ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

大江戸温泉物語

2012-11-30 05:00:00 | 

3時前に伊勢神宮を後にしたのですが、11時前に外宮に着いていますから、かれこれ4時間近く伊勢神宮界隈を散策していたことになります。私の場合は参拝ではなく、あくまで散策、ブログのネタになるものがあれば、本来の目的とは違っていても何の差支えもなくホイホイと乗ってしまいます。先にパンフレットなどを持っていれば、駐車場なども遠い所に求めることもなく、内宮の近くに停めただろうし(おかげ横丁を往復すればさして時間は変わってなかっただろうとも思えますが)、伊勢平氏の出である平清盛が植えたとされる清盛楠も見ていただろうと思います。

             

地元民であってつい最近結婚されたバイオリン弾きさんに教えてもらったパールロードを通ろうと思ったけど、どう走っていいのやら判らず、とにかく浜島のこれもバイオリン弾きさんに教えてもらった『大江戸温泉物語』なる厳めしい名前のホテルを探すことにしました。ナビに情報を入れますが、5年前のナビですからホテルの名前や電話番号では出てきません。仕方なく住所を入れようとしましたが、これも当該の番地が無かったので、一番近い数字で案内を請うことに。浜島町に入ってからは去年の7月にに行ってバーベキューをした波止場壁に描かれたタイル絵を見たりしました。その間もナビはあっちやこっちやと案内しますが、どうもウソ臭くて漁港を一回り、その途中で酒屋に寄って焼酎でも買おうとしますが、2軒あった酒屋は両方とも開いているのに人が出てきません。

             

結局、去年来た時に最初に寄ったファミマから漁港に入ったのに、そのファミマまで一周してきましたが、一周する手前でホテルを発見、反対回りならすぐに判ったのだと思ったのでした。そのファミマで焼酎と肴を購入し、すぐに引き返してホテルに着いたのが4時過ぎ、ホテルの駐車場はいっぱいで・・・ということはホテルの中も人でいっぱいということですね。バイオリン弾きさんは土日しか利用できないのでと、「予約をしても来年の4月まで空きが無かった」と言っていましたが、私は教えてもらってすぐに予約を入れたのです。月曜だったのですぐに予約が取れたのですが、ホントに取れているのか半信半疑、でもチェックインでは問題はありませんでした。

             
               バイキング用のお皿、少し小さいですね。それにしても何故私は焼きビーフンや肉じゃがを取って来たのでしょう。

部屋を教えてもらっている間にも客は続々と入って来、エレベーターは風呂に入る客が多い、でも年寄りばっかり・・・そういう私も年寄りの中の一人なのですがね。部屋に入ってびっくりしたのはもう布団が敷いてあったこと、なんとも手回しの良いホテルです。N田夫妻と私だったので、予約の際には2部屋要求した(ネットで見た時は2部屋空いていた)のですが断られ、3人一部屋で一人当たり7700円の料金です。4人一部屋だと6700円らしい、安いことは安い。でも安かろう悪かろうでは何にもなりません。

             
               頼んでおいたイセエビの姿造り、出てくるまでに時間がかかったし、小さい!これで2900円はボッタクリです。

私たちが入館した時にはすでにたくさんの人が来ていましたから、その頃はエレベーターホールも混雑していましたし、風呂も混雑しているのだと思いきや、入ってみると案外ガランとしていました。よくよく考えてみれば、私たちが温泉に浸かり始めた頃はバイキング形式の夕食が開始された時間であり、多くの客が揃って食堂に詰めかけたので風呂場は空いていたのです。風呂は広くて露天風呂もありましたが、外気が寒くて外の湯に浸かりたいとは思いませんでした。

             
               残ったイセエビは後で味噌汁にしてくれるはずでしたが、出てきたのは赤だしでした。

ゆっくりと温泉に浸かり、ロビーで缶ビールを買って(スーパードライ・ロング缶320円だったと思う)部屋で少しだけ飲んでから食堂へ、少し待たされたので食事開始は7時前になってしまいました。チェックインの際に渡された食事券と注文しておいたイセエビの姿造り用の黄金の小判を三枚手渡し、楽しい食事の開始です。バイキングなので好きな物を選んで食べれますが、欲を言えばもっと種類が欲しいし(たいして食べたいと思うものが少ない)、皆が欲しがるものはすぐに完売してしまいます。

イセエビの姿造りを注文している人も多そうですが、皆さん席に残したまま、頼めば味噌汁にしてくれるのに・・・これじゃ私たちが頼んだ味噌汁は私たちが食べたイセエビの残りなのかどうか分かりません。頭を二つに割ってもらうよう頼んだのですが、頭の中のミソなど微塵もありませんでした。

             

9時前まで飲んで食べて(私は専ら飲んでいたのですが)、部屋でもう一飲み。ロビー横では氷や水も用意してくれています。持ち込みが前提になっているのですね。この頃流行りの『湯~快リゾート』なども布団を初めこのような形式になっているらしい。

部屋へ入る前に大きな地図を眺めて、翌日の熊野への行動を考えます。パールロードを走ってみたいけど、ホテルから伊勢方面へ戻らねばなりません。そしてずっと戻って高速を利用するのですが、地図を見ればホテルから南勢町を通って海沿いの道がありました。たまたま傍に居た従業員に聞くと海沿いの道もきれいになって快適とのことなので、明朝は海沿いの道を選択です。

             

何時ごろまで飲んでいたのか、全く知らないで寝てしまい、いつもの起床時間を大幅に遅れて7時前、N田君に起こされました。朝陽がきれいだと騒ぐのです。久留米という海とは全く無縁の地に住んでいては、海上に上がる太陽は非常に新鮮なんでしょうね。今日も良い天気だと安心し、再度温泉に入り、バイキングの朝食を食べて、9時にはチェックアウトを終え、パールロードに後ろ髪を引かれながら、三重県・熊野へと向かう海沿いの道を走り始めたのでした。

