ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

つるのはし跡

2011-01-31 05:00:00 | 大阪にて
御幸森天神社の社務所で『鶴の橋跡』の所在地を教えてもらいました。私が歩いていた広い道路ではなく、神社の前の道を南へ歩いて、『猪飼野保存会』の建物の所で右折するとパン屋があり、そのパン屋の向かいにあると教わりました。

『猪飼野保存会』なる団体があるのも知り、前回『御幸森天神社』で感じた“猪飼野という地名は残すべき”と同じ意見の方もおられるのだと嬉しく思います。

                  

この碑文によると、江戸時代の地誌『摂陽群談』にこの辺りに鶴が多く飛んできて群れていたので鶴橋の地名が付いたとあり、日本書紀にある猪甘津橋の跡ともいうと書かれていますが、鶴も飛んできていたのでしょうし、川ではなく海の橋=津の橋から鶴橋という地名になったという説のほうが私としては納得です。

             

この場所、実はJR桃谷駅から商店街を抜けて広い道路に出たところの斜め向かいにあるのです。手前が更地になっていて、以前は何か建っていたのでしょうか。この先何か建つのでしょうか。いずれにせよ、今の時点では広い道路から見えています。2本の木が目印です。

インターネットで『つるのはし跡』を検索すると、私が撮ったような剥き出しのスペースではなく、こんもりとした森の中にあるような写真をよく見かけました。今は殺伐としているので又模様替えをするのかも知れません。

                  

『つるのはし跡』の碑に向かって小さな橋が摸されています。ただ単に碑だけ設けたのではなくて、少し凝っていますね。

             

この案内板によると、仁徳天皇が猪甘津に橋を造り、『小橋』と名付けたとなっていますが、津は海であって川ではありませんから、どのような橋を架けたのかという疑念が浮かんできます。どのような橋を架けたのかはさて置いて、果たしてその『小橋』が所謂『鶴の橋』であるのかの証明が出来ていません。昔の平野川(百済川と言っていた)に架かっていたのですから、『小橋』と名付けられた海に架かる橋とは違うような気がするのです。

名付けられた小橋はこの地の少し北へ行くと、鶴橋駅を越えた辺りから東小橋(ひがしおばせと読むのですが)という地名で残っています。

                  

石碑の四方角には『鶴之橋』と書かれた実物の親柱を設けています。どのくらい昔なのか不明なのですが、水鳥、特にツルがよく飛来する地であったのは間違いなさそうです。

日本書紀に記された仁徳天皇14年の条の猪甘津に渡した橋が『小橋』、それが書物に残る最古の橋であり、『つるのはし跡』が最古の橋と結論付けられているのですが、私は『鶴之橋』イコール仁徳天皇によって建てられたという『小橋』ではないと思うのですが、違うのですかね。

                

小野小町も猪甘津の橋のことを詠っているのですね。この地にわざわざこの碑を建てたということは、なんとしてもこの地にあった『鶴之橋』が、仁徳天皇が造らせた『小橋』であろうことを物語ろうとしているとしか思えません。

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御幸森天神宮

2011-01-28 05:00:00 | 大阪にて
大阪市に生野区という行政単位がありますが、私の家から近いといえば近いし、遠いといえば遠い。とてもじゃないけど歩いて行こうなどとは思いません。

その生野区に『鶴の橋跡』というのがあると、大阪市のポスターで知りました。

地図で見るとJR環状線桃谷駅から東へ歩いて大きな道路と交差したところにあるようです。詳しくは判りませんが、桃谷3丁目付近にあるということが判っただけ。

骨折で入院していた病院とは反対方向です。商店街があるので見物しながら退屈することも無く歩けます。おそらくこの道と思える道路へ出たのですが、肝心の『鶴の橋跡』をなかなか見つけることが出来ません。

             

ウロウロしていると大きな神社を見つけました。この神社の傍らに橋の跡が無いものかと期待を膨らませましたが結局はありませんでした。


神社の名前は御幸森天神社、天神さんが祀ってあって天満宮かと思いましたが、どうやら違うようです。

             

道路の東側にあるので、ここは西口の標柱、奥に青い屋根の社が見えるのが本殿かと思ってしまいますが、左に大きな社が窺えます。そちらが1枚目の写真。

左の標柱には“家運長久”と彫られています。かなり古い柱ですが、“武運長久”でないのがいいですね。

             

こちらの社にも御幸森神社と書かれた額が架かっていますが、ややこしいな。

御幸森との命名は、仁徳天皇がこの地に行幸したからと日本書紀にあるかららしいのですが、現在では仁徳天皇が実在したかどうかは疑わしいという説が強いので、この神社の名前の由来は史実からすると辻褄が合わないものになってしまいます。

