都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
「正月」とは本来、その年の「豊穣(ほうじょう)」を司る「歳神様(としがみさま)」をお迎えする行事であり、1月の別名です。
現在は、1月1日から1月3日までを「三が日」、1月7日までを「松の内」、あるいは「松七日」と呼び、この期間を「お正月」と言っています。
元々は、年が明けてから初めての望月(満月)までの15日間でした。
松の内の短縮については、寛文2年(1662年)1月6日 (旧暦)、江戸幕府により1月7日 (旧暦)を以て飾り納めを指示する最初の通達が江戸の城下に町触として発せられており、それに倣った風習が徐々に関東を中心に広まったと考えられています。
松の内とは正月に飾る松飾り(門松)を立てておく期間のことをいいます。年の暮れに松飾り(門松)を立ててお迎えした年神様に滞在していただく期間で、松を取り付けている間とか、神様に待っていただく間などという意味といわれています。
地方によっては1月20日までを正月とする(二十日正月・骨正月)こともあります。
はつか‐しょうがつ【二十日正月】
正月20日のこと。正月の祝い納めの日として、餅や正月料理を食べ尽くしたり飾り物を納めたりする。骨正月。《季新年》
大辞泉
「二十日正月」は、「松納め」、「正月送り」また、「あがり正月」などともいい、正月の終りとなる節目の日であり、かつては正月の祝い納めとして仕事を休む「物忌みの日」であった。万事のんびりした昔の人もこの日の行事をもって正月を終了したようです。
「鏡開き」は、正月に年神様にお供えした鏡餅を雑煮や汁粉にしていただくことによって、一家の今年1年の円満と無事息災を願う行事であり、鏡餅は神棚や床の間などに飾った。
「鏡開き」のときに、元は20日であった「鏡開き」が慶安4年(1651年)4月20日の徳川家光の死去に伴い、11日に変更されたと書きました。
京阪神地方では、もともとの鏡開きの20日が「二十日正月」として、正月に供えた鏡もちを食べたり、正月に用いた「鰤(ブリ)の骨や頭」を酒粕・野菜・大豆などと一緒に煮て食べたりする風習がありました。これを「骨正月」ともまた「頭正月」とも言っていたそうです。
「鰤(ブリ)」は、小より大に至るに従って次第に名を変える「出世魚」です。人も師の教によって心の徳が増し成長します。そこで、縁起のよい魚として「魚+師=鰤」の字をあてたと言われています。
昔は年末に、正月用の鰤を一尾まるごと買い荒縄で縛って、はしり(台所の流し)などに吊るしておき、少しずつ切り取り料理したそうです。
20日にもなると身もほとんどなくなって頭や骨ばかりになったような鰤や神棚からのお下がりの硬くなった餅や串刺しの干し柿などを食べ尽くしたそうです。
そして、この日に小正月の飾り物も取り納め仕事始めとしたそうです。
また、20日を「乞食正月」と称して、乞食が家々を回って残り物をもらうという地方も昔はあったようです。
この「鰤」を食べつくす習慣が「骨正月」由来です。
他の地方でもお正月の御馳走や餅などを食べ尽くす同様な風習があったようですが、今は20日までお正月気分でいるわけにはいきません。
念のため申し添えますが、最初に書いたように正月とは1月の別称でも有りますので31日までは「正月」なのです。
したっけ。
。一般的には、田んぼや空き地に、長い竹(おんべ)や木、藁(わら)、茅(かや)、杉の葉などで作ったやぐらや小屋(どんどや)を組み、正月飾り、書き初めで飾り付けをしたのちそれを燃やし、残り火で、柳の木や細い竹にさした団子、あるいは餅を焼いて食べるという内容で1月15日前後に各地で行われます。
このような、全国の「どんど焼き」行事は、最北端が秋田県、最南端が鹿児島県で実施されているようです。