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皇大神宮

2012-11-29 05:00:00 | 

豊受大神宮を外宮と言い「げくう」と呼び、そんな読み方は教えてもらってないけど、「げぐう」でも「げくう」でも『外宮』に変換すると先日書きましたが、今日の内宮も「ないくう」と呼ぶらしく、こちらも私が習った「ないぐう」でも同じようにどちらも『内宮』に変換します。教科書検定とはいったい何なのか、今まで「ないぐう」と呼んでいたので、きっと教科書でも「ないぐう」と記し、それを習った私たちは「ないぐう」と読むと信じ込んで今まで暮らしてきたのに、行ってみたら「げくう」「ないくう」と読むなんて、これじゃ文部省は何を教えて来たのかと言いたくもなります。単なる呼称などは「どっちでもエエやん」と辛抱も出来ますが、こと“南京大虐殺”や“従軍慰安婦”や“集団自決”の問題でもそんなことは無かったと言う主張が取り入れられてきており、これは歴史上の事実があったのか無かったのかでは、私は直接手を下した年代ではないけれど、侵略した側の日本人として生きていく上でも大いに違ってくる問題であり、「げくう」「ないくう」のように「どっちでもエエやん」というわけにはいきません。

             

戦後、侵略戦争への反省の上に立って出来た教科書の中身は、それまでの“天皇は神であり、国民は神に仕える身の臣で、絶対服従”を教えていた価値観をひっくり返し、主権は国民にあることを教え、内外地で行ってきた蛮行を明らかにしてきたものでした。最近の風潮は、日本軍は神の軍、そんなことをするはずがないというような主張が取り入れられつつあり、南京大虐殺は無かったとか、従軍慰安婦など居なかったというのです。教科書検定とは出版社に対する記述内容の検閲ですが、このような記述が無いものばかりが採用されているようです。それは差し障りが無いなどと言うものではなく、明らかに侵略戦争賛美の立場だと私は思っているのです。

             
                        橋の横に橋桁のようなものが・・・何をするものなのか解りません

外宮に行った時に風宮を紹介しておきましたが、鎌倉時代のこと、北条時宗が執権として権力を掌握していた時代、元寇(文永・弘安の役)がやってきました。ここではその時に“神風を吹かせて日本を守った神として知られている”などと書かれていて、私はそんなこと(神風を吹かせたこと)なんかあり得ないと思ったのですが、知られているなどと書かれてしまうと、知らない方がおかしいのかと思ってしまうようなこれは一種の洗脳の手法です。元寇のときに台風が来たのは偶然であって、気象状況を元の軍が熟知していたら、今頃この日本国は中華人民共和国の一つの州だったかも知れませんし、元を追い出すほど闘って独立国は保っていたかも知れませんが、いずれにせよその後の歴史は大きく変わったのではないかと思います。一度侵略を受けると独立心が強い国家になれたのかも知れない、と言うのは日本国が成立して以降は未だ曾て他国からの侵略を受けたことが無く、そういう歴史が現在、アメリカの従属国にありながら、それを甘受している人々が多数いると言うことにも見られるのではないかと考えたりもするのです。

             

こういうことをダラダラと書くのはきっと伊勢神宮などへ行ったからだと思うのですが、行かなかったらこのようなことも考え出すに至らなかったと思うと、(ブログのネタが続くので)行って来た方が良かったなぁとは思っているのです。

昔はこの場で沐浴をして体を浄めてからお詣りしたと聞きます。でも今は寒いからなのか、沐浴する人は見かけません。昔の人は寒かっても沐浴していたのか、今の人は暖かくても沐浴しないのか、そこのところはよく判りませんが、“沐浴をしてはいけません”と書いた立札は立っていません。その代りに投げ銭を禁止した立札がありました。これには困ったという人がいますね、銭形平次です。ここで銭を投げられなかったら、平次親分はどうしたのでしょうね。平次親分のことですから、きっと神の命より犯人逮捕の方が大事だったに違いありません。

             

外宮を先に参拝してから内宮にという理不尽な決まり事があることを紹介しました。でも外宮で見た人の数とここ内宮で見た人の数では大きな差があります。内宮の方がずっと多いのです。時間的にそうなったのかも知れませんが、どちらもだいたいみんなが同じようなペースで歩いているので、「この人さっき見たなぁ」と思う人が隣を歩いていたりすることも多いので、“お伊勢詣りは外宮から”の決め事を守っている人など少ないのだと思うのです。きっとその逆でもなくて、内宮だけ参拝している人が多いんじゃないかと思ったりもします。

             

何故かわざわざ参道を外れて歩く人が多いのですが、これはどういうことなんでしょう?前の人が外れてしまったのを、たまたま後ろの人が付いて行ったのでしょうか(羊の遺伝子そのものです)、それともこちらからの人数が襲ってくるほど多くて、自然と避けた具合になっているのでしょうか。

             

矛盾、或いは曖昧なことの多い伊勢神宮・神様たちですが、本当は矛盾などあり、曖昧であってはならない筈の神の存在、絶対的な権力を誇った現人神は、自ら行う戦争に対して意見が違う者を逮捕・投獄、挙句の果てには拷問して殺したこともあるほど、“純粋ぶり”に狂奔していた時代はそう遠い昔のことではありません。

             
                       着々と進む新正殿の工事

では何故こうも曖昧な存在になってしまったのか、それは神を絶対的な権力の象徴として捉えることを国是とする者たちが権力を握っていないからだと思うのですが、元来、雨や風、太陽や海と言った自然が自分たちの思うようにならないので、何とかして欲しいという願いが自然信仰として発生し、その為の呪術を行う者が権力を握り始めて豪族となり、自らを天皇と呼ぶようになった者が、その必然性を説くために神なるものを自分の都合の良いように解釈・創造して、書物として残っているのが古事記や日本書紀であるわけです。

                       
                           正宮の前では階段から下から撮影をしなさいと・・・

最初から無いものを有るとして作ったものですから、矛盾や曖昧さが出てきて当然でしょう。神は心の中に有るという人は、その人の心(脳)の中にあるのであって、私はそれを否定はしませんが、それを誰しもの心の中に有るとか、普遍的に存在すると言うのは間違いだと思います。

             
                       仕方がないので望遠です

神が絶対的な存在であるとか、誰しもの心の中に存在するとかと言うのは、そう学んだ教育の賜物です。そういう意味ではウソをホントとして教える教育は恐ろしい、またぞろ“美しい日本を取り戻す”などと嘯く政治家たちが政権の座を目指していますが、恐ろしい日本、汚い日本を作ってきたのはその人たちの先輩、当にその人たちの親父や祖父だったではありませんか。そんなことがよく言えるもんだと私は呆れてしまいますが、何故か日本国民は懲りないのです。今度の総選挙ではまたまたそういう人たちに投票してしまうのでしょうね。

