ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

九州国際美術館

2012-06-29 05:00:00 | 

帰阪してから一週間が経とうとしているのに、未だ九州上陸2日目の話を綴っているなんて、かなりゆっくりなマイペース、良いように言えば慌ててない、逆に言えば遅すぎるとでもなるのでしょうが、まぁネタも豊富にあるわけでもないし、引っ張れるだけ引っ張って、長い道のりを着実に進んでいきたいと思っています。

                       

太宰府天満宮の境内には数えきれないほどの碑が建っており、全部紹介して薀蓄を垂れておればそれこそネタをキープできるのですが、そんなことをするような根気もありません。でも一つぐらいは紹介しておきましょう。

これは『夢塚の碑』というもの、芭蕉が“旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる”と詠んだ辞世を天保14年(芭蕉150年忌)に菊屋平兵衛という人が、芭蕉は太宰府にもう一度参詣したかったのだと解釈し、ここに碑を建てたもの。神社とはこういった私どもでは思いもつかない考えでも快く寄進・奉納を受け入れるものなんですね。

             

花菖蒲の池を左に見て、N田君の後を付いていきます。先には食堂が並んでおり、そろそろ昼食時になろうとしている時間帯だったので遠慮気味に声がかかりますが、何故か食べ物が皆高いのです。年間700万人もの人が訪れる天満宮ですから、周りの食堂にも立ち寄る人も多い筈なのに、たかが知れた丼物でもびっくりするぐらいの値段が付いているのですよ。

             

朝食も遅かったのでここでは昼食をとらずに向かった先は博物館、こんな所に博物館があるなんてびっくりです。しかも冠が福岡ではなくて、九州です。県立ではなくて私立なのか!?

                       

入口と思ったところ(入場料を払ってないので入り口ではないと思う)から中に入るとまたビックリ、恐ろしく長いエスカレーターが動いています。

             

そしてムービングウォークを経て、一旦外に出ると・・・

             

これまたすごい建物です。大阪でも総鏡張りのビルはありますが、反射して見える景色が大したことありません。ここは山々の木々が写っていて、壮大な感じを受けます。晴れていればもっと美しいに違いありません。

                       

裏側(裏かどうかは分かりませんが)も同様、本物の山が鏡に連なっているように見えます。この時は特別展が開かれていませんでしたが、7月10日から始まる“美のワンダーランド 15人の京絵師”という特別展は、ちょっと見たポスターでも大雅や蕪村、若冲などの名が連想され、期待できそうです。

             

12時前に参道に戻ってきました。もう傘を差さずにはおれないくらい雨が降っています。

参道の中途のN田君お奨めのウナギの寝床みたいな店で梅ヶ枝餅を一つづつ買い、食べながら歩きます。初めは熱くて美味しいと思った餅ですが、徐々に甘さがしつこくなってきて、最後は無理矢理口に頬張りました。梅ヶ枝餅を買って思ったのは、一つが大きいこと、それ自体がサービスなのかも知れませんが、梅という花は薄いピンクで小さいもの、そういうイメージで作ってもらいたいものです。

             

夕闇迫る太宰府駅前といった感じですが、実はまだお昼の12時。こんな梅雨真っ只中、台風迫る時期に旅行を決めたのが悪かったのか、もっと季節の良い11月ごろにすれば良かったと今悔やまれますが、それとて天気が良いとは限りませんものね。

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太宰府天満宮

2012-06-28 05:00:00 | 

櫛田神社、博多町屋ふるさと館と観光を終えた私は、博多駅へ戻り、雨が降り出したので傘を買おうと東急ハンズや阪急百貨店で探しますが、みんな値段が高い。ユニクロの傘が撥水力が強くて980円だったのを思い出し、ユニクロを探しますが、店自体がなかなか見つかりません。やっとの思いでユニクロを見つけましたが、店自体が小さく商品が少ないので、傘は置いていませんでした。雨も本降りになっていて、阪急百貨店の無印良品で2000円も出して傘を買ったのです。その頃にはN田君と待ち合わせの3時ごろになっていました。

地下鉄を乗り継いで七隈という駅で降りて福岡センターへ連れて行ってもらい、久し振りに前述のS藤君やT来君に顔を合わすことが出来ました。他にH田君や違う名前のH田君、兵庫センターで一緒によく飲みに行ったM山君もおり、知った顔も結構いるもんだと思いましたが、彼らは無理矢理九州へ行かされているわけではありません。

