ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

藤白神社

2012-02-29 05:00:00 | 

4年に1度の閏年、この年が私の定年の年であることは4年前から分かっていました。最後の年に1日多く働かなアカンと残念に思っていたのです。42年間の労働者としての生活ですから、閏年は計算上は10回ありそうですが、私は勘定してみると11回、実は来年・再来年に定年を迎える人も11回、10回で済むのは閏年の翌年に入社した人だけなのですね。私は最初は損をしたと思っていたのですが、10回の人だけがラッキーなのです。でもそういう人がいるということは、42年間の労働日で1日少ない差別なのですから、その人の賃金を差し引けとは言いませんが、1日多い人たちに賃金を増やすべきなのではないのかというような細かくて、つまらんことを考えてしまいます。でもやはり通常の2月なら19日しか働かなくてもいいのに、今年は建国記念の日が土曜日に重なってしまったこともあいまって、21日も働かないといけない年でした。最後の年にこんなことになるなんてついてないのですかね。

さて、祓戸王子跡から下山して元来た道を南下すると、10分ほどで藤白神社に到着、時間は9時を少々回った頃でした。電車を降りてから約1時間で来たことになります。

途中に大阪から和歌山へ入る雄ノ山峠を越えて熊野へ参詣する熊野古道を小栗街道とも呼ぶという案内板がありました。不治の病に陥った小栗判官が、照手姫の土車に引かれ、熊野権現の霊験を求めてこの道を通ったからだと伝えられています。小栗判官が熊野大社の手前の湯の峰温泉のつぼ湯で湯治し全快した話はよく耳にします。

雄ノ山峠を越えてきたとありますが、今は阪和道のトンネルが走っています。阪和道が出来る前までは国道26号線を利用していましたので、海寄りの孝子峠を越えていました。

海南駅の方から南へ歩いてきているので、最初にあった鳥居は神社北側のもの、実はこの神社の鳥居は南にもあったし、西側にもありました。でもこの鳥居に出くわして思ったのは、クスノキの巨大さです。

                       

境内には三ヵ所に分かれて大きなクスノキが5本あるそうで、市の重要文化財に指定されています。このクスノキがその5本のうちのどれなのかは、忘れてしまっているのですが、1本の樹のようには見えません。

             

藤原定家一行はこの藤白王子で数泊し、歌会や相撲などを催しました。王子跡がこの藤白神社であり、県の重要文化財の指定を受けています。

                       

こちらは子守楠神社、子守は籠りとかけられ、後ろにあるクスノキを霊が籠る神木としているそうです。

             

これが後鳥羽院が藤白王子で詠んだとされる歌碑、“うばたまの よるのにしきを たつたひめ たれみやまきと 一人そめけむ”と書いてあるらしい。

             

藤白神社の本殿、朱塗りの拝殿も無く、ケバケバしくもないので、さっぱりした造りです。

             

こちらは藤白王子権現本堂、本殿の奥にありました。

             

こちらは南奥にあった有間皇子神社、有間皇子は皇極女帝の弟・孝徳天皇の皇子、孝徳帝が崩御した4年後、皇太子であった中大兄皇子は謀略を巡らして、この藤白の地で有間皇子を絞殺します。こういう事実が解ってくると中大兄皇子=天智天皇という人は蘇我入鹿を殺したことと言い、大化の改新を進めたとは言いながら、非常に陰謀・残虐な人であったことが分かってきます。

             

近くにあった歌碑には、“藤白のみ坂を越ゆと白たへの わが衣手はぬれにけるかも”事件から43年後、持統・文武の時代の行幸の際にお伴の人が有間皇子を偲んで詠んだ歌だということです。

                          

そしてこれはこの歌の歌曲碑、後の人が作曲したものですが、♭が二つ付いていて面倒臭くて唄ってみようとは思いません。何故C調で書かないのか・・・音階が違うだけなのにね。

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祓戸王子跡 Ⅱ

2012-02-28 05:00:00 | 

祓戸王子跡があったのは山の頂上ではなく、その手前には上へと続く道があったので、もう少し登ってみようと思い、根っこだらけの道を少し歩いたらすぐ頂上の平らなところへ到着することが出来ました。広場は結構広く、丁度サッカーが出来るくらいの広さがあります。

             

その北端に碑が二つ並んで建っており、右側には英霊の碑と書かれた自然石、左側は故先生生徒の霊と刻まれていました。

             

