ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

沈んでいた船

2013-09-30 05:00:00 | 田舎

NHKの朝ドラ『あまちゃん』の放送が終了しました。最初は海の話だったので興味も有ってずっと見ていたら、次に次にと見てしまうようになり、だんだん面白く無くなって来たけどずっと見ていました。連ドラを見続ける人の心理ってこんなものなのでしょうが、見続けると言うことは時間の制限を受けることであって、朝のスタートが遅くなってしまうので、もう次の朝ドラからは見ないようにしようと思います。

だいたい串本に居ると連ドラの時間に役場からの放送が始まり、どちらも気になるし、どっちも聞こえないような状態になることを役場の人は知っているのか?8時なんて未だ役場の始業時間ではないのではないかと思っていましたが(これからはそんな心配も無いのでしょうが)、町役場はそんなことを腹立たしいと思っている町民が居ることを知っておくべきでしょう。役場が放送してやってるのだから、こっちを優先して聞けというのは上から目線であり、町民の生活を考えようとしない考え方であり、主権はどちらにあるのかと問うてみたいものです。町民も決して役場の放送を軽視しているのではなく、気にはかけているのです。町からの広報なども届かない我が家では、町政が何をしようとしているのかは、町内放送でしか確認できないのです。

今月は2週間前の17日に大阪を発ち、串本にやってきました。台風18号が串本町内で竜巻を引き起こし、田並、串本、旧古座町の西向で被害が発生した後の出発でした。田並での被害はよく見ていませんが、串本の街ではプロパンガスを充填して貰っている店のシャッターがめくれあがり、西向では古座大橋の手前の信号辺りの民家の屋根に被害が出ていました。

             

朝ドラを見てからという制約があり、この頃は大阪を発つ時間が遅くなっていました。今回も大阪を出たのが11時、所々寄ったりするので串本に着くのは3時を回ります。台風で船の被害はどうだったのか、港へ寄るには遅くはありませんが、翌朝行っても事態は変わらないだろうと思って家へ急いだのでした。

翌朝、いつもと同じように車で岸壁の上を走って行ったのですが、途中から道が塞がっているのが分かってきたのです。

             

車の回転場所の向こう側で船が道を塞いでしまっています。「ここから先は危険 入るな」という串本町設置の看板、そんなことを守らなければならないのなら、その先に繋留されている船まで行くことが出来ません。逆にこれより先に繋留してしまった船から降りた人も家に帰ることが出来ないではないですか。どうも串本町の設置する看板は姫の家の前の道といい、この看板といい生活実態に合わないことを書いていて私を困らせます。実際には守れないことを書いているのです。設置した職員にはそういう意識があるのか、これでは町の指示していることは守らなくてもいいことになってしまいます。せめて注意を喚起するような表現にすれば良いと思うのです。

       

これは前回元の岸壁に繋留した時に沈んでいたプレジャーボートですね。小さいボートかと思っていたのですが、引き揚げてみると大きな船です。沈んでいるのを見つけたのは先月のことですが、随分前から使ってないらしく、船底には貝がびっしり、スクリューにも貝が巻きついていて、これでは走れません。一度沈没しているのでもう使えないのでしょうが、いつまでここに置いておくつもりなのか、近寄ると悪臭も漂っているのです。これより先に留めてある船には大きなものを運ぶことが出来ません。誰が引き揚げたのか(町なのか、漁協なのか、船主なのか)を知る由もありませんが、こんな状態で放っておくなら、引き揚げなかった方がマシというものです。

             

台風18号の影響のせいか、風が強く、海水は緑色に濁っていて、波も少し高く、素人の私には独りでは到底船を出す気にはなれませんでした。この日台風19号も発生しましたが、日本国土には直接の影響が無かったものの、海は繋がっていますから、なかなか波も濁りも収まりません。その後先週末には20号が発生し、遠い海上にあるのに大きな波が打ち寄せてくるようになったのでした。

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琵琶湖疏水記念館

2013-09-27 05:00:00 | 大阪にて

南禅寺の境内を散策し終えたのが3時半ごろ、コンサートまではまだまだ時間がありますが、もう足がダルイ、また一休みしたくなりますが、国際交流会館で休憩するのも「イマイチやなぁ」と思いながら南禅寺前の交差点まで戻って来ました。南禅寺前の交差点と国際交流会館との間には橋が掛かっており、橋の上からは水ではなく線路が見えるので、電線が無いので電車が走っているわけでも無く、線路には草が群がって生えているので「廃線跡やなぁ」とは分かったのですが、何のための線路なのか別に深くも考えずに歩いていました。

             

橋の上に立つと右の景色があれば、左の景色も有るわけで、反対側はどうなっているのかと、戻って来た時は反対側の歩道を歩いたのでした。

             

