ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

土佐稲荷神社 Ⅱ

2012-04-17 05:00:00 | 大阪にて

会社を辞めてからというもの、このブログのネタを探すには目的を持って赴くことを昨日書きました。この土佐稲荷神社に来たのは、妙国寺~宝珠院の続き、いや話としては妙国寺で切腹する前のことなのですが、堺事件の確認をしてみたかったのが目的です。土佐藩士がフランス軍水兵を襲ったのが慶応4年2月15日、刑の執行が2月23日、この一週間の間、事件を起こした藩士たちはこの土佐稲荷神社の周辺にあった土佐藩邸で謹慎していました。土佐藩邸がこの辺りにあったなんて私の認識不足だったのか、私は土佐藩邸は中ノ島の南に土佐堀川が流れており、その南側に土佐堀通りという街路があるし、あみだ池筋に架かる橋を土佐堀橋と言うし、きっと今で言う西区の北西部にあったとばかり思っていました。

             

この鳥居は私がこの神社に入った東側にあったもの、神額にも土佐稲荷神社と書かれてますから正式な入口なのでしょう。

土佐藩邸に謹慎していた藩士29名は、この神社内で切腹する20名を決めるための籤引きをしたことになっています。籤はあみだくじだったのか、先端に当たり外れの色を塗った竹ひごを引いたのか、それともじゃんけんをしたのか、末子枝葉のことに興味を抱く私ですが、それとても大事なことだったと思うのです。果たして切腹に決まった藩士が引いた籤は『当たり』だったのか『はずれ』だったのか、切腹に対してどのような意識を持っていたのかを知る上で非常に興味があるところですが、単に『切腹』と記されていたのかも知れません。

             

社務所の巫女風の女の人に尋ねようと思ったのは、その籤を引いた場所は何処だったのか、その碑でも残っているのかということだったのですが、期待に沿ってくれそうもなくてガッカリするのが嫌だったので聞かなかったのです。かなり丹念に境内を見て回りましたが、その手掛かりとなるものは見つけられませんでした。

             

妙国寺の境内にあったソテツの庭に似たものがこの神社の境内にもありましたが、不思議な縁というよりも敢えてこうしたという人為的なものを感じます。

記念碑的なものさえ無いということは、切腹のための籤を引いたという事実があること自体、この神社にとっては疎ましいものなのでしょうか。それとも野蛮な暴挙を起こした藩士など許せないのでしょうか。妙国寺周辺の道標にあった感覚とは違ったものを感じます。

             

20人の内9人を残して中止になった切腹ですが、中止になった理由は如何であるにせよ、残された9人の藩士は森鴎外によると非常に不服であったらしい。でも、ひょっとしたら内心良かったと胸を撫で下した人もいたように思えてなりません。武士である前に人間である以上、生への渇望は否定できるものではありません。

             

生き残った9名は土佐へと帰り、後日、朝命により配流となったようですが、本当にフランス水兵を殺めたのかどうかの詮議をするのでもなく、籤で以って問責・不問を決めたわけですから、朝命といえども天皇が関与したかどうかは知る由もありませんが、明治天皇はこの事件に関してどのような認識を持っていたのかを知りたくなります。
          
                       

読み難いですが、この碑には『岩崎家舊邸址』と書かれてあります。“舊”は似ても似付きませんが、旧の旧字です。

この神社に来て新しい発見は、土佐藩邸跡は岩崎弥太郎へ譲渡され、代々岩崎家の土地となったということ、労働者であった私は資本家の岩崎弥太郎などの経歴など知りたくもないのですが、NHKの大河ドラマ『竜馬伝』の冒頭で登場した弥太郎は郷士の株を売ってしまった地下浪人だったのです。それが維新後大金持ちになれたのは、政商として暗躍し今で言うインサイダー取引などが出来たことに他なりません。

なるほど土佐稲荷神社の玉垣には三菱系列各社の名前がずらりと並んでいました。

             

こちらは西側の鳥居、右下の木でできている床は、土曜日のコンサートの際の演舞台だったと思われます。

             

神社の周りは土佐公園と呼ばれる公園です。一角に神社とは縁も所縁も無さそうな銅像が建っていました。

それにしても29名中20名が当選するなんて、確率のいい籤です。そんな宝くじなら買っても良さそうです。切腹は御免蒙りますがね。

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