実施時期は東北地方から九州地方まで、ほぼ1月14日ないし15日だそうです。
それは、この行事が小正月の行事だからです。
北海道では、このような習慣がないので神社の境内で行なわれます。
どんど焼きは「どんと焼き」、「左義長(さぎちょう)」などとも言われおり、小正月(1月15日)に行われるものです。どんど焼きではお正月に飾っていた松飾りや注連縄(しめなわ)、注連飾り(しめかざり)をお焚き上げする日本古来の伝統的行事であり、丁度一年に一度お札やお守りを取り替える時期であることから、近年は全国的にお札やお守りを一緒にお焚き上げするようになっております。
毎年変わらず「1月15日」に行います。(成人の日には関係ありません)
どんど焼きは古来よりの風習として小正月の1月15日に行うもので、成人の日とは全く関係ございません。また地方によってはこの日以外に行う所もございますが(札幌や函館等)この十勝地方の神社では一律で1月15日に行っています。
尚、帯廣神社では当日の午前8時に神聖な忌火によってお焚き上げを行っていますが、当日お越しになれない方には事前に社務所でお預かりし、当日お焚き上げ致しております。また当日を過ぎましても定期的にお焚き上げを行っておりますので、必ず社務所までお持ち下さい。
その際、燃えるもの・燃えないものについては、分別を頂きお持ち下さいますようご協力をお願い致します。
▼ 燃やせるもの (お焚き上げを致します)
おふだ・お守り・しめ飾り・破魔矢その他神社で頒けているもの。帯廣神社のお守りのビニールは全て燃やすことができます。
▼ 燃やせないもの (お焚き上げはできませんが、お預かりしお祓いして処分致します)
プラスチック・ビニール・金属・ガラスでできているもの。しめ飾りのお飾りは外して下さい。
▼ 持ち帰ってもらうもの
鏡餅・ミカン・人形・置きもの・写真・年賀状・寺院等の御札・その他神社に関係の無いものはお預かり出来ません。
※現在法律等で野焼きが禁止されています。しかし宗教行事等で伝統的な行事(どんど焼き)などは、特例として認められています。分別にご協力を頂かなければ、今後どんど焼きが行えなくなることも考えられますので、是非とも分別にご協力下さい。
「どんど焼き」の別称として「左義長(さぎちょう)」という呼び名がありますが、これがどんど焼きの起源とも関わっているといわれています。
「左義長(三毬杖)」は、正月十五日、平安時代の宮中で、清涼殿の東庭で青竹を束ねて立て「毬杖(ぎっちょう)」三本を結び、その上に扇子や短冊などを添え、「陰陽師(おんみょうじ)」が謡いはやしながらこれを焼いたという行事です。
それが民間に伝わり「どんど焼き」となったといわれています。
火は穢れを浄め、新しい命を生み出します。竹の爆ぜる音は災いを退け、高く上る煙に乗って正月の神様が帰ります。
「どんど焼き」は、祓い清めという役割と、正月に 浮かれた人々を現実世界に戻す、二つの役割を担った行事とおもわれます。
この火にあたると若返るとか、焼いた団子を食べると病気をしない・虫歯にならないとかいわれています。
また、燃やした書初(かきぞめ)の紙が高く舞い上がると習字が上手になり勉強もできるようになるなどともいわれています。
お守り、いただいたお神札(おふだ)に感謝して、古神札の焼納やだるまなども燃やします。
その他にも、1年中の「身体健康」、「無病息災」、「家内安全」、「五穀豊穣」などを祈願しているそうです。
「正月飾り」を燃やすという行為から、「正月の神様(歳神様)」が空に帰っていくという意識が働いているものとみられます。
「どんど焼き」の語源については、火が燃えるのを「尊(とうと)や尊(とうと)」と囃(はや)し立てたことから、その囃し言葉が訛(なま)ったという説と、文字通り「どんどん燃える」様子からそれらの名称がついたという説があります。
