ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

大辺路(船並~安指) Ⅱ

2013-01-31 05:00:00 | 田舎

和深で見つけた大辺路の地図を大きな写真で再掲しました。この地図を見つけたのは偶然ですが、このような地図を見つけたお陰で串本西部の大辺路を探索することが出来ています。この地図は和深の誰かの善意で掲示されたのでしょうか、他の地区でこのような地図を見たことがありません。平見下の造船所横から入ってサンワの裏に出てきた道から東側、駅で言えば田並の方への大辺路はどうなっているのか、それを知りたいものです。未だこの地図で言えば安指川から田子を経て平見下までの区間が残っていますから、次に来た時は後1回分の探索経路が残っています。

             

新品のゴーラを見つけて昨日は記事を終えましたが、そこから登っていく道があり、その道を進むと42号線に交わります。写真は42号線から登って来た道を撮ったものです。

             

そして42号線に沿って暫く歩き、案内標を見つけました。よく見てないと分り難いです。逆光のせいもあって写真でも見つけ難いのですが、階段の途中の草の茂みに立っています。

             

たいした距離ではありませんでしたが、42号線から解放されるのは有難いものです。大阪のように頻繁に車が通るわけではありませんが、歩道も無く、そう広くも無い道を時速7~80kmで走る車が(私もそうなのですが)いるので歩くには怖いのです。まぁ42号線を車で走っていて、国道を歩いている人など滅多に見かけるものではありません。

案内標に導かれて大辺路に入ったものの和深の時のように住宅街だったのでがっかりです。地図にある安指平見大師堂と一里塚跡とお地蔵さんを探しながら歩きますが、何処かで道を間違ったようでした。

             

車が1台楽に通れるような道をずっと歩いていたら、もう安指漁港のテトラや安指川に架かる橋が見えてきてしまい、間違いに気付いたのです。この日は安指川までと決めていたので、ここは最終地点ですし、この地点を歩くのは地図通りです。

             

間違って歩いてきた紀勢線沿いの坂道を振り返ると人一人が通れるくらいの急な坂道があり、きっとそちらの道を歩いてくるのが正解だと思い直し、その道を逆行することにしました。

             

狭い坂道を登り切ると突き当たりで左右に道が別れ、右への道が良いだろうと勝手に考えて進むと、見晴らしが良くなりました。ここは安指平見と言う地名、平見という名が付く地名はこの辺りに多いですし、名前通り平らで遠くが見通せます。

   

再び大師堂などを探し歩きます。案内標は見られなかったものの石垣沿いの道があったので大辺路らしいと思い、行ってみると墓場に通じる道でした。また元に戻って今度は海の方向へ歩きました。

             

この案内標のところは最初通ったのです。工事をしていて、先に通った時には無かったミキサー車が道を塞いでしまっています。ここを曲がってその先で道を間違えた筈ですが、再び通ることが出来ません。

   

ではさっきの坂道の左右の分かれ道を左にとればいいのだと思い、またまた引き返しです。案の定、左手の道には『大辺路→』の標識がありますから、この道が大辺路だったのです。この道、下ってますがすぐに先は上りになっているのが分かると思いますが、この道の底の部分に紀勢線沿いの道から分岐した狭い坂道が連なっているのです。ですから、私はその坂道を登って向こう側の上り道を歩いて行ってしまったのでした。ここで地図にあるお地蔵さんを発見、でもその辺りに有る筈の一里塚跡は見つけることが出来ませんでした。お地蔵さんの先は工事現場なので、安指平見大師堂を見つけるためには、またまた戻らねばなりません。

             

戻って戻って歩いていると、大師堂は最初に通った道にあったのです。ゲートボール場で掃除をしているオジサンに気を取られていたのと、扉が閉まっていたので気が付かなかったのかも知れません。

                       

一里塚跡を探したかったのですが、きっと工事現場の近くで近寄れないと判断して諦めました。探している途中にこんなモダンな店の看板を見つけましたが、それらしき店は見かけなんだなぁ。

             

大師堂から海の方への道を歩くとすぐに42号線に突き当たり、そこには『安指平見』のバス停がありました。丁寧にベンチまで用意してありますが、背もたれはありません。そして地図では昨日書いた名無しの川の辺りにも大師像が有る筈なのでもう一度川まで戻ったのですが、それらしきお像は見当たりません。真ん中の写真、昨日この案内標が訝しいというようなことを書きました。矢印を見て欲しいのですが、2本あるのが分かるでしょ。下の矢印は何を指示しているのか、ずっと見てきた案内標は一方通行、ずっと西から東(北から南)への方向を差していました。なので逆から来ることは想定していないのです。ではこの矢印は何なのか?実は新品のゴーラの前を通って山の方へ行く道があるのです。だからその方向を示した矢印かとも思って、一旦歩き始めたのですが、道がドロドロで途中大きな水溜りが出来ていて道を塞いでしまっていたので先へ進むのは諦めました。泥状の道ですから足跡が残っています。おそらくシカのものではないかと思います。

             

名無し川まで戻ったので、大辺路を元の所まで戻ろうか、42号線で戻ろうかと考えたのですが、もう11時を10分ばかり回っていたので、42号線を歩くことにしました。42号線から時折見える太平洋、天気が良かったので海がきれいです。

             

船並港に近くなってきました。船並港は安指から行くと和深トンネルの手前で右折する標識が出ているのですが、実はこの写真のカーブミラーが有る所を左折すれば行けるのです。歩き始めはここから出てきて、42号線を右に少し見えている道へと渡ったのでした。歩かなければこの左折する道も知ることが無かったのだと新しい知識を得たことに喜びを感じています。交通量は少ないとは言え、反対車線を横切るのはやはり緊張します。

             

11時30分を超えてトンネルまで戻ってきました。レンズを拭いたわけではありませんが、もうヘンなものは写っていません。

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大辺路(船並~安指)

