ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

霰松原神社

2012-04-13 05:00:00 | 大阪にて

帰路は紀州街道をまっすぐ北へ進みます。実は往路は大和川まで南海本線の側道に沿って南下したのでした。

昨日のげこ亭があった寺地町駅から一つ南の駅は御陵前という駅ですが、そこから南は路面ではなく、鉄道専用の道を南下します。なので紀州街道はいつの間にか旧の国道26号線になっていて、阪堺線の終点である浜寺駅前辺りで再び合流するのです。地図を見ると軌道の少し西側に紀州街道と書いた道がありますが、昔は現在阪堺電車が走ってる軌道上が紀州街道ではなかったのか、電車を走らせるにあたって、新たに道を切り開くとは考えにくいのです。

             

紀州街道南下の話は少しおいて、帰り道での話、綾ノ町駅の手前のややこしい信号を渡ると、阪堺電車の軌道とは別れて、2車線位の幅の道になります。この道を北上するのが紀州街道ですが、そのまままっすぐ北上するとJR新今宮駅に突き当たります。住吉大社から以北の紀州街道を私たちは住吉街道と呼んでいます。大坂城近辺の谷町辺りが起点となる紀州街道ですが、住吉街道以北の紀州街道はどの道なのかよく分かりません。

             

大和川で少し足を止めて、装いも新たになった大和橋の上です。西の方角、阪神高速堺線と南海本線が交差しているところ、未だカモメが群れを成して佇んでいました。私には玉出より以南のこの阪神高速堺線は自分にとって無用の長物であり、利用したことがありません。

                       

こちらは東側、阪堺線の電車が走ってくるのを我慢強く待って、撮りました。往古の昔、この大和川を遡って斑鳩や飛鳥の地を目指していたのかと思うとロマンチックになりますが、もちろん当時の大和川は付け替えられていて、現在のこの大和川の位置ではありません。

             

大和川を渡ると、安立(あんりゅう)という街に入ります。商店街を抜けると霰松原神社という社があり、ここでも少し休憩しました。松原などと風光明媚な名前が付くような神社とは縁遠いような碑が祀られています。

                       

安立町役場って?いつの頃のことなのか、明治の中ごろ町村制が発足した頃のことなのでしょうが、一つ疑問があります。この神社の境内に置かれている碑なのですが、ここが役場の跡であるなら、安立町の役場は神社の中にあったことになるのですが、それは考え難いことではありませんか。逆に役場の跡地にこの神社を建てたとも考えられます。

             

この案内板を読んでもその詳細は詳らかではありませんが、突然文の中に天水分豊浦命神社というような脈絡のない神社が出てきますが、おそらくこの神社のことを指しているのでしょう、1200年前云々からすると、神社の方が先にあったと考えるのが妥当だと思います。

安立の地名の由来が名医の半井安立という人がこの地に住んで徳を積んだからとか、NHKの気象予報士に半井さんという女の人がいましたね。

そして紀州街道はこの辺りから堺に至るまで松原の続く砂浜であったことも記されています。熊野街道は泉佐野の鶴原で分岐するまでこの紀州街道のことを指していました。そうなると神坂次郎氏の著した『藤原定家の熊野御幸』にあった京を発った一行が藤白の地で初めて海を観たというのは事実ではなくなります。

もう一つ紀州街道のルートとしては、旧の国道26号線を南下して、岬町深日で一旦加太方面へと向かう大川峠越えの道もあったと言います。

                       

天武天皇の第4皇子・長皇子の歌、万葉集にも収録されています。“霰打つ あられ松原 住吉(すみのえ)の 弟日娘(おとひをとめ)と 見れど飽かぬかも”と、慶雲3年9月、文武天皇難波宮御幸の際に作られた歌だそうです。弟日娘とは遊女だそうで、霰松原の素晴らしい景色を共に眺めていると、いつまでも飽きないと詠っているのですが、遊女如きと戯れて歌を作るなぞ、そこらのオッサンと同じ程度の天皇家の姿が浮かびます。尤もそこらのオッサンは歌など作りませんが。

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げこ亭

2012-04-12 05:00:00 | 大阪にて

ここは阪堺電車の妙国寺前という停留所、電車で来ればこの駅で降りて、東へ200mほど歩けば妙国寺です。この信号の下にも道標が建っており、“左 妙国寺”、“右 すみよし 大さか”と彫られています。建てられたのは安永6年、1777年のことでした。昔はこのような広くて大きな道ではなかったでしょうが、この道が紀州街道、孝子峠を経て和歌山へ至る道です。

             

これが以前働いていた会社の(もう我が社とは言えない)大小路ビル、14年前に第2の職場へ配転された際に、2週間ほどここで研修を受けました。当時は阪堺電車で通ったり、自転車で通ったりしましたが、家からここまでこの日走った限り、雰囲気は全く変わったようには思えません。

