ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

橋杭で工事

2012-10-31 05:00:00 | 田舎

冷たい雨が降った翌日、朝から雲一つない青空です。前回串本に来たのは9月の終わりから10月の初めにかけての頃、その時はこの橋杭岩前で工事をしていることに気が付いていませんでした。いや未だ工事は始まっていなかったのかも知れません。今回やってきた当初も工事には気が付いていませんでしたが、毎日前を通っているうちに「工事してるやん」と気が付いたのでした。

             

どうやら以前あった土産物屋を解体しているようです。そう言えば土産物屋では誰も買いそうにない貝殻細工などが置かれていて、儲かってるん?と聞きたくなるような、それも同じような店が並んでいるのでした。何か新しい建物が出来るのか、それとも取り壊して駐車場を広くするのか、よく判りません。

             

だいたい何の工事をしているのかは誰にでも分かるように表示してあるものですが、ぐるっと周りを回っても何の表示もありません。裏に回ってじっと目を凝らしていると、内向きにホワイトボードが置かれていました。遠くて何て書いてあるのかよく読めませんが、カメラで撮っておくと“工事名 串本町地域振興拠点施設新築工事”と書かれているのが分かりました。何処で区切るのか判断しかねますが、駐車場を広げるのではなく、何かを建てるのは間違いなさそうです。

             

まぁ、おそらく『道の駅』的なものが出来るのでしょうね。すさみのイノブータンランドから南には道の駅はありませんから、一息入れるには丁度良い場所かも知れません。あまり場所も広くは無さそうですが、あまりにも豪華なものは要りませんが、物足り無さを感じさせるものでもいけません。時にはマグロの解体ショーなども企画するのでしょうか?

             

いっそのこと、奥の食堂もひっくるめて大きなものをドカン!と建てればいいのに・・・ゴールデンウィークともなれば、車が入りきれないぐらいになるほど人気のある橋杭岩、秋の行楽シーズンと言えどもこの日は水曜だったけど、結構車が停まっていて、人は来ていますよ。

             

遠路はるばるせっかく橋杭岩にやって来たのに一角で工事が行われていたとなると、興が冷める人もおられるでしょうが、ここでの工事を滅多にお目にかかれることは無いと思うと貴重な瞬間に立ち会ったとも言えそうです。

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イセエビを食する

2012-10-30 05:00:00 | 田舎

昼から雨だと言っていた先週月曜日、雨が降り出したのは夜9時を過ぎてからでした。真っ暗な家の周りではよく判りませんが、雨音を聞いていると相当降っていた様子、翌日の朝方は一時止んでいたのが、夜が明けるころになると雷を伴って激しく降り出しました。結局火曜日の3時ごろまで降り続き、その日は何もすることが無かったので、その週のブログを全部書き上げました。

雨が降ってこの日から急に寒くなったような感じ、もう10月も終わりですからね。

昨日たまたまNHKを見ていると、イセエビの話が出ていました、それに木枯らし1号も。

             

夕方になって古谷魚店から「イセエビの鍋するから、おいでよ」というお誘い、せっかくやからY下君の居るときにしてあげてくれればいいのにね。

イセエビが串本で解禁されたのが10月1日だったっけ、その時は食べていません。

4人分の食器が出ているのに食べてるのは私一人、一人は用事で田辺へ行っていた人ですが、串本を乗り過ごして古座まで行ってしまったとか。Y下君には悪いので電話だけでもと思い、かけてあげました。匂いも味も届きません。

             

久し振りに食べたイセエビは、やはり美味しいですね、前はいつだったっけ。お造りで食べると身がプリプリ、野菜にも味が滲みて美味しいのです。私はこのイセエビの足が苦手、カニを食べるときのように切れ目は入れてくれてたけど、硬いし、棘があるので持っていると痛いのです。Y下君はこの足の身の方が好きらしく、食べるのが上手です。せっかくですから残しておいてあげましたよー。

イセエビと野菜だけでお腹がいっぱいになった(どちらも全部食べ切れなかった)ので、美味しい雑炊までは食べれませんでした。

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10月22日の釣果

2012-10-29 05:00:00 | 田舎

Y下君が今回の釣行最終日となる22日、昼から雨と言う天気予報でしたが、朝から雲一つない晴天、土曜日のリベンジを狙って、前日は超満員だっただろう大島港へ急ぎましたが、意に反して先客が3人、いつものポイントで釣りをしていました。前日の安指で残った撒き餌を手前に撒きエサ取りを集めておいて、沖目で大物をという作戦で臨みましたが、撒き餌で寄ってくるのはその時だけ、撒き餌が切れると元のポイントに戻ってしまいます。