             
                       工事中の新正殿の横を通って荒御霊(神が特別な働きをする)を祀る荒祭宮

そういえば今月半ば、時の内閣総理大臣は国会の解散を約束し、実行しましたが、そのような様子をテレビで見たのは初めてです。あんな時間にそのようなことが行われたのでは、私たちのように昼間働く(働いていた)者はその様子を見ることが出来ません。呆れたのはみんなが万歳!バンザイ!と両手を挙げて喜んでいるではありませんか。何が嬉しいのか、私としては全く納得出来るものではありません。アホか?こいつ等はと嘲笑してしまいました。

             

そんな人たちが政治の動向を左右しているこの国の末は恐ろしい、今仕事の無い私は午後の何もすることの無い時間はテレビを見ていることがありますが、その時間にテレビを見ているのはたいてい浮動票と言われる主婦層が主、その人たち向けにジャーナリズムは自民か民主かと選択を迫るのです。これも一つの教育・宣伝なのでしょう、もう同じ穴のムジナに投票するのは止めようではありませんか。

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おかげ横丁

2012-11-28 05:00:00 | 

15年ぐらい前に、何故だか忘れましたが、このブログにも度々登場するK川君とここ伊勢志摩にやってきたことがあります。今回外宮や内宮を歩いてみて、その時は神宮内を歩いたという記憶が甦って来ないので、周りをドライブしただけだったかも知れません。名古屋赴任時ですから8~9年くらい前にもこの辺りに立ち寄った記憶がありますが、その時はおかげ横丁で何か買ったくらいの記憶しかなく、おかげ横丁も今回より規模が小さかったような気がします。

そのようなグータラな記憶なので、伊勢の地をどう走ったらいいのか見当もつきません。道路標識の通りに内宮を目指しますが結構遠くて、伊勢西インターの前の御木本道路というのをずっと直進したせいか、内宮とはかけ離れた駐車場で停めてしまいました。浦田と言う交差点で右折して伊勢街道を走れば、内宮の直近の駐車場に入れられた筈です。

             

駐車場の近くには赤福を売っている店や昼食をとれる店もありましたが、内宮やおかげ横丁は何処かと尋ねると、地下道を潜ればすぐにおかげ横丁に出、その道を進めば内宮へ辿り着けるとのことでした。もう12時近くになっていたので、その場で昼食をとっても良かったのですが、おかげ横丁で何か食べようと思う魂胆のあった3人でした。

長い地下道を通るのかと思いきや、道路を横断するための地下道で20mぐらいでしたか、道の両側には近くの風景が描かれていて目を楽しませてくれる筈ですが、私たちはゆっくり見てはいません。

地下道から上がって道沿いに進むと商店街らしき道に出ます。そこを左に曲がるとおかげ横丁らしき賑わいになってきます。暫らく歩くと神宮道場なる建物、門が開いていますが“関係者以外立入禁止”になっています。何のどんな道場なのか気になりますが、お腹が減ってますし、入ってはいけませんから入りません。あまり高圧的なら道場破りをしたくなりますが、太刀打ち出来ますまい。でも、神宮に関する道場ですから、どうせ伊勢神宮に関しての道場なのでしょうから、知りたい人には入ってもらった方が良いんじゃないのかと思いますね。

             

店はたくさんありますが、同じようなものばかりです。赤福とか牛肉の串焼き、手コネ寿司、伊勢うどん等々、どれもが皆高い!赤福本店の前はその店で食べるのにいっぱい並んでいるし、適当な店が見つかりません。このような店の中で異彩を放つ洋風の店を見ると、これまた妙に入り辛く感じるのは私だけでしょうか。

この道を車が通るので、危ないです。いっそのこと進入禁止にして車など気にせずに歩きたいと思いますが、住民にとってはやはり必要なのでしょう。でもどうみても住民のものとは言い難い車も通ります。

             

赤福本店の横に橋が架かっていたので何処へ行くのかも分かりませんが渡ってみます。川は五十鈴川、内宮へ参拝する前に沐浴すると言う川です。

みんな渡っていますが、おかげ横丁や内宮には関係のないところでした。

             

橋の彼方の山は美しいですね。街並みには入らずに橋を引き返します。

             

元の横丁に戻って、通りから少しだけ中に入ります。何故か食欲をそそるものがありません。全体的に大阪より値段が高いことに起因するのかも知れません。これだけ観光客が往来しているのですから、せめて大阪並の大衆的な値段にして欲しいものです。神宮があるから価値があるなどと考えられては、食べる方としてはたまったものではありません。

             

迷った挙句に『豚捨』と言う店で牛丼を食べることに・・・他にも牛鍋(2100円)や網焼き、しゃぶしゃぶ、すき焼き(各5250円)もありましたが、とても昼時に食べる値段ではありませんし、(お酒を)飲めないので食べる気もしません。『豚捨』は名前通り豚は売っていません。でも羊も鶏も売ってないので、その名から牛だけを売る店とは理解し難い。

牛丼より親子丼があればそちらを食べたいと思うような、牛丼です。味は?と言えばご飯の上にこま切れ肉のすき焼きを乗せたものと言っていいのではないでしょうか。卵も付いてないので甘い!辛い!何故か紅ショウガが付いているのが、吉野家とかすき家と同じですが、値段はこれで1000円です。もしこの項を見て、おかげ横丁に行く機会がある人がおられれば、ここの牛丼だけは止めといたほうが無難です。濃~い味の好きな人はどうぞ。

他に注文したのが1個90円のコロッケ、私は要らなかったので2つ頼んだのですが、1個の半分を味見にとくれました。味は?と言えば美味しくないとしか言いようがありません。これなら家の近くの光食品の1個60円のコロッケの方がずっと美味しい、伊勢神宮の威勢を借りてぼったくってると言われても仕方ありません。

             

牛丼を食べたのが12時半ごろ、おかげ横丁を抜けて、内宮へと渡る橋の手前の広場に来ています。もう1時です、中央の木と木の間の空間がおかげ横丁です。

                       

この橋を渡ればいよいよ内宮、橋の名前は宇治橋、写っている鳥居は宇治橋鳥居と言います。

             