             

妙国寺近辺で40分ほど散策して、12時近くなっていたので、この辺りで昼食をとることにしました。妙国寺前駅より4つ南の駅、寺地町駅まで走ります。紀州街道の一部ですが、この辺りでは大道筋と呼んでいるようです。

             

以前一度だけこの店で食事したことがあります。その時は連れていかれたので、奢ってもらいました。残念ながら暖簾が裏返しになっています。でも行ったのは月曜日ですから、店は開いています。店の名前は『げこ亭』、『こげ亭』ではありません。“げこ”の由来は分かりませんが、下戸ではありますまい。この店の名物はご飯、めしとそれを作る老人です。

老人はご飯を炊くだけに労力を費やしているそうで、結構変人らしい。跡継ぎを求めている貼り紙を店内に掲げているのですが、そういう老人の下ではなかなか良い人は集まって来ないのか、それとも老人が追っ払ってしまうのか、どちらにしても前に来た時、そのままなのです。

             

おかずには値札が付いていません。食べてからでないといくらか分からないのが、よろしくない。でもご飯は150円、シジミの味噌汁200円は大きく書かれています。このご飯が150円というのは安い、そして美味しい。でもね、これだけ食べて、帰りに値段を聞いてびっくり、1150円もするんですよ。玉子焼きが200円、ジャコおろしが100円ぐらいと想像すれば、ブリの照り焼きは500円もする勘定、このブリも柔らかくて美味しかったけど、昼食で払うような金額ではありません。

出勤最後の日に新地の料亭でk山君が奢ってくれた昼食の方が、安くてボリュームがありました。

             

この辺りは名所・旧跡がたくさんありますが、私の頭の中では整理されてないので、この日はもう帰ることにしました。阪堺線の線路脇には菜の花が植えられていて、その黄色い花に目が奪われます。

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宝珠院

2012-04-11 05:00:00 | 大阪にて

『堺事件』とは慶応4年(1868年)2月15日、堺港沖に停泊中のフランス軍艦デュプレックス号の乗組員がランチで接岸、そのうち二人が偵察のため防波堤を歩き始めたのを、警備にあたっていた土佐藩士に見咎められ、乗ってきたランチへと逃げた際に数十名に膨れ上がった土佐藩士の銃撃により11名が死亡した事件、フランス軍は激怒し五箇条の賠償を要求した(指揮者及び殺害に加わった者全員の事件現場での斬殺、遺族への賠償金など)が、数度に亘る交渉により20名の土佐藩士が両軍立会いの下での切腹という処置になり、同月23日に妙国寺境内での執行となり、フランス側の死者11名と同数の切腹が終わった時点で打ち切りになったという経緯も加わります。

             

森鴎外はこの事件を基に“切腹”をテーマとして小説を書きましたが、史実と小説には相違点があるとして、大岡昇平が『堺港攘夷始末』という本を書いています。が、そちらはまだ読んでいません。

妙国寺本堂での拝観では、1100年の樹齢を持つというソテツを配した室町風枯山水と共に、鍵のかかった展示室で当時の遺書や切腹に使い血に染まった三宝なども観ました。庭には降りられないし、遠くから眺めるソテツはどう見ても1100年も経たものではなさそうで、信長の話は作り話であるだろうと思うのに天然記念物になっているとは恐れ入ります。

展示室には天武朝の頃に百済に朝貢したとされる直刀が展示されてあり(時代は覚え間違いかも知れません)、室町時代に返してもらったと説明を受けました。室町時代は朝鮮半島では李氏朝鮮にあたる時代であり、百済を滅ぼした新羅、新羅を滅ばした高麗と時代を経て、日本から朝貢されたものが残っていたとは信じ難いのですが、その真偽よりも、一旦あげたものを返してもらうなどという根性が、私には気に入りません。

明智光秀が本能寺で信長を討った日、家康は堺のこの妙国寺に逗留していたと説明をしてくれたボランティアは言います。家康は身の危険を感じて三河へと逃げるのですが、この妙国寺に関係のある者が道案内をしたので、その礼に家康が送った歌が刻まれているのだとも説明してくれました。そのボランティアの説明を聞いていると、どうも嘘っぽく聞こえるのは私の先入観のせいでしょうか。

             

妙国寺は勅願寺なので11名の墓を建てることが出来ず、北真向かいにある宝珠院に埋葬されます。写真にあるのが現在の宝珠院ですが、全くお寺という感じはありません。幼稚園になっていて、春休みのこの時期、門は固く閉ざされていました。

             