             

撒き餌に群がるエサ取りの下には大物の影も見られず、この日はどうも調子が良くありません。先客の二人一組と単独の釣り人も悪戦苦闘している模様、二人一組の釣り人はどうやら近くの民宿に泊まっていたようで、8時半ごろには朝食をとりに一旦戻って行きました。そのまま帰ってくれれば良かったのに・・・

             

私にはネコやサギのエササイズの木っ端グレ、一番遠くで釣っていたY下君はさっぱり釣れません。大裕丸の兄ちゃんに聞くと、前日はやはり大勢の人で賑わっていたそうで、波止場の根っこにあるテトラの方で釣れていたとのこと、土曜日もそのような傾向があったので、近頃は波止場の根元がいいのかも知れません。

どうやらY下君は大島港に来ると眠たくなるようで、土曜日は長旅で疲れてたからかもと思っていましたが、この日も途中で眠たくなったとのことで、車に戻ってしまいました。1時間も経った頃に二人連れが帰るので、Y下君の道具を一番根元のポイントに置き換えて呼びに行くと、もう起きていて弁当を食べてしまった後でした。

好ポイントがゲットできたので俄然やる気になったようですが、結果は全く釣れず、私はもう少し粘りたかったのですが、Y下君が大阪に帰らねばならないので1時半に納竿、雨は降ってくる気配もありません。

             

帰りに古谷魚店に寄ってみると、イセエビが・・・ひっくり返っていても生きているのですよ、写真を撮ろうとすると動いてピィーっと鳴くのですね。来る前から電話でも言うてたのに前日の夜はこれが食べたかったと、Y下君は恨めしそう、電話のことなど忘れたのか、その気が無かったのかは知りませんが、古谷のオッサンはどうも耄碌しているようです。

             

1キロ5000円だというイセエビ、高いなぁ・・・でも翌日これを私が食べることになるなんて、誰が知っていたのでしょう。

             

あまりにも早く帰り過ぎたので、枯れた草を引きました。私の家には入っていませんが、怪しいと思われるチラシの人に頼めば、いくらほどかかるのか?値段も気になりますが、どの程度の能率でやってくれるのかが気になります。

だいたい庭にこうも草を植えるのは、私ならしませんね。片付けも大変ですし、車も停められないし、有効的な利用方法ではありません。

             

抜いた草はこの程度、これでも結構時間はかかっています。50ℓのごみ袋1杯で100円とか書いてあったけど・・・50ℓ一袋では足らんやろうけど、日が経ったらもっと小さくなるだろうし、暫らくして頼めばこれだけ持って帰ってくれるのか?

             

庭の片隅にあったサボテンが倒れていました。いつ倒れたのか?近くに行くまで全く気が付いていませんでした。あまりにも大きくなり過ぎたのでしょうか。

             

これもいつ植えられたのか、去年は無かったような気がしますが、柿木に実がなっていました。食べれるのか?でも木もまだ低いし、実も小さいですから味見をしようという気にもなりませんでした。

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安指の地磯(釣果以外のこと)

2012-10-26 05:00:00 | 田舎

1時半に仕掛けをぶち切られて以降、サシエも無くなったことも相俟って釣りを続ける気合が入りません。それに暑い、着てきた長袖のジャージはこの磯に到着した時に脱いだけど、ペレットを取りに戻った時に着直したベストも着ていられないほど暑いのです。もう竿を畳んで片づけにかかりますが、Y下君はまだまだ釣りを続けたい様子、私は一度に全部の荷物を持つのも重たいので、お先に竿やバッカンを車に積んで身軽くなって戻ってきました。

             

暑い中、長袖にライフジャケットまで着て釣りを続けるY下君、そりゃ、たまにしか釣りに来れないのですから粘るのは当然ですよね。私は彼が魚をかけて竿が満月にしなる様子を写したいと思い、遠くから様子を覗っていました。ところがなかなかヒットしてくれません。

             

先に帰ったイガミ釣りの二人、居なくなった辺りにはペットボトルやゴミが散乱していました。後から小さい女の子も来ていたので、地元の人だと思うけど、マナーの悪さには閉口します、釣り人とは思いたくないですね。