これは内宮の散策を終えて再びおかげ横丁を抜け、駐車場近くの赤福五十鈴川店まで帰って来た時、あの牛丼を食べてウンザリしているのに、出来立ての赤福餅で目を白黒させながら食べている時、ふと庭を見ると井戸があるのに気付いたのです。この水は飲めませんとと書かれていますが、水が出ている様子もありませんでした。

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豊受大神宮

2012-11-27 05:00:00 | 

九州のN田夫妻が是非、伊勢・熊野方面へ行きたいと前々から計画していたので、先週19日の月曜の朝から車を走らせました。7時に梅田のヨドバシカメラ前で待ち合わせ、普段は車で梅田方面へは行かない私は、ヨドバシカメラの前がどのような状態なのか知らないでいました。日本国の思惑なのか大阪府なのか大阪市なのか、はたまたJRなのかはよく判りませんが、車で知人を待ち合わせられる処を無くしてしまっているのです。大阪駅周辺は歩道と車道の間には柵を設け、その上花壇まで並べているので、乗り降り、荷物の出し入れが困難になっているのです。一見、混雑・渋滞緩和策のようにも見えますが、はるばる九州からやってきた人を迎えに行った私は、簡単には迎えられない状況に恥じ入った思いをしました。私たち一般市民・国民には我慢を押し付ける一方で、財界には規制緩和で以って多大なる便宜を図ってやる(財界にやらされている)という政策は、自民・公明も民主も同じ穴のムジナでしかありませんが、大阪駅前でその歪みを蒙るとはとんだ出発劇になってしまいました。

             

きっちり7時に久し振りに顔を合わせた3人、6月の九州旅行以来です。7時に待ち合わせたのは早いかとも思ったのですが、通勤渋滞に巻き込まれるのはイヤなので早目の出発にしたのでした。イチョウが黄色く色づき始めた御堂筋を南下、折角なのでビルとしては日本一の高さに到達したハルカスが見える道を選び、文の里から阪神高速に乗りました。早目の出発で時間がありそうなので、信楽に寄ろうと思ったのです。西名阪を通ると高速代が節約できると思ったのもそのコースを選んだ理由の一つ、梅田周辺から阪神高速に乗り、名神を経て新名神を辿るコースもあったのですが、おそらく多大な出費が嵩みます。

             

私は何度も信楽には行っていますが、耄碌し始めているのか、何処で西名阪を降りて良いのかが思い出せず、こことは違うと思いながらもカーナビの示すとおりに従ったのが間違いの元、曾てこんなコースを走ったことが無いぞと思うような道を案内します。7~8年前には西名阪から信楽まで広い道が出来ているのです。その道を案内せずに細い道を案内するって、その方が難しいというものです。途中、どないしたらそこに行けるん?というような田圃の中に佇む車を眺めながら、でも9時前には信楽に到着、店は何処も開いていません。焼き物にはきっと無頓着なN田君、さっさと伊勢へ向かおうと言います。日本六大古窯の一つですよ、奥さんはきっと後ろ髪を引かれる思いだったでしょう。

             

信楽で見物をしていたら、もう一度西名阪に戻ろうと思っていましたが、何処まで行っても店が開いてないし、以前は何も無かった紫香楽の宮跡も無視したら、新名神の信楽ICまで行ってしまったので、そこから高速に乗り亀山JCTから伊勢道、嬉野で休憩してN田君に運転を交代しました。伊勢西ICで高速を降り、信号を左折して伊勢神宮外宮へ、外宮って“げぐう”って習いましたよね、でも案内には“けぐう”と書いてありました。学校で教えられたことが何故こういとも簡単に変更されるのか、真実への認識が歴史と共に変わって行くのは分かるけど、それなら教えた管轄は責任を持って教え直さねばならないとは思いませんか?因みに“げぐう”でも“けぐう”でも『外宮』に変換されます。

             

信楽からは2時間程度と思っていたので、その時間通り11時前には外宮の駐車場に到着、暫らく歩いて表参道、火除橋を渡って第一鳥居へと向かいます。何故か理解できませんが、“お伊勢詣りは外宮から”という言葉があるそうです。でも内宮が出来てから、500年も経ってから外宮が出来たのですよ。外宮の方が後から建ったのですから、順番から言えば内宮から参拝するのが普通の考え方だと思うのです。何故なら内宮が出来てから500年もの間、外宮は無かったのですから、私たちの先祖は外宮を先に参拝したくとも出来なかったと言う絶対的な事実があり、外宮が絶対に先だとすると、ご先祖様は間違いを犯していたと言うことになるわけですから。

             

結局、“お伊勢詣りは外宮から”などというのは、後世の人が何の根拠も無く押し付けたのだと思います。神様などというものは、こういう曖昧なものの考え方だと言うことの証明でもあります。

更に曖昧さを言うと、外宮の本来の名前は豊受大神宮、内宮が祀っている天照大神の食事を司る神だそうで、そうとなれば500年もの間アマテラスオオミカミは食事をとることが出来なかったということになるのですが、神様ですから食べなくても死なないのですよね。なのに500年経ったらその食事を司る神を祀ったという矛盾、アマテラスは食事が要るのか要らんのかハッキリせよと言いたくなります。何故こんなバカバカしい神の前にやってきて、恭しく頭を垂れて神妙になって帰るのか不思議な思いがします。

             

来年はここに正宮という社殿はありません。もし私が伊勢神宮に再度訪れることがあるとしても、この敷地に建つ社を見ることは無いでしょう。20年に一度、社殿を初め門や垣、装束や神宝を新しくして、左(西)の敷地へ遷るのが式年遷宮と言われる祭り・・・あくまでも祭りだそうです。その遷宮祭りが来年のこと、その次は2033年になりますから、酒飲みの私が生きていることはないだろうと思うのです。

             
                   こちらは正宮の反対側にある風宮(かぜのみや)

ここ最近は何処の神社へ行っても、伊勢神宮式年遷宮のための寄付を募っていましたが、私は一切応じていません。他の神社がそのような遷宮を行っていないのに、何故伊勢神宮だけがという思い(公平でない)もあるし、だいたい神なるものを信じていないし、信じられないのですから。

                       