正面の建物がお寺らしく見えなくもありませんが、園舎なのでしょうか?どうやらお墓は真ん中の大きな樹の下に並んでいるようです。園児たちの遊具と同じ庭にお墓があるなんてちょっと信じ難いのですが、現実ですから仕方ありません。でもそこで育った幼児たちは、そんなことが当然になるのでしょうね。

                       

この界隈にはやたらと道標が多いのが特徴です。この道標には“とさのさむらい はらきりのはか”とあり、“明治戊辰殉難土州藩士墓所”とも彫られていますが、殉難したのは上陸が許されている堺の街で土佐藩士に追い捲られたフランス兵の方だと思うのですが、どうでしょう。現在からみれば土佐藩士の行動は野蛮極まりない暴挙と言わざるを得ません。でも攘夷論者にとっては快挙であり、切腹させられたのは殉難になるのでしょう。

             

この手前の道標は面白い、“左大坂”“右そてつ”とあります。裏は“左ふじ”と建立の嘉永5年の文字が見えます。嘉永5年は1852年、私が生まれる100年前で、未だペリーもやって来ていない平安な時代だったのでしょう。

             

先ほどの殉難の道標の反対側には“左 名所金光寺藤の明神”と彫られてあり、“右そてつ”の道標と同じ表現なので、左(東)へ行けば、藤の花の咲くお寺があるようですが、藤の花の季節には早いし、地図にも金光寺なるお寺は載ってないので、この時私は行っていません。

                       

宝珠院へ入れる入り口は無いものかと思い辺りを探しましたが、見当たりません。宝珠院の区画内の最東端にこの地蔵尊の祠がありました。

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妙国寺

2012-04-10 05:00:00 | 大阪にて

1年ほど前に森鴎外の小説『堺事件』で、今日のテーマ妙国寺を知り、行ってみようとずっと思っていたのに、暇を持て余していた割には決行せずにいましたが、よく晴れた4月2日の月曜日(あの春の嵐が吹き荒れる前日)、満を持して自転車に乗って行って来ました。片道約7kmぐらいなので歩いても行くことは出来ますが、田舎の山道なら気持ち良くも歩けますが、車がバンバン走るアスファルトの道では興が乗りません。かと言って電車に乗るほどの距離でもなく、阪堺電車に乗ると駅は13個目ですが、往復400円もかかるので節約中の現在の我が身では要らざる出費はなるべく抑えたいのです。

             

家を10時半ごろに出て、11時ごろには到着、山門の前にある白い自転車が私の物。右手後方に聳えてる塔が我が社の大小路ビルのものです。暫らく辺りを眺め回した後にお寺に入りました。

             

山門を潜るとチャイムが鳴り、誰かのケータイの着信音か時報かと思って思わず辺りを見回し、時計を確認してしまいます。出る時にも鳴ったので山門を潜ると鳴る音です。何回も出たり入ったりしたので、もしそのセンサーで入場者の数を数えているのなら、私が出入りした分は余計です。

             

境内に入ってすぐ左にこの立札、昭和3年に大阪府が定めとして立てていますが、明らかに当時のものではありません。ここで書かれている管理者とはいったい誰のことなのか、知事のことなのか、知事が任命した人のことなのか、はたまた管長のことなのか、抽象的なことを書くものですね。

             

この寺はソテツで有名だそうで、境内に入るとすぐ右側にソテツの植わった枯山水風の庭があります。庭の後ろは本坊。

             

第二次世界大戦で堺を襲った空襲でこのお寺も殆どの伽藍を消失、三重塔もあったらしく、この本堂は昭和48年に再建されたものです。では信長所縁のソテツはどうだったのか、その話には一切触れられていません。

             

左奥にあった神社はお寺の開祖の日上人を祀ってあると言われ、宇賀徳正龍神と呼ばれています。ホントかどうか眉唾ものですが、信長が珍しいのでソテツを一株安土に持ち帰ったところ、夜になるとソテツが「妙国寺へ帰りたい」と呻くのに腹を立て、そのソテツを部下に切り刻ませたところ、鮮血とも見える水が噴出したので、気味悪がって妙国寺に戻したところ、日上人が憐れに思って一千部の法華経を読んだ満願の日に青い芽が吹き出して、その夜、夢枕に蛇身の老人が現れ、供養忝い、報恩のため三つの誓いを立てたとか、それがこの神様だというのです。三つの誓いとは何だったのか、知ってますがあまりにウソっぽいので記述するのは止めときます。

             

入ってはいけないと書かれていた墓地の北隅にあった11名の切腹者の碑、外からなのでこういう角度でしか撮れません。後ろの樹はサクラ、今なら見ごろを迎えていることでしょう。

             