夜は再びN田・M山両君と中洲川端へ、商店街の中の飲み屋へ行き、その後中洲の若い女性の多い店へ連れていかれて、久し振りにブランデーを飲みましたね。中洲とは那珂川の河口に大阪の中之島みたいに川の中央に洲が出来たものですが、大阪が官庁街なのに対して、福岡は繁華街です。時間も遅いのに西鉄電車でN田君の家のある久留米市の安武駅まで50分、奥さんが車で迎えに来てくれていました。

             

翌2日目はN田君の案内で朝から太宰府天満宮、昼からは福岡ドームへいざ見参です。朝の内は雨も降ってなくラッキーと思い、再び奥さんに車で安武駅まで送っていただきました。二日市という駅で1時間に2本しかない太宰府行の電車に乗り換え、1時間ぐらいかかって念願の太宰府天満宮に到着です。

                       

九州北部は奈良時代以前から唐や朝鮮半島との交易の場でありました。ここに政事を行う庁を置いて大宰府と呼んだのが始まりであり、白村江の戦いに敗れた天智朝はこの辺り一帯に唐・新羅連合軍が攻めてくるのを防ぐための水城を築きました。

そういう歴史のある太宰府市ですから、天満宮だけを観たいだけでは無かったのですが、大宰府政庁跡や水城跡などを観て回っていると丸一日かかってしまいそうです。

             

九州に数年赴任していたK川君に九州の見どころを聞くと、「太宰府天満宮へ行って、梅ヶ枝餅でも食べたら」と言われ、そんなものかと思ったのですが、どうやらN田君も同じような感覚らしい。前夜遅くまで飲んで、朝起きるのが遅くなってしまったのが、彼方・此方へと行けなかった原因かも知れません。

             

菅原道真を祀ると言われる太宰府天満宮、歴史は大宰府よりは300年程度新しい、詳しいことは解っていませんが、道真公が無実の罪でこの地に左遷され、亡くなったのが903年のことと言われますから、無実が晴れて、道真の怨念を恐れて祀ったとすれば、それよりずっと後のことになります。

             

傘を差している人・いない人が交錯していますが、降雨の量はその程度ということ、朝早く起きて来ていれば、人も少なく雨も降っていなかったのだろうと後悔しています。

             

これが伝説の飛梅、如何に主が恋しかろうと、木が空を飛ぶなどということはあり得ません。誰かが道真の旧庭の梅の木を株分けしたというなら話は分かります。菅原道真がどれだけ偉かった人なのか、実際には知る由もありませんが、あまり神憑りした話は作ってほしくありません。

             

拝殿の前の狛犬、何故こんな目の狛犬を建てたのだろうと、製作者、依頼者の意図が計り知れません。

             

目が絶対にヘンですよね、マンガを見ているようです。歴史ある建物を茶化している、或いは冒瀆しているかのように感じるのは私だけでしょうか。

             

N田君の先導に従って歩きますが、細かい説明はしてくれません。あれは何かと聞いても「何ばい?」と言うばかり、私はわざわざ足を運んで“麒麟と鶯”とあるのを確認してきました。奉納は1852年ということですから、私が生まれた100年前のことです。

             

曇天ですが、なかなかきれいな花菖蒲園です。これが晴天だったらどんなに見応えがあったでしょう。池に直接菖蒲を植えているのではなく、鉢に入った菖蒲を並べているみたいななので、季節が変わると花を入れ替えているのかも知れません。それならサービス精神旺盛です。

でも左端の池の中に建てられた石碑には“紫は水に映らず花菖蒲(だと思う)”と刻まれています。

             

花を入れ替えるときには碑も建て替えるのかも知れません。

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博多町屋ふるさと館

2012-06-27 05:00:00 | 

福岡空港から地下鉄に乗った際、一日乗車券を買ったので、何処へ行くにも地下鉄に乗ったけど、今思えば、空港から博多までも、博多から中洲川端駅までもそんなに離れているわけでもなさそうで、荷物があった空港から博多駅までは仕方が無かったにしても、荷物をコインロッカーに入れた後は、歩いたほうが博多のいろんなものが見れたのだろうと思っています。ただ地下鉄に乗ったとしても何処をどう歩いているのかは判らず、歩いたなら一旦間違ってしまうと取り返しのつかないことになるので、地下鉄を利用したのは案外正解だったかも知れません。