                  

一応、天神社ですから菅原神社があって、道真公も祀ってありました。

この地域は昔(昔といっても昭和48年までですが)、猪飼野と呼ばれていました。古代のこの辺りは海辺であり、“猪甘津(いかいのつ)に橋わたす”という記述が日本書紀・仁徳天皇14年の条に記載されているそうです。多くの鳥が戯れる景勝地でもあったようですが、陸地化して猪飼野に変わったと言われています。この辺りには弥生時代後期より百済(朝鮮半島の南)から渡来した人が多く住んで猪を飼っていたらしい。猪と言っても豚らしかったのでしょうがね。


             

去年の夏のサッカー部のOB会に一緒に参加したY本君は確か猪飼野に住んでいたはずです。

猪飼野は朝鮮から渡来した人たち(その人たちは既に日本人です)が住んでいた文化の高い地域だったのに、近代化と共に朝鮮半島から新たな労働力として沢山の人が連れてこられ、ここに住まわされました。そして帝国主義観による差別政策で、この地は侮蔑されてきた過去もあるのです。

その反省からか、昭和48年に町名が変更されたのですが、私は猪飼野という地名は残しておいたほうが良いと思うのです。

                  

何処かで見たことがあるような碑ですが、『難波津に咲くやこの花冬籠り 今は春べと咲くやこの花』と歌われている詩は、1600年程前の渡来人・王仁(わに)博士が仁徳天皇の即位を春の到来になぞらえて祝い、贈った詩とされていますが、仁徳天皇が実在しないとなるとこの話も危うい話です。

まぁ、ことの真偽より、この碑に込められた日本国と韓国・朝鮮との友好・共生の時代が長く続くことを祈ることが大事でしょうけどね。

             

こちらは北側の鳥居、この後社務所で『鶴の橋跡』への道を教えてもらいました。

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今年初の梅

2011-01-27 05:00:00 | 大阪にて
一昨日25日、午前中の仕事を終え、昼食を取りに尼崎の中央商店街を歩いていると、運の悪いことに職場のワル4人組に遭遇してしまい、昼食を一緒に食べようと執拗に誘われ、着いて行く羽目になってしまいました。

阪神電車の尼崎駅までもうすぐのところだったのに、着いて行くと商店街を通り抜け、出屋敷駅を超えてどんどん歩いていきます。43号線も渡り蓬川も渡り昼食をとりに何処まで行くのかと思うほど歩くのです。結局道意町という街まで歩きコーナンやニトリ、オートバックスなどのあるショッピングセンターまで歩きました。もうセンタープール前駅はすぐそこです。

結局食べたのは700円ぐらいのハンバーグのセット、そんなものならわざわざこんなところまで歩いて来なくても食べれます。

             

そこで別れて私は帰途に就いたのですが、同じ道を帰っていると三叉路の掲示板の後ろ側にピンクの花が咲いていました。「来たときは気が付かなんだなぁ」などと思いながら近づくと、サクラではなく梅の木でした。今年になってはじめてみる梅です。

             

枝から折れて下に落ちてた花を撮りました。柵があって木に近寄れないので、木になっている花を撮ろうとしてもなかなかピントが合いません。

                  

尼崎の駅まで1,8kmと表示がありますが、ここより南西方向さっきのショッピングセンターの少し手前にこれと同じ標識があり尼崎駅まで3,3kmとありましたが、その標識からここまでとてもじゃありませんが1,5kmもありません。それは何かの間違いでしょう。

             

出屋敷駅の近くまで戻ってきました。駅の南側ですが、広大な空き地があります。工場の跡地でしょうか、勿体無い気がします。

駅に近い半分は駐車場になっていますが、まだまだ使い途がありそうです。

             

この料金を見るとあの駐車場を思い出しますが、あの駐車場は閉鎖した後は未だ何も手が付けられていません。

             

すごい車が置いてあります。完全にアメリカの車ですよね。ナンバープレートは外してありました。

             

捨てていったのですね。パンクしてるし潰れてるから乗ってきたんじゃなくて、運んできたのか?駐車料金を払う気はないでしょうし、それより駐車場の主にとっては処分代のほうが痛いんじゃないですかね。こういうことが出来る人って普段どんな顔をし、何を考えているのでしょうね。

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百日紅

2011-01-26 05:00:00 | 大阪にて
夏になると百日紅を随分と採り上げてきました。この冬の時期に採り上げるのは初めてですが、以前から気になっていたのです。