見ると、そう遠くないところの池に噴水が音をたてて噴出しています。よく見ると川原に降りられるように階段も造られていたので、重い足をひきずって、降りてみることにしました。

       

降りてみると線路はここまで、何と中途半端な・・・駅があった様子もありません。池に近づいて行くと、水草が繁殖しています。あの琵琶湖の生態系を脅かしている水草が覆っているのでしょうか。岸の反対側に渡って池を見ると、それは池ではなく運河のようになっていたのでした。 

                       

運河の水はこの排出口から勢いよく流れ出しているのです。後で分かったのですが、これが琵琶湖疏水です。琵琶湖疏水は首都が東京に移り、寂れかけた京都を復興するため、水車動力・舟運・灌漑・防火・井泉・衛生などを勘案し、明治18年に着工されたのでした。5年の年月をかけて完成した疏水は取水口から鴨川落合まで11,1km、就労者数四百万人、125万円有余という莫大な資金を費やしたものでした。今の125万円なら私でも持っていますが、当時としては相当な額、1円が1万円と換算すれば125億円ということになります。

       

鴨川落合という所が何処なのか私には見当も付きませんが、運河は聖護院寺内町辺りで鴨川に合流しています。

排出口のすぐ横には機械らしきものを展示してあるスペースが有り、入っていくと右の写真が水車、日本のあちらこちらで見かける木製のものとは違い、あくまで機械という感じを受けます。真ん中の写真は発電機、疏水建設中に渡米視察した技師らは、水力発電に利用できると考え、利用方法に発電を加えたのでした。

発電に利用したお陰で京都には電灯が点り、市電が走るなど京都の発展に大きく寄与したと言われます。ここでインクラインという言葉があちらこちらの案内板に頻繁に出てくるのですが、どうも意味がよく飲み込めません。インクのラインなのか、インとクラインの造語なのか、インクラとインの造語なのかと外国語に詳しくない私はいろいろと考えてしまったのでした。

       

インクラインとは荷物用のケーブルカーのことだそうで、ここ蹴上にあるのは高低差のある水路で船を往復させるため、蹴上~南禅寺船溜りまでの傾斜区間に軌道を敷き、船を載せる台車をワイヤーで引っ張ったものということが解りました。つまりインクラインとはinclineであり、動詞の傾斜させる、名詞の傾斜・勾配という意味だったのです。

どうやら私は琵琶湖疏水記念館に裏から入ってしまったようで、時間が経つにつれて表へ表へと歩きますが、来館者が少ないので何の抵抗もありません。疲れたので途中疎水についてのビデオを流していたので、座って見ながら休憩しました。

             

疏水記念館で40分ほど費やし、国際交流会館へと戻りますが、橋の袂にあったお地蔵さんの祠をパチリ、南禅寺や哲学の道、蹴上や山科への道標もあります。

             

交流会館まで戻ったのに、目的のコンサートを観ずに帰ったのは前述のとおりですが、蹴上から地下鉄に乗ろうか、三条まで歩こうかとまたまた悩みましたが、結局お金が勿体ないので歩くことにしました。蹴上の交差点まで戻り、三条通りへ出ます。来た時は何か判らなかったこれはインクラインで使われた『船受枠』と呼ばれた台車です。木製の舟も載せられています。

             

これは関西電力の蹴上発電所、中に入れないのでよく解らないし、使われているのかも判断できませんが、日本最初だった水力発電所なのかも知れません。

平安神宮の大鳥居や知恩院への参道を左右に見ながら一路京阪三条へ歩きます。大阪へ戻るには蹴上からなら京阪電車が一番近いのですが、特急に乗っても1時間かかります。JRなら35分、この違いは疲れた体には大きい、三条駅自体終点=始点ではないので、座れなかったのが余計に時間がかかっているように感じられるのです。

忘れていました、トップの写真は川原への降り口手前にあった『巨大な輝き』と称するモニュメント、水門を開ける力強い男と溢れ出る命の水、琵琶湖からの永遠の恵みに感謝する意味があるそうです。美浜・高浜・大飯原発から至近距離にある琵琶湖、果たして永遠の恵みとして存在し続けることが出来るのでしょうか。

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南禅寺

2013-09-26 05:00:00 | 大阪にて

京都市国際交流会館で40分ほど休憩して、南禅寺へ行ってみることに、若いころに1度や2度は訪れていると思うのですが、どんなお寺だったのかどうも思い出せません。界隈で湯豆腐を食べたことがあったのですが、どんな味だったかも忘れてしまっていて、べらぼうに高かったことだけは覚えています。ですから“おじん合唱団”の開演前に夕食を済ませたかったのですが、近くにあるのは湯豆腐を食べさせる店ばかり、どうしてもここで湯豆腐を食べようとは思わなかったのです。