天武天皇の詔で、次代の持統天皇が692年に行ったのが最初で次が62回目との説明、現在まで1300年間受け継がれてきたというのは、少しおかしい。私にとってはどうでもいいことですが、きっちり20年ごとに行われてきたのなら年も回数も合いません。最初が692年ですから、最後の桁は2でなければならないし、692年から1300年後は1992年であり、その時は66回目、次回は来年であったとしても67回目でなくては計算が合わないのです。私の知り得る限りでは前回が1993年、前々回は1973年、次回が2013年ならきっちり20年ごとに執り行っていることになります。

             
                  風宮から階段を登ると多賀宮(たかのみや)

私の上記の記述“天武天皇・・・”は豊受大神宮の正宮の左(西)側で工事を営んでいるところに立つ塀に掲げられた掲示板によりますが、伊勢神宮のホームページを見ると持統天皇4年(690年)が最初であると記されていました。これも重大なことですよ、同じ神社内で、しかも日本で最も尊いと自称する神社が、1回目に執り行われた年を違えて主張するなんて、尋常ではありません。

             
                  階段を降りた正面にあった土宮(つちのみや)

風宮や土宮の敷石をよく見てください、社殿の前は白石、周りは黒石が敷かれています。これは正殿でも同じでした。畏れ多くもN田君は石を持って帰りたい意向を話しますが、罰が当たるとは思いませんが、窃盗罪にあたるのではないかと思うので、思い留まってもらいました。

             

30分ほどの見学でしたが、矛盾に満ちた伊勢神宮の姿が見れて、意義深い散策をなりました。

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聖天山 正圓寺 Ⅱ

2012-11-26 05:00:00 | 大阪にて

一旦お寺を後にして山門の階段を降りていったのですが、少し気になって山門の横に書いてあった縁起を読んでいたのです。この山門の下、両側にお寺を護るようにしてリレーフになった不動明王が並んでいます。

                       

山門の前のイチョウももう少しで黄色く色づきますね、古座川の光泉寺の大イチョウは、どうなってるのでしょう。一昨年は11月中旬に観に行って、少しだけ早かったのですが、去年は12月に行って枯木になっていました。今年は11月中には串本に行けそうもないので、きっとタイミング良くは見れないのでしょうね。

             

縁起を読んでいると武野紹鴎の手水鉢が残されているとか、兼好法師の藁打石があるとか書いてあります。そんなものが残っているのなら、見ておかずにはおれません。早速、もう一度山門を潜りました。何処にあるのかと今度は丁寧に境内を歩きました。すると仏足石もありました。

             

マニ車というお経を納める釣鐘のようなものが並んでいるのもありました。ネパールから贈られたものだそうです。

             

こんな所にも不動明王の姿が、あっちこっちに不動明王があったとは既に述べたところです。でもこんなものを探しているのではありません。紹鴎の手水鉢を探しているのです。

                       

確か境内の西隅にあると書いてあったので、西隅の方を探すと大師堂と鐘楼の間に何か祠があり、これではないかと思って近寄ってみました。

             

するとお茶の師匠のような姿の人形が座っていて、牢屋に入れられているみたいです。これが置かれている位置からしても紹鴎らしい。でも手水鉢などありません。下に鍵のついている扉があったので、その中にあったのかも知れませんが、開けて見ていません。

武野紹鴎の名はおそらく、加藤廣の『信長の棺』に出てきたと思うのですが、感想文を読み直してもその名は出てきていません。

             

いや『秀吉の枷』だったか、『明智左馬助の恋』だったか、『利休にたずねよ』なのか、私の感想の中ではいずれにせよ紹鴎の名は出てきませんでした。そして山門を後にして、兼好法師の藁打石を探しに行きます。

             

表参道上り口左、『大聖歓喜天』と刻んだ方形の石柱の台座がそれだと書かれていました。ではこれかと思います。

                       

横から見るとこんな具合ですが、でもこれですかね?そのような石はいくつもあります。そういえば聖天山公園を回って帰ってきたところにあった登り口にも『大聖歓喜天』という方形の石柱が建っており、そちらの台座のほうが法師の藁打石には相応しかったような気がしますが、表参道はこちらだと思うのです。

             

この表参道の鳥居前は聖天山シリーズで最初に掲げた写真より、少し右側を写しています。2つも聖天山正圓寺と書かれているのですが、実は聖天山というのは正圓寺の山号ではありません。正圓寺の山号は海照山なのです。何故このようなややこしいことをしたのか、おそらく聖天さんが昔からこの地ではよく知られている名前だからなのでしょうね。誰でもこの鳥居の前に来たら、正圓寺の山号は聖天山と思いますよね。生駒山の聖天さん・宝山寺の山号は生駒山そのものなのでした。

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聖天山 正圓寺

2012-11-22 05:00:00 | 大阪にて

生駒聖天宝山寺もこの天下茶屋聖天も歓喜天に何らかの関係があるのかと昨日書きましたが、調べてみると歓喜天のことを聖天とも言うのだそうです。歓喜天とは像の頭を持ち、首から下は人身の守護神、単身のものと二者が抱擁している双身のものがあり、どうやら抱擁=交合=歓喜という構図が見えてくるし、そうなれば人目を憚るのは無理もないこと、生駒でも天下茶屋でも歓喜天の像を見たことがありません。それもそのはず、歓喜天は秘仏にして隠している寺院が多いのです。

             

山門を潜ると鳥居があり、神額には歓喜天の文字。聖天山にあるから聖天山正圓寺と言うのか、聖天=歓喜天を祀った寺があるから聖天山となったのか、どうやら答えは後者の方のようです。

鳥居からその奥には線香を立てる鉢を置いた社、その奥の建物が見えているのですが、帰って来るまで本堂だと思っていました。神社の社殿に似たそれは護摩堂だったようです。

             

本堂は向かって右側にあったのですが、社務所かと思って撮っていません。こちらは向かって左側にあった大師堂です。なのでこの正圓寺も真言宗のお寺、道理で神さんがうようよいる筈です。

             

大師堂の片隅にあった賓頭慮尊、神呪寺中山寺紀三井寺等で見たことがありますが、ここのはチョット漫画チックで男前なんじゃありませんか。

                       

大師堂と山門の間にあった鐘楼。

             

山門の東側にある地蔵堂、よくもまぁこんな狭い境内にたくさんの建物を建てたものだと思います。

                       