一段高い所で釣っているのがY下君、白いビニール袋が残っている所の先で私が釣っていました。高い所へ登りたいと思っても何処から登るのか分からなかったのですが、私の残している白いビニール袋の辺りからなら簡単に上がって行けることを確認することが出来ました。

             

右の小高い大きな岩の後ろはもう波止場です。波止場からは案外近くて便利、樫野の地磯のように車から灯台まで10分ほど歩き、そこから崖を降りていくことから比べれば、初心者や老人向けと言えそうです。樫野の地磯に行くために背負子を買いましたが、使ったのは一回だけ、その後大島港で大物が釣れるのを知ってからは、簡単に行ける方ばかりに行っています。寄る年波には勝てないと言うべきかも知れません。

             

この磯の地質は多様で、このようにつるっとした岩もあり、ざらざらした滑り難い岩もあります。この岩の表面に見えている小石は波で打ち上げられたものではなく、岩に埋まっているのです。こんなことになるなんて大昔火山活動でもあったのでしょうか。

             

このように船の舳先やサメの頭のような岩も見られます。人が削ったものではなさそうですから、自然が造った不思議な造形です。

             

イガミ釣りの人たちは、この写真の中央やや右に見える赤っぽい石から帰って行きました。その先には階段もあるし、小さい女の子もそこを通っていましたから、歩き易いのかと思い竿とバッカンを片づける時に通ってみましたが、時間がかかるだけだと感じたので、小高い岩の際を通る方が荷物を持つと少々危ないですが、早いと思います。

             

Y下君がなかなか竿を曲げてくれないので、東の方を眺めてみると釣り人が二人居ました。何を釣っているのかは不明ですが、暫くして釣り座を変えたので、何も釣れてなかったんだと思います。

             

その二人が向かったのが、ぐるっと湾を回って、次の磯場の先端でした。簡単に行っていたみたいなので、難所は無いのでしょう。水深があれば一度挑戦しても良さそうですが、私たちが釣っていた場所が断然近いので、先客が居た時の代替場としておきましょう。

3時ごろまで粘って結局一度も竿を曲げることなく終了、最初はよく釣れていたのに・・・やはり時合いと言うものがあるのですね。

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安指の地磯(10月21日)

2012-10-25 05:00:00 | 田舎

前日の土曜日でも釣る場所の無い状態の大島港、地蔵屋のパンをY下君に食べて貰わなければならないし、前日に駆け付けた時間よりも早く行く自信が無いので、日曜日は何処へ行こうかと迷いましたが、二人ともあまり過激な行動を取りたくないということで、平坦な地磯を目指すことになりました。未だ下見しかしていない和深の地磯か、何度か釣行したことはあるけれど釣果には恵まれていない安指の地磯かということになりましたが、比較的深くて変化に富んだ安指の地磯を選んだのでした。

             

波止場には多くの車が停まっていましたが、ここは渡船もあり、ダイビングもあるので、地磯に来ているのは知れているだろうと思ったのは正解で、先端では若い子が2人カゴ釣りをしていました。カゴには手で握ったエサを入れているし、カニみたいなものを二つ付けて釣っていたので何を釣っているのか分かりませんでした。

             

Y下君は一段高い所で釣りを始め、私は低い所に釣り座を決めました。Y下君は最初から竿を曲げて快調ですが、かかるのはイズスミばかり。私も最初はウキ下2ヒロで釣っていましたが、アタリも無いのにエサが無くなるばかりなので、ウキ下を徐々に浅くすると最初に来たのがスズメダイ、サシエサが無くなるばかりなので一旦車にペレットを取りに戻りました。この場所からなら車まで5分もかかりません。

             

車から戻る途中、西の波止場の先端部の磯でエギングの人の姿がありました。来る途中もエギングスタイルの若者をよく見かけて、最近の釣りについて話ししながら走って来たのですが、実はこの日、串本でエギングの大会があったのでした。

             

戻って来るとY下君が竿を曲げています。

             

釣り上げたのはグレ、サイズには不満が残りますが、先ずはグレをゲット、スカリにキープしていました。キープするかどうか悩ましいところですが、ネコならまだしも、サギには飲み込めない大きさですから、キープするのもいいでしょう。いやいや、この磯にサギやネコが居たわけではありません、あくまでも例えばの話です。

             