             

櫛田神社の正面鳥居を出ると前に見えてくるのが『博多町屋ふるさと館』です。既に昼食の時間になっていましたが、もう一つネタを拾っておこうと思い、入館料200円を払ってこのふるさと館に入ってみることにしました。地元のボランティアの人でしょうか、博多の街について簡単な説明をしてくれます。

博多どんたくと並んで有名な博多祇園山笠の再現模型がありました。

             

中洲川端駅の上の通りにも、すでにこのだんじりに似た巨大な飾り山が佇んでいました。この壮大な祭りも7月1日からですから、もうすぐです。季節的にも暑そうで、内容も熱そうすから、わざわざ観に行きたくはありません。曳山が登場するのは終盤になってからのこと、1日から行ってもこのような引手は見られません。

             

町屋の再現ですから、古い民家の様子を造ってあります。何故か酒にまつわるものが多いようです。

             

この『博多町屋ふるさと館』の館長はあの『博多っ子純情』の著者・長谷川法世氏です。博多では結構人気のある作家なようで、商店街の垂れ幕には長谷川氏によるマンガと共に、博多弁番付などが紹介されていました。

             

修学旅行の一団と思われる子供たちも来ています。勉強になったのでしょうか?

             

ふるさと館を出ると小雨が降り出してきました。再び櫛田神社へ、これは山門の天井にあった干支恵方盤と呼ばれるもの、矢印を回転させて今年の干支を示すと書いてありましたが、今年の干支の何処に矢印があるのかよく判りませんでした。真ん中のが矢印だとすると今年の干支とは違う干支を指していることになります。

                       

商店街の中にあった本日ビール半額と書かれた中華料理屋で昼食をとり帰途につきます。中洲川端駅の近くにあった川上音二郎と言う人の像です。明治20年代、自由民権運動と絡ませた『オッペケペー節』を流行らせ、一座を起こし海外巡業を行い、日本演劇史に大きな足跡を残した人となっています。

オッペケペー節とは“権利幸福嫌いな人に 自由湯をば飲ましたい オッペケペー”で始まる世間風刺の歌、実際に聞いたことはありませんが、聞いたことがあるような気もします。歌詞の続きは“堅い裃(かみしも)角取れて マンテルズボンに人力車 いきな束髪ボンネット 貴女や紳士のいでたちで 外部(うわべ)の飾りはよいけれど 政治の思想が欠乏だ 天地の真理がわからない 心に自由の種を蒔け”まるで今の政治家にも聞かせてやりたい内容ですね。

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櫛田神社

2012-06-26 05:00:00 | 

約15分遅れで福岡に着いたものの天気は今にも雨が降り出しそうな曇り空、観光案内所で地図を貰い何処に行こうかと思案するも、是非行ってみたいと思う志賀島(魏志倭人伝にある“親魏倭王”の金印の出土地)は電車と徒歩では遠そう、丁度N田君から電話があり、近所で観光するのに良いところは無いかと問うと、大濠公園へでも行ってみたらという返事でした。

でも雨が降りそうなので空からの攻撃には無防備な公園などは行きたくなく、地図を見てると『はかた伝統工芸館』というのを当日夜行くはずの中洲川端駅の近くにあるのを発見、二度同じところに行くのも芸が無さそうでしたが、公園よりはましだろうと思い、中洲川端駅で降りて伝統工芸館を探したのでした。

             

地下鉄を降りると丁度、博多座という観劇の殿堂の前に出、「ほう!これが博多座か」と見ながら、博多座の前を通る土居通りを右往左往しながら伝統工芸館を探しますが、一向に分からず、商店街を見つけたので方向を変えて商店街の中を歩き始めたのでした。          

                       

4~500mほど続く大きな商店街を歩くと、商店も少なくなってきた頃に大きな鳥居があり、博多総鎮守と銘打った旗がはためいていたので、ここに入ってみようと思ったのでした。鳥居の前には座っている人がいて、なかなか立ち去りそうもないので、まぁ博多の人も写真に入ってもらおうとシャッターを切ったのでした。

             

鳥居を潜ってまっすぐに進むと重そうな石がいくつか散らばっています。石には力士の名前が彫られていて、『力石』との説明があります。おそらく“ちからいし”と読むのでしょう、決して『あしたのジョー』の“りきいし”ではありますまい。

