病院で読んだ本は19日の投稿分で終わりです。
文庫本で26冊・12タイトル、新書版で2冊でした。
ほぼ1日1冊のペースで読めたものと、健康であればこれだけも読めなかっただろうと満足しています。
退院してからも自宅療養が続くのですが、TVも買ったし、正月にもなったし、犬もおるし・・・なかなか本を読む機会も作り出せずじまいでした。
それでも働きに出るよりは時間もあり、澤田ふじ子『天の鎖』3部作を読んだのでした。
この本、神戸在職中に書店でパラパラと捲ってみた時は、“空海”の本か・・・一度読んでみようと思っていたのですが、主人公は“空海”ではありませんでした。
桓武天皇の時代、長岡京造営から平安京遷都に至る間を“牛”という人物に焦点を当て、庶民の立場に立って書かれた小説です。
歴史小説の多くは、偉人や覇者や剣豪・・・等、歴史に名を留めてきた人物を描いているものが多く、勿論この本にも桓武天皇や空海や坂上田村麻呂・・・等有名人も出てくるのですが、それは主人公ではなく脇役に過ぎないのです。
題名『天の鎖』からして、この話は“牛”と呼ばれた3人の男の繋がりにまつわる物語です。
1人目の“牛”が長岡京造営の頃、山背国<やましろのくに>愛宕郡<あたぎごおり>折田郷土車里<つちぐるまのさと>に流れる川で魚を漁っていたところから始まります。土車里は今の下京区室町通四条下る付近だとか。
平安遷都はされていないので、5件の掘建て小屋が並ぶだけの寂れた地域だったらしい。
この地で“牛”が、桓武天皇とは知らなかったとは言え、その人物に楯を衝いた。天皇が乗った馬に追いたてられようとする幼い子供を助けようとして、その落ち度とも狼藉とも言える行為に憤慨したのだった。
寸でのところで斬罪になる“牛”を助けたのが飄々と騾馬に跨って現れた“行叡”、この“行叡”が歳をとらないのが物語所以、“牛”に阮籍の五言詩を書き付け授けたのが“牛”のお守りとなり、3人の“牛”を貫いてゆく。
そのお守りの五言詩を読んで教えてくれるのが“真魚=空海”、“牛”は真魚と共に唐の国に行きたかったのだが儘ならず、真魚に諭され陸奥の地で仏像を彫ることに専念する。
そして50歳になった頃福島の寺で“行叡”と再会し、五言詩の続きを書いてもらいお守り袋に加えるのだった。その2~30年後、同郷土車里の知人の孫を連れて帰郷する。
帰郷を果たした“牛”だったが、土車里=室町小路では知る者は居らず邪険に扱われる中、“豊安”という童が握り飯をくれ、東寺まで案内する。
その“豊安”が2代目の“牛”と呼ばれるようになる。
当時、庶民は死人や死寸前の病人や老人は戸外に捨てられてしまうという慣習があり、野犬や野鳥の餌となっていた。
平安京には『悲田院』という福祉施設があり、裏を鴨川が流れており、その川原にも未だ生きているにも拘らず、肉親にまで見放された人々が捨てられていた。
悲田院で働いていた東寺奴の“石根”が、病末の捨てられた女が1日経っても生きているのを見つけ、悲田院で療養させ少しづつ回復させた。いつしか“石根”とその女の娘“夜登女”とが恋仲になり・・・と平民が所帯を持つなどは不埒な話と、娘の父親=病に倒れた妻を食い扶持が減って助かると妻を鴨川に捨てた男が10人余りの助っ人を携え、悲田院に殴りこんで来たのだった。
“石根”は一旦投獄されるが、“牛”やある検非違使の計らいで脱獄し、やがて“夜登女”と暮らし始めるが、見つかってしまい自害する。が、その時“夜登女”は懐妊していた。
そして、生まれた子が赤麻呂という名で3番目の“牛”になる。
東寺の夜叉神堂に住む“唯空”なる法師の奴となり、東寺において人の目についてはならない汚い片付け仕事を引き受けることになる。
そして東寺と高野山の確執、最澄と空海の処遇の違いなども書き記されています。
長岡京を造り、使いもしないまま平安京へと都を変える浪費、蝦夷征伐の軍行などに疲弊に苦しむ庶民の様子も窺えます。
副題に『日本庶民通史・平安篇』とあるように、この京都・室町四条を舞台に“牛”を中心にした話を江戸時代まで鎖を繋いでいく決意であるようで、楽しみにしています。