2013-01-30 05:00:00 | 田舎

船並の地磯を30分ほど歩いたのでもう10時を回っています。この日は案外暖かく、ダウンジャケットを着て行った私はもう汗ばんでいます。港を振り返ると昨日の最後に紹介した二人はもう小高い地磯を歩いていますが、この写真では確認することは出来ません。

             

港から歩いて紀勢線と42号線のトンネルを潜ります。写真をよく見ると真ん中や右側に丸い何かがボヤっと写っています。レンズに何か付着したのかと思ったのですが、一つ前の写真も後ろの写真もこのようなものは写っていません。気付いたのは今ですからいいようなものの、ここに居た時に気付いてたら気色悪いというものです。このトンネルを車で1回、歩いて1回計2回報復していますが、何事も無くこうやってブログを綴っているのですから、別段怪しい物が居たのでは無かったようです。

             

トンネルを抜けると『大辺路』の案内標、どうもこの案内標は曲者です。この写真の札や立っている札には問題は無いのですが、必要な所に立ってないというのが、後になっての感想です。私は車でこの案内標の左側からやってきて、港に車を置いて、再びここまで歩いてきたわけです。そして右の方へ歩いて行くのです。

             

42号線を渡り、山側の道をこっちやろかと思いながら歩いていくと『大辺路』の立て札、いつもの菅笠模様のものとは違うので騙されているのではないかと疑ってしまいそうですが、指示通りに行かなければ、他に道を知りません。結局のところ従って正解でしたが、立て札、案内標は統一しておいて欲しいものです。

             

5分ほど山道を歩いて、ここで問題は発生、私は手前の落ち葉のある道を歩いてきました。ここで右に陽が当たっている方への道と、左へと向かう道が分かれています。ここに案内標が無いのです。どちらを選択すればいいのか分かりません。一度右の方へ登って行きましたが、すぐに民家らしき建物が見え庭のように思えたので引き返し、左の道を選択しました。

    

少し歩くとすぐにこちらも民家沿いの道、以前も民家の横を通っているので、そのまま進みましたが、2分も経たないうちに行き止まり、反対方向にある道も行き止まりでした。

         

間違っていたと思い引き返します。迷った所まで戻り、やっぱり騙されていたのかと思い戻ろうとも思いましたが、陽の当たっている方の道をもう少し行ってみようと思って進むと、案内標に遭遇、やっと一安心です。どちらの道を辿ればいいのか迷うそうな所には案内標を立てておいて欲しいものです。私のように一人でやって来る人もいるだろうし、第一、地元のガイドさんに連れてもらうなら案内板など要らないのですから。

                       

陽の当たる集落を抜けて再び山道へ、この山道への入口でも多少悩みました。独りで来た人には悩ませるようにわざわざ案内標を立てていないのかも知れないと勘ぐるようになったくらいです。和深で見た地図には古い石畳の階段があると書いてありましたから、この道で間違いないとは確信しています。

             

坂道を下りきると取って付けたような新しい橋、橋の名前はありません。未だ真新しく、木の香りも漂っています。わざわざ橋を付けてくれているのですから、道も間違いなさそうです。

             

でも手前の橋の下は水など流れていませんでした。大雨が降ったら水かさが増して、川になるのかも知れません。こちらは奥の橋の上から見た上流方面。

             

新しい橋を架ける前はどんな状態だったのか知る由もありませんが、古くて今にも朽ちそうな橋が架かっていたのか、それとも石伝いに渡っていたのか、興味を惹かれます。

             

小川には両側に石垣が施してあり、手が加えられていることから、この川がこの辺りの人にとって生活上必要なものであることが窺えますが、川沿いの道を登っていくと何ほども行かないうちに川はトンネルの中に消えて行ってしまいました。googleの地図で調べても川自体が載っていませんし、国土地理院の地図で調べると川は有りますが、名前も書かれていません。地図で見ていると、どうやらこの川は海へと注いでいないようですが、では水は何処かへ溜まっているのかと思うとヘンですよね。

川沿いの道を登りきって、また陽の当たる広い所に出ます。ここにも『大辺路』の案内標があります。明日書きますがこの案内標もやっかいな代物でした。

             

この前日、NHKで報道していたゴーラが設置してありました。NHKでは造り方など取材していましたが、あれは古座川河口だったように思います。このゴーラを一つ造るのにもたいそうな手間がかかっていましたが、このゴーラも新品のようです。私がNHKの放送を見、ここで新しく設置されたのを見たのはたまたまなのでしょうね、古座の人が安指のこんなところまで設置しに来るとは思えません。

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船並漁港の地磯

2013-01-29 05:00:00 | 田舎

和深駅の近くで和深からレストランサンワまでの大辺路の地図を見つけ、船並港までの道を歩き、次に平見下からサンワまでの道を歩きました。今回は船並港から安指までを探索しようと何度も地図を見て、メモを取って船並港へと赴いたのでした。初めて来た時は車を停めたらアカン所に停めたのですが、この日はちゃんと港にある駐車場(もちろん無料)に停めたのですが、そこには地磯へ降りられる階段があったので、ついついそちらに足が向かいます。よくよく考えてみると、和深と名の付く漁港は無く、この船並の北はすさみ町に入って里野にあり、南は時々行く安指になるのです。スポーツ新聞の釣り欄などで和深とあるのは、この船並港からの出船なのでしょう。

             

9時半前に到着、左(東)側には断崖があり、未だ断崖の影が大きくて、寒々しいのですが、天気は上々、陽の当たっているところは暖かそうです。

             

駐車場の隅から港の全景、向いの丘の上、右隅に家が見えていますが、前回はその辺りまで歩いて来たのでした。

             

和深の駅裏の浜から始まる地磯は、船並港の北側、そして今回の南側と結構広大な面積になります。全体的に平らで高低の変化が無いので歩き易いのですが、その分海も浅くて大きなグレが潜んでいそうな所はありません。

