日々、土器実測(仮)

発掘された遺物の図化作業メインのお仕事ブログのはずが、日々の徒然・スピ話ばっかりになっちゃってる日記。

常日頃

2020年05月27日 | Weblog
上手く行っているからと調子こいて、上から目線のデカい態度でいる、永遠にいい状態が続くのならともかく、生きていれば何があるか分かりません。
必要以上に遜る必要はありませんが、常々偉ぶらずひけらかさず謙虚である、これは大事、特に御商売などされているならば……。

エラソーにしたくても、そんな中身もなければ固める鎧も持っていないワタクシとしては、何時か上手く行くような事があっても、謙虚にいようなんて事を考えています。
上手く行く何時かがいつ来るのかは分からない、永遠に来ない可能性の方が高いですが(笑)。

人の不幸は蜜の味と云いますが、その人の不幸を蜜の味と思われるような人は、恐らく常日頃から、何かしら思われている(よくはないと云う意味で)のだろうと想像します。
自慢話ほど聞きたくないものはないとも云いますが、そう云う話しばかりしている人だから、不幸になれば蜜の味、なんて云われるのでは、とも思う。
聞きたくない話と、不幸は蜜の味は、表裏一体。

自慢話と云うのは、満たされている人には元来必要ないものでしょう。
いい気分で語っても、話の内容によっては、自分の(低めの)価値観を露呈する事もなります。
ひけらかすと云う行為自体が、その人の中身を測りたくなるような、余計な詮索を生んでしまう気もします。
異常な承認願望にもつながっている訳で、どれだけ虐げられてきたのか、はたまた余程自分に自信がない事のあらわれなのか?などと、考えてしまったりする。

最近、こう云った事を思い返すような事が多発していて、改めて色んなこと事を考えています。
自分も、価値観は相当に低め設定だと思うので、いい事があれば、しょーもない自慢なんかをしてしまう可能性は大いにあり、ちょっと我が身を見直さねばと思った次第です。

何であれ、自分自身が気分よく生きていられれば、変な自慢話をして優越感に浸る必要もない訳で。
周囲を見れば、羨ましいと思う事は沢山ありますが、そうなりたいかと云えばそうでもない。
今みたいな世の中だと、基準や価値観に揺らぎが起きていて、何が幸せかが分からなくもあり、今までのひけらかしが、ちゃんちゃらおかしく思えてしまうようになるかもしれません。

世の中が変わって行くにせよ、自慢話は聞きたくないし、人の不幸は蜜の味、それは変わらないのかな。
幸せだと感じる人が増えれば、自ずと自慢話は減って行くのかもしれませんが……。