最初の写真は11月の上旬、花は全く残っていませんが、葉が赤く紅葉しています。100日紅いと書いてこのサルスベリですが、紅葉の色もきれいです。7月中旬辺りから咲き出す花ですが、100日なら10月中旬には散る勘定になります。風が強く吹いた日など花びらが散っているのを見かけます。

それでも続いて赤い紅葉が続くのですから、100日以上紅いですよね。

             

今年の夏に撮った場所で1月中旬に撮った同じ百日紅です。花も葉も無く無惨という他ありません。

サルスベリと書くならこの木の状態の方が似合っているのですがね。

             

枝の先っぽに黒い実の様なものがくっついています。雌蕊が受粉して実になるのは自然の道理なのですが、私の美観からするとこれがいけないのです。

             

望遠で個別に見ると案外かわいいのですが、花が付いていたように連々とは連なっていませんから、歯抜けになってしまって汚く見えるのでしょうか。風が吹くと花が飛んでしまうことが度々あるので、実の付き方もこんな風になってしまうのでしょうね。

                  

夏の猛々しい花の付き方、秋の紅葉、そして冬の侘しい枯れ姿と、年間通じて3度楽しめる百日紅です。

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背負子

2011-01-25 05:00:00 | 大阪にて
1月の3連休で釣りに行かなかったので、22~23日の休みで釣りに出かけようかと悩んで(たいした悩みでもないのですが)いました。2日間の連休では帰りの日程がせわしなくて、結局釣りには行かなかったのですが、天候から考えると行っておいたらよかったと思ったりしています。

樫野への釣行では歩く距離が長いので背負子を背負っている人を時々見かけますが、私もそうしたいものだと常々思っていました。

             

背負子といえばマウンテングッズ、梅田の山専門店のモンベルや好日山荘、IBS石井を年末から探していたのですが、なかなか売っているのを見かけません。

                  

梅田の駅前第4ビルの2階にロッジという山の店を見つけ、店内に入るとここで売ってるのを見つけました。一番安いので13000円、でも底の幅が少し狭くてバッカンを載せるには不向きな気がしたので、その時は買わずにおきました。

まぁ私は普段13000円もの大金を持ち歩くこともありません。財布を落としたら勿体無いですからね。といっても財布を落としたこともないのですが。

             

先日、釣具屋でアルバイトをしている三男が背負子を売ってると言うので、いくらかと聞くと3400円と言います。ロッジのものより1万円も安い!さらに半額の1700円でよいと言います。ロッジのものの1割程度です。

もう否応無く買ってきてもらいました。

             

ハンダ付けが荒っぽいのが気にかかりますが、値段を考えれば、そんなことに文句は言っておられません。

先端に用途不明のものが付いていましたが、使い出したら何に使うのか解ってくるだろうと思っています。

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満月

2011-01-24 05:00:00 | 大阪にて
先週の木曜日1月20日の夜は満月でした。これはその夜の話ではありません。でも満月の話。

翌21日の朝です。出勤途上、JR尼崎から歩いていました。

西の空が眺められる道まで来ると、遥か遠くに大きな大きな満月が眺められました。あまりに大きな月だったのであわててデジカメを取り出しシャッターを切ったのでした。

             

この写真では月は見えないですね。7時15分ごろで空も明けてきて、月はうっすらと白くなっています。私はこの写真に写っている曲がり角を左へと曲がります。そして200mほど南へ歩いてもう一度西へと歩くのです。

             

これは同じ場所から望遠で捉えたもの、月は未だ山にはかかっていません。

そこから200m、約2分歩いて次の辻を西へと曲がったとき月は山に半分隠れてしまってるではありませんか。あわててカメラを取り出し、邪魔なものが写らないよう前進していくと、いやいやアッと言う間に月は山の向こうに沈んでしまったのです。この間1分もありません。

月ってあっと言う間に沈んでしまうのですね。

この朝はいつもより一電車遅れて乗っていて、普段乗っている電車ならこの現象には出会わなかっただろうと思います。


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堂島薬師堂

2011-01-21 05:00:00 | 大阪にて
ラーメン屋『ぼんくら』を探しあぐねて、やっとのことで見つけても閉店状態、幾度か昼間に行ってみたのですが、やはり開いていません。

元来た堂島アバンザビルに帰ってくると、今まで見たことも無いものが建っています。普段このビルに来る時は堂島の地下街を利用しているので、1階部分は殆んど見たことがありませんでした。

鏡を用いた表装は冬の晴天を写して、目を引きつけます。形は鎧を着た埴輪の頭の部分に似ています。

                  

何かと思えば『薬師堂』と書かれていましたから、お寺なんですね。

             