本坊の壁に掛けてあったこのお寺にある宝品・珍品を綴った看板。どうやら境内を入ったところで見たソテツの枯山水は贋作で、お金を払わないと本物は見れないようです。

             

受付の字の上、“・・・ご覧になれません--ません”と“ません”が2度書かれています。何か(その何かが気になりますが)を消したんだったら、最後まで消すのが当然だと思うのです。この信長のマンガ、何処かで見た記憶があるのですが、ボケた頭には蘇りません。仕方なく400円を払って本堂へ入ることにしました。でも本堂内は撮影禁止です。

                       

拝観するとこの冊子をくれ、別に案内してくれなくてもいいのに、ボランティアの人が案内してくれます。それもここで教えられたんだろうなと思われることのみを疑いもせずに話されるので、私としては甚だ迷惑なことでした。案内してくれなかったら、勝手に写真も撮って皆さんにお見せできたのにと思うととても残念です。

この冊子、堺事件については、結構詳しく調べて書いてあります。

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送別会 あれこれ

2012-04-09 05:00:00 | 大阪にて

3月の最後の週は月曜・水曜・木曜と三日も送別会があり、もう肝臓はクタクタ状態、特に水曜日は送別会というより、いつも一緒に飲むメンバーとの最後の飲み会であり、それを焼酎ではなく皆日本酒を飲んだので、翌日の送別会は調子の悪い状態でした(調子が悪いのは私だけではありませんが)。その翌金曜日は予定通り年休を取りましたが、いつもと同様の時間に会社には行かねばならず、しんどい朝を迎えたのでした。会社に置いてある自分の荷物を車で持って帰らねばならず、運転もいつもより雑であり、自分ながらおかしいなと思ったものです。

先ず月曜日はJR尼崎駅前の『土筆んぼう』、課の送別会です。そこでの写真は撮っていませんが、他の人が撮ってくれた写真はあります。が、ここではUPしません。

餞別なるものを頂き、私のあいさつを請われ、酔いも手伝ってかいつもより流暢に長々と哲学の話をしてしまい、座は白けたかも知れません。でも酔ってるから、そんなことはおかまいなし、お蔭で職場での最後のあいさつはあまり言うことがありませんでした。

翌日は年休を取っていたので朝遅くまでゆっくりと眠れ、起きてから餞別は何やったやろと思って開封してみると、この商品券、2万円分も入っていて恐縮です。でも阪神・阪急百貨店と印刷されており、もう定期も無いのにわざわざ梅田まで行くのは往復540円もかかるやんと思っていたら、よく見ると全国の百貨店共通だそうで天王寺の近鉄、難波の高島屋、心斎橋の大丸でも使えて、その辺りまでなら自転車で行くことが出来ます。

             

木曜日の送別会は阿倍野のごちそうビルの『男はつらい』に於いて、『男はつらいよ』ではありませんので、念のため。28年居た職場の非公式野球部“Getts”のメンバーが中心です。


6時15分開始というので、急いでJRに乗りました。いつもより1本早い尼崎5時43分発の京都行に乗れたのですが、車内の掲示板を見ると“次は鴻池新田”と書いてあり、てっきり電車を乗り間違え、これでは主賓である私が6時15分には絶対に間に合わないと思ったのでした。でも実際はいつもの京都行の電車、最後の最後にJRにハメられてしまいました。

来るメンバーと言えば毎年固定的で、大概が送別というより一年振りに集まって飲もうというような主旨になっていると思います。昨年も催しましたが、その際に旧の職場の他のチームと、今さら野球は出来ないのでソフトボールでもやろうと決まったのに、相手がさっぱり集まりません。とうとう今年はそういう提案もありませんでした。

                       

最後に今日は来れなかったからという人から餞別を頂きました。獺祭という名称の日本酒、カワウソの祭りと書きますが、カワウソは捕えた魚を人間が先祖を祀るときの供物のように川岸に並べる習性があるとか、そこから書物を多く紐解き、座右に並べて詩文を作ることを言いますが、好書家・考証癖・書癖なども指します。私がそれに当てはまるかどうかは他人の判断に任せようとは思いますが、贈ってくれた人はそこまで気遣っていたのかどうか。私より5年後輩のはずですが、私の42年の職場人生の中で一番仲良くしてくれた人だったかも知れません。

                       

パンフレットだけでなく、ちゃんと中身もあるのですよ。

             

最初の送別会は、先月串本から帰った3月17日の夕刻、28年間働いた職場のしがらみが集まって開いてくれました。もうくたばり損ねの先輩ばかり、私より若いと言えばあのk本君夫妻だけとなってしまってます。そこではこんなマグカップを記念に頂きました。でも私はホークスがダイエー時代に最後に優勝した時に貰ったマグカップを愛用しているので、これはおそらく使わないでしょう。