延命地蔵尊と書かれていますが、錫杖を持った地蔵さんも珍しい、普通錫杖を持ってるのは、全国を遊行した僧・空海や行基の銅像が多いのです。お地蔵さんは山野を歩きませんから、錫杖など必要ないのです。

             

正面からはよく見えなかった護摩堂、狭い境内にはサクラの木が数本植わっており、その季節になるといつもは寂しいこのお寺も賑やかになるのでしょう。

             

護摩堂の前に有った聖天山山頂を印す標柱、山頂と言っても標高たったの14mらしいですよ。

このお寺を後にして、一路天王寺公園へと向かったのでした。

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聖天山公園

2012-11-21 05:00:00 | 大阪にて

龍王社殿の横から北側にある公園へと降りていく階段があったので、降りてみることに。私が50年前に遊んでいたころに階段があったかどうかは覚えていません。でもこの下の公園では遊んだ記憶があります。この大きなクスノキも当時からありましたが、このように石垣の上にあったのか、なだらかな高い所にあったのかは定かではありません。

             

階段を降りたところにはテニスコートが出来ていました。私が遊んでいたころはテニスコートなど無かったと思いますが、ここに何があったのか、それも忘れてしまっています。

             

結構広いスペースがありますが、なんやかんやと作ってあって、ボール遊びが出来るような造りにはなっていません。昔、学童保育のS川先生が指導していた頃、子供たちを連れて来て、ここでよく遊んでいたことがありました。一度、飼っているサルを連れてきていた人が居て、S子ちゃんという子がそのサルに噛まれたか、引っ掻かれたかした事件が起きて、おそらくサルが追っかけまわしたんではなくて、そのS子ちゃん(あまりおとなしい子ではなかったので)がちょっかいを出したのだと思うのですが、父母会でも大いに揉めたことがありました。

                       

1000年も経っているようなクスノキではありませんが、結構大きな樹です。実はこの聖天山という小山は古墳であることが分かっています。古墳時代、上町台地は陸地だったのですが、周りは(寝屋川・四条畷付近まで海でした)、この上町台地の裾にある聖天山はきっと目の前に海が広がっていたに違いありません。

                       

公園を出て、山の外周を元の鳥居の方へと進みます。すると最初のとは違う鳥居があり、その横にはボケ封じ地蔵尊の祠がありました。そろそろ私も拝んでおかなければならない歳になりましたが、拝んでおけばボケないなどと信じているわけではありません。いくら拝んでおいても、ボケてしまえばどうせ信心が足りなかったと言われるに決まっています。拝むよりも普段からボケないためにはどうするかを考え続けることが大事だと思っているのです。

             

考えることを止めて脳を刺激することが無くなれば、きっとボケはやって来ると思っています。この祠の前に階段があり、この地が一段高いところにあることを物語っていますが、海に面していたのなら、いくら穏やかな瀬戸内海とは言え、これぐらいの高さなら波が押し寄せます。実際には500mぐらい西、南海電車が走っている辺りから徐々に坂になっていて、国土地理院の地図でもこの辺りに等高線は引かれていませんから詳しくは分かりませんが、5mぐらいは登っているのではないかと思うのです。

玉垣に使用したらしき石柱に『冥感 冥応』と彫られた碑、冥感も冥応も同じ意味だそうで、知らないうちに神仏が感応して、加護や利益を授けることだそうで、そんなことがあるのなら、神や仏を祀る必要は全くありません。一方の柱には『転禍之地』と彫られています。かなり下まで埋まっていたのでしょう、一番下の地という字の周辺は土で黒く染まってしまっています。そのような地があるのなら住みたいものですね。

             

鳥居の前にある『大聖歓喜天』の碑、確かに生駒聖天にも歓喜天の文字があちらこちらにあったような気がします。聖天というのは歓喜天と何らかの関係、共通点がありそうです。

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聖天さん

2012-11-20 05:00:00 | 大阪にて

家から区役所のある信号を右折し、上町筋を東上すると左手に聖天さんと呼ばれている小山があります。小さい頃はこの聖天さんを東の限りにして遊んでいたことを覚えています。小さい頃と言っても小学校高学年になってからだと思うのですが、私にはお寺や祠や鳥居などは眼中になく、何処で遊べば面白いのかを探し回っていたように思えます。

その頃から今に至っても聖天さんと親しみを込めて呼ばれているのかと思いきや、実はここは地図上では聖天山という低いながらも一応は山なのです。だからみんなは聖天さんと愛称で呼んでいると思っているのは私だけで、みんなは聖天山という地図上の名前で呼んでいたのかも知れません。でも山の名前なら「しょうてんざん」と呼ぶべきではないでしょうか。相撲取りの四股名で○×山を音読みで呼ぶのは「○×ざん」であり「○×さん」などと呼ぶのを聞いたことがありません。

             

実は展覧会へ行く前にこの聖天山に寄ったのでした。ハローワークへ行く途中に何度もこの横を通りながら、一度は取材しなければと思っていたのですが、出発時間がいつも早いために往時は通り過ぎて、帰る時は往々にして他の道を通ったり、買い物をして荷物が多かったりしたので、どんどん後回しになってしまったのです。

この夏電池を買い替えた後、記事のタイトルには関係なく一度デジカメの電池の調子が悪いと書いたことがありました。電池の調子がおかしいと感じた日というのが9月28日だったのですが、その日に訪れた神社と言うのがこの聖天さんだったのです。幸い、充電池の接続部分を掃除することによって治ったのですが、かれこれ1ヶ月以上経って再度の挑戦です。

             

表参道などを通ってきたわけではありませんが、それに連なる鳥居を潜ってお寺の山門は無視し、裏の門も素通りして奥へと進みました。突き当たったのが奥ノ院八本松龍王社殿、寺の縁起に聖武天皇祈願の寄松塚とはこのことなのか、八本も松があるわけではありません。縁起には一幹八枝と書かれていました。でも1615年の元和の役で全焼していますから、そのようなものが残っている筈がありません。聖武天皇が1300年前の人ですから、その頃の松が残っているとしたら、幹が太く大振りなはず、現存すれば天然記念物ものです。

             

左に曲がると石切劔箭神社分祀の祠、その右隣の祠に向かってシャッターを切ったのですが・・・

             