             

唯一、船並港の北側の付け根にある岩、夏に三男が試し釣りをした所だけが小さな山になっていて、釣り場の航空写真などでも紹介されています。私が来た時には既に一人が釣りをしていました。

             

行ける所まで行こうと思いますが、時々水溜まりがあり、水がきれいなので気付かずに靴が濡れてしまいそうになるので、足許をしっかり見ておかないといけません。姫の地磯と同じように、この辺りの地磯も満潮時には水没するのだろうと思います。

             

この日は木曜日、沖の磯にたくさんの人が乗っています。木曜日が休みなんて何屋さんなのでしょう。それとも職の無い人達なのか、労働基準法をきっちり守る会社の社員が年休を取ってきているのかも知れません。

             

15分ほど歩いて向こうに浜が見えてきたので、地磯も終わりかと思って引き上げにかかりますが、帰って航空写真を見ると浜の向こう側も同じような磯が続いていました。田子の辺りも平べったい地磯がいくつも見えてますもんね。

             

水深が無いので磯遊びするには面白い所かも知れません。向こうに見えるのは江須崎。

             

ここはテトラの内側ですが、少しは深そうですし、前にはシモリもあり、魚が潜んでいそうな感じを受けますが、私が立っているところは殆ど濡れているので、長時間は釣っておられないのだと思います。

             

30分ほど経って戻って来ると釣り人は2人になっていました。

             

そしてまた一人歩いていく釣り人がいます。岩と同系色なので人が解り難いのですが、竿袋を持った人が写真の中央にいるのです。きっと好ポイントがあるのでしょう。

ここで最初の写真に戻ると、真ん中やや右、私のいる道を降りてすぐ右、波止場の角のところを二人連れが歩いているのが判るでしょうか?この二人もあの小高い磯に向かっているのでした。あの地磯は広いと思うので、5人でも竿は出せると思うけど、やはり釣れるポイントは限られてるからなぁ。

             

もう10時近く、急がないと昼までに帰れないかも知れない。和深からの大辺路からの続きを歩くつもりで、当時歩いてきた真下まで行ってあの時はここまで来たんだと確認、安指へと出発です。

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1月23日の釣り

2013-01-28 05:00:00 | 田舎

先週の月曜日から姫の家に来ています。誕生日が近いので今日か明日には大阪に帰ろうと思っていますが、先週の月曜日は雨の天気予報でした。でも朝起きると晴れ、雨なんか降って無いやんと思い(降ってたら行くのいややなぁと思いながら)9時ごろに家を出ました。家に着くまで雨が降り出す気配はありませんし、天気予報は外れたのかと思っていたら、夜から雷を伴った激しい雨が翌日の昼ごろまで降るとニュースで言っていました。案の定、シトシトとした雨音を聞きだしたのは草木も眠る丑三つ時、そんな時間に起きだしても仕方ありませんから目をつぶって寝ようと思いますが、先にも綴ったように目をつぶると頭が冴えてきて(冴えた考えなど浮かばないのですが)余計に眠れません。夏なら夜が明ける時間になると時折激しい雨が屋根や地面を叩きますが、雷は鳴りませんでした。

             

雨が止むと晴れになると言っていましたが、雨の後出かけても地面は濡れているので外出は控え、ずっと家に潜んでいました。釣りはその翌日の水曜日に行くことにし、その日は後が楽になるようにとブログの綴り溜め、でもそんなに多くの量を考えるのは結構しんどい、水曜木曜の分を考えて後は何をするでもありません。晴れになると言っていた天気予報は頼りにならず太陽を見たのは少々で、ずっと曇っていました。

23日水曜日の朝は金曜日のブログを綴り、もうこれで2~3日はブログから解放されると思いつつ、少し遅くなりましたが釣りに出かけました。大島港に着いたのは10時前、波止場には2組4人の釣り人しかいません。寒いのと水曜なのでいないのなら良いとしても、釣れないから来ないのだろうと思います。

駐車場に車を停めて、釣りの準備をしていると「ニャー」というネコの鳴き声、先月の14日、ここでいつも貰うのより大きめのグレを貰ったのを覚えていたのか、私の傍から離れようとしません。覚えているにしてはネコはアホです、未だ私は釣りを始めてないのですから。

             

私の釣り座はこれだけあれば十分、竿が5m以上あるのであまり近寄られても困りますが、この場所では2人が楽に竿を出せます。この日は先端の人が投げのサビキでアジ狙い、隣の若い男女はエギングにジギング、サビキ釣りといろんな釣りに挑戦していました。私が釣りを開始する前に先端でエギングをしていたのか、300gぐらいのアオリイカを釣っていました。サビキではアジは掛からず、釣れているのはイワシばかり、それもかなりの小ささです。釣り人が来ていないせいか、サギも姿を見せません。

この日はエサを早く沈めようと3号のオモリを使いました。アタリはと言えばヒョコヒョコッとするアタリ、一発でエサが無くなることはなさそうですがが、なかなか捕らえきれません。12月に残ったペレットを冷凍してあったので、時々とても柔らかなペレットにあたりますが、それを付けるとアタリが無いのにエサが無くなります。おそらく着水音とともに魚がワッと寄ってきて、柔らかいので沈んでいく途中でエサをついばんでしまうのでしょう。

             

それならいっそのこと、軽い仕掛けで浅いタナを狙ってコッパでも釣る方がネコに喜ばれると言うものです。ひょっとするとそうしているうちに大物が喰いつくかお知れません。手前では大きなグレは見えませんが、沖の方はどうなっているのか見えないのですから。この日は昼までと来る前から思っていましたから、仕掛けを変えようと思ったら11時半、隣の男女も帰ろうとしていたし、私も昼食の段取りもあるので釣りを止めました。

