ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

丹鶴城址

2011-08-31 05:00:00 | 田舎
浮島の森を後ろに元来た道を歩きます。歩いているとよく分かるのですが、街の至る所に道標があり、しきりに浮島の森の方向を示したり、新宮(丹鶴)城址を示したりしてくれています。丹鶴城と呼ぶのは保元の乱で崇徳上皇について敗れた源為義の娘、丹鶴姫の建てた東仙寺がこの地にあったからとされています。

丹鶴姫の弟が新宮十郎行家で、義経とともに平家を討つ先兵となりますが、義経と同様頼朝からは評価されませんでした。丹鶴姫の生んだ子に湛増という息子がいますが、彼の指揮する熊野水軍を平家につこうか、源氏につこうかと迷って、田辺の神社で紅白に分けた鶏を闘わせてその行方を決めました。その神社が闘鶏神社として今なお残っています。

             

夏の昼間の暑い時、昼食を摂るのに歩き回り、浮島の森を探し求め、ようやく丹鶴城址まで来たのですが、入り口に着いて唖然、階段が続いているのです。でもここまで来たら登ってみなくてはと気を取り直して、天守閣のあったところまでは行かなくてはなりません。

             

やっとたどり着いた平地ですが、ここよりまだ先がありました。この平地にはたくさんの桜の木が植わっていました。春に来ればさぞきれいだろうと思います。

             

道端にさり気なく置かれている五輪塔、室町時代のお墓だそうですが、詳しいことは分かっていません。

             

本丸跡まで登ってくると井戸がありましたが、こんな高いところに井戸を掘っても水脈までは相当あるでしょうから、水など無かったのではないかと思うのですが、どうでしょう?

                  

丹鶴姫の碑がありました。源為義が後白河上皇の行幸に伴ってこの地にやって来た時にみそめた女人に生ませたのが丹鶴姫姉弟だったのですが、二人とも源平の争乱に巻き込まれていきました。

             

城址から見下ろす新宮市街、こちらは西の方角でしょうか。オークワの看板が見えますが、私が車を停めたオークワではありません。

             

海が見える方角、お寺の屋根が近くに見えますが、きっとこの山の中腹辺りに建てられたものなのでしょう。最初の写真の熊野川を見下ろす風景もなかなかいいものでした。

             

丹鶴城址にて与謝野寛詠という碑がありました。与謝野寛とは与謝野鉄幹のことで、北原白秋らと共に初めて新宮を訪れたときのものだそうで、『高く立ち 秋の熊野の海を見て 誰ぞ涙すや 城のゆふべに』と詠まれていますが、そんなに感心するほどの詩ではないように思います。

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浮島の森

2011-08-30 05:00:00 | 田舎
新宮には今まで何度も行ったことがあり、その度に浮島の森という存在が気になっていました。でも今まで一度も訪れたことがなかったし、写真などで見る限り絶対に行かなくてはという気にはなりませんでした。何故か、あまり景色の良さそうな雰囲気では無かったからでしょう。

しかし、その内行ってみないとアカンという気も強く、この日は目的無しに新宮に来たことやし時間もあるので、今回初めて行ってみることにしました。

                  

『天然記念物新宮藺沢浮島植物群落』と刻まれていて、下部の説明には、「この石柱は、浮島の森が国指定になったのを記念し昭和11年に建立され・・・」とあります。国は浮島の森を何に指定したのかが抜けています。こちらに移設した際に書かれたののでしょうが、そのような単純なことを何故抜かしたのでしょうか。

浮島の森に入る手前の小屋の前で音声による説明を聞き、小屋で入場料100円を払って入場します。「入場料要るんかよう」と思いながらも、100円だったので払いました。500円だったら外から見るだけだったかもしれません。

             

昭和2年に天然記念物に指定されているんですね。島が浮いているのは島の下部が泥炭で出来ているからとか、もしその年に国が天然記念物に指定していなかったら、資源の乏しい日本国は、軍によって戦争用にとその泥炭をも調達されていたことでしょう。恐ろしや日本陸軍!