                       

力士の中で目新しいのは朝青竜、白鵬や福岡出身の魁皇の名は無かったように思います。あの悪名高い朝青竜の名があるくらいですから、これからも石は増えるのだろうと思いますが、空間の問題もあり、先に奉納した力士との関係もあって、やたらと増やすわけにもいかないのでしょうね。

                       

力石の右側に植わっていた『夫婦銀杏』、三本の樹のうち前1本が雌の樹だそうで、あと2本が雄の樹なら夫婦円満とは言い難く、説明には秋にはたわわな黄金の実を宿すので子孫を残す霊樹として崇められているらしいのですが、縁結びの願掛けには相応しくないと思うのです。

             

曲がりくねって進むと奥にあった拝殿、神社事態は天平宝字元年(757年)の創建とされ、博多津中(那珂川の中州のことだと思う)の鎮守として人々の崇敬を集めてきたと言われています。

             

拝殿の右を見ると山門があり、どうやらまたしても裏口から入ってきたようです。

             

こちらが正門にあたる鳥居なのでしょう。でも中洲川端駅から来る人は皆、裏口から入ってしまうのは仕方がありません。この鳥居の右方向にも入り口がありました。伝統工芸館はその先にありましたが、個人のものらしく、喫茶が主となっているようだったので入りませんでした。

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空路福岡へ

2012-06-25 05:00:00 | 

6月15日いよいよ九州へ向けて出発です。関西空港7時半発のPEACH MM151便に乗るべく、南海電車・岸里玉出駅発5時2分の初発に乗りました。飛行機に乗るのはもう37年ぶりのことですから、搭乗手続きにどれくらいの時間がかかるのかも分からないので余裕を持っての出発でした。

PEACHは格安の運行料金だとか、でも出発の曜日や時間帯によって料金が異なります。私が予約したのは金曜の便だったので、7780円の席と支払手数料210円、機内には荷物を一つしか持ち込めませんから、他に手荷物料金が1050円かかり、9040円の運賃でした。

             

当初は長崎空港に降りて、死の海と化した諫早の海、とりわけその原因である巨大な堤防を見てみたいと思っていたのですが、諫早から福岡に行くコースもよく分からないし、長崎空港行の飛行機が6時台の出発だったので、乗れないかも知れないと思ったので、直接福岡空港への便を予約したのでした。関空に着いて、搭乗手続きをしようとすると、長崎行の便の搭乗手続きが始まっていて、これなら諫早に行けたかも知れないと思ったのですが、朝飯もまだだったので空港ロビーをウロウロして時間を費やしました。

             

マクドで朝食を済ませ、福岡に着いたら行こうと思っていた福岡センター(NTTマーケティング部)への手土産を買って、搭乗手続きを終えていよいよ出発です。福岡センターには私が兵庫センターに赴任した当初骨折している間に福岡へと飛ばされたS藤君と2年ぐらい一緒にいたT来君がいるので彼らに会いたかったのです。3時に博多駅で会う予定の福岡センターで勤務するN田君には、今回九州での案内役を買ってもらっています。

             

搭乗する飛行機が墜落するとこの世ともおさらばとか思いながら、まぁ思い残したことも無いし、遺書は書いてないけど退職金も残っているので、子供たちが法律に則って分けるだろうなどと思いながら、飛行機までのバスに乗り込んだのでした。

             

バスに乗ると空港内は撮影禁止です。空港へのゲートを過ぎる前に1枚写しておきました。

             

私の席は飛んでいく方向に向かって左の窓側、丁度主翼の横でした。中央の通路を挟んで左右3席づつのシートが30列ほど、約200人ぐらい乗れるのではないかと思うほどの飛行機です。離陸すると暫らくは電子機器を触ってはいけないとのお達し、離陸するまでに1枚写真を撮りました。

飛行機が動き始めて滑走路へと向かう途中で止まってしまいました。なんと前輪がうまく作動しないというではありませんか。故障した飛行機に乗るのかと思うと、もう前輪など治らなくてもいいから引き返してくれと思います。でも15分ぐらいで「治ったのでこれから飛びます」というアナウンス、大丈夫かいな?と思いながら、悪あがきすることも出来ません。

             