             

帰り道、金山展望台への入口より少し三差路寄りの所に気にかけていた道があるので、向こう側の海へと降りることが出来る道ならいいなぁと思い、行ってみることにしました。

             

このような道がつづら折りに続きます。明らかに車が通れるように造ってありますが私は歩きです。運動不足なので少しでも歩く癖をつけなければなりません。

             

『くくりわな』って聞き覚えの無い罠ですが、絵を見るとイノシシを獲るためのものらしい、でも車が通る道には仕掛けてないとは思うものの用心に越したことはありません。

             

10分も歩かないうちに舗装されてない分かれ道がありました。そのまま舗装された道を歩くか、それともこの土の道を歩くか、でもこの未舗装の道は海とは反対側へ行きそうだとか考えていました。

             

でも心配は御無用、少し先に立て札があり、もう古いので何が書いてあるのかよく判りませんが、よく読むと“これより先、私有地に付き 関係者以外 立入禁止”とあり、先へは進めません。こんな立て札ですから読めなかったと言い訳が出来そうですが、もう昼時なのでここで中止、私有地なのでこの先は海へと繋がってはいないと判断したのです。

             

道すがら時折北側の景色が現れますが、山肌に生える木々が何の手入れもされていないので、視界が遮られてしまいます。

             

これはどちらの方向の景色なのか、橋杭岩よりずっと東の景色には違いありませんが、何処なのかよく分かりません。おそらく伊串辺りだと思われます。

                       

山道の入口に有ったお地蔵さん、お供え物は丁重にされていますが、右の地蔵さんの頭部にはクモの巣がいっぱい張ってありました。お供え物よりクモの巣を何とかしてほしいと思うのですがねぇ。

             

この写真は帰りがけに急に曇って来た時の南側の海の様子、この日は天気予報に反して帰ってから雨が降ったのですが、降る前の海の表情です。撮ったのは串本大橋を登りきったパーキングですが、その手前で何と美しい景色だと思ったのです。出雲の双子島が見えていますが、そんな風景を撮りたかったのではありません。暗くなってきている空、その空の色に染まった海、その境界のコントラストが私には実にきれいに映ったのでした。

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ぼんくら家

2013-01-25 05:00:00 | 大阪にて

年を明けてからのこと、何処の何というテレビ番組かは忘れてしまったのですが、『ぼんくら家』というお好み焼きの店を紹介していました。性懲りも無く『ぼんくら』などと言う間抜けた名前を付けた店が難波にも表れたので、通りがかりに寄ってみることにしました。私が自転車でわざわざ行ったのは宗右衛門町のとある店を探すために道頓堀の真ん中に自転車を停めたのでした。難波や梅田、天王寺は自転車を停めるにも駐輪場が造られてあって料金がかかり、せっかく健康のためと経費節約のための一石二鳥を狙って電車に乗らずに赴いているのにと思うと腹が立つ思いです。大阪市が何を考えているのか察しはつきますが、逆に停める所がないという矛盾に突き当たってしまっているのです。

ところでテレビで見たのは『ぼんくら家千日前店』、私は道頓堀に自転車を停めたのでその辺りをウロウロしているとすぐに『ぼんくら家』を見つけたのでした。テレビが無責任なのは知っていますが「ここは千日前と違うで、道頓堀や」店の位置までウソを報道しよると思ったのです。「まぁ勘違いと言うこともあるわ」と思っていたのですが、どうも納得がいきません。このブログを綴るにあたって『ぼんくら屋』を調べてみると・・・ここは道頓堀店、千日前店は別にあったのでした。

ただ、タイトルに取り上げた割には、未だ開店していなかったので、ここのお好み焼きは食べていません。

             

今日書いてみたかったのは、定年を迎えてこれからの生活をどのように迎えるのか、所謂年金について知ったことを述べておこうと思うのです。去年の2月にマイドーム大阪で開かれた退職説明会は、難しい年金制度を短い時間で説明され、何が何だか解らずに帰ったのですが、今ここで年金を受け取るという段になって、そこで貰った教科書をもう一度読み直してみたのです。いったい私は年金をいくら受け取ることが出来るのか?それは今後の生活設計において重大な判断を迫られます。

年金で生活できないなら、せめてアルバイトでもして働かなければなりません。失業保険を貰うために通っていたハローワーク時代とは訳が違います。

                       

昨年末に我が社の企業年金基金・経過措置加算担当という部署から手紙が届き、貰った時は何を書いてあるのか訳が解らなかったのですが、とにかく私が年金を受領する権利が発生した去年の誕生日以降、国が発給する老齢厚生年金が停止された期間(報酬比例部分)があれば報告せよということ、支払われなかった年金額に対して一部を企業年金基金が補填するというものでした。

訳が解らないままに要求された国発行の書類をコピーしに行かなければなりませんが、年金額変更通知書は理由や発行年月日が要るというので、両面をコピーしなければなりません。コンビニに持って行くと両面コピーが出来ないので途方の暮れて、一度は以前の尼崎にある会社に持って行けば誰かが便宜を図ってくれるだろうと思ったのですが、おカネも時間もかかります。なので近所の印刷会社に持って行ったのです。

             

「コピーお願いしたいのですが」と言うと、「そこのコンビニの方が安いで」と面倒臭そうに言う社長らしき人、コンビニでは両面コピーが出来ない云々言うと、「1枚20円、両面は40円」だと言います。両面3枚と、片面2枚分でしたから160円だと思って用意していました。コピーするのに何処かから社員を呼び寄せるその社長らしき人、「コピーなんか簡単なんやから自分でやれよ、なんなら自分がやろか?」と思います。ところが出てきた社員はコピー機と向き合い、快速堂という社名に反して相当な時間を費やしています。見ていると私たちが普段に使っているコピー機とは違い、何かタッチパネルのようなものを触っています。そんなたいそうなコピーを必要としているのではありません。送られてきた案内には縮小でも良いと書かれてあったのですから・・・