先端の二人にアタリ、何かと思っていたらイガミでした。なるほど、カニに見えたのはホンダワラだったのですね、なるほど・・・カゴに握って入れていたのはヌカだったのか。タモを持ってる方がベテランっぽく、竿を持ってる白い長靴姿の人は素人っぽい様子でしたが、素人っぽい人の方がよく釣っていました。

             

私はと言えば、こんなカラフルなベラ、これってサギに見せたら食べるのでしょうかね。

             

そして私にまでイズスミ、食べようとは思いませんからキープはしませんが、グレより力強く引きを楽しませます。

             

そしてアタボ、こいつは居食いするのでハリを飲み込まれてしまいました。

             

またしてもイズスミ、この磯にはイズスミが湧いているようです。このサイズのイズスミ、こちらではババタレとも呼び、釣りあげられるとウンコを漏らす習性があるようで、掴むのにタオルが汚れてしまいます。

             

そしてまたまたハリを飲み込んだアタボ、こんなものばかり釣って遊んでいました。

             

そうこうしているうちに1時半、スーッとウキが沈んだかと思うと、手許にまで伝わるドーンと来る大きなアタリ、すかさず竿を煽りますがその瞬間、何も感じなくなり残っているのは道糸だけ。八の字結びで直結していた道糸とハリスの連結部分で抜けてしまったのでしょう。道糸が2,5号、ハリスが2号を使っていて結束力は弱くは無い筈なのに・・・大島港では2,5号の道糸に1,5号のハリスで大きなグレをかけても抜けたことなど無かったのに一体何が私のエサを喰ったのでしょう。青物だったのかも知れません。この写真に見えている手前のシモリの向こう側で喰ってきました。

もうサシエが無くなっていたので、もう釣りを止めようかと思って何気なく海面を見たら、足許でウキが漂っていました。お陰でウキだけは回収することが出来、大損することはありませんでした。

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10月19日・20日の大島港

2012-10-24 05:00:00 | 田舎

今月18日に最後のハローワーク詣でを終え、9月には台風のせいで延期になったY下君が週末にやって来るので、その日のうちに串本に行こうと考えていました。ところがあいにくの雨、起きた時は降って無かったのにと思いながら、またまた台風がやって来ると言う予報があり、今年の私の向かう所は雨・風ばかりかと運の無さを嘆くばかり、ハローワークがある天王寺にはいつもは自転車ですが、この日は橋下君の指導のもとで廃止になるかも知れない100円の赤バスに乗って行ってきました。いつもなら8時ごろには家を出て、8時半から受け付けの始まるハローワークの中で待っているのですが、この日は8時33分発のバスに乗ったのでハローワークに着いたのが9時前、雨のせいだったのかも知れませんが、その頃の方が空いているではありませんか。もう就職活動をする必要もないのですぐにハローワークから退散しましたが、お土産を買いたい百貨店は未だ開いていません。

天王寺から難波へ行こうと思い、地下鉄なら230円、JRの天王寺駅で運賃表を見ると新今宮経由で南海電車に乗ると270円、旧湊町駅(JRなんば駅)までなら170円で60~100円もお得なのでJRに乗りました。高島屋でお土産を物色し、昼ごろには一旦家に戻り、すぐに車で串本に向かいましたが、出る時は止んでいた雨も堺を過ぎるころにまた降り出し、阪神高速に乗ると雨はだんだん激しさを増し、フォグライトを点けていないといけないくらいの危なっかしさ、天気予報では翌金曜日は晴れるとのことでしたが、その割にはよく降るものです。出る時は止んでいたので傘は置いておこうかと思ったのですが、念のために持って出て正解でした、串本に着くまでずっと雨なのでした。

             

Y下君は土曜日に家を出るとのこと、姫の前の浜は少し波が残っていて濁ってもいたので、金曜日の昼食を済ませた後、大島港へ様子を見に行ってみることにしました。勿論釣り道具は全部積んでは行きましたが、釣ろうと言う気はありません。波など全く無く水も澄んでいます、昨日の雨は何だったんだろうという気持ち、釣りに来ている人も一組・二人だけでした。

             

駐車場には1台しか車がありません。私も釣りをするつもりが無いので、車もここまでは乗って来ていません。

             

天気が良いのに閑散としています。時折釣れるのはコッパグレばかり、ネコやサギのエサになるようなサイズばかりでした。

             