説明が無いので意味が不明ですが、右下に百周年記念改修と書かれた新しい石柱が建っているので、先の戦争で犠牲になったものではなさそうです。この新しい石柱がいつ建てられたのか、それが分かれば100年前にこの海南の地で何があったのかわかるのですが。

             

祓戸王子跡を訪ねてみようと思って歩いて山を登ってきたのですが、広場の南側には車でも来れそうな道が付いていました。

             

北東側にももう一つ舗装された道が付いており、下まで降りようとは思いませんが、何があるのか少し下ってみようと思ったのでした。

             

すると海南の街を眼下にしてズラッと沢山のお地蔵さんが並んでいました。丁度南極のペンギンが同じような方を向いて並んでいるように見えます。

             

お堂が見えたのでお寺があるのでしょうが、下まで行くのは憚られます。お寺があったのだと確認して再び元の道を頂上へ、でも舗装された道路を上ってくると、きっと祓戸王子跡へ降りる道は判らないのではないかと思います。

             

広場から少し王子跡への道を下ったところにも海南の街を一望できるところがありました。そこにもお墓が並んでいますが、先のとは違うお寺のもののようでした。

                       

苔生した山道を歩き続けます。

             

そして竹林の中の小道、如何にも熊野詣をしているという気にさせてくれます。

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祓戸王子跡

2012-02-27 05:00:00 | 

企業年金を預かり、運用することで利益を上げるとう仕事をしているAIJという会社が、なんと2100億円もの預り金を損失させたことが報道されました。今までなら蚊帳の外の話でしたが、これからは年金に頼らざるを得ない(年金を貰うのはまだまだ先の話ですが)生活を送る私としては、何ということをするのだと思わざるを得ません。

年金の運用会社が下手を打ったのはけしからんという話ではありません。資金を運用して利益を出す会社があるということは、その会社自体が資金を運用した利益で成り立っているのであり、更に年金を預けた企業にも利益を還元せねばなりませんから、その儲けは相当なものでなくてはなりません。資本主義で生活している現代では当たり前なのかも知れませんが、私としてはそんなことまでしていただかなくてもいいのです。何故ならそうした利益が年金を頂く個人に帰ってくることはありませんから。更に企業年金基金を払っている者に黙って、勝手にそういう会社に預けるなどもってのほか、銀行に預けておけば、年0,1%の金利でも2000億円なら毎年2億円の利子が付くというもの、それ以上を望むのは足るを知らない欲ボケです。

さて、去年の12月の中旬に『藤原定家の熊野御幸』を読んだ私は日前宮へ行って来ましたが、その後日、今度は五体王子の一つ藤白神社を目指しました。

出勤するのと同じ6時半ごろの地下鉄に乗り、天王寺を6時50分発の紀伊田辺行の電車に乗り込みました。海南までは片道1280円の運賃です。こんなに早い電車に乗っているのに私は座ることが出来ません。満員で押しつ押されつするわけではありませんが、いつもなら地下鉄もJRも座れるのにと思うと、阪和線って混んでるんやなと思ったものでした。和歌山駅で乗り換えなくてもいいから、みんなこの電車に乗るのでしょうか。そうなのかも知れません、海南で降りるまで座れませんでしたから。

             

8時10分ごろに海南駅に到着、紀勢本線の線路沿いの道を南へ歩いて10分、三叉路で祓戸王子跡の案内標識に出会いました。熊野古道と書かれた提灯がここそこに釣られているので道に迷うことはありません。

後の祓戸王子跡の案内板にある三叉路とはここのことでしょう。ここに熊野一の鳥居があったのです。この辺りの地名を鳥居と言います。

             

目指すは藤白神社ですが、先に祓戸王子跡に行ってみようと思いました。まだ8時20分ですから、時間はたっぷりあります。

                       

案内板も見えているので、ここが祓戸王子跡かと思ったのですが、ここは登り口です。案内板にはここから110mと書いてありましたが、もっと歩いたように思います。

             

でも案内板には、祓戸王子は違う場所にあったと地元の人たちは伝えていると書いています。書かれている日限地蔵は、祓戸王子跡よりまだ上へと登って、山頂の広場を向こう側へ下るとあるのですが、またの機会に紹介します。

             

熊野の参詣道らしさを出すためなのか、狭い山道には地蔵像が並びます。

                       

