ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

和歌山日赤病院

2014-11-26 05:00:00 | 田舎

3週間、ブログを更新していませんでした。この間、「何をしてるんやろ?」と心配してくださった方もおられるでしょうし、「何やっとんじゃ!」と怒っておられる方もおられたとは思いますが、少し余裕が出来たので久々に近況を綴ってみることにします。

10月25日は第4土曜日でした。いつものようにソフトボールの練習を終えて、居酒屋『乾杯』で喉を潤していると、6時頃に珍しく母親からの電話があり、「調子が悪いから、迎えに来て労災病院へ連れて行ってくれ」と聞き取れないような声で言いますが、もう飲んでしまっていたので、「今日はもう行かれへんし、明日も用事があるし、今何処に居るん?」と答えると「岩出」と言ったので、「それやったら弟に頼み」と言うと、「明後日には堺の家に帰ってるから、朝から来て」と言うので「分った」と言って電話を切ったのでした。岩出では弟の家の隣に家を構えて、その頃は堺にはあまり帰らず、殆ど岩出の家に居たようでした。

             

月曜の朝になって8時前に家を出て、暫らく走っていると、大阪市と堺市を分断する大和川の手前で、「もう迎えに来んでエエ」と少しは元気になった声で言うので「なんで?」と聞くと、弟に送って貰ったと言います。まぁ、少しは元気な感じを受けたので、そこから引き返したのですが、夜になって弟から電話がかかり、「土曜の晩に病院に連れて行ってくれと言うたから、あっちこっち手配したけど、和歌山の日赤病院が一番エエと言われたから、連れて行ったんで、一回見舞いに行ったってや」と言うので病状を聞くと、「大腸に穴が開いてた」と言います。まぁ詳しいことは医者に聞くしかないと思い、水曜日に見舞いに行くことにしました。

車で行くにはカーナビが案内してくれるのですが、いったいどの辺りに病院が有るのか見当もつきません。ナビの言う通りに慎重に車を走らせていると、何度か走ったことがあるような道路なのですが、南に走ってるのか西に走っているのか、どうも和歌山市内は判り難い道路の配置です。病院に着いて、部屋へ行くとよく眠っていたので起こさず、周りを見ると“家族の方が来られたら詰所まで来てください”と貼り紙が貼ってあったので、ナースステーションへ行くと、もうどなたかに話をしてあるので、不要みたいなことを言われました。そんなことなので昼食の時間も近かったし、外に出て南の方へどんなところなのか歩いてみたりしましたが、どうにも食べたいものも見つからず、病院に戻って食堂で食事を済ませ、待合室で時間を潰していると、市内に有るとはいえ、遠くを眺めると大阪市などとは大違いで、近くには山が見え景色の良いところだと思ったものでした。

             

病室に戻ると起きていたので、少し話をしたのですが、「もう、今度はアカンわ」といつものように言うので、いつものことやと思いながら「まぁ、米寿まで頑張りや」と話し、「遅なるから早よ帰り」とまで言われたので、「また来るから」と言って病院を後にしたのでした。気にはなりながらも、なかなか見舞いにはに行けず、次の週の水曜日に今度は電車で行ってみようと思っていたら、前の夜は夜中の1時過ぎに目が覚めてしまい、なかなか寝付けません。あまり眠れなかったので車でなくて良かったなどと思っていると、弟から「具合が悪いみたいやから、行ったってや」と電話があったので、もう行くつもりでいたので「ウン」とだけ答えて、南海電車に乗ったのでしたが、堺で区間急行に乗り換えて泉佐野までは順調だったのに、そこからは各駅停車でなかなか和歌山市駅には着きません。1時間半ぐらいかかった感じ、降りてからまっすぐ南方面に歩いて行けば15分ぐらいで病院に着きました。

病室に行くとそこにはもう寝ていたベッドは有りません。不思議に思ってナースステーションに行くと私を覚えていてくれたようで、病室が変わったと案内してくれ、担当医から話があると言うので、担当医に会いました。医者からは「今朝から昏睡状態に入ってる」と言われ、穴の開いた大腸のレントゲン写真を見せてくれたのですが、「ここは若ければ手術するのですが、もうお歳なので様子を見るしかありません」と言われ、「昏睡状態になったのは、この箇所ではなく、糖尿病を患っていたようで、今朝は血糖値が1500mgにもなっていたのが原因です」と言われましたが、そんな大病を見つけられなかった病院にも責任があると思いながらも、言ってもしょうがないので言わずに置きました。回復するのかどうかも分からないまま、病室に行くとずっとうわ言を言って、しんどそうでした。午後になって少しマシに思えたので、家に帰るのに2時間ぐらいかかるので3時過ぎに病院を後にし、家に着いて暫らくすると再び弟から電話、「もうアカンみたいやで」と言うので、慌てて車で病院へ行ったのでした。

病院に着いたのは7時過ぎ、すでに息を引き取った後でした。死亡診断書によると死亡日時は11月5日午後6時37分、死因は高血糖高浸透圧性昏睡。死因の要因は糖尿病でした。この後が大変、葬儀やお通夜の場所から遺体の引き取り等を依頼する業者の選定、和歌山で亡くなったので、葬儀場所はそこから近い岩出の業者に依頼しました。業者に遺体を引き取ってもらった後、私は一旦家に帰りましたが、前日ロクに眠ってないのになかなか寝付けません。6日も早くから岩出の家へ行き、葬儀の日にちや宗派などの相談をし、葬儀が翌日と決まったので、お通夜はその日の夕刻なので、遺影に使う写真を探しに堺の家へ行き、一旦家に帰って家族を乗せて岩出の葬祭場へと慌しい1日を過ごしたのでした。