したっけ。
「賽子(さいころ)」といえば、「盤双六(ばんすごろく)」ですが、」平安時代には囲碁と並んで人気のあったものだそうです。今の双六と違い賭博性が高く689年に禁止令が出るほどでした。
ただこれは、今の「双六」とはまったく違います。「バックギャモン」のような物でルールも複雑怪奇なので省略します。
詳しく知りたい方は、「平安のヒットゲーム双六」を見てください。
今の双六は江戸時代に出てきたもので盤双六とは違います。盤双六は、奈良時代に伝わってきたということです。
さい‐ころ【賽子/骰子】
「さい(采)1」に同じ。「―を振る」
大辞泉
「賽子(さいころ)」の「ころ」は接尾語。「ころ」は「子ら(複数形)」に由来。
そもそも「ぞろ目」とは「揃い目」の事で、「さいころの目が揃う」という事に用いられたようです。
古来日本では「ぞろ目」のことを「重~」と 呼び慣わしたそうです。
「重一(でっち じういちの転)」、「重二(じうに)」、「重三(じうさん)」、「重四(じうし)」「重五(でっく じうごの転)」、「重六(ちょうろく)」と呼びました。
しかし、「三」と「四」ばかりは「朱三(しゅさん)」、「朱四(しゅし)」と呼ぶようになります。
これには、次のような話が残っています。
「唐の玄宗皇帝と楊貴妃が双六をなされたとき、皇 帝が重三の目を出したいと思われ、『朕の思い通りになるなら五位に叙そう』と申されてお振りになられると、見事重三の目が出た。一方楊貴妃の番となり重四の目を出したいと思われたとき、『私の思い通りの 目が出たなら共に五位としましょう』と言って振ると、重四の目が出た。こうして共に五位に叙された賽は五位の印『紅袍』をまとう代わりに、目に朱が指されるようになったので、重三・重四を朱三・朱四と呼ぶ ようになったのです。」
平安当時、というより日本の「賽」には三にも四にも朱は指していません。
「賽子(さいころ)」の目はもともと全て黒かったのです(骨董の「さいころ)はみんな黒のはずです)。
1の目だけが赤い「賽子(さいころ)」は日本特有のものです。もともと、1926年に和歌山県のさいころ製造業者が日の丸をモチーフに1の目だけを赤色にして売り出したら、それが大当たりしました。それ以来、1の目が赤い「賽子(さいころ)」が一般的になりました。
また、「一天地六」というように、賽の目は天地の合計が七になります。
時代劇で赤い目の「賽子(さいころ)」が出てきたら、時代考証の誤りです。
また、「ぞろ目」は「同目」と書きますが、そのことを博打用語では、「ため」と言うそうです。「同目(どうめ)」が訛ったようです。
その「ため」は、同じ目という意味であるので、対等・同等という意味として、1960年代のころから不良少年の間で使われ始め、同じ年同士のものを「ため」と呼ぶようになり、そして、その同じ年同士の間の口のきき方を「ため口」と呼ぶようになったそうです。
「不良少年」はちょっと古かったでしょうか
したっけ。
「破魔矢(はまや)」とは、神社で正月に縁起物として授与している矢のことです。
元々は「浜弓浜矢(はまゆみはまや)」といって、宮廷や民間において、正月に「射礼(じやらい)」として弓矢を射たときに使われたことに由来します。
射礼(じゃらい)とは、宮中において毎年正月17日に行われていた歩射(ぶしゃ/かちゆみ )の競技の1つ。 『日本書紀』(720年)によれば古来より宮中における弓競技が行われ、最古の例 は清寧天皇4年9月1日(483年10月17日)とされています。
「はま」とは『貞丈雑記(ていじょうざっき)』(1843年)によると、「大和国(奈良県)吉野郡地方」や「土佐国(高知県)地方」で、正月に子どもが弓を射るときの的の穴をいうのだという。