これは地蔵さんではありませんね。ちょっととぼけた像ですが、先祖代々までは読めますが、その後が解りません。

             

約10分で王子跡に到着、考えてみればこんな山の中に王子があるより、日限地蔵の近くの山の麓にあった方が納得できそうです。

             

祓戸王子って何度も聞いたことがあると思っていたら、熊野大社の手前にも同じ名前の王子があるのです。何故同じ名称になったのか、垢離をとるための王子で、ここは熊野街道に入る前、大社の手前でも再度垢離をとったのですね。

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マイドーム大阪

2012-02-24 05:00:00 | 大阪にて

2月3日にあった退職説明会の会場のマイドーム大阪、デサントなどのバーゲンで何度も来たことがありましたが、普段は御堂筋線の本町駅から歩くのですが、この日は会社からだったので中央線に乗り換えて、堺筋本町で降りたのでした。マイドーム大阪へは堺筋本町駅の方が断然近いのですが、会社が用意した地図の地下鉄出口の案内も間違っていて(この間違いには気が付いていた)、随分階段を上って出た道はあまり通ったことのない道でした。でもだいたい感を働かせれば方向は判るというものです。

             

本町側から歩くとマイドーム大阪の手前にあるこの三体の銅像がいつも気になっていましたが、いつもは急いでいるし帰りは荷物も多いので、一番手前は五代友厚だということは薄々感じていましたが、立ち寄っている暇は無かったのです。今回はじっくりと見る時間があり、そうなると隅々まで見て回ろうと思ったのでした。


                       

まず銅像を通り越して階段を上ります。目の前にドカーンと現れたガラス張りの建物は、以前来た時には無かったもの、普通のビルとは容姿が違うし、何だろうと思っても祠より向こうへは行けません。

             

この神社は若宮商工稲荷神社という名前が付いています。商工という名詞が付いているのは、大阪商工会議所(最初の写真)の横にあるからなのでしょう。マイドーム大阪はその大阪商工会議所の中にあります。

             

商工と名が付いているからなのかよく分かりませんが、この神社の狛犬はどちらも口を開けた阿形なのです。

             

一般的に神社にある狛犬も(あれば)仁王像も阿形・吽形の二体で一対になっています。この意味は何なのか・・・商売人でない私にはいくら考えても分かりません。

             

稲荷神社のある高台から堺筋の方向、三体の銅像はこちら側手前から大阪商工会議所10代会頭・稲畑勝太郎、真ん中が7代会頭・土井通夫、一番向こうが五代友厚、それぞれの銅板には戦争最中の物資暢達により軍に没収されたのを再建したことが書かれてており、その人がどういう人であったとか、我々にとって貴重な銅像を没収した軍に対する怒りなどは書かれていません。

五代友厚は天保6年に薩摩で生まれた人ですが、薩英戦争で交渉によってイギリスの捕虜になり、欧州各国を歴訪し日本の遅れを痛感、帰国後は役人として堺事件の調停をしたこともあり、役人を辞任してからは、産業の発展に力を尽くした人でした。この銅像のリレーフには初代の会頭とは書かれていませんでした。

           
                       

講習が終わって、みんなとは逆の北浜方面へ歩きます。先ほどビックリした建物の正体を確かめるためです。次の角を西へ曲がって歩くと、左側に同じような建物が見えてきます。こう見ると建物の屋上にバケツ型のものが二つ並んでいて、非常に不安定に見えます。

             

撮る位置が近過ぎて、全体像が撮れませんが、上に載っかってる部分は円柱形ではなくて楕円形になっています。これなら少しは安定的でしょうか。

             

どうやらこれは日本語で書けば『シティプラザ大阪』というホテルのようです。

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バーボン・ストリート・ブルース

2012-02-23 05:00:00 | 大阪にて

全くニュースにもならなかったんだろうと思っているのですが、7年前の4月16日にこの本の著者である高田渡が亡くなっています。高田渡を知ってる人もあまりいないんでしょうが、私ぐらいの年齢で、若い頃にフォークソングに触れたことのある人なら覚えている方もおられるでしょう。

私より3年前に岐阜で生まれた高田渡は、共産党員であった父親の影響を受けたと思われる行動を小さい頃からとっていますが、歌を唄うようになったころには、例え反戦歌・反権力の歌を唄ったとしても岡林(信康)や高石(友也)のようなストレート表現をするのではなく、皮肉や揶揄を交えながらのささやかな抵抗であったようなことを思い出します。