翌土曜日、Y下君が来るまで釣りをしようと大島港へ6時50分ごろには到着、これでもいつもよりは早く来ています(普段は土日は釣りをしないことに決めています)。来てみてビックリ、立錐の余地も無いほど釣り人で埋まっています。私を含めずに数えると15人、車も私のを含めて9台停まっていました。竿を出すポイントが無いのです。

             

7時過ぎにY下君に電話をかけるともう高速に入ってるとのこと、4時間ぐらいで行けるだろうとのことでしたが、晴天の連休なので混んでいるとの話でした。地元の人が二人、これでは釣れんと言うことでサッサと帰って行きました。一人は自転車のいつも来ている人、もう一人はバイクでした。

私はずっと波止の根元の所に座って見物していましたが、8時半ごろと9時半ごろにグレやシマアジがパパッと釣れたのですが、その他の時間は釣れていません。釣れる時間帯というのがあるようですが、勿論それは日によって違います。1時間ごとに釣れてるなと思って10時半に期待をしていたのですが、丁度その時Y下君から串本に着いたとの電話があり、釣りの状況はあまり見ていません。豊中から3時間半というのは結構早く来れたものです。でも誰も帰る人も無く、来て貰っても釣る場所がありません。

             

一級ポイントに陣取った若い4人組、着ているものを見ても夜の内から来ていたものと想像が付きます。みんな円錐ウキのフカセ釣り、フカセするんやったら磯へ行けよなと思います。4人組の中で立っているこの女の人が一番よく釣っていました。

             

2時前になって年老いた4人組が帰ったので、その場所で釣りを始めることにしましたが、グレのポイントからは程遠く、Y下君は結局釣りをしませんでした。私が釣れたらやろうと思っていたそうですが、私も釣れず、結局この1匹のイワシのみ、この日はネコやサギには誰も魚をくれないので、せめてこの1匹でもとサギに投げてやった優しいぼんくらさんでした。

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漫画展

2012-10-23 05:00:00 | 展覧会

夏を過ぎようとする頃から、この漫画展が開催されるのを聞いていました。あまりに早く知らされたので忘れてしまうのではないかと危惧していたのですが、忘れることなく行ってくることが出来ました。副題が“中国からの引き揚げ~少年たちの記憶”となっており、少年たちとは戦時中には家族と共に中国(主として満州国)で暮らしていて、終戦と同時に(或いは遅れて)祖国に帰ってきた子供たち、日本国を見てもこれが自分の祖国とは思えないような幼い頃から中国在住だった日本人たちなのでした。その子供たちの名はペンネームですが、『あしたのジョー』のちばてつや、『丸出だめ夫』の森田拳次、『釣りバカ日誌』の北見けんいち、『ダメおやじ』の古谷三敏、『おそ松くん』の赤塚不二夫、『プロゴルファー綾部金次郎』の高井研一郎など12名に及びます。

             

北区芝田にある画廊を目指します。地下鉄を降りて、ヨドバシカメラの横の道へ上がり、まっすぐ北上、中津の手前の阪急電車の鉄橋がすぐそこに見えるところまで来ると、すぐに判りました。

             

私は中学生の頃からのちばてつやファンでして、当時少年マガジンに連載されていた『ハリスの旋風』を夢中になって読んでいました。他には『紫電改のタカ』や『ちかいの魔球』など、実はちばてつやの代表作と言われる『あしたのジョー』は高校生の時だったので読んでいません。そして卒業してからは『おれは鉄兵』『のたり松太郎』『明日天気になぁれ』などを読んでいたのを思い出し、この漫画展に行ってみたいと思っていたのでした。

今は亡きちばてつやの弟・ちばあきおの名前も回想の中で出てきます。ちばあきおの代表作『プレーボール』も愛読していました。

             

画廊に入ってみてビックリしたのは、職場であった尼崎センタで一緒だったH松氏が受付に座っているではありませんか。なんでこんなところで逢うのかと、縁と言うものにつくづく感心させられます。実はこの日、短い時間の間に梅田界隈で以前の職場の人に次々にあと二人も出会ったのでした。

ブログに載せるんで写真撮るわと言うとニコニコして応じてくれます。どうやらこの画廊内は撮影禁止ではないらしい。

             

二言三言、四言五言・・・この人は話し出すと長い・・・雑談をして、絵を見始めます。最初は誰も客が居なかったのに、だんだんと増えていきました。まぁ、タイトルが地味ですから、訪れる人がそんなに多いとは思えません。

