御幸森天神社の社務所で『鶴の橋跡』の所在地を教えてもらいました。私が歩いていた広い道路ではなく、神社の前の道を南へ歩いて、『猪飼野保存会』の建物の所で右折するとパン屋があり、そのパン屋の向かいにあると教わりました。
『猪飼野保存会』なる団体があるのも知り、前回『御幸森天神社』で感じた“猪飼野という地名は残すべき”と同じ意見の方もおられるのだと嬉しく思います。
この碑文によると、江戸時代の地誌『摂陽群談』にこの辺りに鶴が多く飛んできて群れていたので鶴橋の地名が付いたとあり、日本書紀にある猪甘津橋の跡ともいうと書かれていますが、鶴も飛んできていたのでしょうし、川ではなく海の橋=津の橋から鶴橋という地名になったという説のほうが私としては納得です。
この場所、実はJR桃谷駅から商店街を抜けて広い道路に出たところの斜め向かいにあるのです。手前が更地になっていて、以前は何か建っていたのでしょうか。この先何か建つのでしょうか。いずれにせよ、今の時点では広い道路から見えています。2本の木が目印です。
インターネットで『つるのはし跡』を検索すると、私が撮ったような剥き出しのスペースではなく、こんもりとした森の中にあるような写真をよく見かけました。今は殺伐としているので又模様替えをするのかも知れません。
『つるのはし跡』の碑に向かって小さな橋が摸されています。ただ単に碑だけ設けたのではなくて、少し凝っていますね。
この案内板によると、仁徳天皇が猪甘津に橋を造り、『小橋』と名付けたとなっていますが、津は海であって川ではありませんから、どのような橋を架けたのかという疑念が浮かんできます。どのような橋を架けたのかはさて置いて、果たしてその『小橋』が所謂『鶴の橋』であるのかの証明が出来ていません。昔の平野川(百済川と言っていた)に架かっていたのですから、『小橋』と名付けられた海に架かる橋とは違うような気がするのです。
名付けられた小橋はこの地の少し北へ行くと、鶴橋駅を越えた辺りから東小橋(ひがしおばせと読むのですが)という地名で残っています。
石碑の四方角には『鶴之橋』と書かれた実物の親柱を設けています。どのくらい昔なのか不明なのですが、水鳥、特にツルがよく飛来する地であったのは間違いなさそうです。
日本書紀に記された仁徳天皇14年の条の猪甘津に渡した橋が『小橋』、それが書物に残る最古の橋であり、『つるのはし跡』が最古の橋と結論付けられているのですが、私は『鶴之橋』イコール仁徳天皇によって建てられたという『小橋』ではないと思うのですが、違うのですかね。
小野小町も猪甘津の橋のことを詠っているのですね。この地にわざわざこの碑を建てたということは、なんとしてもこの地にあった『鶴之橋』が、仁徳天皇が造らせた『小橋』であろうことを物語ろうとしているとしか思えません。
『猪飼野保存会』なる団体があるのも知り、前回『御幸森天神社』で感じた“猪飼野という地名は残すべき”と同じ意見の方もおられるのだと嬉しく思います。
この碑文によると、江戸時代の地誌『摂陽群談』にこの辺りに鶴が多く飛んできて群れていたので鶴橋の地名が付いたとあり、日本書紀にある猪甘津橋の跡ともいうと書かれていますが、鶴も飛んできていたのでしょうし、川ではなく海の橋=津の橋から鶴橋という地名になったという説のほうが私としては納得です。
この場所、実はJR桃谷駅から商店街を抜けて広い道路に出たところの斜め向かいにあるのです。手前が更地になっていて、以前は何か建っていたのでしょうか。この先何か建つのでしょうか。いずれにせよ、今の時点では広い道路から見えています。2本の木が目印です。
インターネットで『つるのはし跡』を検索すると、私が撮ったような剥き出しのスペースではなく、こんもりとした森の中にあるような写真をよく見かけました。今は殺伐としているので又模様替えをするのかも知れません。
『つるのはし跡』の碑に向かって小さな橋が摸されています。ただ単に碑だけ設けたのではなくて、少し凝っていますね。
この案内板によると、仁徳天皇が猪甘津に橋を造り、『小橋』と名付けたとなっていますが、津は海であって川ではありませんから、どのような橋を架けたのかという疑念が浮かんできます。どのような橋を架けたのかはさて置いて、果たしてその『小橋』が所謂『鶴の橋』であるのかの証明が出来ていません。昔の平野川(百済川と言っていた)に架かっていたのですから、『小橋』と名付けられた海に架かる橋とは違うような気がするのです。
名付けられた小橋はこの地の少し北へ行くと、鶴橋駅を越えた辺りから東小橋(ひがしおばせと読むのですが)という地名で残っています。
石碑の四方角には『鶴之橋』と書かれた実物の親柱を設けています。どのくらい昔なのか不明なのですが、水鳥、特にツルがよく飛来する地であったのは間違いなさそうです。
日本書紀に記された仁徳天皇14年の条の猪甘津に渡した橋が『小橋』、それが書物に残る最古の橋であり、『つるのはし跡』が最古の橋と結論付けられているのですが、私は『鶴之橋』イコール仁徳天皇によって建てられたという『小橋』ではないと思うのですが、違うのですかね。
小野小町も猪甘津の橋のことを詠っているのですね。この地にわざわざこの碑を建てたということは、なんとしてもこの地にあった『鶴之橋』が、仁徳天皇が造らせた『小橋』であろうことを物語ろうとしているとしか思えません。