岐阜で8歳の時に母親と死別し、父親は持っていた広大な土地を保育園を造るために寄付してしまい、渡が13歳の頃に上京します。貧乏な生活の中、中学を卒業してすぐに『あかつき印刷』という新聞を印刷する会社に文選工として入社、3年間続けたその仕事は文章を書くのが好きだった渡には勉強になったようでした。この職場の中でピート・シーガーやウッディ・ガスリーというようなフォークの祖と呼ばれる人のレコードに出会いますが、そうこうしているうちに父親が亡くなり、一旦親戚が住んでいた佐賀の高校に入学しますが、すぐに辞めて東京に戻ってきてしまいます。

             

まぁ、高田渡の人生を語っても仕方がないので、紹介はこの辺りで止めておきますが、1970年に高校を卒業した私は父親の影響もあり(エレキギターを弾いていた、演歌ではあったが)、フォークソングに興味だけは抱いていました。“興味だけ”と強調したのは、実際にはサッカーの方が面白くて、そんな女々しいものには手を出す暇が無かったのです。

1969年から始まった中津川フォークジャンボリーは第3回のフォークジャンボリーで暴徒化した人々の占拠にあって、以降開かれなくなりますが、中津川には当時私も行ってみたいとは思っていたものでした。でも結局は中津川には行けず、大阪の天王寺公園などで開かれていた『春一番』コンサートなどには行ったりしていたものでした。中津川には近年になって名古屋赴任時代に、蕎麦打ち教室に何回か行く機会がありましたが、そこで知り合った人たちを見ているとフォークジャンボリーが開催された土地柄というものはまだまだ残っているんじゃないかと思います。

                       

今は我が家にレコードプレーヤーがありませんから聴くことが出来ませんが、当時買ったレコードはいまだに家に置いてあります。高田渡が参加した武蔵野たんぽぽ団のレコードも2枚あり、何故かレコードと同じCDまで手に入れています。レコードとなればなかなか手には入らないので欲しいと思われる方もおられるでしょうが、もう少し私が持ち続けます。是非必要と言われる方がおられるのでしたら、私が亡くなった後、遺族と相談してください。

             

3枚あるCDのうちの右のものは71年のフォークジャンボリーのライブ、ジャッケトの左は加川良、右は吉田拓郎です。WATARUと書かれたジャケット、パッと見て何故漢字が『涙』なのか解らなかったのですが、『渡』だったのですね。

             

このアルバムの6番目の歌『ホントはみんな』は、平成になってから何処かのシチューのコマーシャルソングになった歌なので、一節だけですが、聞かれことがある人も多いと思います。10番目の『生活の柄』は明治時代の演歌師・山之口獏の詩に高田渡が曲を付けたものですが、デビュー当初から唄っていたのですが、高田渡の歌の中で私はこの曲が一番好きですね。

             

この頃のシンガーに多大な影響を与えたボブ・ディラン、岡林や拓郎も強い影響を受けた歌風に変わっていきました。

             

この本の中には出てきませんが、ウッディ・ガスリーやピート・シーガーよりもっと昔のロバート・ジョンソンのアルバム、今聞いたら何がなんだか解らないかも知れません。

             

さて、最初の写真にあるレコードのジャケットの裏面、本も裏面です。本のタイトルはバーボン・ストリート・ブルースですが、レコードのタイトルはヴァーボン・ストリート・ブルースであり、今ではバーボンのことをヴァーボンとは言いませんよね。

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楢山節考

2012-02-22 05:00:00 | 読書

補陀洛渡海の死と向き合う話ともう一つ、違った形で死と向き合う話が『楢山節考』、補陀洛渡海は信仰上の行為、いわば思想信条上の行為ですが、楢山まいりは口減らし、村の者が生きていく上で70歳になった晩秋には自ら死を覚悟しなければなりません。この話で楢山へまいるのはおりん、信州のとある村という設定で具体的な場所の指定が無いのは補陀洛山寺とは違います。おりんは息子の辰平がもうすぐ楢山まいりがあることは分かっていても口に出さないところを優しい奴と思いながらも、後妻に向こう村から嫁が来たなら楢山へ行くという覚悟が出来ています。この生活上の必要性から自らを処すところは、思想上の身の振り方である金光坊のようなもがき方がありません。それでもおりんの近くに住む銭屋の又やんは同じ年に楢山まいりをせねばならないのに決心がつきません。