             

本人や石子順というマンガ評論家の説明が各絵に添えられていて、それを読んでいるとかなり時間を要します。でも私は1時間以上かけて全部読みました。

             

それぞれの絵はプロが描くものですからそれなりにきれいです。でも子供の頃を思い出しての絵ですから、私が知りたいような戦争自体に関してのものはありません。私にしては少し物足らなさを感じました。ストーリー漫画ではなく、1枚の挿し絵みたいなものですから、自ずと訴える力が弱いのかも知れません。

             

赤塚不二夫はもう既に故人ですから、この展覧会の企画がどう動いてきたのかは知る由もありませんが、どうやら『私の8月15日の会』という団体が森田拳次氏を会長に据えて存在し、この絵画はその会の人たちによって描かれたようです。

これらの絵の内、林静一氏が出品したただ一枚の絵『母に抱かれて』という絵は、『仁淀川』での著者宮尾登美子が娘を抱いて満州から逃げ帰った話と相俟って、胸を打ちます。しかし満州ではソ連軍の猛襲に遭い、集団自決を余儀なくされた人たちも大勢いました。この展覧会では当時子供だった方々の思いですから、そこまでは掘り下げられませんが、もう一つのコーナーがあっても良かったんじゃないかと思う次第です。

                       

日中友好協会主催の漫画展なのでかどうか、引き揚げ者を襲う中国人は描かれてはいませんが、それまでに為した日本軍の非業悪行を思えば、日本鬼子に対する仕返しがあっても当然だろうと私は思う一方、逃げ遅れた子供たちを救ってくれた中国人もたくさん居たわけです。この展覧会のあいさつには、“二度とあってはならない悲惨な戦争”と書かれていましたが、私はやはり二度とあってはならないのは侵略戦争だと思うのです。そんなことはあり得ないのですが、あのまま日本軍が侵略し続けていたら、果たして日本国民は“二度とあってはならない悲惨な戦争”などと思ったでしょうか。反省なのか真実なのか、そこが当に問われると思うのですが・・・

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天高く

2012-10-22 05:00:00 | 大阪にて

今年は雨が多かったと私は思っています。現実にはそんなに多くは無かったとは思うのですが、私が出かける時に限って雨、或いは台風がやって来るのです。九州に行った時然り、夏の帰省時、四国の中津渓谷へ行った時も、先月Y下君が来るというので釣りに帰った時も何時も雨が降り、台風が来たのでした。

先週の木曜日、その土日にY下君が釣りに来る予定なのでハローワークから帰ってすぐに車を走らせましたが、台風が2個もウロウロしていました。来月、伊勢や熊野へN田君夫妻と旅行する予定なのですが、天気が悪いんじゃなかろうかと今からとても不安なのです。

                       

それでも長く滞在する串本では晴れている方が多く、大阪で居ると雨など降ることが滅多にありません。これは10日に四条畷へ行った帰り、ニューミュンヘンで唐揚げ1人前と生ビール大1杯を昼食として食べた後、御堂筋に出て空を見上げてある種の感動を覚えたので撮ってみたものです。

青々をして澄みきった空の何ときれいなことか、私の着る服の色調はブルー系が多いのですが、それは海を意識してのもの、空色と言うより群青色の系統の方を好んでいるのです。

大阪駅の北側には私がリタイアする以前には建ってなかったビルが2つ出来かけていました。右隅に高く聳えるのは阪急百貨店の新しく完成しようとしているビル。

             

こちらは西側、ヒルトンホテルなどが見えています。手前の右は新阪急ビル、左は駅前第4ビルです。

串本での風景を撮ると、遮るものと言えば山しかないので、しかも大阪のように接近してビルがそそり建っている風ではなく、山はなだらかな傾斜なので頂上などはかなり遠くに見えるので、こういう風景とは対照的です。山や野は葉の緑と土や幹の茶色が表現する有機物の世界、歩いていると、虫や鳥、時には獣などを見かけますが、向こうから襲ってくることは無く、都会では聳え立った無機質なビルから吐き出される人の群れ、何時現れるか判らない無差別殺人鬼、そう考えると何故にこんな都会で暮らすのか、より良い生活をと願う人々の知恵とは逆に住み難い環境になってきているのには違いありません。

             