すなわち,的は縄を巻いて直径1尺(30cm)ほどの輪をつくり、その中に鍋敷の形をした、差し渡し(直径)2~3寸(6~9cm)の穴をあけ、これを「はま」と称し、この「はま」を射るのが「はま弓はま矢」であるという。
かつては神奈川県の破魔矢奉製所が商標登録していまたが、現在は商標登録されていません。商標登録されていたときにはニュースでも「魔除けの矢」などと言っていたそうです。
この名称が広まったのは昭和以降だそうです。
※破魔矢発祥の地新田神社(東京都大田区)
御祭神の御塚後部には、源氏の白旗を立てたものが根付いた「旗竹」という昔から決して神域を越えることがない不思議な篠竹が生えており、雷が鳴るとこの竹がピチピチと割れたという言い伝えがあります。
江戸時代には、「エレキテル(摩擦発電機)」などを製作した蘭学者平賀源内がこの竹で厄除招福・邪気退散の「矢守(破魔矢の元祖)」を作り、広く御祭神の御神徳を仰がしめることを勧めました。
爾来、毎年正月初詣の人々に社頭で授与しています。神棚、お部屋、玄関などにお飾り下さい。
尚、東面または南面に飾ると、御加護の霊力がアップします。
新田神社HPより
また別の説では、元々は武家の風習で、戦場に赴く前に武運長久を祈願して神社に甲冑・刀・槍・弓矢などを奉納した際、参拝した神社から守護神のご加護の証として模擬の弓矢をいただき、これを戦場での御守護として奉ったことが発祥の由来と言われています。
江戸時代の後期には一般庶民の間にも広がり、男児の成長を祈願して神社に参拝した際に、破魔矢と破魔弓をセットしたものを授かったとされています。
明治以降は、魔を射り破るという意味合いから魔除けの弓矢と言われ、現在では主に初詣に神社へ参拝した際に、「開運厄除・家運隆昌」を祈願して破魔矢を持ち帰り、神棚に立て祀ります。
神棚のない家は、玄関の扉の内側上部に取り付けて「厄い封じ」として用いるのも良いとされています。
通常は購入後1年を経過すると効力を失うとされて買い替えるのが一般的ですが、古いものは次年正月の初詣の機会にでも神社に持参して焼却してもらいます。
したっけ。
1月11日は「鏡開き」です。「鏡開き」は、もともと新年の仕事・行事初めの儀式の一つです。
お正月の間供えられていた鏡餅は持て余しがちですが、それを有効に利用する合理的な行事が「鏡開き」です。
できれば飾る段階でカビ対策をしておくと楽に調理できます。上下の餅が重なる部分と底に、清潔なはけやカット綿を使って焼酎を塗っておくと殺菌消毒になります。
今は、パックの鏡餅ですから心配は要りませんか、自宅で丸めて作る方は参考にしてください。
調理の際は、できれば習わしのように刃物を使わず、ひびのところから折ったり 木槌で叩いたりして食べやすい大きさにします。
これをお汁粉やお雑煮に入れて食べるのがもっとも一般的な食べ方です。あべかわや揚げ餅という食べ方もあります。
「鏡餅」は、昔の「鏡」に由来します。昔の鏡というのは丸い形をした「銅鏡」ですが、鏡というのは、天照大神から授かった三種の神器のひとつであり、伊勢神宮をはじめ、鏡をご神体としているところもたくさんあります。
「鏡餅」は年神様の依り代ですから、ご神体としての鏡をお餅であらわし、「鏡餅」と呼ばれるようになりました。
丸い形は、昔の丸い「鏡」を模しており、魂の象徴でもあります。大小2段で月と太陽、陰と陽を表していて、円満に年を重ねるという意味も込められています。
「鏡餅とはなんなのか」について考えるより・・・
昔、武家では正月に鏡餅を供え、正月20日にこれらを割って食べるという習慣がありました。男性は具足(鎧や兜のこと)にお供えした「具足餅」を、女性は鏡台に供えた「鏡餅」をそれぞれ雑煮にして食べたことがこの行事のはじまりです。