今にも底が抜けそうな板の廊下を歩いていきます。まだ浮島の森自体には足を踏み入れてはいません。

             

途中鉄製の橋があり、いよいよ浮島の森へと進入していきます。

             

私が生まれた頃は、未だこの森は浮いていることが実感されたようで、強い風が吹いたり、足で強く蹴ると、島が動くのを感じられたそうです。

この森の生物は南方系から北方系まで幅広く生息しているそうで、その不思議さが天然記念物である所以なのでしょう。このオオミズゴケという種は北方系の生物なのだそうです。

                 

この島の付近に、おいのという娘が住んでいました。ある日、おいのは、父親とともに薪採りに島に渡って、昼飯時に弁当を開いたのでしたが、箸を忘れてきたことに気がつき、おいのは、アカメガシワの枝を折りとって箸の代わりにしようと、森の奥深くに入っていきました。でもなかなかもどってこないので、怪しんだ父親が探しに行くと、まさに娘が大蛇に飲み込まれようとしているところ、驚いた父親が助けようとしましたが、娘は蛇の棲む底なしの井戸についに引き込まれてしまったというお話。

それがこの「蛇の穴」と呼ばれる沼。伝説の井戸であると言われていて、上田秋成はこの伝説に題材をとり、『雨月物語』の一編「蛇性の婬」を著したとも新宮市教育委員会の手で記されていますが、「蛇性の婬」はこの地方の話ではあるけど、男性が女蛇に悩まされるという話、この井戸を題材にしたとは到底思えません。

             

森を出て再び外周の廊下、この辺りに来ると水量も多く、まるで豪族の古墳を見ているようです。きっとこの島、調査される前は古墳だと思われていたのではないでしょうか。

             

小屋を出てすぐに島の断面図が載った案内板があり、この図を見ていると島は東の方で座礁してしまっています。どおりで動かないわけですね。

おいの伝説はチョイとおかしい、箸の代わりの枝を取りに奥へといっても、離れていても呼べば聞こえるほどのほんの小さな島でしたよ。入場料100円は妥当なところです。

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中上健次生誕の地

2011-08-29 05:00:00 | 田舎
12時の昼食時間に有馬の地で食べ損ねたので、新宮まで戻って昼食をとることにしました。新宮のことはあまりよく知らないので、以前訪れた徐福公園の近くの小さいオークワに車を停めて、食事するところを探します。

この辺りはJR新宮駅の前、東の方にあたりますが、何も無いところですね。商店街を歩いても人も閑散としていますし、食事するようなところが見当たりません。1軒お好み焼き屋がありましたが、お好み焼きは家で食べる方が美味しいと思っている私、入る気にはなりません。

徐福公園の近くに中華料理屋があったので(そこしか無かった)、イヤイヤながらそこで昼食をとることにしました。

             

駅前広場に立つ踊りの像、奥には焼き鳥大吉も見えていますが、昼はやっていません。そうそう夜だけ開いていそうな店はたくさん有ったように思います。

駅前の案内板を見ていると、踏切を越えた近くに中上健次の生家があり、更に天然記念物・浮島の森、丹鶴城址と近々にあったので、訪ねてみることにしました。勿論歩いて。

             

踏み切りを越えるとすぐに何か書いてある碑があったので、すぐに見つかったやんと思ったけど、近づいたら全然違う碑でした。

1911年、大逆事件で犠牲になった6名の方々の名前が刻まれています。1911年というと丁度100年前、『熊野独特の進取の精神や反骨の気風の中で、平和・博愛・自由・人権の問題においてむしろ時代の先覚者であった』と誉めそやしています。でもそういう気風や精神が熊野地方に根付いているかと問うと、何やらそうでもないような感じを受ける私です。

                  

『志を継ぐ』と刻まれていますが、白っぽくて読み辛いですね。

大石誠之助、成石平四郎が死刑、高木顕明、峯尾節堂、成石勘三郎、崎久保誓一が無期懲役の刑を宣告されましたが、『太平洋戦争後、自由思想弾圧のための国家的陰謀である真相が判明、彼等はその犠牲者であった』と憤慨しています。