             

南禅寺前の交差点を渡り、参道を歩きます。写真には人があまり写ってはいませんが、平日の火曜日だというのに結構観光客が歩いています。御陵から蹴上への道は歩いている人などはおらず、大違いでした。

             

左手に道路を隔てて神社の祠らしきものがありましたが、わざわざ行ってみる興味が湧いてきません。手前の碑には“歴史的風土特別保存地区”と書かれ、案内板には「バスの通行に支障があるので、この付近に駐車しないでください」と恰も周りにある有料駐車場に入れさせるようなことが書かれていました。この周りの駐車場は2時間以内1000円という設定、私が南禅寺の境内に居た30分程度でも1000円ですから、高いとしか言いようがありません。

             

南禅寺の入口になる中門、左にある立派な門は勅使門です。どうせなら勅使門から入りたいものです。中門から入ると南禅寺の中心である三門や法堂の正面には行かないのです。

             

南禅寺では三門と呼んでいるようですが、一般的に山門と言われる寺院を代表する門です。南禅寺が三門と呼ぶのは仏道修行で悟りに至るために通過しなければならない三つの門(空、無相、無作)の解脱門を略した表現だそうです。私は門を潜っただけですが、上層の五鳳楼に上がるにはお金が要るようです。

             

南禅寺の三門は別名『天下竜門』とも呼ばれ、日本三大門の一つに数えられているとか、後の二門は何処にあるのでしょうね。

       

三門を潜ると正面に法堂(最初の写真)、左の写真が法堂の方から見た三門、真ん中は青空に映える屋根、右は法堂の右側の様子、外国の女の人が石段に座ってずっと本を読んでいました。この法堂、創建当時のものは応仁の乱で焼失、すぐに再建されますが、豊臣秀頼の寄進により大改築され、明治26年の大火で焼失してしまいます。明治42年再建のものが現在のものなのでそんなに古い建物ではありません。

             

赤レンガで造られたアーチ型の橋は、この上を琵琶湖からの疏水が流れています。南禅寺ではこの水道橋が古刹になじんでいると言いますが、私にはどうしてもアンマッチに見えるのですが・・・

             

境内にはモミジかカエデか、紅葉の美しい木が多く、まだまだ紅葉には至っていませんが、1本だけ赤くなりかけている木がありました。水道橋の奥へ歩くと亀山法皇ゆかりの南禅院があるのですが、興味が無かったので行きませんでした。

                       

傍には疎水から引いた水ではないのでしょうが、滝のようなものを拵えていました。こちらの方が古刹には似合うと思います。

               

左の写真が本坊、ここから方丈へと入っていくのですが、入場料を払わなければならないので私はパス、入ってみる価値はありそうですが、隣の大玄関だけ写して帰路に就きました。

             

置かれてそう年月も経ってないような石碑、“この門を入れば涼風おのづから”と彫られています。作者の杉洞って誰でしょう?

この碑から戻っていく道と交差する道があり、そこには『哲学の道』との標識がありました。その道を辿れば地図上では鹿ケ谷通りとあり、平家物語を思い起こす名前に出会います。後白河一派が平氏打倒を企てたという鹿ケ谷の陰謀はこの近くで練られたのです。でも当時はまだ南禅寺は存在しません。

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御陵から蹴上

2013-09-25 05:00:00 | 大阪にて

一五夜の月も20日に過ぎ去ったのですが、この三日月の写真は京都へ行く前夜9日のもの、夕方7時前です。6月7月なら未だ明るかった7時前も今はもう真っ暗、春分の日が近づくとウキウキした気分になり、秋分の日が近づくと寂しいような気分になってしまいます。寒さが身に凍みるわけではありませんが日照時間が短い冬より、暑くてもいつまでも明るい夏の方が楽しそうで好きです。

             


三日月の斜め下に宵の明星・金星が見えていました。ニュース番組を見ていると東の空に見えていますと言うので、確認したのですが、実は月の斜め上には土星も見えているというのですが、私の目には見えませんでした。勿論、カメラも土星を捉えることは出来ませんでした。

             

さて本題、天智天皇陵を出て蹴上を目指すのですが、地下鉄に乗って戻ろうか、歩いて行こうかと迷ったのですが、三条から東西線に乗る際に1日乗り放題切符(600円)があるのを知らずに切符を買ってしまったので、一駅分だけ地下鉄に乗るのは勿体なく思い、歩くことにしたのです。途中何か見るべきものも有るだろうと思ったことも歩くことに決めた要因の一つですし、京都の地下鉄東西線が何処まで掘ったのかと思うほど、階段が長いのに下りのエスカレーターが無いのも要因だったのですが、働いていた頃と違って、最近はめっきり歩かなくなった自分の体力がこんなに落ちてしまっていると感じさせられたのでした。