「二十日(はつか)」を「刃柄(はつか)」にかけていたのです。
しかし、慶安4年(1651年)4月20日に三代将軍徳川家光がなくなったために、20日を忌み日として11日になったそうです。
この11日は、江戸時代の大名が行った米蔵を開く儀式や、商家などで新年初めて蔵を開いて商売繁盛を祈る「蔵開き」に由来するようです。
武家社会では「切る」という言葉を嫌うため刃物は使わずに割るのですが、おめでたいときに「割る」というのも縁起が悪いため「運を開く」にかけて「鏡開き」と呼ぶようになりました。
「鏡」は「円満」を「開く」は「末広がり」を意味します。現在でも家庭や事務所で年の始めに鏡餅を供え、一年の健康と発展を願って供えた鏡餅を食べる「鏡開き」が正月の行事として受け継がれています。
さらに、鏡餅には「歯固め」という意味もありました。歯は生命の維持にとても大切で、丈夫な歯の持ち主は何でも食べられ、健康で長生きできます。
年齢を表す「齢」という字は「年歯」とも書き、「よわい」とも読みます。
「数珠つなぎにならぶ年月」という意味があります。「年歯(としは)」は年齢のほどということで、年齢の幼い場合に言うことが多いようです。
たとえば、昔は「年歯もいかない娘…」というような言い方をしていました。
また、「年歯月(としはづき)」というと、陰暦正月の異称でもありました。「齢」には長寿への願望がこめられていたのです。
また、1月11日は「塩の日」です。これは戦国時代の上杉謙信と武田信玄の故事に由来しています。
永禄12年(1569年)1月11日に上杉謙信の助けにより武田信玄のもとに塩が届いたそうです。
「敵に塩を送る」という言葉の語源となっています。これは、相対している敵に対しても弱みにつけこまず、逆にその苦境から救うという忌みです。昔の人は心に余裕があったのです。
どうです、鏡餅に塩をつけて食べて、家族や身内だけでなく他人の心を思いやり、世界平和を願ってみてはいかがでしょうか。
したっけ。
今朝の帯広は今冬最低の-22.7℃でした。-20℃を下回ると自分の息で睫毛や眉毛に霜がつきます。顔が痛くなります。手袋をつけた手も冷たいです。
このところ、最低-18℃前後、最高-5℃前後の日が続いていました。
最高気温がマイナスの厳寒の北海道から久し振りに不思議発見です。
くちとり‐ざかな【口取り×肴】
饗膳(きょうぜん)で吸い物とともに、最初に出す皿盛り物。かまぼこ・きんとんや魚・鳥・野菜の類を、甘みをきかせて調理したもの。3品から9品まで奇数で取り合わせる。古式の本膳(ほんぜん)料理では、勝栗(かちぐり)・熨斗鮑(のしあわび)・昆布を三方にのせたもの。くちとりもの。くちとり。
大辞泉
『大辞泉』を見る限り、北海道とは違うことに気づきました。
北海道の正月には「口取り」が欠かせません。
北海道の「口取り」とは何でしょうか。外観はおせち料理のようなのですが、実際には「お菓子(和菓子)」でできています。
主に正月用に店頭販売されるのが年末の恒例となっています。
「口取り菓子(くちとりがし、くちとりかし)」といいます。これは、本膳料理に添えられる菓子のことなのです。
「口取り菓子」はどういうものかというと、正月に食される御節料理(口取り肴)に模した菓子として、海老・鯛・宝船・松竹梅など縁起物に模して作り、専用の重箱(折箱)やパッケージ箱に詰めて販売されています。
白あんを用いた練り切り、羊羹、和菓子などでできています。
また、かまぼこでできている物もあります。
今は「口取り肴」も、もちろん在りますが、それとは別に「口取り」も食べます。
そもそもなぜこうした風習が出来上がったのかというと、北海道では鯛や伊勢海老を手に入れることができない土地柄であったため、昔の人はお菓子でそれを表現したといいます。