             

所詮こういった段になると男の方が弱いってことなのか、それとも気持ちの整理がつかない者は何処にでもいるということなのか。

若い頃にこの『楢山節考』という映画がありましたが、私は見ていないと思います。TVで放映されたのを見たかも知れないのですが覚えていないのです。

他に『月のアペニン山』『東京のプリンスたち』『白鳥の死』の短篇が三篇挿入されています。

                  

この補陀洛渡海記という本の中にも短篇が八篇収録されており、その中に『姥捨』という、この楢山節考とは似ても似つかない話が二~三収録されていますが、場所は篠ノ井線の姥捨駅近辺の山かと書かれています。しかも井上靖の短篇はこの『姥捨』にしてもその話は少しの紹介に過ぎず、小説として訴えたいのは自らの家庭の模様のようなのです。自分の家のことを長々と書いて、よく小説として売れるなぁと思ったものでした。

             

加藤廣の『謎手本忠臣蔵』では、新潮文庫に鞍替えしたのを責めていた私ですが、新潮文庫を買ったせいでYonnda? Clubの応募券がたくさん貯まりました。

             

この表紙の裏に付いているマークを集めると、その枚数に応じて景品を貰うことが出来ます。昔一度応募してこんなトートバッグを貰ったことがありました。

             

今回はこんなジッパー付のブックカバーを貰おうと思っています。色が黒かオレンジ、何処かの大型補強をする嫌いな球団の色に似ていますが、ツートンカラーじゃないので苦になりません。

             

眠っている本を引っ張り出したら、丁度20枚ありました。でも応募してから商品到着まで4ヶ月もかかるんですって。

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串本の民話

2012-02-21 05:00:00 | 田舎

串本から帰った先週の土曜日、久し振りにテレビ番組を見ました。受信料は払わなくてもいいという本田勝一氏の説に従っている我が家ですが、夜の9時から放送のあったNHK、アメリカ・ハーバード大学のマイケル・サンデルとう学者が司会するかなり真剣そうな番組、かいつまんで言えば“この世にお金で買えないものはあるのか”というテーマです。何でもかんでも自由経済に委ねる最近の風潮に対して物を申しているのか、それともそれを推進する御用学者なのか、本屋に並ぶサンデル氏の本を横目で見つつ、その言わんとすることを知りたかったからです。

スタジオにはサンデル氏の他にゲストとして元プロ野球選手の古田敦也、東京都副知事の猪瀬直樹、女優の斉藤慶子、ジャパネット高田の社長、その昔フォーシーズンズというグループが唄ってた歌のタイトルを芸名にしたシェリーという私の知らないタレントが、スタジオのTV画面に映し出されたボストンや東京、上海の大学生と討論するという形式のもの。

まずサンデル氏は古田氏に「あなたは子供たちにサインをねだられたら、気軽に応えていましたか」と当然ながら英語で質問、古田氏は「えぇ」と答えますが、それは私たちにすれば当たり前のことです。しかしサンデル氏はヤンキースで3000本安打を放っているジーター選手の例を挙げ、ある企業からバットとボールにサインをするよう要請され、それらは売りに出されていると紹介し聞く者を唖然とさせます。

議題をすべて覚えているわけではありませんが、テストで成績優秀者に現金で報奨を与える学校や、会費を払ってないと火事になっても消そうとしない消防隊、子供に恵まれない夫婦にこれまでは個人的に人工授精という方法をとって他人の胎内で胎児を育てるという方法がとられてきましたが、インドでは専門に扱う施設が出来ていて、先進国からの利用者が絶えないことなどが紹介され、議論されました。賛否両論、ゲストも学生たちも真剣に考えて発言していましたが、ゲストの中の女性二人はあまり賢くない、賢くないことが悪いと言うのじゃなけれど、他の三人に比べると実生活でも職場でも苦労が為されてないという感が露呈され、言ってる意見に深みを感じられないのです。