『熊野に生きる我々にも当然受け継がれるべきもの、受け継がれなければいけないものと確信する』と結んであります。全くその通りでありますが、新宮に住む人でもこの碑を知らない人の方が多いのではないかと思えてなりません。

この碑の設立者は『大逆事件の犠牲者を顕彰する会』となっていますが、そういう組織って未だ存在するのでしょうか。

             

違う筋に中上健次の生家跡がありました。エライ狭いところに住んでいたものです。

1976年、『岬』で第74回芥川賞を受賞、戦後生まれで初めての受賞だったそうです。

氏の『枯木灘』を読んだけど、背景や登場人物など細かくは描かれてはいるものの、新左翼運動への参加の経験もあるらしいのに、どんな立場に立っているのかがよく分らない、貧しい者の立場に立っていそうで、それを明らかにしていないところが私の不満であり、氏の他の本を読もうという気を起こさせない原因なのです。

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獅子岩

2011-08-26 05:00:00 | 田舎
花窟神社のある地名は有馬、有馬といえば中上健次の『枯木灘』という小説に出てきます。主人公・秋幸の実父・龍造が先祖・浜村孫一の碑を建てたのがこの有馬の何処かにあるお寺、その真偽を知りたいと思っているのですが、この暑さと全く無い手がかりですから、探しようもありません。

花窟神社を出て国道42号線を海に沿って歩いて北上します。この地を訪れたのは16日、9時過ぎに家を出て、花窟神社に着いたのが11時ごろ、ウミガメ公園のあった辺りからもう浜が続きっ放しで、この浜を七里御浜と呼んでいます。

             

右を向いても左を見ても真っ暗闇じゃござんせん。浜ばかり、断崖や小磯の並ぶ枯木灘とは一風変った趣です。七里ですから28km近くも浜が続く勘定になりますが、翌日はこの熊野の地で花火大会が開かれる予定でした。

             

なので、浜はきれいに区画・整地されていました。台風の余波で流れ着いていたゴミや流木も全部撤去され、この花火大会にかける意気込みが窺われます。

             

海を右に眺めつつ、歩いていくと獅子岩があるので、とりあえず其処まで足を伸ばそうと思ったのです。もっと北上すると鬼ヶ城があるのですが、そこまで往復するとなると車が要りますし、そうなるとオチオチ写真も撮ってられないのでこの日は獅子岩止まりです。

この写真の左隅に見えているこんもりした小高い山を越えると獅子岩があるはずです。

             

喫茶店の駐車場から見える獅子岩、その名の通り口を開けたライオンの頭に似ています。この岩の先に突き出てる半島が鬼ヶ城です。

             

同じ駐車場の中ですけど、見る角度によっては獅子の顔には見えないところもあるものです。
             

道路に近づくほど口が大きく開いているように見えるようです。

             

アベックが獅子をバックに写真を撮ったり、一眼レフを持った若者があちらこちらを撮影していました。

             

反対側からはどうなってるのかと思って暫く歩いたけど、なかなか頭の部分は見えてきません。この辺りは三重県の最南部、こちらにやってくる殆んどの三重の人はこれが「獅子岩なんや」とは気が付かないんでしょう、通り過ぎてからやっと判るようになっています。

             

元来た方向、帰ろうと思ったのが丁度12時ごろ、昼食の時間です。でも車の中に財布を置いてきてしまったので、何も食べることも飲むこともできません。

                  

獅子岩の手前に見えていた小山の岩には『神仙洞』と刻んであります。車で来る人はおそらく気が付かないだろうと思うけど、気を付けるほどの価値も無いと思うのです。

             