                       

地下鉄東西線は京阪三条~東山~蹴上~御陵と駅を辿るのですが、蹴上~御陵間が最も長くて、地図では三条通りとだけ書かれてあったのに、高くは有りませんが一山越えなければならなかったのです。この坂を登っていくのに疲れてしまいました。天智天皇陵から15分ほど歩くとこの大きな碑、“南無阿弥陀仏”と彫ってあります。

             

謂れはこのガムテープで補修した案内板の通りで、興味深い話はたぶんこの写真で読めると思います。木喰遺跡①と書いてありますから、きっと他にもあるのでしょう。でも京都に住んでいるわけではないので、土地柄のことはよく解らないし、探そうと言う気分にもなれません。

               

同じ一画に今度は“南無妙法蓮華経”の碑、宗派が違うというか、念仏や題目が違っても同じ区画に建てられているのが面白いと思ったのです。ここの案内板にも粟田口処刑場がここ九条山付近にあったと記されています。桓武天皇が京都に遷都して以来、明治に至る間にここ粟田口の刑場で15000人を処刑したとあり、各宗派で被処刑者1000人に一基の割合で15の供養塔を建てられていたと言いますが、木喰遺跡と同じように明治の廃仏毀釈で取り壊され、石垣や道路等いろんな工事に転用されたとあります。

                       

木喰遺跡も日蓮も蹴上に向かって三条通りの右側にあったのですが、丁度信号があったので近くに行くことが出来ました。反対側の歩道は山の影が出来ていて少しは涼しいのでそちらを登っていたのですが、少し登ると今度も反対側に細長い碑があったのですが、近くには信号が無いので近寄れません。望遠で撮ると“紀念 京津国道改良工事 昭和8年3月竣功”と彫られていました。竣功は今なら竣工と書くでしょうし、工事が完成したのですから、紀念は記念と彫るべきでしょう。何故紀州の紀を使ったのか、元になる字を書いた人の考え方が理解できません。

             

更に5分ほど登っていくと霊園があり、昔を偲ばせる米俵や荷車が配置されていますが、よく見ていると橋下と石原の顔、人権尊重のかけらも無い維新の会のポスターを貼ってある霊園など利用したくもありません。

             

御陵駅に着いて2時間、中華食堂を出て1時間、やっと山頂付近に到着しました。もう少し先からは南禅寺の瓦屋根が見えてきます。ここからは下りで15分ほどで京都市国際交流会館に到着、1時間足らず会館の中で休憩しながら、誰か知った人が通らないかと館内をぼんやり眺めていたのでした。

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天智天皇陵

2013-09-24 05:00:00 | 大阪にて

9月10日京都に行って来ました。ひょいと見た新聞に下のような広告が載っていて、『OH!人生男声合唱団(通称・おじん合唱団)』の名が懐かしく、広告の中には、私と名古屋の中村ビルの同じ部屋で仕事をしていた人の名前も有り、知った人に会えるかもという期待を抱いて、わざわざ京都まで行くことにしたのです。わざわざ京都まで行くのですから周辺の地図を調べてみると、近くには南禅寺、琵琶湖疏水記念館、一駅離れた周辺では西に知恩院や南に天智天皇陵もあり、これで暫らくネタが続くという思惑もあったのでした。

             

朝10時ごろ家を出、“おけいはん”になったつもりで京阪電車に乗り、三条駅で降り、地下鉄東西線に乗り換えて、目的の京都市国際交流会館へは蹴上(けあげ)駅で降りるのですが、コンサートは夕方だったので一駅向こうの御陵(みささぎ)駅まで足を延ばして、天智天皇陵や将軍塚、蹴上駅まで歩いて戻って南禅寺などを散策しようと思っていました。

             

結局、天皇陵から蹴上まで歩くのに疲れてしまい、蹴上では南禅寺などにも行きましたが、一休みした交流会館では知った人と顔を合わすことも無く、ようやく5時になったのでチケットを買って入場しようと思ったら、6時開場、6時半開演だと言われて入場を阻止されたので、腹は立つし、疲れているし、夕飯をどうしようかと思った挙句、「そんなに待つんやったら、家まで帰れる」と思い、結局コンサートは観ずに帰ったのでした。

       