撮った時には気付かなかったのですが、何じゃこれは?火の玉が空中に浮かんでいるではありませんか。いやいや撮った時に気付いていれば、怖くて恐ろしくて一気に逃げ出したかも知れませんし、何かが反射して壁に写ってるだけだと解ったかも知れません。

実はこれより一枚上の写真、石切劔箭神社分祀の祠を紹介した写真にもこの火の玉らしきものが写っているのです。写真では小さくてよく見ないと分かりませんが(注視すると明るい一点が見えます)、拡大すると同じ形をしたものが写っていました。

             

子供の頃はここには水が張ってあって、柵の所から跳んだりして遊んだ記憶が微かにあります。一応弁天様を祀ってある祠です。             

             

フェンス沿いに左へと移動するとお地蔵さんが並んでいます。

             

とりわけ気になったのがこの『魔法大僧主』、何か意味不明です。僧主という言葉自体あまり使用されていない言葉であり、僧侶の主と言う意味なのか、そいつが魔法を使う人だったのか、ネットで見ても出てきません。

             

この地蔵さんもヘンでしょ、首より上は絶対後付けですよ。誰がこんな罰当たりと言われかねないようなものを作ったんですかね。

             

ここにある石像は不動明王、不動明王と言えば憤怒の顔をしているのが普通ですが、ここの不動明王は惚けた顔をしています。最初は何の像なのかよく判らなかったぐらいで、境内に身代不動明王とあったので、あぁそうなのかと思った次第でした。実はここの境内には不動明王らしき像がたくさん見受けられたのです。

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北斎展

2012-11-19 00:00:00 | 展覧会

週を跨いでしまいましたが、天王寺公園から大阪市立美術館で開催中の葛飾北斎展へ入館、もちろん館内は撮影できません。この前に行った正倉院展の入館料が1000円、北斎展は1200円、入館料の差から来るものではないのでしょうが、同じ木曜日なのにも拘らずこちらは混雑していません。北斎の作品には重要文化財はあるものの国宝がありませんから、その差なのでしょうか、富嶽三十六景など大したものではないですか、将来国宝に指定されることも十分考えられます。まぁ、現在見に来ている人が生きているうちにそうなることはないでしょうけど、だからこそ余計に見ておかなければならないと私は思ったのですがね。

             

この絵は『足利行道山 くものかけはし』諸国名橋奇覧と名付けられたシリーズ絵の一つ、入館時に受付で貰ったものですが、絵としては5×7、5cmの小さなものでした。でもこうして撮ってみると、そんなに小さいものとは思えないでしょ。本物は25×36,5cmあるようです。

             

今回の企画は風景・美人・奇想という3つのジャンルに分けて、順に展示してあり、最初の風景画などは実際に小さいもので、ほの暗い美術館の部屋ではたいそう見難いものでした。展示してあるのが小さいもの順なのか、年代順なのかよく判らなかったのですが、小さいものを見るのが不得手になったこの齢の人間から言わせてもらえば、展示されたものが見難いというのは、主催者側の手落ちだと指摘されても仕方のないことでしょう。

正倉院展(読売新聞社 特別協力)にしても、北斎展(読売新聞社 主催)にしても、どちらも読売新聞社が絡んでいて、どのように美辞麗句を連ねてもあのナベツネの悪態が絡んでくるので、こういう高齢者に対しての仕打ちも、奈良で食べられた読売新聞紙の片割れに食べたシカに“こんな汚いインク(ナベツネを薄汚れた奴と思っているので)が付いているのに大丈夫か”と心配したことにしても、社主の普段の言動、振る舞いなどに“坊主憎けりゃ袈裟まで”になってしまうのです。

                       

この展覧会では、有名な絵をたくさん残している北斎は、もちろん絵は上手なのですが、本来は漫画家だなと思ったのです。『北斎漫画』という本を残しているからと言う意味では無く、今は全くマンガなど読まなくなっていますからどう変わっているのか知らないのですが、若い頃によく読んだマンガの技法(雨や風の表現など)と酷似しているのです。この考え方は本末転倒です、北斎の手法を現在の漫画家が真似ていると言った方が正解なのでしょうが、要は北斎はマンガを描くべく現れた人のように思ったのです。

風景画にしても殆どの作品には小さいながら人が描かれているのも、何とかしてストーリー的に描きたいと言う漫画家としての特徴なのだと思っているのです。

             

北斎漫画は文庫本で3分冊になって青幻舎という出版社から一冊1500円で売りに出されていますが、所謂ストーリーのあるマンガでは無く、スケッチと言ったところ、欲しいのですが三巻で4500円+税であり、白黒ということも相俟ってなかなか手が出すことが出来ません。他にカラーの大型本として1680円のものもありますが、総て収録されているのでは無さそうですし、初刷り『北斎漫画』という単行本もありますが、12600円もします。“帯に短し、襷に長し”ですね。

             

さて、美人画、奇想画と順に観て思ったのが、名古屋赴任時に長野へ観光に行った際、小布施で見た鳳凰図が無かったこと、北斎が晩年に描いたものですが、天井画なので持っては来れないのでしょうが、非常に迫力のある絵でした。鳳凰図は私が見た小布施の岩松院に描かれたものだけではありませんから、是非展覧会でも見ることが出来たらいいのにと思っています。

             

後、無かったものと言えば春画ですね。北斎は春画も多数描いているのです。展覧会に出展するには卑猥度が高いのかも知れませんが、北斎の人生、そして人生観を知る上では貴重な代物だろうと思うのです。春画など出展すると色めきたった輩が大勢詰め寄せるとでも思っているのかも知れません。

             

北斎の浮世絵は非常に斬新なデザインで心を揺すぶるものが多いのですが、昔サッカー部の先輩から頂いて家に飾ってあったパネル、広重の浮世絵『東海道五十三次のうち 日本橋』の方が構図に安定感がありますね。どちらが好きかと言われても困りますが、広重は私が学校で習ったのは安藤姓だったのに、今では歌川姓に替わってしまっていて、替えたんなら教えた奴は責任持って訂正しに来いよなどと思ってしまいます。

             

いずれ何処かで手に入れようと思っている文庫本の北斎漫画、そのカバーにしようと紙製のブックカバーを買いました。北斎の書物を北斎のブックカバーで覆うなんて、なかなか洒落たアイデアです。右の隅に写っているのは美人画を描いた栞、本を買っても栞が付いてないものが多く、特に単行本などは全く本に栞が付いてないし、今は本屋に行かず(本屋で買えばレジの辺りに栞が置いてある)、通販で買うことが多いので困ったもんだと思っていました。美人画より風景画の方が良いのですが、構図上栞には向いていないのですよね。