離陸直後、雲は少し有りましたが、天気は晴れです。何処の上空を飛んでいるのか説明もありませんが、海と陸との様子から想像を働かせます。でも想像したところで実際に何処の上空を飛んでいるのかは初めての航路では判る筈もありません。

             

主翼の先端は上に折れ曲がっています。そんなことは飛行機に乗るまで知りませんでした。所々にアンテナのようなものが見えます。

             

私がしきりに写真を撮っているので、通路側の人が自分のデジカメを差し出して、1枚撮ってくれと言います。撮ってあげましたが、うまく写っていたかどうかは分かりません。

福岡に近づくにつれて、砂浜がしきりに見えてきます。でもその頃は電子機器は使用禁止、上空からは撮影することが出来ませんでした。

そして9時前に福岡空港に無事着陸、前輪の故障のことも杞憂に過ぎませんでした。

             

時間があるので、空港からJR博多駅まで歩こうかと考えましたが、重い荷物が2つある上に方向を間違ってしまったら大変だと思い、600円の一日乗車券を買い地下鉄に乗ったのでした。

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雨の甲子園

2012-06-22 05:00:00 | スポーツ

2週間前の話を今頃するのですから、ネタがたくさんあるのだろうとお思いでしょうが、別段そんなこともないのですよ。先々週の金曜日、プロ野球のセ・パ交流戦を観戦するために、再び甲子園球場に足を運んだのでした。次の土曜日にはK川君が行かないかと誘ってくれたけど、ソフトボールの練習があるので断ったのに、K川君が誘ってくれたのと同じ日の夕方に尼崎時代に立ち飲み屋で知り合った西淀川の軟式野球連盟の審判部長であるM本氏より、この日のチケットが入ったのでというお誘いがあったのでした。5日に軽バンを串本に持って行ったのにこの日のために7日には帰って来なければならず、自動車を持って来てくれたのも遅かったし、非常に慌しい日程となりましたが、滞在3日で大阪に帰ったのでした。いや午後4時に着いて、翌々日の1時半に電車に乗っていますから、実質は45~6時間しか滞在していません。

             

甲子園球場の4番ゲートで5時に待ち合わせ、未だ雨はポツリポツリと傘も要らない状況でしたが、銀傘の下かと思いきや、ずっと前の方の席(前から5列目)だったので、銀傘の及ぶ範囲ではありません。試合が始まるころには降ったり止んだりの繰り返しで、未だ傘を差す人もいない状態でしたが、時間が進むにつれカッパを着る人も増え、中には傘を差し始める人もいて、グランドが見えないようになったりもします。さすが審判部長は傘を差すのをやめるよう注意しに行っていました。

             

1時間ほど前の席でカッパを着て我慢していましたが、M本氏が銀傘の下に空いている席があるので替わろうと提案、それでも私は我慢し続けていましたが、とうとう私も席を替わることにしました。

             

試合途中で何度も砂を入れるので時間がかかって仕方がありません。前のロッテ戦の時も遅くなってるし、どうやら今日の試合も長くなるのではないかと心配したのですが・・・

             

せっかく砂を入れても10分後にはこんなに水が浮いてきています。にわかタイガースファンとしては4回の表に1点を許し、5回の裏を回ってしまえば降雨コールド・試合中止と言う訳にはいきません。出来れば5回終了までにコールドゲームにして欲しかった。

             

残念ながらこの打席の金本はホームランを打った時のものではありません。そうこの試合は金本の3ランで逆転勝ちしたのです。

応援席では25番がアカン、25番は出るな!の内輪話、固有名は出てこないものの誰のことが分かりますよね。

             

こんなに雨が降っているのにみんなカッパを着て、頑張って応援しています。きっと球場内の売店ではカッパが飛ぶように売れたのではなかったでしょうか。

タイガースのロゴが入った黒いカッパを着ている人もいてました。

             

案の定9回の表に入って、もうこんな時間、どうやら今年の甲子園詣は10時過ぎまで付きあわせられる羽目になりそうです。まぁ翌日が仕事となるようなことはないと思うので、一応その件については安心なのですがね。

そして前回・今回ともサッカーワールドカップのアジア最終予選と重なっていたのです。こんなことなら家でサッカーを見ている方が良かったな、サッカー日本代表は両試合とも快勝でした。そして野球の試合が無かった日のブリスベンでのオーストラリア戦では薄氷の引き分け、今年は気分の良いスポーツ観戦は期待できないようです。