江戸時代の初期、古文書『芦分船』に聖徳太子が四天王寺を創建した際、建築用材の運搬船が難破し、洲の中に流れ着いてお堂を建てたという記述があり、それがこの薬師堂の起源らしい。

でも事実かどうかも疑わしい記紀にも記されてない物事を、江戸時代の人が書いたものなんて、「あぁそうですか」と信じるわけにはいきません。

             

昔は航海する船からこのお堂がよく見えたらしく、このお堂がある島ということで堂島の名前が付いたと言われています。この話なら少しは信憑性がありますね。

このお寺の宗派は真言宗のようですね、きっとこの三体の像が祀られているのでしょう。中は暗いので覗いても見えません。

この写真の右上部に無惨にも写りこんでるのは何だったのでしょう?レンズのカバーが開ききってなかったのかな。

                  

小さいですが、今にも琵琶を掻き鳴らしそうな弁天様、平家物語でもやってもらえれば暫くは聴いておれる時間はありますよ。

しかし日本人って、こういう底が見える人工の池を見ると硬貨を放り込みたくなるんですかね。

             

外周は池になっていて、水は周りの溝に落として循環させているようで、飲めないとは思うけど、見ている分にはきれいです。

             

この堂島アバンザビルの2階と3階に私の行きつけの本屋『ジュンク堂』があります。文庫本の数はこの店が一番多いと思っています。

最近は窓ガラスがマジックミラーになっている、こういった感じのビルが多いですね。晴天の日はきれいですが、ビルの中から見ると外は晴天でも曇って見えるので鬱陶しいです。

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堂島で探し物

2011-01-20 05:00:00 | 大阪にて
ここは中ノ島ガーデンブリッジという橋の上、流れる川は堂島川です。京都方面から南下して来た淀川が都島の毛馬の閘門から分岐して大川と名前を変え南下、大阪城の手前から西へと進路を取り、天神橋辺り(正確には剣先公園)でこの堂島川と土佐堀川に分かれます。その堂島川と土佐堀川で挟まれた地域を中ノ島と呼んでいます。

                  

職場の隣人K山君が教えてくれた店を探しに堂島界隈を探して歩いていました。探しあぐねてこの橋まで辿り着いたのですが、橋の上にはちょっとしたモニュメントがありますが、何を意図しているのかよく解りません。

             

堂島川の上手、つまり東の方角です。右手に見えているどっしりした建物が大阪市役所、その手前には日銀があるのですが、ちょっとしか写っていません。見えてる橋は大江橋です。

             

川の下手、西方向です。高層ビルが建ち並んでいますが、私がこの地に働き始めた頃は未だどのビルも建っていませんでした。阪神百貨店の裏には宮本輝が『流転の海』の冒頭で描いていた戦後復興期の繊維街が未だ残っていたのを覚えています。

僅かに渡辺橋が見えているのですが、上手の大江橋と渡辺橋の距離が500mぐらい、その丁度中間辺りのこの橋です。昔はこのガーデンブリッジなんて無かったのですが、何故わざわざこんな所に橋を造ったのでしょう。

                  

大江橋には地下鉄御堂筋線と京阪電車の終点だった淀屋橋駅があり、渡辺橋には地下鉄四つ橋線の肥後橋駅があります。各々に橋があったからそこに駅を造ったのでしょうが、新しい橋の意味がわからんなぁと中ノ島川に足を踏み入れると、京阪電車が延長されたお蔭で大江橋駅が出来ていました。

こんな駅のために税金を使って橋を建てたのかい!と思いたくもなります。何故なら大江橋と名乗る駅なら大江橋の袂に造ればいいのだし、渡辺橋の袂には渡辺橋という駅も出来ています。大江橋から僅か500m、この橋からならたった200mぐらい西側です。

予算が無い無いと言いながら、消費税率の引き上げを公言する総理、こんなところに橋など建てる金ならあるんですな。

             

怒っていても仕方ありません。この日はとうとう探す店は見つかりませんでした。PCから地図を見ると確かに店の前は通っている筈なのに判らんかったのです。帰ってからもう一度住所を確認すると、地図とは違うところにあるやん!