鉄製の扉が見え、一切の利用を禁ずると書かれていますが、いったい何に利用できるのか皆目理解できません。

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花窟神社 Ⅱ

2011-08-25 05:00:00 | 田舎
国道からの眺め、たいていの人はこのような景色を通りがかりに眺めているだけで、ここが熊野三山の根源であり、古代信仰の重要な意味を持った場所だなんて知る由もありますまい。私などは今回知ったのですが、全く信用していません(イザナミの話のことです)。

ご神体、礼拝所は一番奥にあって、それ以上進むことは出来ません。礼拝所の右横には国道へと繋がる抜け道が作られてあり、古式ゆかしい神社が何故そのような姑息なことをするのかと首を傾げたくなります。

             

毎年2月2日と10月2日にこの注連縄が張り替えられるそうですが、後一月余りで張り変るにしても、縄はもうボロボロです。海からの塩分や風の影響が強いせいでしょうね。

             

私は帰りに寄ったのですが、正面から入ってきて、暫く歩くと左手にお稲荷さんがあります。初めにこの稲荷に寄らなかったのは、信仰心の厚そうな人達が寄ってたから、私のように信仰心も無い者に同じようにくっついて歩かれると迷惑でしょうからね。

             

こちらの祠の御幣も金属製でした。

             

ところが、その隣の黄金竜神の祠の御幣は普通の紙で出来ています。その違いは何故なのか、ちょいと解りかねます。

                  

神社を出て国道の方へ歩くと右手にこの辺りの地図が載った縦長の案内板がありました。でもこの地図は花窟神社が一番上にあり、行って欲しいらしい中心地まではかなりの距離がありそうです。私は車を参拝者用の駐車場に停めたまま、この辺りを歩いてみたいのです。

             

鳥居の横にあった誰やらの句碑、何て書いてあるのやら・・・じっと見つめていると著者に宣長の文字が確認され、ここで簡単に読める『花のいは屋に』の文字で検索すると『木の国や 花のいは屋に引く縄の 長くたえせる 里の神わさ』という詩が確認されました。宣長は勿論、江戸時代の国文学者・本居宣長ですが、彼は松坂、三重の人でしたね。

             

国道に戻り、42号線を少し北上します。空、海、そして岩、そうした自然が一体となってこそ、この地の信仰対象になり得るような気がする私です。


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花窟神社

2011-08-24 05:00:00 | 田舎
今回の目的はこの花窟神社、『はなのいわやじんじゃ』と、読みます。何年か前、鉄腕ダッシュのソーラーカーが訪れていました。その時はこの岩があるだけのものかと思っていましたが、着いてみるとそんなことはありません。

             

入り口にはちゃんとした鳥居も碑もあります。42号線沿いにしか撮らないから、ただの岩に注連縄をかけている神社だと思ってしまっていたのです。

             

この案内板には皇室の先祖とされるアマテラスの母イザナミが火の神・カクヅチを生んだ時、火傷を負って死にこの地に葬られたとあります。なのでイザナミを祀ったこの神社は熊野三山の根源であり、古代信仰の重要な意味を持った場所としています。記紀にはそういうことが書かれていたのだったのか・・・思い出せません。

             

暫くは参道が続き、やがて社が見えてきますが、確かに拝殿とかというものはありません。この辺りの人たちは信仰心が厚いのか、私が居るときたまたまだったのかも知れませんが、鳥居の前から拍手を打って、手を洗い、礼拝をしている人が後を絶ちません。

             

やがて御神体の岩の前までやってきました。

             

御神体は1枚目の写真の岩ですが、その下部には礼拝所があり、御幣は金属で出来ていました。

祭神イザナミ尊という標が立っていて分りやすいといえば分りやすい。

             

その対面にはカクヅチを祀った礼拝所がありました。

             

暫く佇んでいると、イザナミを祀った礼拝所の前で、靴を脱ぎ、座って礼拝する一行が現れ、その行為を見ていてびっくりしました。3人連れの一行でしたが、明らかに二人は子供のようでした。小さい頃からそういうものを覚えさせられ、神が本当に存在するものであるというような考えに至ったとしても、それが戦争や犯罪に繋がらなければ、まぁ良しとしましょう。

             