御陵駅を降りたのがもう12時前、「昼食をとろうか、あんまり食欲が無いなぁ」などと思いながら、何処に天智天皇陵があるのかと探して歩いたのです。地図上では道路を蹴上に向かって右側に御陵があるのは分かっていたのですが、御陵と示されている地域が広いため、入口が何処か判らないのです。20分ほど逆方向に登り道を歩いて間違いに気づき、戻る途中で小さな中華料理屋で冷麺でも食って、何処に入り口があるのか尋ねようと思って、昼食にしたのでした。

昼食後、御陵を尋ねると、尋ねた女将さんが言うのと、尋ねもしないのにマスターが言うのと、勝手に会話に入ったお客さんが言うのがそれぞれ違うのですが、歩いていく方向は一致していたので、そちらに向かって歩いていくことにしましたが、5分ほど歩くと教えられたJRの高架の手前に日時計があるのに気づき(時刻は1時過ぎを指していて合っています)、天智天皇って水時計で有名では無かった?と思いましたが、そんなことより入り口を探さなアカンと、教えられた交番を見つけるまでもなく、すぐに入口は見つかりました。

             

誰の天皇の御陵であっても、宮内庁が設置した看板は共通しています。この看板とも表札とも案内板とも取れる屋根付きの板を見つければそれが御陵であることがすぐ判るのですが、その手前で掃除の行き届いたさっぱりした広い庭とも道とも取れるところがあるのですぐに判るのです。

             

今まで見てきた天皇陵は入り口でシャットアウトされている場合が多かったのですが、この天智天皇陵は何処まで行けるんや?と思うほど真っ直ぐな道が続きます。

       

入口から3分ほど歩いて小さな門、更に3分ほど歩いて境内に到達しました。あまり訪れる人もいないのでしょうか、誰も来ていません。

             

天智天皇と言えば中大兄皇子と呼ばれた時に中臣鎌足と共謀して、蘇我入鹿を謀殺し、渡来系の蘇我氏を滅ぼした(大化の改新・乙巳の変)張本人です。それから20年が経過した頃新羅との白村江の戦いで大敗、新羅に責められるのを恐れて対馬・壱岐・筑紫などに防人を置き、自身は安全と思われる近江に遷都したのでした。この地はその大津宮から近い山科の地、碑には『天智天皇山科陵』とあります。そうすると天智天皇の陵は他にもあるということになります。

             

でも天智天皇陵をネットで調べてもこの山科陵しか無いようです。御廟野古墳と呼ばれるこの被葬者の天皇陵は実在性と、天皇陵古墳として比定することにも問題の無い非常に稀な古墳だそうです。そういう被葬者と墓が一致すると分かっているのは天武・持統の合葬陵である野口王墓だけだそうです。そうなると野口王墓というのも何処にあるのか、どんなところなのか非常に興味が湧いてきます。

             

朝夕は涼しくなったとは言え、昼間はまた暑さがぶり返してきていました。気象庁の予報では京都の最高気温は30℃、まだまだセミの声がギャンギャンと五月蝿い、静かなはずの天智天皇陵でした。

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ホークスの試合

2013-09-20 05:00:00 | スポーツ

そろそろ終盤のプロ野球ペナントレース、今年はホークスの試合を観戦する機会が無かったので寂しく思っていたのですが、地下鉄に乗っているとPITAPAでチケットを買うと内野自由席が2400円の半額1200円で入場できると言うポスターを見つけ、8日の日曜日は雨が降ったのでソフトボールも中止になったし、昼1時からの試合を観に行ってきました。金・土とオリックス相手に連勝のホークス、当日の先発を見ると巽投手ではありませんか。和歌山県出身のプロ野球選手も引退組も現役組も数多いけど、(私の知っているところでは藤田平以降、東尾、吉井、小久保など)殆どが紀北の出身で古座川町のような片田舎出身の選手って彼しかいません。

             

日曜の昼間とあってか、試合前のセレモニーに参加する子供たちの数もやたらと多い、こういうことを続けていけばバファローズのファンも増えていくのでしょうが、そのような経験が無くてもずっとホークスファンの私から見ればファンの獲得の方法が邪道のように思えます。

             

グランドで座っているように見えるオネエサン方、実は座っているのではなく、踊っているのです。

               

2回を終了した時点のスコアボードを見てください、ホークスは4安打(1回に3安打、2回に1安打)ですが無得点、バファローズは0安打で1点を獲得しています。実は巽投手、ヒットを打たれてないのに四死球3つで満塁とした後、ワイルドピッチで1点を献上してしまったのです。

             

3回はヒット2本で1点、6回には糸井選手のホームランで1点を失います。巽投手は7回途中でマウンドを降りますが、打たれたヒットは糸井のホームランを含めて3本だけ、まぁ全て自責点ですから仕方がありませんが、もう少し気を張って投げておれば無失点で切り抜けられたかも知れません。この後ホークスはもう1本ヒットが出ますから、バファローズの倍ったわけですが、完封負けを喫してしまいました。