外からの階段があったので駅前第4ビルの3階テラスに登ってみました。昼休みの時間帯だったせいか、多くの人が横になったり、本を読んだりとくつろいでいました。テラスから北東の方角、建設中なのは富国生命ビルだと思います。こちらは未だ高いビルは出来ていません。と言っても一つでも串本であれば、びっくりするほど大きなビルに思えるのでしょうね。

             

こちらは南東側、真ん中のビルはフェニックスタワー、幾つかの保険会社が合併してできた会社の名前が冠むっています。

             

この日久し振りに御堂筋の北詰に出たわけですが、驚いたのはあの有名な足立宝石店の建物が競売に出されていたことでした。私の小さい頃はよくラジオやテレビでコマーシャルを流していたような記憶があります。

             

さてこれは後日、ヨドバシカメラを北側から撮ったものです。大阪駅の裏、しかもヨドバシカメラより北側には殆ど行ったことは無かったのですが、所用有って訪れた時に撮っておいたものです。

“遥か彼方”などと言うと、西の方とか南の方とか水平線や地平線を思い浮かべて使う言葉ですが、こうも狭い地域で空を見上げると“遥か彼方”はずっと上の方、肉眼では見えようもない宇宙を想定してしまいます。この時、私の頭上の遥か彼方にはどのような星が動いていたのでしょう?ある星から私と同じように空を眺め、私と同じことを考えた宇宙人が居ないとも限りません。


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小楠公墓所

2012-10-19 05:00:00 | 大阪にて

楠木正行軍と高師直軍が四条畷で戦ったのが天正3年(1348年)正月、今から約650年ほど前のことです。昨今日本の歴史を読んでいると、650年前と言えばそんなに昔ではないような気がしてきました。平安時代はなんと400年近く続いたのですから、その長さは相当なものです。日本国が○×時代と呼んでいるのはその時の朝廷あるいは幕府(首都)があった呼び方ですから、数十年して例えば首都が大阪に変わったら、私の生きていた時代は東京時代と呼ばれるのでしょうか。死んだあとはともかく、私が生きているうちは貴方の構想など絶対に受け入れないので、その点だけは解っておいてくださいね、橋下君。こんなことを言うと、TVでしか見たことがありませんが、目を三角にして突っかかってくる顔が目に浮かびます。自分を受け入れない者に対する敵愾心は強烈で、尋常ではないスピリッツで臨みますよね。

             

四条畷神社の一の鳥居のところまで戻り、再びバスが通る商店街へと入り込み、駅方面には行かずまっすぐ踏切を渡って、そのまま直進します。その突き当りに小楠公墓所があります。この日はタイミング悪く、私が行った目の前で軽トラックが侵入、こんな所へ車を停めるなよと言いたくもなりますが、この辺りの道路も狭苦しく、停めれる場所など無いのです。何処の工事か知りませんが、依頼者に駐車場代ぐらい貰ってそちらへ駐車してほしいものです。私が言いたいのは決して不敬だとかそういう問題ではありませんよ。ここへ停めたら私のような小旅行者がやって来て、目的の小楠公の墓が何処にあるのか気が付かない人がいたらどうするんですか?

                       

この碑に気が付けば、「あぁここや!」と分かるのですが、私は軽トラの入る前に正面にある祠を見つけていましたから、難なく小楠公の墓がここだということが分かっていたのです。この碑に気が付いたのは出てきてからのことでした。

             

正行の死後、この地に小さな墓石が建てられ(ひょっとしたら置かれ)、約100年後その両脇にクスノキを植えたと言います。

             

これがそのクスノキ、小さな墓標は2本の木に合含されたと言われ、この写真にも写っています。でもそれはあまりにもうまく出来過ぎた話だとは思いませんか?確かに根元に石がありますが、この幹が2本の木からなっているとは単純にもそうは思われません。

                       

この境内がいつの頃の創建かは何処にも書かれていませんが、この墓標は明治11年、大久保利通の揮毫によるものとされています。でも最初からここにあったのか、何処かから運んできたのか、詳しいことは何も書かれていないのです。

この碑では従三位となっていますが、それは大久保が書いた明治11年現在のこと、何故だか知りませんが、明治30年には従二位に昇格しています。まぁ尊王思想の模範であり、誠忠、純孝の精神は天皇制支配を国民に押し付けるにはうってつけだったのでしょう。

             