             

次の送別会が翌週の23日に開かれた他労組の送別会、他労組の送別会なので送る側に参加するのは良しとしても、送られる側で参加するのはどういうものかと逡巡していましたが、参加費を払うということで参加に踏み切りました。今の職場に来てからの5年余りに送った諸先輩たちも参加しておられ、中にはこのブログに登場してもらった方も数人おられました。実は私、42年間自分が所属した労組より、こちらの労組の方々に友達が多いのです。

この送別会では花束と同時に寄せ書きを頂きました。このような物の方が余分なお金を使った不必要なものを頂くより、心が籠っていると思っています。

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春の嵐

2012-04-06 05:00:00 | 大阪にて

今週の火曜日のこと、前夜から台風のような風が吹くとしきりに気象予報士は言っていました。

突風には苦い経験があります。名古屋赴任中のことですが、ある日雨風が強い日で、もう暗かったから冬だと思います。太閤通りは会社の前辺りでは東西に走っていて、私は北へ向かって歩いていたので、南風が吹いたということになります。私は作業着(何故だかみんなはスーツと言う)から作業着でない服に着替えるので、みんなより帰るタイミングが遅くなるのですが、独りで中村ビルから太閤通りへと帰宅中でした。太閤通りまで10mほど手前で物凄い風が後ろから吹いて、その風が私の体を押すのです。止まろうと思っても止まれません。このまま押されたらあの広い太閤通りへ押し出されそうなので、必死に抵抗するのですが風は容赦なく押し続けます。歩いてるにせよ風によって体を運ばれるのは初めての経験で、何かに憑りつかれたかのよう、これでなんらかの事故があったら通勤災害や、無理矢理名古屋へ単身赴任させた会社の責任は大きいぜなどと一瞬閃いたのですが、それよりも痛い目に合うのは御免ですから、自分の体を止めなければなりません。
まぁ通りへ出た途端、風の力は分散してしまい、車道へ出る手前で止まることは出来ましたが、この経験から風を侮ってはいけないと思うようになりました。

天気予報に反して昼を過ぎても雨も降らないし、風もいっこうに吹く気配がありません。でも曇っているのにはるか彼方の二上山の山肌がいつもよりくっきり見えています。

             

退職して3日目のこと、こんな日に出社せんで良かったと胸を撫で下ろしながら、TVのアナウンサーがおっしゃる通り、用も無いので外出は控えていました。会社でも外勤は控えるようにと言ってるのか、危ないから自粛している社員はいるのか等々考えながら、まぁこれくらいの風なら大したことないかと思っていたのです。

でも2時を回ってから急にピューピューという風の音が聞こえ出しました。雲は南から北へと流れていますが、風は西から吹いているのか、玄関側は凄い風ですが、ベランダ側はそうでもありません。(私の家は西側が玄関、東側がベランダになっています。)

こちらは2時半ごろの西側の写真、いつも見えている南港大橋や南港の高層ビルは全く見えていません。

             

これは4時半ごろの東側の写真、雨は止んで日が西の方から差していますが、二上山の方は全く何も見えていません。風は相変わらずピューピューと吹き続けています。この頃から急に寒くなり出しました。冬でもエアコン無しで室内は半袖。ハーフパンツで暮らせるのに、そして冬よりも暖かいはずなのに、体感温度ってバカですね。でも健康保険証のない今の身の上では風邪などひいてられません。長袖を着、靴下を履きました。TVでは東京の大手の会社は早目の帰宅をさせているという報道、大阪だけど、私の行っていた会社はどうしたんだろうと疑心に駆られます。

風は夜になってもピューピューと吹き続け、翌4日の朝目を覚ましても鳴り続けていました。ようやく風が収まり出したのは5時ごろ、台風なら過ぎてしまえば収まりますが、この風の嵐は長いこと続きましたね。皆さんご無事だったでしょうか。

             

ベランダには洗濯物を干したり取り入れたりすること以外に用の無い私ですが、一昨年に買った覚えてない花の葉が生えてきています。枯れてからというもの去年は土だけだったのに・・・誰かが種を植えたのでしょうか?