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潮御岬神社

2012-06-21 05:00:00 | 田舎

今日は大阪へ帰る日です。九州旅行でかなりのネタが貯まったと思います。来週からUPしますので、ご期待ください。

潮岬本之宮神社から串本町内へ戻り、昼食をとりました。それから何をするでもなく、ボォ~ッとしていたのですが、そんなことをしていればネタを得られることも無いので、潮御崎神社で御綱柏の木を確認しておこうと、潮御崎神社も串本の民話に出ていたので写真を撮っておこうと思ったのでした。

             

友人のTさんから貰った串本の民話を写真構成のもとに、誤字・脱字を無くし、助詞や文体の統一をして、このブログに写し直そうと思う構想は未だ持ち続けていますが、先に撮り溜めした写真を後から探すのは至難の業かとも思われたりもします。

ここは望楼の芝の西端ですが海抜33m、ここを訪れていて南海大地震が起きて大きな津波が襲ってきても安心です。

             

潮御崎神社の拝殿、すさみから津荷村までの漁村の守り神だったとか、なかなか立派な佇まいです。

             

潮岬本之宮神社に植えられていたのと同じ御綱柏の木、実はカシワではなくて、マルバチシャの木だそうです。太古の人がマルバチシャの木を御綱柏と呼んでも、別段何の不思議もありません。マルバチシャって焼き肉などで使うチシャの葉の丸いものかと思ってしまいますが、全然違いますね。

             

後の世に仁徳と呼ばれた一豪族の長の不倫の話はこの説明にはありませんが、記紀の話はどうも納得し難い。大王である夫の不倫ごときで腹を立て実家へ戻るというようなことが、その当時許されていたのか、大人気ないからしなかったのでしょうが、その首長が本気になって怒れば実家など一気に潰されたに違いありません。いや大人気ないからしなかったとは限りません。記紀では実家に戻った姫はすぐに死んでしまっています。実際のところは分からないのですから、議論のしようもありませんがね。

             

私が境内に入って来た時からずっとこちらを窺がっていたネコ、欄干の隙間からじっと睨んでいる爛々と光る目を上手く捉えることはできませんでしたが、周りに誰も居ないので不気味でしたね。神を信じない私でも神が宿ってこちらを見ていると思ってしまうのも無理はありません。大島港のネコのように栄養豊富ではないのか、痩せていました。

             

この神社の注連縄が普通の物とは違った印象を受けます。本物の龍(そんなものはありませんが)のように見えるのは私だけでしょうか?

             

神社の外、階段を上がった左側に小道があります。以前紹介したことがありますが、写真を撮っていなかったのでもう一度行ってみます。

             

少し歩くと道が左右に分かれているので、まず左の道を選びます。

             

2~3分も歩くと展望台に到着です。こうやって柵も設けているのですから、神社の横に道標くらい立てておけば良いのにと思います。

             

アシカやドウネの名礁の周りは洗濯機が回っているよう、台風が南の方を通過していましたから、天気は晴天でも波は高かったのです。一番上の写真はここではありませんが、潮が非常に速く流れている様子が分かります。

             

天気が良いので、ずっと彼方の半島まで見えています。先端はおそらく江須崎だと思います。

             

こちらは右側の道を進んだ末の行き止まり、左の道の終点までより時間がかかります。実際には行き止まりではなく、下へと降りるロープが渡されており、釣り人が伝って降りていけるようになっていますが、この時私はサンダルですし、釣りをする気も用意も無いので降りては行ってません。

                       

このように断崖ですから、一歩間違えば危ない所かも、でも通っている人もいるのでしょうから、とても危険と言うわけでもないのでしょう。

             

こちらに歩いて来ないと、この方向からの潮岬灯台は観ることが出来ません。

             

ずっと戻ってくると遠くに細くて赤い花が咲いています。珍しいなと思って撮ってみました。

             

駐車場の近くに咲いていたのですが、私は決して駐車場には停めません。だって有料ですから・・・なにも有料の駐車場に停めなくても、瓜田渡船の前の広場にいくらでも停めるスペースがあるのです。