5枚をコピーするのに何十分もかかったような気がしていましたが、出てきたのはカラーコピー。社長曰く「カラーは1枚200円要りまんねん」これには呆れますよね。誰がカラーコピーを頼みましたか?私は「カラーなんか要りませんよ」と言ってちょっと反応を覗いました。先に白黒の料金を提示しておいて、頼んでもしていないカラーのものを印刷して高額な価格を要求するという行為は詐欺に相当すると言うものです。でもこの人はそういうことは解っていないよう、会社の社員が間違ったことに、いわば自分の会社が間違ったことに何ら気付いていないのです。「じゃぁ、それは要りませんから、白黒で印刷してください」と言ったら何と答えたでしょう?争いごとを好まない私ですからそのようなことは言っていませんが、先に社長らしき人が「じゃあ300円でいいです」って・・・こんなことですからこの会社は発展することが出来ないのでしょう。

             

ところで国家から支給される年金額、これって興味深いのですが、なかなか理解するのは大変です。退職説明会で話していた講師は私たちが解ろうが解るまいが、一通りの話をこなしただけという態度でした。そしてその当時の私もさして差し迫った問題とは捉えてなかったのです。そうして失業保険の給付が無くなり、そろそろ働かなアカン、でもソフトボールを続けるために土日が休みと言う会社は殆どありませんという状況に追い込まれると、2000万以上あった退職金があるとは言え、今後どうやって暮らしていこうと思うのは当然のことです。

そんな折に昨年の暮れに年金額変更通知書が届き“年金の支払いを停止する理由が無くなったため、年金の支払いを開始しました”という通知が届いたのでした。65歳からしか年金を受け取れないと思っていた私は大きな勘違いをしていたのでした。要するに国家から支払われる老齢厚生年金の一部である報酬比例部分は60歳から支払われるのです。この表に書かれている文字が見えますか、私のように昭和24年4月2日から同28年4月1日生まれの人(今年60歳で定年を迎える人まで)は、老齢年金の報酬比例部分を受け取ることができるのです。そして年々と事態は改悪されていきます。以降は2年毎のスパンで1年づつ報酬比例部分の支払いが伸びていくようになってしまっています。とどのつまりは昭和36年4月2日以降生まれの人は65歳にならないと私が60歳で受け取れた報酬比例部分は受け取れないようにされてしまっています。女性の場合は男性より5歳ほど年上での計算となっています。

             

ただ国家が支払う老齢厚生年金は報酬比例部分の他に定額部分と加算年金額というのがあり、私の場合は65歳にならないと支払われません。因みに私より一ランク上の昭和24年4月1日以前の人は64歳から支給され、これも2年毎に溯る人たちは63歳、62歳と支給開始年齢は低かったのでした。

私が習った時の教科書、改めて読んでみるとこんなことが書かれています。老齢厚生年金の定額部分の支給開始年齢について“昭和24年4月2日以降生まれの男性・・・には支給されません”と、私はこの範疇に入ってしまっています。これは一大事、こんな重要なことを時の講師は何も説明していません。こんなことがあっていいのか、私は今になって強い憤りと深い悲しみに打ちひしがれてしまっているのです。どうかこの教科書の記述が間違っていますように。

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野崎観音 Ⅱ

2013-01-24 05:00:00 | 大阪にて

一昨日、夢の中でブログのことを考えている自分がおかしいと書きましたが、こんなこともありました。夢の中で完全にブログの文章を考えているのです、いや、夢ではなくて寝ているのに考えているのです。はっとして起きてしまうとそこから、なんやかんや、あれやこれやと考えが続いていくので眠れないのです。これは目をつぶっているからなのか・・・目を開けていては、何処までも考えが纏まらないし、考え続けることが苦手な自分ですから、自分ではない私が考えているようなものです。こんなに追い詰められているのかと思うと、ストレスが溜まっているのかと思うようになり、鬱になりはしないかと、そこまでして拘束されたくないなぁと思いだしている今日この頃、この『ぼんくら放浪記』が終焉を迎えるのも時間の問題なのかも知れません。でも追い詰められているのも、ストレスが溜まっているのも、鬱になりはしないかなどは私が思っているだけ、実際にはネタは豊富では無いにしても、困らない現状であり、読んで下さっている後輩共に伝えなくてはならないことも残っています。

                       

境内を拝観し終わったので今度は観音堂の奥にあるという見晴らし台へ行ってみることにしました。西側を展望したのが1枚目の写真です。天候を省けば四條畷神社へ行った時に撮ったものとよく似ていると思います。上に向かってハイキングコースがあり、石造九重層塔があるというのでもう少し登ってみることにすると、何と書いてあるのか分からない句碑であろうと思われる石、調べてみると芭蕉のものらしいのですが、句については何も記されていませんでした。

             

石組のあるこのような所にも出くわし、城の跡のような雰囲気です。1565年に信貴山城主の松永久秀と三好三人衆連合による永禄の変(将軍・足利義満暗殺)での兵禍により本尊を除いて全焼したとありますから、この地でもこの寺の僧兵が寺を守るのに立ちはだかったのかも知れません。

                       

これが石造九重層塔です。慈眼寺のホームページにもこの層塔に及んでいる記事がありますが、そこでは昭和初期に最上層が失われ八層になっていると書かれています。しかしこの塔の前では昭和9年の室戸台風で倒壊、屋根石を失い八層に組み直されたが、昭和59年に地元の中学生二人が屋根石を発見して傍らに置いてあったそうで、平成17年に組み直したとされています。中学生が発見してから組み直すまでに放置した期間の長さも問題ですが、ホームページを作ったのが何時なのか(2008~のざき観音 all right reserved)という記述がありますから、組み直した時の方が早い筈、訂正すると言うより最初から間違った記述をして放置しているのですね。

