昨日、才助は人の名前かという疑問を抱きましたが、朝鮮半島が高麗という名の国であった頃の第四代の太宗である成宗は992年に、初めて中央の最高学府としての国子監の創建を決定しています。同時に教書の中で“・・・学ぶに設備がなく、才を助けるにも詳しく研究されていない・・・”という件があり、ひょっとしたら名前の出自はこんなところなのかとも思ったのも、この滝を訪れた一つの要因です。でも平安時代の紀伊の田並と当時高麗の首都であった開城(北朝鮮の南端)には何の関係も脈絡もありそうにありません。
才助の滝はお堂を真ん中にして左右に滝があることはパンフレットで読んで知っていました。でもどんな風になっているのかは載っていませんでした。来てみて確かに祠を中心に左右の滝を撮るのは難しい。こう見ると確かに左右の滝は写っていますが、中央にあるはずの祠は見えません。
こちらが左側の雄滝、滝頂部の水は結構勢い良く落下しているし、この辺の有田の吐生の滝や和深の大滝よりは規模が大きい。
水が勢い良く落下している割には滝壺は浅いですね。すぐに田並川へと流れていくのでしょう。
雄滝からお堂の方へと木の橋が架けられていました。この橋が無ければ幅こそありませんが、川に降りて適当な石を見つけて足場を固めて渡らねばなりません。でも橋の端の木は朽ちかけていますよね。
これがお堂、山奥にある割にはみすぼらしくはありません。田並の村の人たちが材料を運んで建てたのでしょう。
お堂の右にあった石碑、南無妙法蓮華経と刻まれています。滝という自然の前なので神さんを祀ってあるのかと思ったけど、信仰の対象は日蓮さんだったのか、わざわざ往復10kmの道のりを歩いて辿り着いたら、仏教の単なる一宗派に過ぎない日蓮宗を崇める場所だったなんて、がっかりです。日蓮宗がどんなに立派な宗派であったとしても、この島国の古に住んだ人々が生きるために崇め奉ってきた自然崇拝でいいんじゃないのか、大自然の中ではそんなことまで思いもよらなかったけど、これを書いていて何だか腹が立ってきました。
私などは仏教が何を言わんとしているのかを知りたいとは思ってる程度で、神道に対しては庶民を苦しめたあの戦争のバックボーンであり全くもってけしからんと思っている信仰心の無い人間ですが、もし何かの縁でこの滝に遊びに来た信仰心の厚い人があの妙法蓮華教の碑を見たなら、唖然とするだろうし、戸惑ってしまうのではないかと思うのです。
まぁ重畳山に登ったら真言宗の神王寺があるのと同じようなことなのかも知れませんが、どうも空海だとそんなに腹が立たないんですね。
パンフレットに書かれていた『荒行場』の字が刻まれた石、苔生して古そうですが、彫り跡が鋭いのと、右の書人の名前が甲骨文字風なので、そんなに古いものではないと思います。甲骨文字が発見されたのが19世紀の末であり、日本国の庶民がそれを知るのはずっと後のこと、だからパンフレットにこの石の存在を根拠にして“昔から修験者の行場になっていた”とあるのは嘘っぽいような気がします。
石に何かを彫って置いておくというのはまぁいいとして、樹の幹に名前を彫るなんてしょうも無いことをする輩がいるものです。池田純という字が読み取れますが、いったいどんな人間なのか、きっと全国には何人もの池田純さんがいらっしゃるのでしょうし、私じゃないと思ってる池田純さんにとっては迷惑な話ですね。
雌滝の滝頂部、雄滝ほど水は落下していません。
あれっぽっちの水ではこの岩を伝ってるうちに何処かへ消えてしまうのか、雌滝の下には滝壺は見られませんでした。
この草は何という名前でしょうか。お堂の横にたくさん生えていました。先が折れ曲がって立っているのでミーアキャットが立ち並んでいるようにも見えます。折れ曲がった葉の中にホトケさんを鎮座させたいような形にも見えます。
最後の植物はテンナンショウの仲間のウラシマソウではないですか?仏炎苞(ぶつえんほう)のさきに長い紐のようなものが出てたら浦島太郎の釣り糸に見立てた和名の由来だとか。「平成ぼんくら草」としてもいいかもね。
見えてる石碑の字は凹さんが書いてある通りです。もう一つ右下にもあるでしょう。全部で四つだったと思います(妙法蓮華経のは入れないで)。何を書いてあったのか解らない案内板は、いくら何でもそんなことまで考えてのことではないでしょう。
ところで、PCはノート型でしたか?デスクトップならキーボードだけを買い換えれば済むことですが、ノートなら修理に出すか、寿命と思ったら買い替えですね。でも変換キーだけが戻りにくいなら、スペースキーでも変換することが出来るので、そちらを使えばいいと思いますよ。
凹と名づけて凹み続きなら、また改名されますか?あんまり頻繁に変えるのも節操がなさそうで嫌でしょ。そのままでも、またいいこともありますよ。
ナンテンショウではなく『テンナンショウ』です。
才助のネーミングの由来は分かりませんが、高麗の首都開城とは関係ないと、私も思いますよ。現在の田並上地区は、江戸時代は「田並上村」と云う一つの独立した村で、古い文書によりますと、田並上村庄屋に有木才助という名が出てきます。(串本町史)但しこの年代は、明治三年となっていて、太古の昔から有る瀧の名前とは関係の無い人だと考えられます。然し、人名が瀧の名の由来だと考えるのが自然ではないかと私は思います。
串本町史にはこの田並の奥の滝は出てこないのでしょうか?それが才助の滝という名前でなくてもいいのです。才助の滝と名付けられたのがいつ頃か分かってくれば、その庄屋さんの名前から付けられた可能性も出てきますね。
いつか風吹山への道程を教えてください。地図を見ても分からないのです。
泉南から岩出へ抜ける山道、根来寺の手前に風吹峠というところがあり、司馬遼太郎の『尻啖え孫一』の中にも出てきます。
言われていると聞いています。資料ではで出てこないと思いますよ
それと畠山しげただの家族が鎌倉を追われて和歌山まで
逃げ延びたと末裔が語っています。(田並と関係ないですね)
畠山重忠の末裔が田並に住んでいるとなると、田並は確実に平安時代後期から人が住んでいたということになりますね。
いろんな情報を頂いて、ねこさんありがとう。
思えば30年も前に上地の地区の長をしていた人から
母と共々聞きました。。今ここでは控えますが、ある家が落人で最初に住み出したとききましたよ。。
30年、いや50年前。。。でした。。
笑ってしまいます。。自分の年の経った事を忘れて。。