これは奥の右手にあった夫人の碑、墨が落ちて読み難い上に、大小の区別なく楠公夫人としか書かれていないので、どちらの奥さんか判断できませんが、思うに正成の夫人なのでしょう。四条畷神社にも御妣神社、正行の母親を祀っているという摂社がありました。

こちらは明治35年の建立だそうです。

             

右手奥(北側)からの風景、このクスノキは伝説の真偽はともかく、大阪府では3番目の大きさだとか。

             

結構賑わっている商店街、こちらは駅より西側ですが、バスは通ってないらしい、でも讃良郡条里遺跡後にイオンが進出してきたら、この賑わいはどうなることやら・・・

さぁ、もういよいよ帰りにしましょう。もう11時を回っています。1週間分のネタを運賃1120円で、その他の出費をすることなく取材することが出来ました。来てみて初めて分かったのですが、奈良から近いこともあり、古代は水辺でもあったことから、この辺りにはたくさんの遺跡があります。長男宅近くの田原一帯にもありそうなので、その方面の探索もしてみたいものです。

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歯噛さま (和田賢秀の墓)

2012-10-18 05:00:00 | 大阪にて

歴史民俗資料館への往路、東高野街道を北進中に老人が幾人も並んでいるので何かと思ったら、『塚脇』という名のバス停でした。その後ろには標柱が立った公園のような広場があり、少し気になりましたが資料館の開館時間が迫っていたので先を急ぎ、狭い道をまた歩くのは嫌でしたが、戻って来たのでした。考えてみるとこの東高野街道なる道を歩いている人は少なく、道幅が狭いので車自体が非常に気を使うということを理解した上なのか、ただ単に危ないからなのか、地元の人は違う道を歩いているようで、歩いているのは私のような観光気分の者だけなのかも知れません。資料館への地図でもこの道を紹介しているのではありませんでした。

             

忠烈と刻まれた標柱には注連縄が張られ如何にも神社風ですが、社や祠はありません。でも神域と書かれていました。どうやら四条畷神社と関係があるようです。玉垣に囲まれた大きなクスノキが生えているのは、どうやらお墓のようです。

                       

和田賢秀墓地と彫られた小さな碑が建っていました。あまり聞いたことのない名前ですが、調べてみると楠木正成の弟(正季)の子、なので正行とは従兄弟同志と言うことになります。それなら何故楠木姓ではないのか、和田って“わだ”ですが、“にぎた”と読む説もあるようです。

             

でも不思議、墓に掘られた字は『和田源秀戦死墓』となっていて、昔の人はコロコロ名前を変えるので、ややこしい。和田の姓も新発意(しんぼっち)との通称もあるようです。

             

向かって左(北側)の隅からの全景、考えてみれば北畠顕家なども阿倍野に墓所がありました。南朝方に仕えた人が多いのは大阪と言う土地柄のせいなのか、たまたま戦場が大阪府下に集中しているだけなのか、でも明治以降の天皇が行幸したという記念碑は建っていませんから、近代の天皇は皆北朝側、持明院統なのかも知れません。

             

こちらは向かって右(南側)からの風景、いつの間にやら資料館で話を聞いていた人が訪れてきていました。

この四条畷の決戦では高師直軍6万に対し、楠木正行軍は3千と言われ、多勢に無勢、自分の城で戦っているのではありませんから、勝つ見込みなどありません。正行が討たれた後、和田賢秀は密かに師直に近寄り、首を討とうとしますが佐々木道誉などに見破られ、逆に討たれてしまいます。その際敵の兵に噛みついて離さなかったらしく、そのことが元でその兵は死んでしまったのだとか、その謂れが『歯噛さま=歯神様』となったと言いますが、神さんにするにはあまりいい話ではありません。

             

また歯噛さまの由来は、賢秀が闘っている際に自分の刀が折れ、敵の刀を口で受け止め、その刀を噛み砕いたからだという説もあります。まぁ、そんなことはあり得ないにしても、人を殺していないのですから、この説の方が神さんになるに相応しいかも知れません。

この碑の“忠”左の字が読めません。こんな字はありませんから、無茶苦茶略字にしてあるのでしょう、“忠”は略してないのにねぇ。表の標柱の“烈”ではないでしょうし、在り来たりの“魂”かも知れないという程度の雰囲気です。偏がさんずいの略に読めて仕方ないのです。この辺りの子供は“球”と読んだのかも知れません、ボールを一つ詰めてありました。

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