信仰心の無い私などは、この岩の写真を見てタヌキに見えたりするのですけど、罰当たり者ですかね。

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カニカゴを仕掛ける

2011-08-23 05:00:00 | 田舎
ここは姫にある旧養春小学校の前にある波止、波止としての機能は有しているのかと言えば、干潮時に登って釣りをするぐらいでしょうか。船を繋いでいるのを見たことがありません。

干潮時にしか渡れませんから、当然常時利用することが出来ないのですから、何故こんなものを作ったのか・・・考えてみれば不思議なことです。

しかし、この波止場の向かって右側は砂浜、左側は磯場になっていて、磯に砂が被るのを防止しているといえます。一応ここの磯は姫ヒジキの成長の場、地元の重要な収入源ですから、そのための措置であるのでしょうか。

             

比較的海の透明度が上がってきた11日、釣りを終えた後三男の提唱で、この波止にカニカゴを仕掛けることにしました。カゴは三男が買ってきたのですが、買わなくても家には三つもあったのです。

波止場の手前には誰の手によるのか、波の影響で打ち上げられた海藻が干されていました。

             

三男が浜側、私が磯側にそれぞれ投入、エサは豚のばら肉、角煮用の骨付きのものを選びました。これでワタリガニを獲ろうと思っているのです。

この浜でキス釣りをしていると、時折りアカチャンワタリガニが釣れてくる事があるのです。

             

次の日、釣りから帰ってこのカゴを上げてみると、全く何も入っていませんでした。
その次の日は三男が帰るので田辺まで送っていき、帰り道が混んでそうだったので、日置川方面を走って帰り、到着が少し遅くなったので面倒くさくなり、カゴを上げませんでした。

翌日、もうお盆真っ最中、姫地区も帰郷された人が増えて、浜でキス釣りをする人、この波止の先端でも親子連れが釣りを楽しんでいました。

でも残念ながらカゴには何も入っていません。

             

もう面倒なので、ずぅっと放りっ放しにしておいて、帰る日の前日、網の潮抜きもしておかないといけないと思い、釣りから帰ってカゴを上げてみました。

すると私の方には何やら小物がいっぱい入っています。

三男の方には一つだけですが、少し大きめのタカノハが入っていました。

             

この波止から大島方面へと投げ釣りすると、時々ですがホウボウが釣れることがあります。ワタリガニとホウボウとタカノハ・・・何処かで見た記憶があります。

             

私の入れたカゴには、小さいですがグレ、ガシラ、タカノハ、ゴンズイ、トラハゼ、小さい巻貝、それにカニも入っていました。

             

ゴンズイは毒があるので、どうしようかなと思ったのですが、皆さん海へとお帰りいただきました。ゴンズイを放置して誰かが踏んづけたら危ないですからね。でもきっと暫くは、この波止には誰も上がりませんよね。

             

皆さん海へと逃がしてあげたのですが、カニだけがじっと別れを惜しんでいるようにじっとこちらを見ています。見ているのかどうか・・・それは分りませんが、海へと帰ろうとしないのです。

このカニはきっとワタリガニですね。釣れてくるアカチャンワタリガニはもっと透明ですので、このカニは少しは大きくなったカニのようです。

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8月19日の釣り

2011-08-22 05:00:00 | 田舎
先週の金曜日、その次に日には大阪へ帰るので釣りをするのはこの日しかありません。4時半には起床して、世の明けやらぬ道を大島へと走り、港に着くとヘッドライトは要らんぐらいに明るくなっていました。

金曜日だからなのか、大裕丸に乗る釣り客が待っていますし、どうやら好ポイントには先客がいるようです。

            

先客は二人、一人は17日に私が釣っていたポイント、一人はもう少し灯台寄りで釣っていましたというより、始めたのは同時ぐらいでした。私はその奥右に陣取りましたが、最初来た時よりはポイントに少しばかり近かったのです。

これがエサのペレット、一袋500円。

             

