4年に1度の閏年、この年が私の定年の年であることは4年前から分かっていました。最後の年に1日多く働かなアカンと残念に思っていたのです。42年間の労働者としての生活ですから、閏年は計算上は10回ありそうですが、私は勘定してみると11回、実は来年・再来年に定年を迎える人も11回、10回で済むのは閏年の翌年に入社した人だけなのですね。私は最初は損をしたと思っていたのですが、10回の人だけがラッキーなのです。でもそういう人がいるということは、42年間の労働日で1日少ない差別なのですから、その人の賃金を差し引けとは言いませんが、1日多い人たちに賃金を増やすべきなのではないのかというような細かくて、つまらんことを考えてしまいます。でもやはり通常の2月なら19日しか働かなくてもいいのに、今年は建国記念の日が土曜日に重なってしまったこともあいまって、21日も働かないといけない年でした。最後の年にこんなことになるなんてついてないのですかね。
さて、祓戸王子跡から下山して元来た道を南下すると、10分ほどで藤白神社に到着、時間は9時を少々回った頃でした。電車を降りてから約1時間で来たことになります。
途中に大阪から和歌山へ入る雄ノ山峠を越えて熊野へ参詣する熊野古道を小栗街道とも呼ぶという案内板がありました。不治の病に陥った小栗判官が、照手姫の土車に引かれ、熊野権現の霊験を求めてこの道を通ったからだと伝えられています。小栗判官が熊野大社の手前の湯の峰温泉のつぼ湯で湯治し全快した話はよく耳にします。
雄ノ山峠を越えてきたとありますが、今は阪和道のトンネルが走っています。阪和道が出来る前までは国道26号線を利用していましたので、海寄りの孝子峠を越えていました。
海南駅の方から南へ歩いてきているので、最初にあった鳥居は神社北側のもの、実はこの神社の鳥居は南にもあったし、西側にもありました。でもこの鳥居に出くわして思ったのは、クスノキの巨大さです。
境内には三ヵ所に分かれて大きなクスノキが5本あるそうで、市の重要文化財に指定されています。このクスノキがその5本のうちのどれなのかは、忘れてしまっているのですが、1本の樹のようには見えません。
藤原定家一行はこの藤白王子で数泊し、歌会や相撲などを催しました。王子跡がこの藤白神社であり、県の重要文化財の指定を受けています。
こちらは子守楠神社、子守は籠りとかけられ、後ろにあるクスノキを霊が籠る神木としているそうです。
これが後鳥羽院が藤白王子で詠んだとされる歌碑、“うばたまの よるのにしきを たつたひめ たれみやまきと 一人そめけむ”と書いてあるらしい。
藤白神社の本殿、朱塗りの拝殿も無く、ケバケバしくもないので、さっぱりした造りです。
こちらは藤白王子権現本堂、本殿の奥にありました。
こちらは南奥にあった有間皇子神社、有間皇子は皇極女帝の弟・孝徳天皇の皇子、孝徳帝が崩御した4年後、皇太子であった中大兄皇子は謀略を巡らして、この藤白の地で有間皇子を絞殺します。こういう事実が解ってくると中大兄皇子=天智天皇という人は蘇我入鹿を殺したことと言い、大化の改新を進めたとは言いながら、非常に陰謀・残虐な人であったことが分かってきます。
近くにあった歌碑には、“藤白のみ坂を越ゆと白たへの わが衣手はぬれにけるかも”事件から43年後、持統・文武の時代の行幸の際にお伴の人が有間皇子を偲んで詠んだ歌だということです。
そしてこれはこの歌の歌曲碑、後の人が作曲したものですが、♭が二つ付いていて面倒臭くて唄ってみようとは思いません。何故C調で書かないのか・・・音階が違うだけなのにね。