この層塔ですが、礎石に刻まれた金石文によると“永仁2(1294)年に沙弥八蓮と秦氏によって造立された”とあり、北河内最古の層塔であるという、発見したという中学生は当時14歳だったとしても今や四十代半ば、こんな貴重なものを見つけたのですから、名前を残しておいて欲しいものです。

             

ここから上へとハイキングコースがありましたが、何処に着くのかよく分からなかったし、右側に吊り橋という案内があったのでそちらを選択、こちらも何処へ辿り着くかは分かりませんでしたが、下っていくので遠くには行かないだろうという想像です。案の定、慈眼寺内の墓場からお染久松の塚に到着したのでした。

             

こちらは南西方向、ずっと晴天が続いていたのにこの日はあいにくの曇り空、次の日も晴天だったので、私の行動した日は天気が芳しくないという傾向が正月から出ていますが、去年は雨が多かったので、それよりはマシかと思っています。

こんな風に写っている風景も晴天に写ることが可能になるデジカメがあるらしい。しかしそんな機能が要るものだろうか、曇りは曇り、晴れは晴れでいいではないですかと私は思うのです。決しておカネが無いから強がりを言っているのではありません。

             

慈眼寺の遠景、左から本堂、江口堂、羅漢堂と並んでいます。正月なのに参拝客はあまり居ません。野崎詣りというのは5月初旬の頃のこと、東海林太郎という人が歌った野崎小唄には“野崎詣りは屋形船でまいろ 何処を向いても菜の花ざかり・・・”という詩がよく表しています。直立不動で歌っていた太郎さんを昭和の頃はテレビでちょくちょく見たことがあり、その姿に誠実そうだと思っていたのですが、実は喰わせ者かも知れません。『麦と兵隊』『愛国行進曲』『起源2600年』知らないところでは『戦場初舞台』『軍国舞扇』こんな歌を歌っていたのです。軍の命令か要請かは知りませんし、どのような歌なのかもよく知りませんが、タイトルを見ただけで戦争を美化し戦場に駆り立てるような歌ばかりではありませんか。こんな歌を歌わされるくらいなら歌手など辞めてしまうほどの気概が必要だったのではないでしょうか。

             

5月の野崎詣りのシーズンになると駅からの参道がテキヤで埋まるような賑わいを見せ、サクラは終わっているものの、ツツジやフジの花が咲き乱れるそうです。

境内を回って門を潜り、外へ出ます。駅からのまっすぐな坂道を登り、階段を上がって、私のように小さな階段を上がらずに(南條神社へは向かわず)進むとこの門に辿り着くのです。これが正門なのかどうかは分かりません。もう一つ変わった形の門があったので、その門を観に行きます。

             

途中スイセンの花が咲いており、樫野埼の灯台を思い出しました。

             

これがもう一つの門、慈眼寺には門が二つあり、先のが正門ならこちらは楼門ということになります。ここでも左側通行ですが、私は右側を登りました。上まで行かずに途中で降りてこようと思っていたから。

             

でも結構上まで登らなければなりませんでした。何故なら、何処かに飾ってあった絵にこの門から慈眼寺の本堂が見えるようになっていたから、それを見たかったのですが・・・残念、本堂の全体像は見ることは出来ません。絵は作者のイメージで描くことが出来ますが、写真は見える範囲しか写せません。

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野崎観音 慈眼寺

2013-01-23 05:00:00 | 大阪にて

“野崎詣りは屋形船でまいろ”という詩がありますが、野崎観音が再興されたのが1616年、1682年に野崎参りが始まり、元禄・宝永年間(1688~1710年)に盛んになると、陸路だけではなく、水路を利用したお参りも行き来するようになります。当時の地図はどうであったかは分からないのですが、現在では丁度学研都市線が京橋~放出(はなてん)~徳庵~鴻池新田~住道(すみのどう)~野崎と走っており、線に沿うようにして寝屋川が流れています。つまり京橋の先の天満橋の八軒屋から船に乗って野崎まで船に揺られてきたのでしょう。現在ではJR野崎駅より1km西側を寝屋川が流れています。


西国三十三ヶ所巡りの観音さんを一堂に集めて1回で全て巡れるというずるいと言うか、便利な発想の観音堂を超えて本堂の方へ行くことが出来ます。この写真は正式なルートを辿らなかったので一周してきてから撮ったものです。先に南條神社への階段を登らなければ、先にここから拝観出来たのですが、私のように別段信仰心の無い人間はどちらから巡っても自分では関係無いと思っていますし、お寺の方も順番を守らないといけないとは言わないでしょう。門から入れと言うなら階段を登り詰めた所から、もう一つ小さな階段をわざわざ作るようなことをしなければ良いのです。

             

そもそも野崎観音は居眠り防止のご利益があるとか、何でも西国三十三ヶ所の順番を決める会合で慈眼寺の住職は居眠りをしていたので西国三十三ヶ所の中にも番外にも入れなかったという話が松鶴の得意な落語『野崎詣り』の冒頭で語られます。いやはや何ともユーモラスな発想ですが、天平勝宝年間にインドから来朝した婆羅門僧正が行基に「この地は釈迦が初めて仏法を説いたサールナートに似ている」と語り、行基が白樺で十一面観音を刻んで当地に安置したのが始まりと言われているらしい、そんなウソみたいな話を紹介したのは、私が名古屋に赴任した時に会社から住まわされたのが名東区のサールナートという名のワンルームマンションだったから、ただそれだけの理由です。