こちらは撒き餌用のペレット、こちらも一袋500円で同量入っているようです。考えてみると高い!養殖のタイを育てるのにこれだけで500円もするエサを与えていたら、養殖のタイはいったいいくらするでしょう。そう考えるだけでこの釣りエサのペレットは暴利です。

                  

釣り始めて2時間ぐらい経って、ウキが沈んだまま動かないので掛けてみると1枚目の写真の真鯛、35cmぐらいでしょう。隣の先客さんがタモで掬ってくれました。たぶん一人では掬えなかったかも知れません。

帰ってメジャーで測ると36cm、でも養殖の生簀から逃げてきたもののようで、チヌかと思わんばかりの黒さです。

次いで25cmぐらいのグレ、釣れだしました。所謂(いわゆる)時合いというやつでしょうか。

          

でも私にではありません。隣のタイを掬ってくれた人にです。2度ほどバラシた後これは40cmぐらいの重そうなグレでした。

山の真ん中ぐらいの空との切れ目を良く良く見てください。弓なりに曲がっている竿が見える筈ですよ。

釣り人は17日に私の居たポイントに居ますが、黄色いバッカンのところの見物人のところで釣っていたのです。取り込むのはやはり少し高いところに移動したほうが楽なようなこの釣り場です。

             

この人この後絶好調、同サイズを3匹立て続けに掛け、私の釣ったようなのも2匹掛けていました。私は放流しましたが、この人はクーラーに入れていました。時合いの筈なのに私は絶不調、どうもタナが合ってないような気がしますが、雨が降ってきて釣り辛くなったこともあるでしょう。

目の前では小魚が何かに追われて逃げ惑っています。

             

絶好調の釣り人、ケータイで仲間に連絡、こっちへ来いと言っていました。暫くして後二人がやってきて、私の左へ入るではありませんか。あまりにも狭いでしょと言いたくなりますが、撒き餌も無くなってきたので私はアガリとしました。

この波止の奥にも道が続いており、どうなっているのか気になっていることがあったので、果てまで歩いていってみました。

             

こんな碑がありました。彫られている意味が変ですが、鯨を弔う碑なのでしょう。普通は弔より供養のような意味が使われると思うのですがね。

             

突き当りまで来て、やはり有りました。階段です。三男に運転してもらってるとき、串本大橋を渡りきって一つ山を越すと左側に階段を見ることが出来たので、この階段は下の村落まで行き来出来るのではないかと思っていたのです。

             

戻ってきました。この右側に車を停めて、入り口から左へと歩いていきます。

             

戻ってきたら、相変わらず大きなグレが釣れています。一番こちら側に居るのは後から来たエギングの人です。

             

この道を通ってこの波止場に来ます。朝、大裕丸のお客さんはこの道すがらで待っているのです。釣り道具の荷物を置くので道が狭く感じて、往生するのです。


なにはともあれ、1匹釣れたからよしとしましょう。

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8月17日の釣り

2011-08-19 05:00:00 | 田舎
8月も16日を過ぎればお盆休みでこちらに来ていた人たちも引き上げたであろうと思い、例の大島漁港の赤灯台へ釣りに出かけました。

5時半前に目が覚め、少し遅れはとったものの、6時前には漁港に到着、当日は大裕丸の釣り客も来ていません。

案の定、釣り人の姿はただ一人だけ、おそらく私と同じようにペレットでグレ狙いだと思います。でもベストのポイントはもう少しだけ内側、前の人のように広々と場所を占領したりしていません。

ベストのポイントは先客の邪魔になるし、私一人だともし大きなグレが掛かった時、前の凸出た部分が邪魔でタモを入れられそうも無いので、もっと手前の一段高くなったいる部分で釣りを始めました。

                  

最初の一投で大きなアタリがありましたが、少し見てなかった部分もありスカくらい、シマッタ!と思ったのですが、まぁアタリがあったので良しとしましょう。

しかしその後もアタリは続くものの、ハリに乗りません。大きな棒ウキを使っているので、普段のフカセ用の円錐ウキとは感覚が違うようです。

釣り出してから1時間ほど経って、やっと掛かったのが20cm強のグレ、今までスカ食らってたアタリと同じく、ウキが大きく沈みます。と言うことは皆これ位のグレだったのか、その下に大きなグレが居るのは分っています。

