からないではありませんが、やり方を間違えると単なるお節介どころか傷つけるだけになる事も多いと思います。
その人の為を思っての事であればあるほど、余程言動に気をつけないとこの手の事は実はとっても難しいと思うのですが、お節介状態になる人に、なかなかその辺に気付く人は少ないかも。
押しが強いんですよね、そう云う人って。
自分がいいと思った事を、自分とは全く違う人間相手だと云う事を忘れてぐいぐいと押しつけて来る。
考え方を変えたり気持ちを切り替えたり出来たら好転するかもしれないと分かっていても、どうしてもそう出来ないでいる時、この押しの強さでますます深みにはまってしまいそうになる。
ほら、私はこんなに幸せなんだからあなたも早くこっちに来なさい、そんな具合で、これ見よがしに自分の幸せを見せびらかして、どんどん追い込んで来る。
あなたが幸せだと思う事が、他人も幸せかは分からない。
そう云うの好きじゃないんです、そう云いたくても、押して来る人には何を云っても通じません。

相手のある事と云うのは、必ずしも相手が自分たちの思っているような状態になるとは限りません。
相手は他人であって、自分たちと同じではないのですから。
そんな風に思われるなんて心外とか、まるで受取った方に責任があるように云われる事もありますが、それこそ心外と云うものです。
どう感じるかなんて、その人以外の誰に分かると云うのでしょう。
自分たちの思ったように相手が思わなかった、その上傷ついたと云うオマケまでついてしまっているのに、そんな風に思われるなんて思わなかったなんて、受取り方が変だとばかりに云われるんですからね、これをお節介と云わずに何と云うのでしょう。
でもこう云うタイプの人たちって、矢鱈切替が早かったり直ぐ次に移れたりと、全く引きずると云う事がない。
と云うか、端から傷つけたと云う事を認める気がないんだな。
ですから相手がどれだけ落込んでいようと、既に過ぎ去った事、自分たちには無関係なのです。

ホントに哀しくなるんですよね。
結局人の痛みを知ろうともしないで、好意でした事だから自分たちは悪くない、折角眼をかけてやったのに……、こんな具合で傷つけるだけ傷つけられて、その上あんたが変なのよと思わされるんだから、やってられません。
こう云う人、セラピストやヒーラーにもいるんですから恐ろしい事です。

違いって

2010年12月10日 | Weblog
モノに頼る云々云われた事があり、それ以来ずっと考えている事があるのですが、そもそもモノとは何か。
その人によって、モノの概念と云うのは違って来るのでしょうか。

私はある絵の事で思い悩んでいますが、これはパワーを持った絵だと云われいて、必要のある人や場所にしか行かないと云われています。
パワーのほどは自分でも実感した事があるし、何時か1つでいから欲しいと思っていた絵です。
展示会へ行った時、これがあなたの絵だと云われたものが見つかり私のところへ来てくれたのですが、この見つかり方も入手までの経緯もとても不思議で、本当に行く人の所へ行くのだなと心が浮き立った覚えがあります。

でも私が絵を買った事に対しての周囲の反応は面白いほどに真っ二つでした。
痛い出費で買った事は話した人みんなが知っているとは云え、一方は自分の事のように大喜びしてくれる人、当然もう片方はその逆です。
よかったね、きっといい事あるね、自分は欲しくてもなかなか買えないけど嬉しい云々云われると、自分の事のように喜んでくれるその思いに感謝して、改めて大事にしようと思うのですが、大変な思いの出費をしてまで買うなんて本当に必要だったとは思えないと云う人もいたし、モノに頼っていると云うような云われ方もありました。

批判的な云われ方に対しては、非常に落込んで辛い思いをしました。
云われた通り、楽に買えた訳ではないし、その後、単純な勘違いではありましたが、金銭的な問題が発覚してしまったので、絵を買った事をあれこれ思い悩んだので。
ただ、この件についてはその後の事も含めて自分の中で解決して決着がついたので、今はもう気にもなりません。
が、もう1つ、モノに頼ると云う事については、若干の違和感が残っています。

この絵はモノな訳ですが、では他のモノとの違いは何なんでしょう。
持っていると幸せになるとかお守りになると云う点においては、他のそう云うモノとこの絵と何が違うのか?
自分が信じているモノの置物やカード、流行りのパワーストーン、これらだって立派にモノではないかと思います。
特にパワストなんかは、アクセサリーとして身につけている人以外に、お守りや明確な意図を持って所持している人が沢山いますが、これは私の絵と何が違うのかと思ってしまう訳で。

私も、幾らパワーがある不思議な絵だと云われていても、手元に来たから必ず何かが起きるとは思ってもいないし、また起きないからと云って腹が立つ訳でもありません。
前々から欲しいと思っていた、そう云う云われのあるものが自分のモノになった、単純にそう云う嬉しさだけしかない。
この絵を買った事がモノに頼ると云う事になるなら、魔除けだ何だとパワストつけたりお守り持ってる方が余程モノに頼っている気がするのですが、そう云う人は、これあなたの絵とは違うと云う明確な何かがあっての事なのでしょうか。
意味も気にせずただ好きだから、綺麗だから持っているだけ、とでも云うなら話は別ですけどね。

人によって考え方は色々あると思いますが、私が絵を買ったと云う事で、自分はモノには頼らないのでと云われた時感じた違和感は、そう云う人も意味を持たせたパワストなんかは普通に持ってると云う、この辺にあったりします。
それに否定的な事を云う人は、買ったのはあくまでも私なのに、それをなぜか自分に置き換えた感覚で意見してくるのが不思議でした。
あなたがどうかなんて事は全く関係ないし興味もないんですけどね、自分はこうだと云うのがベースにある上で語るんだな。
まあ私が、絵を買った自分をまだ100%認められていないのと(身の丈にあっていないと云う事です)、理屈っぽいと云う事だけなのでしょうけれど、私はそもそも頼る為に買った訳ではないので、なぜ頼ると云う風に解釈されてしまったのかが未だ謎だし、否定的な見解を述べた人はみんな、ある種類(って、直ぐ分かりますね・笑)に関連の方と云うのがね、かなり不思議なんですけどね。