7日は火葬時間が1時と決まったので、葬儀は10時から、本人の希望で家族葬にしたので参列者も少なく、短時間で終了しましたが、喪主になってしまったので読経後の挨拶もさせられ、おそらく次は死んだ時に乗るだろう霊柩車に生まれて初めて乗ったのでした。

翌日からもまた大変、死亡診断書は岩出の市役所に提出したので、住民票のある堺市の国民健康保険関係や国民年金関係で再度死亡届を出さなくてはならなかったのに、岩出からの報告が届いてなく、その日は殆ど無駄足を運んだことになってしまったのでした。後は実家の整理、山とある衣類などの形見分け、預金通帳も見つけなければなりません。それがなかなか見つからないのですよね。それに再び病院に行って診療費を払わねばなりません。手術が無かったので7万円ぐらいで済んだので胸を撫で下ろしています。

家族葬なのにかかった費用は91万円、家族葬などとは呼ぶものの、普通の葬式とあまり変わらないと思ったので、葬儀費用ってバカにはなりません。岩出ではお布施が真言宗で16万円と案外安かったと思っていますが、安いに越したことはありません。後は遺産相続、揉めないように巧く取り計らわなくてはなりません。

国皇大神

2014-11-04 05:00:00 | 田舎

プロ野球の日本シリーズも我らがホークスの優勝で終わってしまい、先週の土曜・日曜は野球の放送が無くて、寂しい思いをした人もおられるでしょうね。かくいう私もそのうちの一人であり、第1戦を見ていた限りではタイガースの勢いはジャイアンツに4タテ喰らわせたクライマックスシリーズそのもので、私としても29年ぶりやったらタイガースに優勝してもらってもエエかなどと思っていたのでした。その後は第1戦で見せたタイガースの勢いは全く無く、ホークスの4連勝で終わってしまいましたが、セリーグの球団はタイガースの攻略法を学んだのではないかと思います。

             

結果として登れなかったけど、国王山へ登ろうと思ったのは『古座川町の山歩き』という古座観光協会で貰った地図のうち、串本から一番近いからだけではありません。私自身としてはあまり信用していませんが、南朝系天皇の末裔だと称する朝里家の氏神、国皇大神跡や現国皇大神があり、そこからの見晴らしが良いと『古座川風土記』に書かれていたのです。貰った地図では途切れていて分りませんが、『古座川風土記』の朝里氏遺跡の地図で見ると池野山から楠・樫山方面へ向かう道(おそらく町道)の途中から現国皇大神へ至る道が有り、Googleや国土地理院の航空写真で見ると、池野山川に沿って登って行く町道より、途中からの林道の方が土色ですが広く見えます。

             

山の中の地道は穴が掘れていたり、落石が有って通り難くなっていることもあるので、最初から歩いていくつもりでした。分岐点はすぐに分り、入口に“林道ムジ屋敷線”の標識がありました。『古座川風土記』によると漢字では武者屋敷線と書くようです。

       

歩き出した頃は舗装に近いような道でしたが、やはり次第に穴があったり、落石があります。今にも崩れ落ちてきそうな山肌が見えます。

 

歩き出して15分ほどで見晴らしの良い所へ出ました。国土地理院の地図で見ると車で200mほどは登っていますから、そんなに歩かなくても眺望のよい所に出られたのです。

       

歩き始めて40分ほどで右側に赤い鳥居が見えてきました。南朝の末裔の氏神にしてはあまりにも簡素な神社です。昭和の後半以降、過疎・高齢化が進み、神主・氏子の国王山登攀が苦痛となったので、歩いてきた林道が敷設されたので、平成3年3月に車でも来れるこの地に遷座されたようです。

             

ここから林道を少し進むと折り返すように道があって、そのまま南下すると国皇大神跡地があると地図に記されています。持って行ったのはこの古座川町の山歩きの地図だけ、Googleや国土地理院の地図には国皇大神やその跡地の印は有りませんし、池野山や月野瀬へ降りる道も描かれていませんでした。

       

暫らく歩くと地図の通り鋭角に分かれて行く道が有ったので、この道かと思って登ろうとすると、チェーンで通行止めになっていましたが、車だけだったので、私は歩きだったので、行っても良いのだと思って、登って行きました。最初は登りだったのですが、すぐに下り坂になっていきます。軽自動車がやっと通れるような地道ですが、右側は急な崖の所も有り、ガードレールも無いので車だと怖い感じです。

                    

どんどん下る道を30分ほど歩いて、もうこれ以上歩くと眺望のよい所には出ないし、地図の距離からして歩き過ぎたと感じたので、この道ではなかったんだと思い引き返しました。

             

太平洋など見えそうもない地点まで降りてきていることが分ります。この後元の林道に戻り、国皇大神の鳥居までは何処かに道が無いかと探しながら歩いたのですが、分かりませんでした。

 

仕方がないので車まで戻ることにしましたが、どうやら一人で歩くのは、無駄ばかりしているようで、いくら毎日ヒマしているとはいえ、時間が勿体ないと思うようになりました。でもいろいろ教えてくれながら、一緒に歩いてくれるような人を知りません。写真は登って来た時と同じ場所で撮った写真、串本大島や重畳山が見えています。

               

これが古座観光協会で貰った古座川町の山歩き地図と、『古座川風土記』、右は国王山の地図部分と『古座川風土記』に載っていた朝里氏遺跡の地図、どちらも一長一短です。