お正月に「口取り」といえば、北海道ではお菓子のことです。
これが北海道の常識・・・。
したっけ。
昆布の歴史は古く、およそ1300年前にはすでに食されていました。昆布は古くは「広布(ひろめ)」といいました。「比呂米(ひろめ)」の万葉仮名が当てられました。
ひろめは「広める」、「お披露目」など縁起のよいもの祝いの席に登場したようです。
「ひろめ」は「昆布」の語源とも言われ、「広布(ひろめ)」→「こうふ」→「昆布(こんぶ)」となったという説もあります。
昆布(こぶ)は、その語呂(ごろ)から「喜ぶ」として縁起(えんぎ)がよいものとされています。「養老昆布」と書いて「よろこぶ」と読ませたりします。
昆布は「子生婦(こんぶ))ともいわれ、成長が早く繁殖力が強いことから、「子宝に恵まれる」、「子孫繁栄」という願いが込められています。「子生夫」「幸運夫」とも書きます。
また、「蝦夷(えぞ/北海道・東北)で多くとれるので「夷子布(えびすめ)」ともいわれ、「えびす」を「七福神の恵比寿」にかけて「福が授かる」といわれるようになりました。
蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、日本列島の東方、北方に住み、畿内の大和朝廷 によって異族視されていた人々に対する呼称である。時代によりその範囲が変化している。
5世紀後半、中国の歴史書である『宋書夷蛮伝(そうじょいばんでん)・倭国(わこく)条』で「蝦夷(えみし)」は初め「毛人(もうじん)」と表記され、大和朝廷からみて東国(あずまのくに)に住む人々を指しました。
「毛人」が「蝦夷(えみし)」に変わるのは7世紀中ごろ、斉明天皇5年(659年)にわが国が唐に朝貢し夷人を献上した「道奥(みちのく=陸奥)蝦夷男女二人を天子に示す」(『日本書紀』)からです。
この中で蝦夷は「都加留(つがる)」・「麁蝦夷(あらえびす)」・「熟蝦夷(にぎえびす)」の三種があることが述べられています。以後、「蝦夷(えみし)」は辺境に住む「王家に従わず、農桑も知らない荒ぶる民」であり、これに天皇の威徳を知らせるべき対象とされました。
「巻く」は「結び」 を意味し、仲良くつながってゆく願いを表しています。
こうして「昆布巻きは」めでたい席には欠かせないものとなりました。
したっけ。
1月7日は五節句の最初の節句、「人日の節句」です。
野の若菜、七つの草を羹(あつもの/温かい汁)や粥にして食して、お正月の疲れを癒すとともに無病息災を祈ります。
「人日の節句」、中国では「米(こめ)」、「粟(あわ)」、「黍(きび)」、「稗(ひえ)」、「簑(みの)」、「胡麻(ごま)」、「小豆(あずき)」の七種の穀物を粥にして食べていました。
また、「米・麦・小麦・栗・キビ・大豆・小豆」だったという説もあり、とにかく穀物を中心にしたお粥だったのです。
この中国の風習が「平安時代(794~1185)」の日本の都に伝わったのです。
山野に若菜を摘み、また、その場で宴を開き、和歌を詠んで楽しむ行事となりました。
「君がため 春の野に出でて 若菜摘む 我が衣手に 雪は降りつつ」
光孝天皇(830~887)『古今集』
「あなたにさしあげるため、春の野原に出かけて若菜を摘んでいる私の着物の袖に、雪がしきりに降りかかってくる。」
平安時代の中期までは、若菜は正月七日ではなく、正月初子の日に行われていたため、若菜のことを「子の日」、または「子の日遊び」と呼んだようです。
これが時代を経て、「鎌倉時代」(1185年~1333)になった頃に現代のような米で作った「お粥」に七種類の野草を入れて食べるという物に変わってきたようです。
1月7日は都人にとっては昇進日。「名を成すために、菜を食す」という縁起かつぎということで、七草に変わったとも言われています。
