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都月満夫の短編小説集2

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「徐福伝説とは?」について考える

2013-03-08 11:14:59 | 神話・御伽噺・民話・伝説

今から2200年前、中国が秦(紀元前778 - 紀元前206年)の時代に「徐福(じょふく)」という人物がいました。

Photo まだ、日本が縄文時代から弥生時代へと変わろうとしていた頃の話です。

 司馬遷(紀元前14586年)の『史記』によると、「徐福」は「斉の国(始皇帝によって滅ぼされた国で現在の山東省あたりにあつた)」の「方士(ほうし」という身分だということです。

方士」とは、呪術師であり、医薬、天文、他の学問にも精通していたもののことらしいのです。

紀元前210のことです。「徐福」(前259~前208?) は「始皇帝」(前259~前210)に、はるか東の海「蓬莱(ほうらい)」・「方丈(ほうじょう)」・「瀛洲(えいしゅう)」という「三神山」があって仙人が住んでいるので不老不死の薬を求めに行きたいと申し出ました。この願いが叶い、莫大な資金を費やして一度旅立ちました。

しかし、数年経っても仙薬を手に入れることはできませんでした。このまま帰れば皇帝は怒り、殺されてしまうかもしれません。そこで、徐福は偽りの報告をします。

出航したものの大鯨に苦しめられ、行き着くことができませんでした。」(台風を大鯨にたとえたのかもしれない)

さらに、「徐福」は言いました。

「私は海上で海神と出会いました。海神に不老不死の仙薬を探していると話したところ、海神はこう申されました。『おまえの主君の礼が足りないから仙薬を手に入れることができないのだ』。そのあと私は海神に蓬莱山にある宮殿に連れて行かれました。そこで、海神に仙薬を手に入れるにはどうしたらいいかと尋ねました。すると、海神は『童男童女(若い男女)と道具や技術を献上しなさい』と言われました。」

これを聞いた始皇帝は、「そんなことであったか・・・」と大変喜びました。

紀元前219、始皇帝は「徐福」に「童男童女(若い男女)3000人」、「米・麦・粟・キビ・豆」などの五穀の種、農具、武具や造船、航海、養蚕などの技術者をつけて、再度航海に出しました。これを「五穀百工」といいます。

佐賀県に伝わる『金立山物語』によると、男女500人となっています。(中国人は大袈裟に言う傾向があるので、どちらが本当かは分かりません)

そして、何日もの航海の末にどこかの島に到達しました。実際、「徐福」がどこにたどり着いたかは不明ですが、「平原広沢(へいげんこうたく/広い平野と湿地)の王となって中国には戻らなかった」と中国の歴史書に書かれているそうです。

この「平原広沢」が日本であるともいわれています。

実は中国を船で出た「徐福」が日本にたどり着いて永住し、その子孫は「秦(はた)」と称したとする「徐福伝説」が日本各地(佐賀県鹿児島県宮崎県三重県熊野市和歌山県新宮市山梨県富士吉田市京都府与謝郡愛知県など)に存在するそうです。

秦氏(はたうじ)

『日本書紀』で応神天皇14年(283年)に百済より百二十県の人を率いて帰化したと記される弓月君を秦氏の祖とする。『新撰姓氏録』によれば秦の始皇帝の末裔とされるが、その真実性には疑問が呈せられており、その出自は明らかではない。

Feペディア

もともと「徐福」は不老不死の薬を持って帰国する気持ちなどなかったかもしれません。「万里の長城」の建設で多くの民を苦しめる「始皇帝」の政治に不満をいだき、東方の島、新たな地への脱出を考えていたかもしれません。

「徐福」らの大船団での旅立ちは一種の民族大移動かもしれないのです。

後に「徐福」に騙されたと知った始皇帝が、中国に残った徐福の親族を迫害したのは言うまでもありません。

「徐福」は中国を出るとき、「稲など五穀の種子と金銀・農耕機具・技術(五穀百工)」も持って出たと言われます。一般的に稲作は弥生時代初期(徐福以前)に大陸や朝鮮半島から日本に伝わったとされますが、実は徐福が伝えたのではないかとも考えられるそうです。

「徐福」が日本の国つくりに深く関わる人物だったのかもしれません。中国には、「徐福」が「神武天皇」だとする説もあるそうです。

だとしたら、「徐福」は日本人のルーツかも知れないのです。

どうです。弥生時代に文明を持った人間がやってきたとしたら、彼らを神だと思っても不思議はありません。日本神話の神々は彼らだったのかもしれません。

しかし、「徐福」という名は歴史の教科書にも登場しないので日本人には馴染みがありません。

実在したかどうかもわからない人物が歴史に登場しないのは当然かもしれません。

今から2000年以上も前のことなのに、江戸時代にあったことかと思ってしまうような話として伝わっているものもあるそうです。

このように、徐福は長い間中国でも伝説上の人物でした。

しかし、1982年、江蘇省において徐福が住んでいたと伝わる徐阜村(徐福村)が存在することがわかり、実在した人物だとされました。

斉の国 琅邪 (現在は山東省) 江蘇省 連雲港市かん楡(ゆい)県金山郷徐阜村

Photo_2

そして、徐阜村には石碑が建てられました。驚くことに、その村には現在も徐福の子孫が住んでいるそうです。代々、先祖の徐福について語り継がれてきたそうです。大切に保存されていた系図には徐福が不老不死の薬を求めて東方に行って帰ってこなかったことが書かれていたそうです。

又使徐福入海求神異物、還為偽辭曰:『臣見海中大神、言曰:「汝西皇之使邪?」臣答曰:「然。」「汝何求?」曰:「願請延年益壽藥。」神曰:「汝秦王之禮薄、得觀而不得取。」即從臣東南至蓬萊山、見芝成宮闕、有使者銅色而龍形、光上照天。於是臣再拜問曰:「宜何資以獻?」海神曰:「以令名男子若振女與百工之事、即得之矣。」』秦皇帝大?、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤、止王不來

? 司馬遷 「淮南衝山列伝」『史記』巻118

この壮大な話は聖書の「ノアの方舟」のようで、歴史ロマンを感じます。

Photo_3

「徐福」という名前は“haruさん”に教えていただいて初めて知りました。面白いのでまだ続きます。

したっけ。

コメント (8)
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倉内佐知子

「涅槃歌 朗読する島 今、野生の心臓に 他16篇(22世紀アート) 倉内 佐知子 22世紀アート」

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