私の考えたことを述べると、まず成績優秀者に現金を与える学校では、それを為している校長自身がこれでいいのかと悩んでいたこと、私たちの会社でもとられている評価主義賃金と似ていますが、それを教育現場に取り入れて良いのかということが論議の対象となっていましたが、私はそうではなくて、どんなことにも評価して価値を決めるようなあり方でいいのかと思うのです。会社でもそうなのですが、例えば100という目標に全員が100という達成をしたならどうなるのか、学校ならそのために学生にお金を払えば逆に経営が成り立たなくなるか、それとも授業料の値上げとなり、結局はその元金は親が払っていたことになるし、会社では同じ結果を出している社員に違った(差別した)評価を与えなければならなくなります。

消防隊の問題では民営化の悪いところの最たるものが現れています。現実にはそういった会費を払えない貧乏な人ほど、火事になり易い家に住まざるを得ないわけで、あまねく公正な社会を目指そうとする高度な倫理を持った世界観からかけ離れていってしまうだけ、駆け付けた消防隊が会費を払っている隣の家に燃え移るのを阻止するだけなどということがあってはならないと私は思うのです。

妊娠代行サービス問題では、インドの女性の学生が発言していた意見が印象的でした。妊娠代行などというのは女性に対する侮辱であり、売春と同じだと発言しましたが、私もそのように思っています。バカなシェリーというタレントはそれは全く違うなどと言い、その根拠に妊娠代行サービスは依頼主に喜ばれ感謝されると言いましたが、インドの大学生にあざ笑うかのように応じられ、売春でも同じこと、女性の一部を提供して依頼主に喜ばれ、感謝されることには違いありませんと。

これらの議論は結論付けされることはありませんでしたが、市場万能経済がはびこっている現代では、是非とも考えておかなければならない問題であり、NHKもたまには興味ある放送をするものだと思ったけど、やはり二人の女性のタレントは自由主義経済なるものに対しての知識を持たずして臨んだのではないかと思える節もあり、このような議論の参加には不適格、一人ぐらいは賃金労働者である私たちの代表の意見も発言させてほしいものだと思ったのでした。

ところで標題の串本の民話、何故か最初の写真の写りが黒っぽくなったけど、理由が分かりません。串本に行く度に友人に貰っていたのですが、もう20枚以上貯まりました。話の数にすると随分たくさんありますが、同じタイトルの中での文体の違いや、全体を通しての誤字・脱字が多いし、いったい何を書いてるのか解らん話もありました。

                       

旧の串本町内での話なので現串本町の半分ぐらいの地域の分しかありませんが、話の量は多いですね。旧の古座町には本になった民話集がありました。でも古座の分はこんなにたくさんの話は載ってなかったので、その気になって調べてみれば古座にももっとあるのかも知れません。

樫野や大島、須江、田並、橋杭や有田など既に紹介してきた地域の話もあるし、退職すればこの民話集を基に再度地域を訪れて、このブログの中で書き直しをしてみようかと考えています。

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あらふねリゾート

2012-02-20 05:00:00 | 田舎

本来なら2週間、田舎で釣りでもしてのんびり過ごすはずの予定でしたが、19日にマンションの会議、21日に職場での退職説明会があるので、土曜日に大阪へ帰ってきました。

大阪に帰ると市はエライことになってました。市長が労働組合を敵視するかの如くのアンケート調査を実施しているとのこと、アンケートなら応じる応じないは個人の自由ですが、記名の上必ず実施(ネット上でですが)、応じなければ処分です。正直に書けば処分も軽くなるとか、嘘を書くと処分の対象になるとか、処分をちらつかせた上で、組合活動や政治活動の話をした場所、時刻、相手の名前まで明かすよう要求しています。一応相手の名前までは強要できないでいますが、別項で無記名で相手の名前を書く欄を設けるという徹底ぶり、密告を奨励しているようで、空恐ろしいものを感じます。当の市長が突然このようなアンケートを要求されたら、目を三角にして怒るのではないかとさえ思ってしまいます。

市民の抗議を恐れてか、それとも自責の念があったのか、一応担当の弁護士はこのアンケートを凍結したと発表していますが、いつでも解凍できるのですから一旦集められたものはいつまでも残ります。だいたいそういうことを知りたいと思う市長の感覚が私にはよく理解できません。間違った組合活動があったのなら、そこを正すように当の組合と話し合えば良いのです。このような密告を強要するようなやり方が罷り通っては日本国も暗黒時代へ逆戻りです。

釣りに関してはずっと天気が悪く、金曜日だけ晴れたのですが、道具を出して釣りをして、その日のうちに洗って乾かして片付けないといけないと思うと、とうとう一度も行かずじまいでした。釣り道具は持たずにちょっとだけ大島の波止場へ足を運びましたが、4人の釣り人が来ていて、相変われずアジは釣れているようです。