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九龍島

2012-04-05 05:00:00 | 田舎

2月の串本滞在は雨や曇り空が多く、今回と同じ1週間しか滞在できなかったので、2月の串本での記事は多くありません。3月はというと火曜から土曜まで実質3日間の滞在だったのに、天気が良く(帰った土曜日は雨でしたが)、あちらこちらと歩き回ったので4月になった今も串本の記事を書いています。でもそれも今日まで、撮り溜めていた写真は全て使い果たしました。

『潮騒の森』からの帰りですが、森より奥の方からしきりに車がやって来るので、私も車で走ってみました。潮岬の街中の道特有の細い道もありましたが、見たことのある風景に出合い、左右を確かめたら羊羹の紅葉屋本舗の前を通ったのでした。

             

これは14日に大島へ行った後、天気も良くて早春のうららかな海を観ていると、海の中にポツンと浮かぶ九龍島を撮りたくなったのでした。午後の2時過ぎに神野川にある地元の幼稚園が利用するプールの横の広場に車を停めて、撮影場所を探しながら移動です。少し残念なのは午前中と違って風が強くなり始めていました。

ここは神野川の橋の下を潜って浜へ出てのスポットから、干潮時だったので手前の岩を伝ってかなり前へ行けます。この辺りではタイ島がこちらを向いていて鯛の姿には見えません。なのでここは九龍島を撮るための絶景スポットではありません。しかしここから西へはテトラが入っていて、直接浜へ降りることは出来なくなってしまっていました。

昔はこれから行く目津や大浦まで浜で、至る所で遊べた記憶があります。

             

ここは目津のバス停辺りから撮ったもの、待避所みたいに少し凹んでいるので、車は怖くはありません。動鳴気漁港で工事をしているので、一旦車が来なくなると暫らく車が走ってくることはありません。

             

神野川から目津まで300mぐらいですが、タイ島の見え方が随分違います。干潮時なのでタイ島の前の磯が露出しています。

             

九龍島との間に岩礁が見え、歩いて渡れるように見えますが、きっと無理だと思います。

             

ここは民宿たい島の前辺り、ここでも下へは降りられませんから、景色を見るだけでは海辺の民宿も魅力が半減です。

             

降りることが出来れば地磯があるので、釣りは出来なくても磯遊び位は出来るだろうと思います。この辺りはだんだん浜が狭くなってきていて、姫の前の浜も随分狭くなりました。海水浴をする子供もここ数年は見られません。キス釣りもし難くなってきています。

伊串の波止場の裏を通ってゴロタ石の浜を東へ歩くと大浦の前辺りまでは浜辺を歩けると思います。

             

神野川から目津辺りは国道沿いに波除のフェンスが張ってあるので、海が見えるところが少ししかありません。せっかくの景色が見えないのは残念です。でもこここそが台風が来る度にTVで放映される串本のポイントの一つなのです。

車に戻り、古座大橋を渡って、旧古座川病院の駐車場に車を入れて、九龍島の東側を撮りに行きました。今年になって九龍島がカワウの糞で真っ白になっているという記事を目にしたのでフン害はどうなっているのか、今年になってかなり雨が降ったので、洗い流されているのではないかと思ったからでした。でも逆光、島は真っ黒で何も見えません。

             

干潮のために現れた岩礁の先端上で休むカモメを撮ったら、少しはコントラストがマシになって、九龍島の様子が分かります。どうやら少しは糞は流されているようです。

             

もうそろそろカモメたちは北の方へと帰る準備を整えていることと思います。

             

飛び立つ前に古座大橋と共に記念撮影をしてあげました。左から3羽目の鳥の毛色が少し薄くて、カモメではないみたいです。

             

ここではまだ台風で運ばれてきた枯れ木が少し残っているようです。奥に見えているのが動鳴気の波止、手前の白い突堤が今工事を行っている場所です。

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潮騒の森 Ⅱ

2012-04-04 05:00:00 | 田舎

仕事に行かなくなって五日間が経ちましたが、未だ心の変化は何も有りません。他人に聞くことによると、(仕事に行かなくてよいので)嬉しかったり、(親しかった友達と会えないので)寂しかったり、(長年働いてきたという)満足感・充実感に浸ったりするのだそうですが、私には気持ちの変化が無いのです。何故なのかと少し考えてみると、この42年の間に会社から何度もこういう仕打ちを受け続けてきたという事実が挙げられそうです。配転するということが、それは自分にとって良いことだ(利益がある)と考えてる人は、それを仕打ちとは取らないでしょうが、私などは望んでもいないのにあっちへ行け、こっちへ行けと言われればその度に、親しくなった人々との交流が絶たれ続けて来、その度に腹立たしい思いに駆られてきたのです。そういったことに慣れてしまったのが、こうまで感情の高ぶりの無い人間になってしまった原因ではないかと思う次第なのです。

『潮騒の森』などと聞くと、潮の匂いがしたり、波打つ音が聞こえたりということを想像しがちですが、この森に関してはそんなことは全くないので、ネーミングがアンマッチな感じは否めません。

                         

こういう風に作った階段に2度足を踏み入れました。階段を造ってあるには、その先に何か有ると思うのが、人の人情というものですが、最初は上へ、次は下へと行ってみましたが、2度とも何も有りませんでした。最初に登った階段はたいして奥まで行かないうちに行き止まりとなりましたが、次に降りた階段はどんどん下へと続いており、遂には谷下まで行き着いたのに、塩ビの管から水が滴り落ちてるだけでした。