             

巽投手は2009年のドラフト1位入団、4年目で4つぐらい負けていますが、未だ勝利はありません。でも今回被安打3だったのですから、少しは自信が持てたのではないでしょうか。翌週15日の日曜日も先発し、2週連続日曜日に先発起用ですから、球団の期待も大きいのでしょう。

今年最初にプロ野球観戦に行った際、ドームの近くにイオンが出来ると書きましたが、久し振りに来たら営業していました。肴を買って入ったのですが、入り口でこんなものを渡されました。飲食物の持ち込み禁止のチラシです。イオンが出来る前は飲み物のチェックだけでしたが、これからはどうやら食べ物、更には家から持ってきた水筒までも対象になるのでしょうか。飲食物は全てドームの中で買えということなのか、あまりにも我田引水的ではありませんか。そのくせにこの京セラドームは外との出入りが自由なのです。

             

試合が終わってドームの9階で催されていた『船釣りフェスタ』に寄ってみました。京セラドームの9階まで登ってことがありません、私のマンションからドームが見えるので、ドームからも私のマンションが見えるかなと思ったのですが、窓やベランダは有りませんでした。

             

何故だかシマノのブースに釣りサンデーの今井浩次が立っていましたが、声をかけるとややこしくなったらイヤなので知らんふりして通り過ぎました。2月のフィッシングショーと比べると全く規模が小さく、とてもしょうも無かったのですが、海上保安庁のブースでちゃっかりプレゼントだけを貰ってきました。

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とんかつ一番

2013-09-19 05:00:00 | 大阪にて

8日に決まった東京オリンピック、その決定前の国際オリンピック委員会総会でのプレゼンテーションで、安倍首相が「汚染水による影響は福島第1原発の港湾内の0,3平方kmの範囲内で完全にブロックされている」と述べ、福島の放射能汚染を懸念するIOC委員を説得しました。ところが10日になって官房長官は「水は当然(港湾内と外洋との間を)行き来している」と述べ、首相発言と違った見解を示しました。長官は「港湾内外の水の放射性物質の検査結果が国際基準を下回っている」とも述べていますが、水は海流や潮汐で常に出入りしていることを認めていますし、東電の推計でも港湾内の水は約50%入れ替わっていると言います。港湾内の測定値が大幅に基準以下という測定値は、逆にほとんどが外洋に流れ出しているのではないのかと疑ってしまうのです。オリンピックの開催都市を決める場で虚偽説明があったとならば、(IOCにも世界各国にも日本国民に対しても)重大な背信行為であり、今後国際的に批判を浴びる可能性があるでしょう。

オリンピックの開催が決まってから浮かれまくっている(私からすれば正気の沙汰ではない)マスコミですが、このような重要なことも報道されたのでしょうか。それとも時の政権に対して都合の悪いことにはだんまりを決め込んでいるのでしょうか。

このような過去のことを今日のブログに載せているのですから、私がこの記事を何時綴ったのかが判ってしまいそうなものです。

             

三光神社を後にしたのが11時、そろそろ昼食の時間ですが、自転車なら知らないところでも何処か美味そうな店が無いかと探すことも出来ますが、車では無理、駐車料金400円を払って家に帰ります。20分ほどでマンションの駐車場に入れ、帰る途中で何処で食べようかと考えていたのです。大阪に戻る際に三男と何処で夕食にするかであれこれ考えたのですが、結局家に着いたのが10時を回ってしまっていたので、候補に挙がったこの『とんかつ一番』も閉店になっており、久し振りだったけどここで食べれなかったので、最近はトンカツなど食べたいとは思わないのに、自転車が無いので歩いてこの店にやって来たのです。

そして表から店の写真を撮り、店に入りました。PCに取り込んでUPしてみてびっくり、今までこの店を『とんかつ一番』だと思い、店頭の看板もそう書いてあると思っていましたが、よ~く見ると違うやん!『とんか一番』ではありませんか。自分の早とちりなのかも知れませんが、思い込みってすごいものですね。

             

この店に来なくなってどれ位経つでしょうか・・・7~8年は来ていないと思うのですが、調理を担当していた男性は居ませんでしたし、女性の店員も減っていましたが、一人だけ私のことを覚えてくれていた人が「久し振りやね」と声をかけてくれました。私もそう言われれば、あぁあの人かと思い出しましたが、街で出逢っても気が付かないほど容貌が変わっています。