でもサールナートって何?「触るなっ!と」言いたいマンションじゃないでしょうから、自分の住むマンションの名前の由来ぐらいは知っておくべきだと思い、調べてみたら釈迦が最初に仏法を説いたところであることが解ったのですが、それをマンション名にしてどうなるのだという思いがありました。ただそこから仏教との縁が生じたのか、このブログを綴るに当たってもよく神社仏閣を訪ね歩いていることにも表れているようです。未だにキリスト教やイスラム教に縁があったことはありません。世界での状況を見るにつけ好戦的な彼の宗教などと比べると、仏教の方が少しはマシかと思ったりもするのです。

             

こちらは仮羅漢堂、昭和26年(私の生まれる前年)山崩れで羅漢堂は壊れたとか、その修復のため募金を募っています。釈迦の16人の弟子(16羅漢)を祀ったもので、当地の戯れ歌に“野崎観音十六羅漢 うちの親父は働かん”と歌われているほど有名なのに、60年も仮のお堂に放置されていたことになります。

             

本堂の右、仮羅漢堂の上にあった江口堂という淀川の対岸・江口の里の長者の娘を祀ったお堂です。こんなお堂は他のお寺にはありません。平安時代末に難病にかかった江口の君がここの観音様にお参りすると治癒したとあり、婦人病にご利益があるとか。

このお堂の前にお染久松の塚があるという立て札があります。

             

矢印に沿って下って行くとありました。碑文には“・・・お染は思い久松の跡を慕うて野崎村・・・観音様にかこつけて逢いにきたやら南やら・・・”とありますが、お染・久松の浄瑠璃を私はよく知りません。

                       

無料休憩所にはお染の文楽人形が置いてありました。何故久松のものが無いのか・・・それが不思議です。

             

江口堂の奥にあった薬師堂、お堂の数はこれで終わりですね。後ろには墓場がありますが、この霊場にはお墓があちらこちらにあります。

             

江口堂と薬師堂の間に合った緑の石の碑『念ずれば 花ひらく』如何にも観念論らしい文句です。

                       

本堂には賓頭慮尊者の像もありました。今まで見てきた賓頭慮像は殆どが真言宗でした。このお寺は参道の途中でも見たように禅寺です。伊丹で見つけた慈眼寺も曹洞宗でした。でもここでは『不許葷酒入山門』の意味を示す文字は見られませんでした。野崎参りではお酒を飲んだ人も参詣しますからですかね。

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野崎詣り

2013-01-22 05:00:00 | 大阪にて

初夢の話など今頃してもずれていると思われますから、初夢の話ではありませんが、正月中に見た夢の話を未だに忘れることが出来ません。いや、どんな夢を見ていたのか中身は忘れてしまったのですが、何故こんな夢を見たのかと自分自身でキツネに抓まれたような気分に陥っています。忘れられないというのは、私がブログを綴ろうと思っていろんなところへ赴く時は、被写体を見て何を書こうと考えながら写真を撮っているのですが、夢の中では何処に行ったのかなどは覚えてないのに、そこで何をどう書こうかとしきりに考えている自分が居るんですね。最近は何時ブログを辞めようかといつも考えているのに、如何にブログに入れ込んでいるか、如何にブログのネタに苦労しているかが窺えると、起きてから自分で呆れてしまったのです。

             

さて、奈良で新年会があった翌週の金曜日、長男が四條畷で串カツを食べようと連絡してきました。新年会の帰りに夕食まで一緒に食べたがってたのですが、私がもう何も食べれない状態だったので帰ることになり、その怨みでもあったのかと思うのですが、同じ四條畷でも長男の家は遠い(運賃も時間もかかる)けど、JRの四條畷は案外近いので誘いに乗ることにしたのです。

             

昔は片町線と呼んでいたJR学研都市線、四條畷駅の手前は野崎という駅です。きっと落語の『野崎詣り』や東海林太郎の『野崎小唄』で有名な所だろうと思っていたので、一度行ってみようと思っていたのでした。野崎駅を降りて、四條畷神社へ行った時と同じように山の方に向かって歩きます。その時とよく似た坂道で、先には同じように階段が見えてきます。野崎観音慈眼禅寺の碑があり、手前の古い石碑には観世音菩薩と彫られています。

ここは四條畷市ではなく大東市、名古屋で一緒だった先輩のK村氏も大東市の野崎に住んでいたなぁ。

                       

お寺への階段は四條畷神社のものより段数が多いなぁと感じました。

             

あまりにも階段が長いので、途中に忠魂碑があったので一休み、最近は昔のように歩かなくなったので足腰も弱くなってきているのでしょう。

             

一応階段を登りきったところで再び小さな階段があり、人声がもっと右側から聞こえていましたが、その階段を登ることにしました。10段ほどの階段なので苦にはなりません。
でもきっとこの階段を登るべきではなかったのかも、そこにあったのは南條神社、鳥居には牛頭天王宮と書かれた神額、この鳥居はかなり古いもののようです。

             

四條畷神社の南にあるから南條神社なのかと思ったりもしましたが、どうやら歴史も四條畷神社よりは古く、江戸期には南條村という村があったようです。

             

小さな階段を登ったのは間違いだったみたいに書きましたが、別段元の所に戻らないといけなかったということではありません。南條神社の横には観音堂があり、本堂へと連なって同じ敷地内です。

             

那智山(青岸渡寺)から谷汲山(華厳寺)まで33の札所の観音様をお祀りしてあるので、ここにお詣りすると33ヶ所全ての観音様を一度に拝むことが出来るのだとか、何とも有難いけど、有難味の無いお堂です。

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江戸三 Ⅱ

2013-01-21 05:00:00 | 大阪にて

江戸三(えどさん)という店は、江戸時代の文化文政の頃より現在の大阪市西区江戸堀3丁目辺りで商いをしていたようで、そこから江戸三という屋号の由来が来ているといいます。私は勤め出してから28年間中之島に勤めていましたから、土佐堀や江戸堀などは職場からは遠くなく、地下鉄で降りる駅も肥後橋だったので何か懐かしいものを感じるのですが、江戸堀3丁目から江戸三と取るのは無理があるように思えて仕方ありません。