              

こんな樹があるのか、勉強する樹?とも思ったのですが、よく見るとスタディではありません、スダジイです。

                         

全容はこんな樹です。昔の南紀の人はザ行の発音をダ行で発音してしまう(例えば笊とダル、雑巾をどうきんと言った)ので一瞬こんがらかったのです。南紀でも今の若い人はそんな発音はしない筈です。

              

ところで戦争遺跡を見つけたのは地下壕の一つだけ、B29の墜落跡は何処にあるのだろうかと、歩き続けます。後で思ったのでしたが、この階段が比較的大きくて新しいので、ひょっとしたらこの階段を登れば、何かあったのかも知れません。でも谷まで降りて行ってガッカリした後だったので、登って行く気にはなりませんでした。

              

コンクリートの道が大きく下へとカーブしています。私は右上の道から降りていき、この時点では戻ってきているところです。今までの道のりでB29の墜落跡が見つけられなかったので、この道を降りてみることにしました。

                         

ずっと下りだったのですが、下りきったところに池がありました。上からの流れもあり、下へと水が落ちているのでダムのようになっていますが、規模は大きくありません。数匹のコイが泳いでいました。

              

ダムを過ぎると上り道、暫らく歩くと遠くに海が見える高台まで到着です。朝はいい天気だったのに、だんだん雲が広がってきています。先が続くので何か無いかと期待を膨らませますが、すぐに行き止まりになってしまいました。

              

未だ地道が続いていそうですが、下りになっているし、帰りにはまた登って来ないといけないので、ここで引き返すことにします。

              

結局、戦争遺跡は地下壕以外には見つけられず、これはガイドのいる催しに参加しないと分からないなと思いながら、車まで戻ったのでした。一回りして約1時間半、丁度良い散歩コースです。今なら道なりに植えられたサクラが咲き誇っているのではないかと思います。

途中、ゴルフの練習場みたいなのがあり、2人ほどクラブを振っていました。有料なのか無料なのか、ゴルフをブルジョアジーの遊びだと思っている私は、関心も持たずに帰ったのでした。

              

先週土曜日に内閣府の有識者検討会が調査検討した結果、南海トラフで巨大地震が発生し、マグニチュード9規模の地震が引き起こす津波は20~30mに達するという予想が発表されました。しかも津波は地域によっては2~3分後には到達するとも言われ、そのような事態になれば串本町では何処が安全なのか、ここが海抜57mもある潮岬では大概のところが安全だろうし、大島も最高標高170mあるので県道40号線まで逃げられれば何とかなる、サンゴ台や古座の上野山は少し心もとない、車で山へ逃れる道は和深から県道39号線、高富からは県道371号線、姫・神野川からは重畳山、田原からは山奥のゴルフ場の上まで逃げれば大丈夫でしょう(でも時間がかかる)。古座川は大きく蛇行しているので津波が何処まで遡るのか想像もつきませんが、高富から371号線で逃げる際はあんまり遠くまで逃げると鶴川の集落まで出てしまい、古座川を遡ってきた津波と遭遇する恐れもあります。今まで有田の吐生の滝や田並の才助の滝へ出かけましたが、どちらも標高はあまり高くなく、甚大な被害を被るだろうと思います。

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潮騒の森

2012-04-03 05:00:00 | 田舎

才助の滝を案内してあったパンフレットに潮岬の『潮騒の森』の紹介がありました。出雲の港を超えれば高台に登っていく坂道があり、登りきると海側に青少年の家があるのですが、逆の山側にその潮騒の森があるというのです。今に至るまでその『潮騒の森』なるものに行ったことがありませんでした。それまで“潮騒の”と付いているので、青少年の家側にあると思っていたくらいです。パンフレットには戦争禍の跡やB29爆撃機の墜落跡があると記してあったので、その辺りを興味深く感じて、16日に行ってみることに決めていました。

             

『潮騒の森』までどのような道が付いているのか判らないので、周環道路である41号線から少し入ったところに車を停めて、歩いていきます。でも道は結構広く、所々に車を停めるスペースもあり、なんと『潮騒の森』の入り口にも駐車場はあったのです。

でも歩いてなければ、最初の写真のように潮岬観光タワーが望める場所があるなんて、分からなかっただろうと思います。

             

ここが『潮騒の森』の入り口、森の中にはいろんな樹が植えられていて、殆んどの木に名札が付いていたのですが、この正面の樹には名札がありません。

             

入り口に植えてあった“ヒメツゲ”という名のツゲ、略して“ヒゲ”だ?なんて、今家のある紀伊姫とも因んで、私と何らかの因果関係でもあるんですかね?

