ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

妙国寺

2012-04-10 05:00:00 | 大阪にて

1年ほど前に森鴎外の小説『堺事件』で、今日のテーマ妙国寺を知り、行ってみようとずっと思っていたのに、暇を持て余していた割には決行せずにいましたが、よく晴れた4月2日の月曜日(あの春の嵐が吹き荒れる前日)、満を持して自転車に乗って行って来ました。片道約7kmぐらいなので歩いても行くことは出来ますが、田舎の山道なら気持ち良くも歩けますが、車がバンバン走るアスファルトの道では興が乗りません。かと言って電車に乗るほどの距離でもなく、阪堺電車に乗ると駅は13個目ですが、往復400円もかかるので節約中の現在の我が身では要らざる出費はなるべく抑えたいのです。

             

家を10時半ごろに出て、11時ごろには到着、山門の前にある白い自転車が私の物。右手後方に聳えてる塔が我が社の大小路ビルのものです。暫らく辺りを眺め回した後にお寺に入りました。

             

山門を潜るとチャイムが鳴り、誰かのケータイの着信音か時報かと思って思わず辺りを見回し、時計を確認してしまいます。出る時にも鳴ったので山門を潜ると鳴る音です。何回も出たり入ったりしたので、もしそのセンサーで入場者の数を数えているのなら、私が出入りした分は余計です。

             

境内に入ってすぐ左にこの立札、昭和3年に大阪府が定めとして立てていますが、明らかに当時のものではありません。ここで書かれている管理者とはいったい誰のことなのか、知事のことなのか、知事が任命した人のことなのか、はたまた管長のことなのか、抽象的なことを書くものですね。

             

この寺はソテツで有名だそうで、境内に入るとすぐ右側にソテツの植わった枯山水風の庭があります。庭の後ろは本坊。

             

第二次世界大戦で堺を襲った空襲でこのお寺も殆どの伽藍を消失、三重塔もあったらしく、この本堂は昭和48年に再建されたものです。では信長所縁のソテツはどうだったのか、その話には一切触れられていません。

             

左奥にあった神社はお寺の開祖の日上人を祀ってあると言われ、宇賀徳正龍神と呼ばれています。ホントかどうか眉唾ものですが、信長が珍しいのでソテツを一株安土に持ち帰ったところ、夜になるとソテツが「妙国寺へ帰りたい」と呻くのに腹を立て、そのソテツを部下に切り刻ませたところ、鮮血とも見える水が噴出したので、気味悪がって妙国寺に戻したところ、日上人が憐れに思って一千部の法華経を読んだ満願の日に青い芽が吹き出して、その夜、夢枕に蛇身の老人が現れ、供養忝い、報恩のため三つの誓いを立てたとか、それがこの神様だというのです。三つの誓いとは何だったのか、知ってますがあまりにウソっぽいので記述するのは止めときます。

             

入ってはいけないと書かれていた墓地の北隅にあった11名の切腹者の碑、外からなのでこういう角度でしか撮れません。後ろの樹はサクラ、今なら見ごろを迎えていることでしょう。

             

本坊の壁に掛けてあったこのお寺にある宝品・珍品を綴った看板。どうやら境内を入ったところで見たソテツの枯山水は贋作で、お金を払わないと本物は見れないようです。

             

受付の字の上、“・・・ご覧になれません--ません”と“ません”が2度書かれています。何か(その何かが気になりますが)を消したんだったら、最後まで消すのが当然だと思うのです。この信長のマンガ、何処かで見た記憶があるのですが、ボケた頭には蘇りません。仕方なく400円を払って本堂へ入ることにしました。でも本堂内は撮影禁止です。

                       

拝観するとこの冊子をくれ、別に案内してくれなくてもいいのに、ボランティアの人が案内してくれます。それもここで教えられたんだろうなと思われることのみを疑いもせずに話されるので、私としては甚だ迷惑なことでした。案内してくれなかったら、勝手に写真も撮って皆さんにお見せできたのにと思うととても残念です。

この冊子、堺事件については、結構詳しく調べて書いてあります。

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