                  

店の名前を見てください。私としては是が非でも行って、賞味しておかなければならない気持ちがご理解できるでしょうか。でも店はいつまで経っても開店しません。

もう潰れたのかも・・・そやけど、エライ狭い店やなぁ。

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難波八幡神社

2011-01-19 05:00:00 | 大阪にて
新しい年になって10日働きました、今日で11日目です。新年からは尼崎の東難波という地域で活動していますが、ここは今のセンターで働き出して半年程経った頃に既に行ったことのあるところです。

             

民家の屋根を越えて、はるか遠目にこんもりとした木々が見えるので、やって来ると一度紹介した事のある八幡神社でした。でも何処に記事があるのかいくら探しても見つかりませんので、再度紹介です。

いつでもこのように提灯を並べてあるのではないでしょうね。きっとお正月ということもあってのことだと思います。


             

これが三社殿、社殿が三つあるものと思って境内を探したら、社殿は確かに三つありました。でもそのうちの一つはキツネのお稲荷さんを祀ってあるので、説明にある三つの神を別々に祀ることは出来ません。

          

この案内板を読んで、一つの社に三つの神を祀ってある社殿であることが解り、納得。

でも、スサノオが尊い神だと説明されていますが、古事記に出てくるスサノオは、出雲でヤマタノオロチをやっつけるものの、とんでもない乱暴狼藉者で姉のアマテラスが岩屋へ閉じこもる要因を作ったのはこの男神です。こんな乱暴者が尊ばれる世は、私にとっては困りものです。

             

これが稲荷社、探さなくても見えるのですが、どこの神社もこのお稲荷さんを摂社にしてるところが多いですね。

             

こちらが拝殿ですが、これも含めると三殿あるのですが、この殿を三社のうちの一つとしても、案内板の説明とは矛盾してきます。三社殿で祀られるのはテンマ、アタゴ、スサノオであり、稲荷社も一つに加えると神の数が余るから。全く以って三社殿などとややこしい名前を付けたものです。

                  

前に来た時は気が付かなかったのですが、このような句碑もありました。上の方が御幣によって読み難いですが、下の方は『又豊年の村の梅』そして作者が亀文か亀女って記されています。

             

この神社の説明によると、この地は仁徳天皇がその父応神天皇と共によく行宮した地であり、難波祝津宮を造営した跡地であると言われているのですが、記紀にはそのような記述は無く、仏教伝来より200年も前にいたという天皇であり、何を証拠にそのようなことを言うのであろう。仁徳天皇って出生が257年、崩御が399年っていうから142年も生きたんだ、凄い!って信じませんよね、そんなこと。

             

昨日綴ったリストラの話、昔記したものを読んでいるとその頃のことが思い起こされますが、その夜私は自殺してしまった後輩のK谷課長に夢の中で逢ってしまいました。信仰心など無いのにこうやって神社巡りなどを繰り返していると、霊能力でも備わってきたのではないかと怖くなってきます。

こちらは北向きの鳥居、こちらから見るとなんだかこじんまりとした神社です。

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リストラ

2011-01-18 05:00:00 | 大阪にて
最近は職場でも揉め事が無く、このブログでも難しいことは書かなくなりました。4年前に今の職場に配転になった頃の緊張感が無いのです。それで良いといえばそれでも結構、でもあの頃ギクシャクしていたのは結局一部の管理者の属人的な要素が原因だったのでしょうか?私の所属するグループが他のグループより問題が多かったのは、その属人的要素が強かったのだと思い起こされるのですが、未だ根本的な問題は未解決のままだと私は思っています。

当時はこのブログでも企業倫理について2~3社長の話や、社畜について、社会に対する貢献からコンプライアンスに至るまで長々と綴っていました。こんな話労働組合の話ももありました。

当時いた管理者も殆どが去り、新しい人と入れ替わったものの、この職場でのいきさつを知らないわけでもあるまいし、きっと波風は立てないでおこうという配慮なのか、弱腰なのか。もちろん社員だって半数以上は入れ替わったのですが、人間って厳しい状況下に置かれないと、正しいことが見えてこないということを見越しての会社の動きのようにも思われます。

             

さて、夕方の5時30分は我が社の終業時間、冬至の頃は真っ暗だったこの時間も今は会社を出る頃は少し明るくなってきています。
でも駅まで歩いているうちに真っ暗、そんな帰り道、私の前を妙な人が歩いています。

背中に何やら書いてあるものを貼り付けて歩いているようなのですが、暗いので2~3m先のものが読めません。


             

駅のエスカレーターに乗ったところで追いつき、何が書いてあるのか確認できました。確かこの裁判を闘った人たちが着用していたのと同じものです。まぁ、会社としては裁判には敗北しても方針や体質は少しも変わっていないのですから、この人のように怒りを体現する人間が後を絶たないのは目に見えています。

でも11万人のリストラって?どういう意味なのか、我が社は確か9年前に50歳での定年制を策定しました。多分その時のリストラされた人数だと思うのですが、それから9年経ったわけですから、リストラされた人数は毎年少しづつ増えている筈です。毎年定年になって辞めていく人もいますが、総数で言えばもっと増えているのにいつまでも11万人のままではいけません。

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