             

これも入り口付近の“ヤマモモ”、随分大きい樹です。夏前に実をつけるそうですが、採ったら怒られるのでしょうね。

             

入り口にある案内表示ですが、これを見てもどのように歩いていくのか、何処に戦争遺跡があるのか、さっぱり解りません。

                      

この樹はタブノキという名らしい。用途は昆虫採集と書かれていました。

             

私はメインのコンクリートの道を歩いているのですが、脇道へとそれる階段が上り・下りを問わずたくさんありました。

             

和歌山県には『紀の国づくり税』なる課税があるのでしょうか?それとも集めた税金を使う際に付けた名前なのか。私なら、余計な手を入れずに自然の森を守ってやればよいのにと思うのですが、この辺りの森が荒れ果てていたと言うのでしょうか。感じたのは住民がこの森に憩いのためにやって来ているという風には受け止められなかったこと、出会ったのは2~3人でした。

             

歩き始めてから5分ぐらいで、この遺跡を見つけました。柵の左から3番目の柱に“戦争遺跡 地下壕”と書いてあります。柵が無ければただ単なる穴、ホンマかいな?と思ってしまいそうです。

             

どんなものなのか中を見たいのですが、柱の間隔が狭くてあまりよく見えません。奥がどの位深いのか分からないし、入り口も狭いので、あまり多くの人が隠れることは出来なかったんだろうと思います。この串本の地にアメリカ軍が上陸したわけでもありません、ただ戦闘機からの機銃掃射はあったように聞いています。だから沖縄のような悲惨で生々しい地下壕では無いことは確かです。

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締まっていこうぜ!

2012-04-02 05:00:00 | スポーツ

退職後二日目の朝を迎えました。実際に最後の仕事は29日でしたから、それからは四日経っていますが、正式に籍を離れたのは3月31日であります。でも退職前からあまり仕事に行ってなかったので、やっとゆっくり出来るという感慨はありません。やっとゆっくり出来たのは昨年の10月からであり、今や毎月賃金が得られないという逼迫感の方が大きくて、退職金が支払われる25日まではなるべく家を出ないようにと、自閉的な生活を送らねばなりますまい。

             

先月30日からはプロ野球も開幕、明日は春のセンバツもいよいよ決勝戦です。小学校からの友達であるK川君がそのセンバツの開幕日に誘ってくれました。お目当ては第3試合の大阪桐蔭VS花巻東らしい、らしいと言うのは、私はK川君に誘われるまで退職のことが頭でいっぱいで、センバツのことは頭に無かったし、何処の高校が出場し、組み合わせにも興味を持っていなかったから。開会式は家のTVで見ました。11時に梅田で待ち合わせ、甲子園駅の近くのダイエーで昼食をとり、もう第1試合は終わってるだろうと高を括って特別内野席へ入場すると、未だ第1試合は終わっていませんでした。

             

入場したのが8回裏の攻撃時、このスコアでいくと一番面白い場面から観ることになったようです。野球にはエラーはつきものと言われますが、この試合で鳥取は3つのエラーが記録されています。どんな場面だったのかは知る由もありませんが、このエラーが無かったなら鳥取は勝てていたかも知れません。

             

第二試合は浦和学院VS敦賀気比、アルプス席の横に座っていた私たちは、浦和学院のブラスバンドの奏でる音響に耳を傾けながらの観戦でした。

             


やっと第三試合、K川君は東北が震災を受けたので花巻東を応援しているみたいです。私は大阪に住んでいるのでやはり大阪桐蔭を応援したい気持ちですが、別にどちらでもいいのです。浦和学院などと比べると楽器も少ないし、部員も多くはありませんが、みんな一所懸命に応援しています。

                       

昼に入場した時はポカポカと暖かかったのですが、陽が翳ってくると無性に寒くなりました。K川君は準備万端、来た時は何枚着てるのかと呆れたほどでしたが、夕方になってそれは正解だったと理解することが出来ました。

だいたい彼は何でもよく覚えていて、昔のことを話する度にあぁそうだったとか思い起こすことがあるのですが、あの記憶力は何なんだろうと呆れてしまいます。

この日も選手やチームのことなどをよく調べていて、いろいろ教えてくれるのでいつもと違った観戦になり、それはそれで楽しいのです。

             

私はどう投げた、どう打ったというプレーを観ていますが、彼は誰がどうしたという個人を観ているのですね。

試合は花巻東が先制しましたが、やはり大阪桐蔭が逆転勝ち、私が密かに応援していたかいがあったというものです。K川君は体も心も寒くなったのか、最後まで観ずに帰ろうと言ったのでした。

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