この店の日替わり定食が凄いでしょ。トンカツの他に大きなトン汁、マグロの刺身、豚肉の甘辛煮、肉じゃが、肉じゃがの下には出汁巻が入っています。ご飯もお椀いっぱい上まで入っています。少し味が濃いのが私は不満で、もう少し薄味に出来ないものか。私の味覚は横に置いておいて、これで850円(ビールは別)、何故かヤクルトまで付いているのが滑稽ですが、昔はバナナまで付いていました。何処の店では日替わり定食と普通の定食では、日替わり定食の方が易いのが当然なのですが、ここではハンバーグ定食もエビフライ定食も同じ仕様で同じ値段なのですよ。

しんどかったけど、完食しました。箸袋は『とんかつ一番』になっています。実はこの昼食を食べ過ぎてから胃の調子がどうもおかしい、その日の夕食は殆ど食べれなかったし、食欲がずっと無い日が続いています。ただの夏バテなら良いのですが。

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再び三光神社

2013-09-18 05:00:00 | 大阪にて

三光神社に足を踏み入れて1時間ほど経ったので、そろそろ帰ろうと思い、そのまま道路を歩いて駐車場に戻ることも出来るのですが、やはりここまで来たのですから、もう一度神社に足を踏み入れて、もう少し勉強しようとの思いで三光神社に戻ってみました。

この碑には元の鳥居が戦争の災禍に遭い、片柱を残した謂れが書かれています。“遠く生駒金剛の連山を見はるかす景勝の・・・”との出だしですが、昭和47年建立当時は、ここから生駒山や金剛山が見えていたのでしょうか。今は高層建築が立ちはだかり、この神社からは山など少しも見えません。
“われわれはこれ(片柱)に世界の平和と国家の安泰を祈願して残すこととする”との決意が表明され、なかなか神々を祀るという古めかしい考えから、1歩も2歩も前進したような考え方に変わった神社のように思えます。この碑が建立された昭和47年当時は大阪でも社共の革新府政が支持されていた時代であり、そういう時代背景があったのかも知れません。

             

ここが三光神社と宰相山公園との境、標柱が建っているし、向こう(公園)側にも燈籠が立っているので、境内の続きかと思ってしまったのです。

                       

拝殿の横に有った寿老神像、なにわ七福神の一つだとか、残りの6つは今宮戎神社、長久寺、四天王寺、大国主神社、大乗坊、法案寺にあるそうで、このうちの大国主神社は私が難波まで自転車で行く時に前を通りますが、わざわざ自転車を停めて取材したことは有りません。

             

東から登ってきてこの鳥居を潜ると、正面に片柱の鳥居が見えてきます。

             

東の鳥居(拝殿とは反対側)の右横に標柱が建ち、祭壇のようなものが設置され、その奥はケヤキの樹でしょうか、何か大昔の祈祷や祭礼が思い起こされ神秘的なものが感じられます。

       

拝殿前の階段から北方向、私がこの神社に入ってきた方向です。右の鳥居は神社の一番西側のもの、と言っても写真を撮っている私の後ろに道は有りません。

                       

最初に潜って来た鳥居の方に進むと天明2年の銘が入った燈籠がありました。天明2年は西暦で1782年、私が生きた時代の200年ほど前、天明の大飢饉が始まった年でした。今年は夏の晴天続き、突然の豪雨など、昭和初期以前の生産様式なら飢饉が襲ったような気候でした。

             

コインパーキングのあるところまで戻ってきました。右に見えている公園の奥が三光神社です。三光神社からの道を交差点を越えてまっすぐ進んでいくと・・・

             

こんな建物が、先の参議院議員選挙で躍進した党の大阪府委員会となっています。こじんまりとしていて、案外小さい建物ですね。昭和47年以前からこの政党の委員会がここにあったのかどうかは分かりませんが、最初の碑の文章などは戦前から命を賭けて反戦を唱えてきたこの党の事務所の存在が、世界平和を祈願するような文に繋がったのかも知れません。

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真田山公園

2013-09-17 05:00:00 | 大阪にて

大阪では先々週水曜日に大雨が降り、以降朝夕はめっきり涼しくなりました。夏に予報されていた厳しい残暑は何処へ行ってしまったのか、それはそれで結構なことなのですが、以降もややこしい天気は続き、やっと先週の月曜にに久々の快晴となったのでした。

             

写真は大雨が降った4日の午後2時半、いつも見えているハルカスが全く見えないほど雨がきつく降っています。昨日の台風18号でもこれほど降ってはいません。それから4時間後、雨は止んで大きな虹が東の空にかかりました。虹の右脚は二上山の方角でしたから、かなり大きな虹でした。

             

三光神社に隣接する公園が真田山公園ではなかったので、よく耳にする真田山公園ってどんなところだろうと思って、陸軍墓地を出た後、宰相山公園の階段を降り、道路を南へと歩いてみると先に信号があり、その向こう側が広くなっていたので、そこが真田山公園だなと思ったのでした。手前には天王寺スポーツセンターの建物があり、その一画にはプールもあるようです。