当時の菜は色々、草以外にも木の実や海草など多彩に入れていたようです。
春の七草は、「四辻善成(よつつじのよしなり)左大臣」が詠んだと言われる「芹なずな 御形はこべら 仏の座 すずなすずしろ これぞ七草」という和歌でご存知の方も多いと思います。
「四辻善成」(1326年~1402年)の南北朝・室町時代の和学者、歌人です。
七草粥が庶民にも広まったのは、おせち料理やお雑煮同様、江戸時代でした。
江戸時代は庶民の食文化が開花した時代ですね。
この七草粥のルーツは諸説あるのですが、農業の豊作をお祈りするために室町時代頃に始まった「七草たたき」と言うものだとする説もあります。
正月6日の夜から7日の早朝にかけて、台所のまな板の上に調理の七つ道具(杓子・菜箸・火箸・すりこぎ・卸し金・割薪・火吹き竹)を並べて、そのまな板を七回叩いたあとで、囃子歌を歌いなから菜っぱを細かく刻むと言う行事でした。
歌の歌詞は「唐土の鳥が、日本の土地に、渡らぬ先に、なずな七草、手に摘み入れて、トントントン」など地方により多少の違いがあるそうです。北海道には、このような歌は残っていません。
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YouTube: 愛媛県今治市七草がゆの歌
とにかく、七草と言うのは新年を迎えて「今年一年、健康で、食に困らず、過ごせますように」とお祈りする農事神信仰の一種から始まったものと考えられています。
★ おまけ★
昨日私が「七草セット」を買ってきました。娘も買ってきました。家内も買ってきました。
380円 × 3個 = 1,140円
どうして食べようか・・・。
したっけ。
まず、「立春(りっしゅん)」を考えなくてはなりません。「立春」はは二十四節気のひとつ。毎年2月4日ごろ。平成25年も2月4日です。
また、この日から雨水までの期間も立春という。『暦便覧』には「春の気たつをもつてなり」と記されています。この日から立夏の前日までが春とされ、その最初の日のことです。
また、立春の後で初めて吹く南よりの強い風を春一番といいます。
立春の早朝、禅寺では門前に「立春大吉」と書いた紙を貼る習慣があります。「立春大吉」の文字は縦書きにすると左右対称になり、厄除けや災難除けのまじないとされています。
そこで旧暦(太陰暦)のお正月ですが、1月1日はだいたい立春の前後になります。
通常は立春より旧暦1月1日の方が前になりますが、稀に立春の方が旧暦1月1日より前になることがあります。
今年平成25年の旧暦(太陰暦)元日はグレゴレオ暦(太陽暦)2013年2月10日です。「立春」のほうが元日より早いことになります。これを年内立春といいます。
旧暦(太陰暦)において、毎年元日がずれるという問題があります。
問題点の第一は何かというと、「ひと月の日数」なのです。
実は旧暦の基本となっている月の満ち欠けは「おおよそ30日」といわれますが、正確には「約29.5日」と端数がつく周期なのです。
1ヵ月は29.5日では暦になりません。
そこで昔の人は「大の月」「小の月」という工夫を考えました。
つまり、0.5日の端数が出ないように端数の切り上げと切捨てで、1ヵ月が30日の「大の月」と29日の、大、小、大、小…と交互に繰り返すことで対処しようとしたのです。二四六九士(にしむくさむらい)と「小の月」を覚えましたね。
なるほど、これなら0.5日の端数も問題ありません。
実はこの「29.5日」という数字もあくまで平均値であって、実際の月の運行は細かく見ていくとその月ごとに微妙に長かったり短かったり、変化があるのです。
おおむね、「29日6時間35分」から「29日19時間55分」の間です。
昔の人は困りました。月の公転周期は、機械のように正確なわけではないのです。