                       

受付で小さなカード絵を貰ったので、こんなものも買ってしまいました。富嶽三十六景のものを5枚買おうと思ったのですが、気に入ったものは4枚しかなく、北斎と言えばこの絵と言われそうな『凱風 快晴』『神奈川沖 波裏』と『東海道品川 御殿山ノ不二』『隅田川 関屋の里』を選び、もう一つ北斎と言えば、迸る波濤を描いた『千絵の海 総州銚子』を買いました。受付で小さなカードをくれたのは、こういった絵を買わそうという意図があったのかも、それならまんまと引っ掛かってしまった私でした。

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天王寺公園

2012-11-16 05:00:00 | 大阪にて

先週の木曜日8日のことです。大阪市立美術館で葛飾北斎の展覧会があるというので、久し振りに自転車を駆って天王寺へと行って来ましたが、今日は展覧会のお話しではありません。我が家から天王寺へはいくつものコースがあるのですが、私は専ら区役所の前で国道26号線を横切り、上町筋を東上、上町台地を登って行きます。そして松虫塚の手前で斜め道に入り、上町線を渡らず横の小道へと入り松虫駅の裏側を通ってあべの筋に出るのです。これがまぁ一番安全な道ではないかと思っているのです。

             

そして上町線の松虫駅、通っていた高校へ行くのにこの駅を利用していました。この時、天王寺駅前行きの電車が発車したところです。正面には建設中のハルカスが聳えています。

             

松虫駅から天王寺駅前駅まで1,2kmあり、つまり1,2km先の現在のハルカスの状態です。

こちらは住吉公園行きのホーム、先日T中君が挙式を挙げたのが住吉大社でしたが、南海電鉄の住吉大社駅より、この上町線の住吉公園駅の方が少し住吉大社に近いのです。逆に南海電鉄の住吉大社駅は上町線の住吉公園駅よりずっと住吉公園に近いのです。どっちも名前を交換した方が良いのではないかと思います。因みに上町線は(阪堺線も)1980年に南海電鉄から阪堺電気軌道に分離譲渡されたもの、元は同じ会社でしたからその辺のところ(駅名)は何とでも出来たのでしょうがね。

             

こちらは住吉公園行の電車が出たところ、天王寺駅前駅には線路が一つしかないので2台の電車は停めておくことは出来ません。なのでこの駅を天王寺方面に電車が出れば、すぐに住吉方面行の電車はやって来るのです。

             

こちらは住吉方面から来た電車の降車するホーム、私が高校生の時から以降、改修されたのかどうか、高校生時分にはゆっくりと駅など見ていた記憶がありません。この電車は路面も走っていて、この駅もそうなのですが途中学生がたくさん乗り降りするので、いつもダイヤ通りには運行せず、学校ではいつも遅刻しがちで、遅刻すれば怒られるので何とかしてもらいたいと思っていました。当時はいつも同じ顔の若い駅員さんが一人だけいて、「遅延証やろか?」とか言ってくれていた気もするけど、それどころじゃ無かったですね。その駅員さんも私よりは年上でしたでしょうから、既に定年になっていることでしょうね。

雰囲気は全く変わってないような気がするけど、当時はおそらくジュースの自動販売機などは置かれてなかったと思います。

                       

もう天王寺駅近くまで来ています。おそらくこのハルカスまで500mも無いでしょう。

                       

分かり難いですが、上から10階下に“52F 250m”の表示があります。10月30日の時点でビルとして日本一の300mに達したと報道していました。

             

ここはJR天王寺駅の西側に架かる跨線橋の上から西側方面を見渡したもの。何を撮っているかと言えば右側を走っている特急くろしおではなく、一番左の線路です。この線路は1993年に廃止された南海電鉄の天王寺支線跡、最初は1900年に天下茶屋駅から天王寺駅まで2,4kmの区間を電車が走っていましたが、1984年と言いますから長男が小学校入学した年に天下茶屋駅から今池町駅までを廃止していました。現在の天下茶屋駅は1995年の完成、昔あった駅の下の地下道も無くなりました。昨日紹介した岸里学童保育所の初代指導員・S川君も祝う会が終わって、天下茶屋駅の近くまで飲みに来たので、在所当時は昔の天下茶屋駅を知っていて、昔の地下道を懐かしんでいました。

                       

公園奥からのハルカス、今年の4月からの半年で遥かに高く聳えています。半年でこんなに工事が進捗するなんて、技術が高いのか、労働者が頑張っているのか(ひょっとしたらこき使われて)、そんなに急がずともいいような気がしますけどね。

             

天王寺公園までやってきました。今まで平面的に作ってあった動物のモニュメントが、立体的になっています。一部未だ未完成の部分もありましたが、11月11日から『あべの・天王寺イルミナージュ』という催しがあるそうで、その準備だったのでしょう。

             

この天王寺公園の下(西)には動物園があるので、こうやって動物のモニュメントが置かれているのでしょうが、シロクマでしょうか、未だ昔の平板なものも残っていますよ。周りに植えられているのはシンビジュームでしょうか、違うなら花の名前は分かりません。

             

こちらはフラミンゴ(ですよね)、おそらく池の中に置かれるようになるのでしょう。イルミネーションに使うLEDは200万個にもなるそうです。来年の1月31日まで開催と言いますが、おそらく私は行かないでしょうね。寒いし、おそらく写真が上手く撮れないと思うから。

                       

随分と天王寺公園に来ていますが、この銅像に気付いたのは初めてなのかも知れません。池上四郎という大正時代の大阪市長、1913年に大阪市長に就任したとありますから、丁度100年前ということになります。天王寺動物園を開園させたり、全国初の児童相談所、公共託児所を開設したり、電気事業の市営化、御堂筋の拡張を計画したりと功績のあった人らしいけど、会津藩の出身で白虎隊に属していたと言うから、戊辰戦争で亡くなっていたらその後の功績は違う人が担ったのでしょう。

維新を標榜する現の大阪市長は、この銅像を自分の物に挿げ替えるかも知れませんね。

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