             

ところがウキ下を深くすると、アタリが出ないのにエサが無くなってしまいます。

暫くすると小学校の低学年らしき団体が灯台の下でサビキ釣りを始めました。引率の先生がいるようなのに、よく見ると全員ライフジャケットを着けていません。

狭いところにゴチャゴチャ集まって、したことも無いことをやるんですから、危ないと思わないのでしょうか?見ているこちらがヒヤヒヤします。言葉を聞いていると大阪弁、地元の子供達ではありません。

             

幸い何事も起こらずに済みましたが、何かあったら私が飛びこまなアカン羽目になるのではないかと思っていたくらいです。

モゾモゾしたようなアタリを合わすとゴツンというような手応え、ちょっと引いたけど上がってきたのは久しぶりのキタマクラ、おもろないなぁと思いながら、エサも無くなってきたので10時ごろに釣りはおしまい。

             

同時に先客もお止めになりました。その釣り人はなかなかエライ、アジが釣れればアジ、短くて細い竿に変えて波止の真下を釣っては、五目釣りを楽しんでいました。
             

ここの波止場へは海の横を通って、奥の広場まで車で行けます。歩いて1分、随分楽な釣り場です。

この休み中にもう1回挑戦したいと思っています。

明日大阪に帰ります。

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ウミガメ公園

2011-08-18 05:00:00 | 田舎
正式には『道の駅 紀宝町ウミガメ公園』というそう、道の駅は国交省の管轄やけど、紀宝町とわざわざ町名を冠しているからには町営か?そんなことはどうでもいいけど、一度入ってブログのネタを作っておかなければなりません。

9時過ぎに姫の家を出て、この道の駅に着いたのが10時半頃、駐車する場所も無いのですが、混雑している様子もありません。元々駐車できるスペースが少ないのです。

             

ウミガメさえ見れればそれで良かったのに、なんか違う建物に入ったみたいで、みやげ物ばかりが並んでいました。それも殆んど南紀でも売っているものなので早々に退散、ウミガメのいる建物に入りましたが、そこも何やら売っているばかり、こんな巨大なウミガメの剥製が置いてありました。

その隣の部屋にウミガメが居るそうですが、人が多くて入り口に近寄れない有様、部屋の中をちょっと迂回して、やっとのことでウミガメの居る部屋へ到着。

             

海中公園のウミガメと一緒で、人が近寄ると群れてきます。エサをくれると思っているのですね。思っているのではなく、条件反射なのかも知れませんが、エサを見つけると他のカメを前の手で押さえるようにして、我先にとエサに近寄ろうとします。

バーゲン会場のオバサンを見ているよう、人もカメもあまり変わらないもんですね。

             

こちらのウミガメは年老いているのでしょう、デカイし甲羅にコケが生えているようです。まるでおぼろ昆布が出し汁に浸かった状態のよう、でもあまり食欲をそそりません。

             

こちらの水槽にはこのカメ1匹だけ、なんか海底人8823(ハヤブサ)を彷彿とさせます。海底人8823なんか知ってる人は少ないんでしょうね。

             

元の水槽に誰も居なくなったので近寄ると、ほら私のほうに近寄ってきたでしょ。売ってるのかどうかは知りませんが、エサに小鯵の頭を入れた容器が売店の近くにありました。そんなものは捨てるものですけど、売ってるとしたら商魂逞しいですね。いくらで仕入れて、いくらで売っているのでしょうか。

             

一匹だけどうしたんでしょう?水槽に入らず、あっちを向いています。拗ねてるのかな、まさか死んでるのではないでしょうね。

             

この辺りの地名を井田と言いますが、公園の傍らに井田川の河川敷をきれいにした公園がありました。誰も気付いてないのか、人っ子一人見えません。

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