             

串本のあちらこちらで田原の『あらふねリゾート』の貼り紙が見られ、日帰り入浴も300円、昼の1時過ぎから入浴できるというので、金曜日の3時過ぎに行ってみました。3時だとまだ来ている人もおらんだろうと思っていたのに、もう先客が4人も来ていました。なので写真は撮れません。大浴場と書かれていましたが、洗い場は7つだけ、浴槽はと言えば5人も浸かるといっぱいという感じです。でも脱衣場のカゴは15個もありました。

廊下には古座の人が撮った海霧の写真が並んでいました。今は海霧が見られる季節です。でもこの寒いのに早くから起きて海霧を観に行こうとは思いません。

             

姫の家からなら月野瀬温泉のぼたん荘へ行くのと、田原のこの国民宿舎へ行くのとでは対して時間は変わりません。

宿舎の前の浜から南西方向を眺めると大島や潮岬まで見通せます。

                       

姫の家の前の道は少しづつ工事が進んで、鉄筋が切り取られて危なくなくなっていました。この溝にもコンクリートを流し入れるそうですから、道幅は7~80cm広くなります。

             

トラクターが降りれるような坂も造っているようでした。

18日は8時過ぎに姫の家を出ました。田辺まで1時間強で着きましたが、突然雪が降ってきました。積もるような雪ではありませんが、郵便橋まで来て富田川の上流方向(運転席から右)、北東の方を見ると、ずっと奥の高い山の頂上付近に白いベールがかかるように雪が積もっていました。どの辺りの山になるのか全然分かりません。

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謎手本忠臣蔵

2012-02-17 05:00:00 | 読書

2008年の10月に『信長の棺』、2009年の7月に『秀吉の伽』、2010年の10月に『明智左馬助の恋』という加藤廣の戦国三部作を読みました。やはり最初の『信長の棺』が相当面白かったのが、この人の本を毎年一話づつ読み続けてきた要因なのでしょう。前三部作は文春文庫でしたが、今回の『謎手本忠臣蔵』『空白の桶狭間』は新潮文庫、どのような心の変化が加藤廣氏にあったのか分かりませんが、出版業界の詳細など知らない私にとっては、そのような変節と言っても過言ではない出版社の選択・変遷は快いものではありません。何も文春文庫が良くて、新潮文庫は悪いなどと言っているのではありません。電車の吊り広告に見る『週刊文春』も『週刊新潮』もマスコミの風上にもおけない体たらく、日本の将来に責任を持とうとしない記事など読みたくもありません。

文庫本にして出版するのは例えば講談社文庫でも冬幻舎文庫でも中公文庫でも似たり寄ったり、それは何処でもいいと思うのですが、氏が『信長の棺』でデビューした時にお世話になった出版社から突然何故変わったのか、読者としてはそこが知りたいわけです。氏が書いてこられた信長にしても秀吉にしても光秀にしても、過去に多くの作家が独自の調査と直感で多彩な作品を生んでいますが、氏は全く新しい構発想でこの3人に迫ったと思っています。全く新しい視点で歴史を解釈しようとする態度は称賛に値すると思いますが、出版社を裏切ってしまっては(裏切りではないかも知れない)、氏の根本に持っている考え方自体が信用できません。政治家でもあっちに行ったり、こっちに来たり、新しい党が出来ると参加してみたりと、コロコロ変わる人がいるけど、そういう人って初めからどのような考え方をしていたのかと思うと、全く信用ができないのです。

                      

話はとんでもないところに飛躍してしまいましたが、忠臣蔵をどのように捉えるのかという命題は、古今東西からいろんな小説や映画やドラマになって来ました。江戸城・松の廊下での刃傷沙汰から赤穂城主・浅野内匠頭長矩の即日切腹、赤穂城明け渡しから、大石内蔵助の放蕩、そして1年9カ月後の決起、泉岳寺までの行進と大凡の筋書きは殆どれもこれも同じようなもの、何処に力点を置くのかで多少の違いが出てきますが、内匠頭の短慮、精神障害等、吉良上野介義央の意地悪さ・金に対する汚さを指摘する話が多い中で、逆に上野介を弁護する話まで登場したりしています。今回のこの『謎手本忠臣蔵』は、内匠頭が何故吉良に切りつけたのか、その謎を巡って柳沢吉保、大石内蔵助双方が夫々に思案を傾けるという設定になっています。そのキーになるのが綱吉の母・桂昌院の従一位昇階に絡む問題と、家康が関ヶ原の闘いで福島正則に与えた“神君の密書”の行方、これを内匠頭が知っていたという構想になっていますが、内匠頭は死ぬまでそのことを口にはしませんでした。