そこで、またまた昔の人は考えました。つまり、大、小、大、小…と単純に交互に並べるのではなく、「大、大、大、小…」と、大の月を2、3回続けたり、逆に小の月を何回か続けたりすることで、月の運行の長短のズレを1日単位で調整したわけです。
しかし、まだ問題がありました。ひと月が平均29.5日ですから、かける12ヶ月で354日となります。
29.5 × 12 = 354
354日では、太陽暦の365日と比べると、11日ばかり足りません。
昔の人はこう考えました。
「一年で11日ズレますから、3年で33日、つまりほぼ1ヵ月分。だったら、3年ごとに足りない1ヵ月分を増やせばいい!」
つまり、3年ごとに「1年が13ヶ月」という年を設けることにしたのです。
といっても、12月の次に「13月」がくるわけではありません。「同じ月を2回つづける」というやり方でした。
たとえば、普通なら「1月、2月、3月、4月…」となるところを、「1月、2月、2月、3月、4月…」という感じです。
このように一回余分に繰り返される月のことを「閏月」といいます。ですから、上の例では2回目の2月は「閏2月」といいます。
こうして、立春の前後半月以内に元日を持ってくるように調整したのです。
ですから、元日には「初春」、「迎春」、「頌春」、「新春」などと書かれるのです。
旧暦時代の名残だったのです。
したっけ。
日本の「神社信仰」のルーツは「蛇信仰」だという説があります。
蛇は祖(おや)神(がみ)で外見が男根に似ていることから、生命や精力、エネルギーの源と見なされました。
「脱皮」することから生命の再生、更新の姿であり、「不死身」の象徴と見なされました。
マムシのように猛毒を持って一撃のもとに相手を倒すことから、人間の力を越えた恐ろしい力を持つ存在として崇められてきたというのです。
「山かがし」という言葉があるように「かか」は蛇の古語であり、古代において蛇は「かか」とか「はは」と呼ばれていました。
「神」という語の語源も「蛇(か)身(み)」だというのです。
日本には様々な外来の宗教もやってきたが、あらゆる宗教と習合しながら蛇信仰は常に基底をなし、日本文化の中や「祭り」として継承され現在に至っています。
いわゆる「日本教」といわれるものの根本は「蛇信仰」なのです。
「鏡(かがみ)」は「蛇目(かかめ)」であり「蛇の目」と言う意味であるというのです。
中国から「鏡(きょう)」が渡ってきた時、蛇神を祭る古代日本人は、それを「蛇目(かかめ)」と呼んで珍重したのです。
蛇である「かか」は、様々なところに居ます。例えば、「案山子(かかし)」は山を案ずる者です。その音からして「かか」、蛇のことです。田んぼの守り神で、稲に害を成すネズミなどを払ってくれます。
正月中下旬に山や海からやってくるのでお供えをする風習があったそうです。この歳神も一本足だそうです。すなわち、蛇は案山子であり、案山子は歳神ということらしいのです。
「注連縄(しめなわ)」も歳神であった蛇が絡まる姿だそうです。つまり、「蛇の交尾」の姿だというのです。
また、正月のお供えの「鏡餅」も蛇ではないかというのです。
「蛇目(かかめ)」ではなく「蛇身(かかみ)」ではないのか・・・。すなわち二段重ねの餅は、「とぐろを巻く蛇の姿」だというのです。
これが歳神の依り代になるので、正月は鏡餅を中心にお供えをするのです。
小さい丸餅は蛇の卵であり、蛇のエネルギーの塊であるから、多く食べて体に充満させるのが年の初めの儀式となったのです。
「禊(みそぎ)」も「身殺ぎ」であり、脱皮による生命再生の儀式が発展したものでというのです。
『蛇 日本の蛇信仰』( 講談社)の中で著者である吉野裕子氏はこのような仮設を立てています。
どうですか、みなさん。蛇年にちなんで書いてみましたが、そういわれるとそんな気がしてきませんか。
したっけ。