信じると云う事

2010年12月08日 | Weblog
先日、見ていたドラマの中で何度も「信じる」と云う事について、印象的なフレーズが出て来ました。
信じると云う言葉を使う対象を考える時、あの人を信じる、あの人は信じられないとか、他人に対して使う事が殆どですが、ドラマでは、自分自身を信じられるかと云う事についても盛んに出て来ました。
自分を信じるとか信じないとか、考えた事もありません。
信じると云う言葉が向けられる先は、常に自分以外の人やモノでしかなかったので。

正直な話、自分を信じると云う事については、よく分かりません。
何を持ってそう云う事を云うのか……。
例えば、出来そうもない事であっても、自分なら出来ると云う風に思うとか、そう云う事でしょうか?
信じると云う事を考え始めると、あれこれ思う事が多く複雑な気持ちになります。
何度も信じてはしくじり裏切られて来て、信じたくても信じ切れないと云う現実があるので。
信じて委ねると云う事を云われますが、その委ねる加減も、すっかり忘れるほどになってしまっていいものか、それともやっぱり何時も頭の中に置いておくべきか、日々をどう云う思いで生きて行けばいいのか……。
頭の悪い人間には、分からない事ばかりです。

聞けば答えてくれる、お願いしなさいと云いますが、些細な事にさえ答えて貰った事のないものもここにいます。
心がけが悪い、聞き方、お願いの仕方が悪い、受取る気がない、気付こうとしない……。
前出の事を云うと、まず確実にこれだけの事は云われます。
結局私に非があっての事と云う話ですが、淘汰されていると思うのは間違いでしょうか。
或いは、繋がっている(認められてる)人だけの世界……。

守護天使は必ず誰にでもついているそうです。
これは本当かもしれません。
でも、ついているだけでしかないかもしれません。
ただそこにいるだけで、何の手出しもしない。
頼めば助けてくれる、頼まなければ手を出せないと云われますが、私の頼みごとは今のところ全く届いてもいないようです。
でもそれを云うと、また云われるのですよ、あなたに問題があるからと云うような風に。

私は欠点だらけの出来損ないですが、どこをどう直せば願いを聞き届けて(認めて)貰えるのでしょう。
繋がれるよう、聞き届けて貰えるよう、沢山、本当に色んな事をしました、自分の出来る精一杯で。
でも状況は一向によくなりません、むしろどんどん悪くなる一方。
願って祈って信じてどんどん逆の悪い方へ向かって行く……、これ以上私は、何をどうしたらいいのでしょうね。

人は幸せになる為に生まれるなんて嘘でしょう?
私の何倍も苦しんでいる人達は、この言葉を素直に受入れられるのかと思います。
受入れられない限り幸せになる資格を得られないと云う事か?
乗り越えられない試練は与えられないなんて云うけれど、乗り越えられずに死んでしまった人は弱さを咎められ、斬って捨てられるのでしょうか。
人は幸せになる為に生まれる、乗り越えられない試練は与えられないなんて事は、相手と程度を考えて云わないと、励ましどころか地獄に突き落とす、鬼のような言葉です。
これで立ち直れる人だけではないと云うのに、と云うより、こんな事で励ませると思い込んでいる事自体恐ろしくさえ思えますが、励ましている気で突き落とす、生き地獄です。

受入れられない事

2010年12月05日 | Weblog
素直ではないとバッサリ斬捨てられそうですが……。
私は親しい人が本当に少ない上に、誰に対しても自分の本心を話すと云う事がなかなか出来ません。
勇気をふりしぼって話した結果、信じて貰えない上に一笑さた、そんな事ぐらいと云われてしまったりすると、やっぱりと云う失望と否定される恐怖、これはそう簡単には払拭されるものではありません。
1度だって充分にダメージなのに、こんな事ばかり続いたら、やっぱり私は変なんだと実感させられるし、もう何も話さなくていいと思ってしまいます。
段々人と知り合うと云う事自体恐ろしくなって来て、親しくなるとか仲良くなると云う風に出来ない。
でも私のようなタイプは、相手が受け入れ態勢であってもこちらがそのようにしない、手を差しのべられているにも関わらず殻に閉じこもったまま相手を受入れない、自分自身が現状を選択してるとも云われます。

私をおかしなやつだと思うかもしれない、傷つけられるかもしれない、そう云う思いの方が先に立ち、何でも話してと云われたところで、簡単に、じゃあお話しましょうとはなれません。
普通の人は、何でも話してと云われたら、何の不安も遠慮もなくすぐ心を開いて話せるのでしょうか。
お金を払って仕事として話を聞いてくれる人になら、私の嫌な話への代価があるのですから何でも話せます。
ただ話し過ぎて、その後に、やっぱり失敗したと思う事の方が多いけど……。

何度も繰り返される事が傷を増やしていると、今度こそ大丈夫と云う思いは段々薄くなって行きます。
逆に、また嫌な思いをする、そんな思いに囚われて来る。
何時になったら、どれだけ繰返したら、今度こそと云う思いが成就するのでしょう。
動き回り、行動を起こして失敗ばかりして来たのに、動けないでいると行動を起こさないのが悪いと云われる。
こうすると決めたり考え方を変えただけでいいと云う人もいれば、靴を履き外へ出て、今迄した事がない事をしないと行動を起こした事にならないと云う人もいる。
一体どうしたらいいというのか、私には本当に分かりません。