従来、悪い評価が絶えなかった将軍綱吉と柳沢吉保も、今回は思慮深い好人物に描かれています。

討ち入りのあった元禄15年12月15日未明、当時は夜が明けるまで前日でしたから14日なのですが、今の暦では1703年の1月30日にあたります。なんと250年(正確には249年)も年は経ていますが、私の誕生日と同じ日でした。

             

『空白の桶狭間』は去年の10月に発行されたもの、既に去年のうちに読んでしまっていましたが、感想を書くのをサボっていました。というより感想と言うほどの感想が無いのです。信長がどのようにして二万を超える大軍を擁する今川義元を討ち取ったのか、そこに加藤氏がつけ入ろうとする謎がありますが、話自体は『信長の棺』を踏襲したもの、秀吉は元々丹波の“山の衆”であり、この戦いに“山の衆”の協力が無かったなら勝利することすら出来なかったことになったという筋書きです。

             

『秀吉の伽』の感想でも述べたのですが、どうもストーリーが『信長の棺』に比べて単調なのです。粗筋だけを追っている感じがしてなりません。

そして『秀吉の伽』で期待した家康の話が未だ書かれていません。家康には謎が少ないというわけでしょうか。家康の時代から100年飛んで元禄、『謎手本忠臣蔵』になってしまいました。

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工事中

2012-02-16 05:00:00 | 田舎

長く降り続いた雨も漸く止み、今朝は道が乾いています。釣りには行きたいけど、今日はせっかく雨も上がったのに古谷のオッサンを新宮まで乗せてやらないといけないので釣りは出来ません。明日は天気も良さそうですが、明後日には帰ろうと思っているので、1日だけのために竿を出したり洗ったりするのが面倒です。どうやらこの2月は釣りが出来そうにありません。

先月、姫の家に来た時、家の前の狭い道が通行止めになっていました。いつも通り海林寺の方から入って行ったのですが、通行止めと書かれていても、降りて見るのも面倒臭いし、どうせずっと奥の姫川の集落の方かなと思っていたら、当に家の前辺りの工事に取り掛かっていました。

いつも停めているスペースは12月から土砂が置かれて停められないので、家の近くまで行って荷物だけ降ろそうと思っていたら、未だ工事は始まってなかったけど、測量の最中で道にいっぱい材木などを取り付けていて、あの曲がりくねった細い道をバックで戻るわけにもいかず、かといって方向転換することも出来ないので、一時は難儀したものでした。

             

これは先月の帰る間際の写真、天気は上場ですが、今回は曇りや雨ばかり、道路を広くするらしいのですが、かなり田んぼ側まで掘り込んでいます。先月は2週間いましたので殆ど最初から工事を見ていましたが、3人ぐらいでやっているので、なかなか進みません。

                       

道路とは全く関係のない所まで掘っているように見えますが、ここは元来田んぼに水を入れる溝があったんです。

                       

今月来たらこのようになっていました。ジュースやコーヒーの空き缶を被せてあるのは鉄筋、何のためのものか私には分かりませんが、そのままにはしておかないでしょう、危なくて仕方ありません。道と溝の間に幅20cmほどの溝が放置されていますが、どうするつもりなのか?鉄筋といい溝といい、意図がよく解りませんが、田んぼの際まで拡幅されるなら道はかなり広くなります。今の私の車でも簡単に出し入れできそうです。でも田植えの季節になったらトラクターが出入りできるのか、それが人ごとながら心配です。

以前は前の道が狭いので、車を出すのに苦労していましたから、別の所に車を停めていました。

             

このブログを読んでいただいている方で、実際に姫の家の前の道を知っている人は少ないと思いますが、これから初めて来られる方もこれなら安心です。でも旧道からの入り口で往生するかも知れません。

             

あのカーブも少し広げられるようです。でもこの先にも狭い道があるのですが、工事はたぶんここまで、まだ後1ヶ月も工期が残っていますが、悠長な進展具合です。

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