この館の創業が明治40年、志賀直哉、小林秀雄、藤田嗣治、小出楢重、堂本印象、池波正太郎等が訪れたとも記されていました。紹介されている6人のうち、最初から3人と最後の人たちは知っていますが、中の二人は全く知らない人、我が国の中でも知らない人の方が多いのではないかと考えると、そう自慢するほどのことでもないではないかと思います。志賀直哉などはほん近くに住んでいたぐらいですから、訪れたとしても不思議ではありません。

             

この館での新年会は料理の他に部屋に飾られている幾つものものに目が奪われ、付加価値が高まります。こちらは上座の上に飾られていた面、どれも古いもののようですが本物かどうか、と言うのは一番右の天狗の鼻のような面には“正倉院御物伎楽面之一 銘東大寺財福神”とあり、真ん中のには“東大寺公物伎楽面 建武二年二月十四日・・・”と見られ、一番左のものには“氷室神社宝物舞○荒序陵王面 南都興福寺北円堂・・・”と記されていますから、そんな大切なものを無防備な館に置いておく筈がないのです。
 
             

    

下座の間には金箔の屏風、西行や小野小町、藤原定家の絵や句が貼られていましたが、裏はどんなものかと見てみるとひどい破れようです。

           

部屋から外の様子を窺がうと、すぐ傍までシカがやってきますし、他の江戸三の館も見ることができます。
  
        

そうです、この江戸三という料理屋は一棟ではなく、広い敷地に数棟の館があり、一つ一つに名前が付いているというもの、最初の写真の私たちが使った館には『八方亭』という名が付いていました。この三連の写真の真ん中が母屋のようです。

                       

江戸三の場所は興福寺の南東、春日大社の一の鳥居の横の脇道を斜めに入ればすぐ、往きはタクシーだったので帰りは歩きました。どうやら春日大社も再来年は遷宮があるようですが、式年造替と名付けられていました。伊勢神宮は20年毎、出雲大社は60年毎でしたから、この春日大社は何年毎かと思ってホームページを見ましたが、造替に係る記事はありませんでした。次回が60回目と言うことは60年に一度ということではありますまい。ここも20年に一度なのでしょうか、でも再来年を平成27年と書くのは早計です。いつ何時今の天皇が崩御するか、誰にも分かりませんものね。西暦で書いておくのが妥当でしょうね。

             

解散するには時間があるので奈良ホテルでコーヒーでも飲もうと言うことになりましたが、私は奈良ホテルが何処にあるのかさえ知りません。順路を間違えてあちらこちらとさまよっている間にこんな案内板のあるところへ来てしまいました。奈良町界隈なのですが、元興寺の名も記されています。“鐘楼に鬼が現れ・・・”とありますから、きっとこちらの元興寺なのでしょう。

                       

途中、興福寺の五重塔の下から、正月なので皆さん春日大社へお詣りするのか、こちらは案外空いていました。

             

やっとの思いで辿り着いた奈良ホテル、もっと大きくて近代的なものかと思っていました。ここのコーヒーを飲もうと言い出したのは誰だ!?飲めるまで1時間近くも待たされた上、1杯1000円以上もするではありませんか。それだけあれば肴一品付きでお酒2合は飲めますよ。

             

帰り道、隣にあった聖ラファエロ教会、もう5時を回っていました。

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江戸三

2013-01-18 05:00:00 | 大阪にて

一昨日の記事で体罰について書きましたが、違う観点でこの報道について思っていることがあります。高校生が体罰を苦に自殺にまで至ったから大々的に報道されているのだろうと思うのですが、自殺する人は年間3万人にも達する我が日本国、その一人一人が何らかの苦悩、絶望を抱いての結果としての死の選択だと思うのです。何もこの高校生だけが苦悩の末に自殺したのではありません。大津市でのいじめによる中学3年生の自殺も大々的に取り上げられていますが、共通するのは両者とも未成年だと言うこと、未成年者が自殺するのと成人が自殺するのとどう違うのか、死を選択しなければならないほど苦しんでいるのはどちらも同じなのではないのか、3万人もいる自殺者についていちいち報道していられない、原因を突き詰めてはいられないのはそうかも知れません、1日平均で約100人もの人が自殺しているのですから。でも1日に約100人もの人が自殺する国家をおかしいと思わないのか、そのことぐらいジャーナリストは考えてみて欲しい、他の自殺者の苦悩とも向き合ってあげて欲しいのです。

             

9日付の拙ブログに『大辺路(和深)』のタイトルでチョコッと載せた新年会、前日までの2日間を飲み過ぎて、この日は食欲も酒欲もほとんどありません。それでも最初から食前酒、切子グラスに入っているのはゆず風味仕立ての梅酒だとか、ジュースみたいでボォっとしている頭には美味しいものでした。

お膳に一人当たりに敷いてある紙、ランチョンマットとは呼ばないのでしょうが、この紙に書いてある詩が大伴家持のもの。“正月立つ 春の初めにかくしつつ 相し笑みてば 時じけめやも”と達筆でしたためてあります。おそらく、正月になった、このめでたい春の初めに、こうして皆が集まって互いに笑い合うのは、まことに時節に相応しいことだと言う意味なのでしょうが、なかなかタイムリーな詩を探し出したものだと感心しています。

    

       

         

           

2時間余りの会に出てきたお料理、これで全てだったとは思いませんが、殆ど撮っています。しんどい筈なのにお酒まで別注してしまいました。これで一人当たり1万円のコース、子供(うちの孫)には別の料理を注文してありました。

             

2時間も経つと中学生になったとはいえ子供は退屈です。そろそろ会計を・・・総額9万を超えてしまいました。いったい幾ら飲んだのか?でも会場の雰囲気といい、古谷魚店のイセエビ鍋より価値のある支払だったと思っています。

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