               

この日は高校生とおぼしき生徒たちが授業で使っているようでしたが、1段高いところに広い野球場があり、隣接してテニスコートもありました。周りはジョギングコースが整備されており、公園と言うよりスポーツ広場という感じです。

             

真田幸村が何処に陣地を構えたのか、その事実は未だ未解明のようですが、宰相山にしても真田山にしても、上町台地のより小高い所だったのには違いありません。家康が陣を築いたと言う茶臼山には真田山の方が近く、対峙するには真田山の方を選ぶでしょうが、百戦錬磨の幸村は一旦真田山を越えさせ、宰相山との谷間で敵を迎え撃つ作戦をとったかも知れません。

             

何か遺跡か遺物は無いかと一周しましたが、何も見つけられません。石が遺構風に並べられていたのですが、何の説明も無く、ただの石を並べただけのようでした。

             

歴史的な遺構とは関係なかった真田山公園、帰り道に『真田山子どもクラブ』という学童保育を見つけました。お寺の一画を借りているようです。

               

ところで私の子供が通っていた岸里学童保育所、私の住むマンションの1階は(以前はあのカナエだった)大阪厚生信用金庫が使っていますが、その玄関に岸里学童の子供たちの似顔絵展と銘打って大々的に貼りだしていました。斜めから撮っているのは、正面から撮ると私がガラスの反射で写ってしまうので、2枚撮っているのはガラスの枠で見えない絵が出来てしまうからです。 

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真田山陸軍墓地

2013-09-13 05:00:00 | 大阪にて

宰相山公園の緩やかな階段が円を描いて南から西へと向かっていました。公園がそのまま続いているのか、Googleの地図上には何も記されていませんが、いやこの区画には三光神社も宰相山公園も記されてなかったので、この先に何があるのか全く分からないまま散策の続きで少しづつ登って行ったのです。見晴らしが良くなってくると何か異様な風景が飛び込んできました。

       

一面が墓石だらけ、びっくりするような墓場です。写真は出くわした時の右(南)部分、真ん前(西)の方、そして右(北)の方です。180度見渡す限り墓が並んでいるのです。大阪市内にこんなに広い墓場があるなんて初めて知り、ホントにビックリです。この近辺は寺町も近く、お寺の多いところですが、一宗一派のお寺にあるお墓の規模ではありません。ずっと歩き回っていると建物があったので、近寄ってみると『真田山陸軍墓地維持会』の事務所のよう、それでここは陸軍墓地であることが分りました。

大阪歴史教育者協議会という団体のホームページを見ると、この真田山陸軍墓地についてのことが詳しい、広さは15000㎡ほどあり、何故だか5299というようなきっちりした数字に以上をつけた数字、それなら5300基以上にすればいいのにと思うのですが、それほどの数の個人墓碑と43000余りの遺骨を納めた納骨堂があるとのこと。先に知っておれば納骨堂も探したんだろうけど、ホームページを見たのは帰ってきてからですから、納骨堂の写真は有りません。

             

明治4年に造られたと言うこの陸軍墓地、西南戦争から日清・日露戦争を経て、満州事変のことまではホームページに記載されています。西南戦争なんて最終的には九州南部で行われた内戦ですが、戦死者が大阪に祀られているなんてすごいですね。

写真は一番奥、西の端になります。大きな石碑が建っており、おそらく上級者の碑なのでしょう。何処かの神社の神木と見紛うほどの大きなクスノキです。砲弾の飛び交う戦場で死を賭して戦った兵士は太陽の照りつけるもとに放り出され、砲弾から遠く離れた基地で戦況を見守るだけのエライさんはこうやって大樹の影で守られるのです。爆笑問題の田中君が石破防衛大臣(当時)に「あなたたちは戦場には行かなくていいから」発言をし、喋っていた大臣を黙らせたエピソードを聞いたことがありますが、そういう構図は今も昔も(今は未だ徴兵制はありませんが)同じです。

                       

この樹はヒマラヤスギだと思います。これもかなり大きいので、開設当時から茂っていたのでしょう。

       

お墓の写真ばかり載せても仕方ないので、縮小したものを並べています。お墓は九つのブロックに分かれて収容されているようですが、戦争毎に分けられているようでは無く、身分別に分けられているようです。中には徴兵されてすぐ病死などという人の墓もあるし、日清戦争では兵役でなく兵站輸送などに係わった軍夫(民間人)など軍の記録に残らない人たちの墓が900基もあるそうです。

戦争遺跡があるという三光神社に来たお蔭で、思わぬ戦争遺跡に遭遇することが出来ました。

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