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潮岬本之宮神社 Ⅱ

2012-06-20 05:00:00 | 田舎

柏槙なる樹を初めて見せてくれたこの潮岬本之宮神社ですが、境内(単なる庭のよう)は広くて解放的な感じを受けます。庭の隅から撮った社殿は大きく写っているのが社務所であり、拝殿はその左側で小さく佇んでいるだけでした。この写真はサイズを小さくしているので、拝殿は見えにくいと思います。

             

近くで撮っても祠に毛が生えたような拝殿です。敷地の広さに比例していません。          

                       

ビャクシンなどというカシワかマキか分からん樹ではなくて、正真正銘のマキの樹もありました。カシワの樹もあれば面白い理屈が成立すると思うのですが・・・

             

こんな樹もありました。根元がすごいことになっています。1本の木なのか、数本入り乱れているのか、私には判りません。足元に水たまりが出来ているので近寄ることも出来ません。

             

実はブルーベリーに似ているけれど、ブルーベリーである筈がありません。樫野に生えていたアコウの木を思い出しましたが、ちょっと違うようです。

                       

庭の奥に何が書かれているのかさっぱり分からない碑が置かれており・・・

             

入口のところにも何も書かれていないのではないかと思うような碑があり、ひょっとしたら何が書いてあるか判るようなものを避けて置いているのではないかと思ってしまいます。

             

境内から海の方面、右側に串本古座高校と串本中学校があります。

             

神社とは一画を区切ってある忠魂碑、神社のものなのか、そうでないのか理解に苦しみますが、東郷平八郎伯爵の署名が入っています。東郷平八郎って和歌山県と何か関係のあった人でしたっけ?特に串本とは余計に関係ないと思うし、確か東郷平八郎っていう人は伯爵ではなくて侯爵だったはず、昭和9年に亡くなっているから、晩年に書いた書としても80年近く経ってる割にはきれいな碑です。

             

串本古座高校の通用門、串本高校と古座高校が2008年に統合されて新しく出発したのですが、今も串本校舎、古座校舎と別れていることから、何のための統合だったのか部外者の私には理解しかねます。壁にはしっかりと『和歌山県立串本古座高等学校』と記されています。

             

校舎内に立ち入ったわけではありません。あくまで門外からの撮影ですが、このモニュメントには『Wakayama Prefectural Kushimoto Senior High School Since 1918』の文字があり、これでは古座高校から編入してきた生徒(今はもう居ないのですが)は可哀そうでしょう。きっとこういうものを見るにつけ、古座高校を卒業した人は悔しい思いをしているに違いありません。統合とは言いながら、必ず一方は虐げられる立場に追いやられるのは、侵略する・されるのと同じです。

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潮岬本之宮神社

2012-06-19 05:00:00 | 田舎

今は九州・鹿児島を旅行中、今日からはN田君と別れて単独の行動です。予定では知覧町の方へ行ってみたいと思っています。知覧は太平洋戦争末期に特攻隊が飛び立っていったところ、その頃からは長い年月が経っていますが、本当に彼らが天皇のために喜んで死んでいったのか、解明する術も無いのでしょうが、鹿児島へ来たからには一度訪れてみたいのです。

このごろのブログは旅行中の空白を埋めるために、ダラダラと串本での放浪記を綴っているのです。

             

大島大橋を渡る時や串本のAコープに行ったとき、常に気になっていたのが、串本古座高校の生徒たちが歩いていく方向の彼方に鳥居が見えていることでした。車で走っている途中なのであまり注視は出来ませんが、鳥居は道いっぱいに建っているようで、地図で調べてみると潮岬本之宮神社と書かれていました。名前が似ていますが、灯台下にある潮御崎神社とどういう関係にあるのでしょうか。

             

道路はここで右折していますが、そのままの道幅で参道が続いています。

                       

鳥居の手前の『潮岬本之宮神社』の碑、燈籠などもありますが、ここは未だ俗界です。

             

右横の壁はブロック製ではありません。海辺の石を組んだようなものですが、中には人の名前が刻まれたものがありました。こんなところにまで寄進させたのでしょうか。

                       

鳥居の傍に御綱柏の木(だと思う)が植えられていました。

             

後に仁徳天皇と呼ばれる一豪族の長の嫁がはるばる南紀にまでこのような葉を採りに来たということ自体信じ難いのですが、その隙を狙って仁徳が不倫を為し、結局離婚に至ったという話も納得できる話ではありません。何故なら仁徳陵だと言われていた大仙陵古墳は堺の百舌鳥にあり、そこから古代の船で潮岬まで何日かかるのでしょう。波の穏やかな日ばかりではありませんから、1週間はみなければならないと思うのです。葉を1枚づつ摘んだのでは1週間のうちに水分が抜けてカラカラになってしまい、水に浸けておけば腐ってくるし、もしその話を成立させようとしたなら、葉を摘みにに来たのではなく、枝ごと切り取って水に浸しておく意外になさそうです。

             

拝殿の奥に柏槙(ビャクシン)という老樹があり、その説明がなされていました。樹齢水底1200年、丁度平城遷都の頃に芽を出した木なのですね。ビャクシンと変換させても柏槙とは変換してくれません。柏なのか槙なのかと疑問が生じますがヒノキ科と書かれていますね。

                       

カシワもマキもそれぞれの品種があり、それらとは全く違う樹なのに混同したような名前を付けたのは何故なんでしょう。

             

しかしこの樹を見ていると、生命の不思議さを感じますね。幹などは満身創痍、完全看護状態、もう息も絶え々々なのに、新鮮な若葉を茂らせています。人間ならこうはいきますまい、物凄い生命力を感じます。

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権現島

2012-06-18 05:00:00 | 田舎

抜けるような青空ですが、朝方は曇っていました。金環日食の日は曇っていたのが幸いして上手く動画が撮れましたが、この日の金星による天体ショーは金星自体が小さい(遠い)ため、掛け初めの7時半ごろの曇天では全く見ることが出来ませんでした。

つまらない中古車を購入してしまって、串本に置きにだけ来た今回の帰省でしたが、偶然にも金星による天体ショーの日に重なったのでラッキーだとは思ったのですが、実際には諦めるほか無かったのです。でもしつこく見てたらこの晴天では、日食グラスで見えたかも知れません。それでも私の持つようなカメラでは捉えきれてないと思います。

             

紀伊姫駅からの避難路を確認した後、釣りをする気はさらさらありませんがすることも無いので、大島漁港に行ってみることにしました。この日は誰も釣りに訪れてはいませんでした。これだけアジが釣れないとこの釣り場は活気が一気に失われてしまいます。

             

三男が私のタモを失ったという右の波止場の方へも行ってみました。今更行っても有るわけも無いのですが、タモを忘れてきたと判明した翌日には一旦私も探しには行ってきたのです。結構記事になりそうなところだったのですが、あいにくの曇り空で写真がイマイチ、このブログには採用せず、することも無く天気の良いこの日に再度写真を撮っておこうと決めたのでした。

             

右へ右へと歩いていくと、権現島が見えてきます。串本の民話にも出てくるこの権現島、串本の港や串本大橋から見ると大島とひっついているように見えますが、実際には少しだけ離れています。

             

この案内文、最初のフレーズには主語がありません。熊野権現新宮に鎮座したもうたのはいったい誰なのか?そのような歴史の真実とは無縁な伝承だからこそ、その点を曖昧にしているのかも知れません。だからこそ以下の文は現在行われていることのみ記されているのでしょう。

             

低い防波堤の一角に海へと降りていく道がありました。

             

浜に降りて正面からの権現島。大潮の干潮時なら歩いて渡れるかも知れません。この時でも足が濡れるのを覚悟してなら渡れますよね。

             

でも裸足で歩いて行ったら、向こう岸の波打ち際の石ころは角があって痛そうです。歩いて渡ったところで釣りが出来るわけでもありませんでしょうし、何もすることは無いでしょう。

             

どんどん右へ行くと田代漁港と金山が見えてきました。でも田代漁港には歩いて行くことは出来ません。

             

こちらから観る橋杭岩、岩と岩の間隔が見えないので、これだけ見ても驚きに値するようなことはありません。

                       

元に戻って右側の波止場、私のいつもの釣り座からは同じように見えていましたが、この足場の悪いテトラの上を歩いて行かなければなりません。先端には階段があって釣り易そうですが、大きなものが釣れているのを見たことも無いし、危ない目をして行く価値も無さそうです。

             

大裕丸の船が帰ってきました。串本大橋がこのような位置に見えています。

九州旅行はN田君の案内で土曜日に福岡ドームへ行き、次の日は吉野ヶ里遺跡や田主丸でワイン工場を見学しました。今日は彼と一緒に鹿児島の指宿を目指します。

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